ー 7 ー 愛の過去
幼い頃の愛の記憶は曖昧で細かいことはよく覚えていないが、彼女の人生が大きな分岐点を迎えたのは間違いなくあの日、当時高校二年生だった愛がまだ未就学児の妹、叶を連れて冷たい冬の川を眺めていたときのことだった。
愛と叶は孤独だった。誰一人として味方がいなかった。両親はいつも喧嘩をしていて、父は娘たちに興味がなく母は日頃のストレスを虐待として娘たちに発散していた。彼らが離婚することになったときどちらに付いて行くか決めることになり、それでも暴力を振るうことのない父の方がまだマシだと思った愛が生まれたばかりの妹と共に母から離れる決断をすると、母は怒り狂って叶を庇う愛を何度も殴打した。両親のどちらが二人の名付け親かは知らないが、どの辺りに“愛”が“叶”う要素があるのだろうかと疑問に思う。相変わらず無干渉の父には最早何の期待もしておらず、義務教育という制度がなく学校に通っていなければ愛は家族とはそういうものなのだと信じて疑わなかっただろう。
その後父と暮らすようになった愛と叶だったが、一年経って愛が小学校を卒業する頃にはギャンブルに明け暮れていた父もどこかへ姿を消した。母とは音信不通になっていたらしく、頼れる親戚もいなかったことから二人は児童養護施設で暮らすことになった。そこでの生活は決して楽なものではなかったが、誰にも暴力を振るわれることはなく食事を忘れられることもなかったため穏やかな気持ちで過ごすことができた。地元の中学を卒業する頃には叶も四歳になり沢山話すようになっていた。
元々勉強が好きだった愛は難関私立高校の学費免除枠を見事勝ち取り、僅かな出費で高校に通うことが出来た。しかし、小学校からの知り合いが多かった中学と違い殆どが初対面且つ様々な価値観の人がいる高校において、愛の生い立ちは同級生の興味を唆るのには十分だった。曰く、両親に捨てられたと。曰く、ズルをして入学したと。入学するだけでも困難なこの高校で、塾にも行かず学費免除を獲得するのは相当なことらしく、お金がなくて可哀想だから入学させてもらったのだという類のことも言われた。それでも定期試験で毎度学年一位を獲っていればあらぬ疑いは晴れるだろうと思っていた愛だったが、一部の生徒を除いてそうした陰口が絶えることはなかった。直接的な暴力はなかったため幼少期よりはまだマシな環境にいるのだろうが、やはり精神的な負荷は掛かるものだ。愛の心は段々と荒んでいった。そんな生活の中でも彼女が自分を保っていられたのは、幼い叶を守らなければという使命感と叶への愛情故だった。
高校二年生になり進路指導が始まる頃には、愛は社会の役に立つ職に就きたいと考えていた。真っ先に思い付いたのは医師になることだったが、出来るだけ早く就職して叶を養わなければならない愛には最低でもあと八年という学生生活は余りにも長いものだった。高校を卒業したら愛は児童養護施設を出ていかなければならないため、成人と同時に叶を引き取り働きながら二人で暮らすつもりだった。担任の教師からは愛の学力なら難関大学の合格も十分現実的だと言われたが、就職することを選んだ。勿論愛だって、もっと勉強したかった。学歴至上国ではないにしろ、それが重視されることだって分かっている。大学を卒業している人の方が給料が高いことも、高卒は何かと苦労することが多いことも。それでも大学の学費を払いながら家賃、光熱費、食費などの支出に加えて翌年から小学校に通うようになる叶の学費までも支えられる程の資金をどこから調達できるのか見当が付かなかった。いずれ返す必要のある奨学金も、破産するのが怖くて決断できなかった。
難関私立校なだけあってその殆どが進学するため、進路指導集会も幾度となく開かれる。それが愛には苦痛だった。「私だって大学に行きたいのに」と。
事が起こったのは愛が十七歳のある冬の日だった。率先して愛の根も葉もない噂を流していた同級生が、どこから聞きつけたのか愛が就職すると知ってその顔に馬鹿にしたような笑みを浮かべてやって来た。その日は休日で愛は叶と共に川の辺りを散歩をしていたため、学校外で同級生に出会ったことに驚いた。
「ねぇ、あんた進学しないんだって? やっぱり勉強できないからどこも行くとこないんでしょ」
友人ですらない彼女の言葉は叶の教育上良くないと思い黙って通り過ぎようとしたが、ちらりと叶を見ると再び馬鹿にするように笑った。
「何、その子? あはっ、あんたの子?」
「……妹です。話は私が就職することだけ? なら私はもう行…」
「あんたね、卒業できないんだよ。退学処分」
愛の言葉を遮って発せられたその言葉の意味がすぐには理解できず、思考が停止する。気付いたときには頭が真っ白になっていた。
「……え、え? 何で? 何で私が…、だって退学させられるようなことなんて私してない!」
愛の反応を見て彼女は楽しそうに笑う。
「あははっ、あははははっ! やっぱり良いリアクション!最っ高」
目尻に浮かんだ涙を拭い、彼女は説明する。どうやら学校で愛が虐めを主導しているという噂を流し、自作自演で被害者を作りそれを愛のせいにしていたらしい。高校では友だちと呼べる存在がいなかったことから、愛に隠れて行われていたそれに全く気が付かなかった。被害が大きくなってきたため彼女が校長に直談判し、職員会議で愛の退学が決まったのだと言う。進路について親身に相談に乗ってくれた担任だけは反対してくれたようだが、綿密に作り上げられた偽装証拠が決定打となったらしい。
「何で…何でそんなことするの? 私が何かした? あなたたちの迷惑になるようなことは何もしてないのに!」
愛の悲痛な叫びに目の前の同級生は見下すように首を傾けた。
「存在そのものが迷惑。うちの高校はね、親もいない、お金がなくて進学も出来ないような奴がいて良い所じゃないの。学力と財力のどっちもを併せ持つ選ばれた人だけが通える所なの。分かる? あんたが通えるような高校じゃないんだよ」
それは一種の選民思想のようなものだった。彼女の論理に正当性はなく、そもそも学費免除というシステムがある以上財力の面は否定されるが、時に不当な主張は論理的なそれよりも深く心に刺さる。愛の場合、彼女の言葉がそうだった。
いつの間にか同級生はいなくなっていたが、愛は暫く呆然としたまま側を流れる川を見つめていた。
(高校も卒業できないのに、このまま生きていて何になるんだろう? もういっそこのまま……)
冷たい水の感触を想像して一歩、もう一歩と歩みを進め、川との距離がなくなっていく。靴は水に濡れ、あと数歩で川底が深くなるというときだった。
「自殺するの?」
幼い少女の声だった。振り返ると、そこには妹と同い年くらいの少女が手を後ろに組んで立っていた。
「……だったら何? あなたには関係ないでしょ?」
思わず棘のある言い方をしてしまう。叶くらいの年齢なら十も年上の初対面の愛にそんな風に言われたら泣き出してしまうだろう。そう思った愛だったが、少女は特に気にした様子もなく無表情で佇んでいる。
「死は逃げなんだよ。この世の全てからの逃避」
幼い彼女の口から紡がれたとは思えない言葉が愛の耳に届く。少女は妖精のように可愛らしい容姿をしているが、纏うのは今にも壊れてしまいそうな儚げで浮世離れした空気だった。瞳には強い知性が宿っている。少女は「まぁ、別にそれが悪いとは言いませんけど」と付け加えた。サイドの髪の毛とそれに繋がる前髪の一部が脱色された、全体的に色素の薄い茶髪が風に乗って踊る。
「あなたに何が分かるの? 私が死んでもあなたに何の関係もないでしょ?」
「さっき聞いてたけど、あの人性格悪いですね」
(聞かれてたんだ……)
急に話題を変えた少女に驚きつつも無言で見つめる。
「あなた、大学行きたいんでしょ? 私がお金を出してあげます」
が、突然の衝撃的な発言に先程までの悲観的な感情が一気に薄らいだ。
「あなたみたいな子どもに何が出来るの? 大体、軽々しくお金を出すとか言っちゃ駄目」
「ちゃんと人を選んで言ってるから大丈夫。それよりどう? お金、欲しくないの?」
まだ舌足らずな幼い声で喋る少女はしかし、愛と同い年かそれよりも年上にすら見えた。とても妹と同じくらいの少女を相手にしているとは思えない。答えを促すように少女が愛をじっと見つめる。
「……それは、勿論欲しい。私だって大学に行ってもっと色んなことを学びたい。でも……」
高校すら卒業できないなんて、いくら会話を聞かれていたとはいえこんな幼い少女相手に言えない。言葉に詰まり、思わず俯くと彼女は「分かった」と頷いた。
「え?」
「高卒認定の試験を受ければ良いんです。あなたなら大丈夫でしょ? その分のお金も心配しないで」
「何で? 何のために見ず知らずの私にそこまでしてくれるの?」
当然の疑問に少女は軽く首を傾げた。先程の同級生と同じ仕草だが、こちらの少女からは一切の悪意を感じない。
「見込みがありそうだから、かな? 手伝ってほしいことがあるの。由依さんだけじゃ足りないし、あんまり負担とか掛けたくないし……」
最後の方は小さく呟いていたためよく聞き取れなかったが、少女は愛に何かしてほしいことがあるらしい。正体不明で資金源も謎、どのように育ったらその歳でそこまでの知能を手に入れられるのかは分からないが、愛の勘が強く訴え掛けていた。この少女に付いて行くべきだと。
愛の答えを聞いた少女はそこで初めて笑顔を見せた。
これが、愛が生涯に渡って絶対的な忠誠を捧げる水無月碧との出会いだった。
お読み頂きありがとうございます。
このときの碧は七歳です。




