2年生・春 ドーナツとコーヒー
4月の末、桜も散りつくし、軽やかに春風が舞うと、教室のベランダに僅かな桜の花弁が舞い踊る。
「空、帰ろうぜ。」
下校のチャイムと共に、陽介が学校から解放されたように溜め息をつくと、俺を見ながら誘ってくる。
日下部陽介は小学校からの友人で、高校生になった今も、いつも一緒だ。
「いいよ、帰ろう。今日もマスド寄るんだろ?」
マスドとは略称で、正式にはマスタードーナツ。世間では略されてマスドと呼ばれている。
「今日は栗原さん来てると思うんだよ。」
廊下に出て、下駄箱に向かいながら、陽介が少し浮かれながら話す。
栗原さんとはマスドの女性店員で、大学生らしい。陽介はそんな年上女性に惚れたらしく、栗原さんとのやり取りを店で楽しんでいる。
「ドーナツは二の次とか、行く動機が不純だよな、陽介は。」
下駄箱で靴を履き替えながら、俺は呆れ顔でそう呟くと、陽介は渋い顔をしながらも、ニヤけて返してきた。
マスドに着くと、栗原さんが接客しているのが見える。
「じゃ、いつもの買ってくるわ。」
陽介が燥ぎながら買いに行くと、俺はいつものように席をとる。下校後のこの時間帯は夕方で席に困ることはないが、これが俺の役回り。陽介と栗原さんの一連の流れを席から見守っている。とはいえ、陽介が席に着くときは栗原さんが見えるように、俺はカウンターの反対を向いて座っているのだが。
それにしても陽介は凄い。好きな女性に正面から向き合おうとしているんだから。俺はといえば、そもそも今は陽介のように好きな女性もいないし、過去に2回、好きになった人に告白したが、撃沈されて終わっている。
陽介が言うには、振られるからこそ恋愛なんだ、などとそれっぽいことを言っていたが、俺からすればそんなことはない。振られない方が恋愛成就だろうと思う。
察するに陽介の言い分は失恋も楽しめないとやってられないってことなんだろうが、恋愛開始から二度も惨敗が続けば、そんなバイタリティは無くなっていた。
俺が陽介の恋活に付き合って、初めてマスドに来た時、ドーナツとコーヒーがこんなにも合うものということを知った。以来、父のコーヒー豆を少しいただいて、それを挽いてコーヒーを淹れて飲む。趣味というか今はそのコーヒーとの組み合わせにドーナツ以外に何かないかを試行錯誤している。
陽介がドーナツを持って満面な笑みで戻ってくるなり、俺に注文を聞く。
「俺はいつものでいいよ。」
「シュガーレイズドだっけ?空は本当にそれ好きだな。」
ドーナツを置きながらこちらに目線を合わせる。
「俺は一途なんでな。」
間を空けずに俺は揶揄う意味で皮肉を返す。
「失礼な。俺も栗原さんに一途だし。」
陽介がそう呟くと、再びカウンターへ向かった。
1回でも多く栗原さんに顔を合わせてもらうという、俺からすれば寧ろ地獄だ。そんなこと出来るなら連絡先くらい聞けるだろうに。でも陽介曰く、それが俺が告白して振られる理由らしい。
確かに、陽介は告白後はダメでも、告白するまではうまくいく。少なくとも恋の試験には受かるタイプで、そんな陽介が言うのは少し説得力がある。
ふと窓を見てみると、窓に水滴が一粒ついているのが目に入った。外を見回すと小雨が降ってきている。確か、今日は夜から雨の予報だった。
店内に視界を戻すと、陽介が珍しく早々と戻ってきた。
「乙武出現だ。」
陽介が苦い顔で俺にドーナツを渡す。
「乙武さんか。まぁ今日は夜から天気悪いみたいだし、早く帰ろう。」
乙武さんとは栗原さんのバイトの先輩のようで、いかにも何でも出来る男性だ。
「栗原さんのあの嬉しそうな顔は見たくないわ。」
陽介がドーナツを頬張りながらうつ伏して嘆く。
「食べたら行くぞ。」
喝を入れるように俺は言って雨模様を見ようと窓を見ると、白と水色のボーダー柄の傘に目が留まる。
通りの向こうから、1人の女性が横断歩道を渡ってくるも、傘で顔はよく見えない。目で追ううちに、段々と俺は首を後ろに向けていく。そのままこの店の入り口で傘を閉じていた。ここから壁が邪魔でよく見えない。店内に入るだろうその時に、陽介の声でハッと我に返る。
「明日また一緒に寄ってくれ。おい、空、聞いてるか?」
俺は慌てて正面に顔を戻すと、陽介の真剣な表情が飛び込んでくる。
「わかったよ、いつも付き合っているだろ。今更、念を押すなよ。」
打切棒に返答するも、陽介は乙武さんの横槍による消沈で最早聞いていない。
「さ、帰るぞ。」
陽介を慰めるように軽く肩を叩きながら、俺は店内をサッと見回して、さっきの傘の女性を探すもそれらしい人はいない。
そそくさと店を出ていく陽介に釣られるように俺も店を出る。それでも少し気になりつつも横断歩道を渡り始めると、陽介が話し出した。
「俺、マスドでバイトしようかな。」
「え?」
「空も二年になったらバイトするって言ってただろ。一緒にどうだ?」
突然で俺はまだその気もなかった。
「いや、やめておくよ、陽介がやって楽しいなら考えるけど。」
それとなく断っておいたが、陽介は本気らしい。
「じゃ、来月からやってみるわ。」
そのまま二人で自転車に乗り、途中の交差点で俺は陽介に言う。
「今日はここで解散しよう。星場でコーヒー豆買って帰るからさ。」
「ああ、オヤジさんのか。わかった。茜さんによろしくな。」
陽介の話で思い出した。星場珈琲には俺と陽介を弟かのように面倒見たがる三つ年上の高崎茜さんがバイトしているんだった。母同士も仲良く、茜さんも母から俺の情報が筒抜けで、どうも苦手に感じてしまう。
星場に着いて、俯きながら扉を開く。
「いらっしゃいませ。」
この活舌の良さと元気なトーンは茜さんだろう。
知らんぷりしてギフトコーナーにコーヒー豆を選びに行く。
「空、これでしょ?」
思わず茜さんの方に振り返るとギフト用のコーヒー豆を持って悪戯そうに笑っている。
「え、何でそれを。」
父が高評価を出していたアフリカブレンド。でもなぜ今日買うと知っているのか。
「お母さんから聞いてるよ、空が今日コーヒー豆買いに行くと思うからよろしくって。」
「母さんか。」
俺は痛い顔で返すと同時に、謎が解けた。
「ほい、1400円になります。」
「はいはい。」
呆れてお金を出すと、茜さんがコーヒー豆を渡しながら
「ギフト包装はオマケにしておくね。」
「あ、ありがとう。」
俺はぎこちない返事で返す。
「うちでバイトする?」
「は?」
「あれ?お母さんが空がバイト先を探してるから、よかったら面倒見てって。」
またしても母の心配性と面倒みたがりがここまで来ていたかと思うと反抗もしたくなる。
「いや、マスドに行こうか迷ってるから。」
「マスド?あ、陽介と行くんだろ~?」
意地悪なテンションで返される。
「まぁ。あいつだけだと不安だし。」
陽介よりちょっと上から目線で俺は言った。普段二人でよくいるが、何だかんだ陽介の腕白を止めている、格好つけて言えば面倒見ているつもりだったからだ。
「ふ~ん。」
茜さんは顔を少し横に向けてこちらを見つめる。
「そか。まぁ、じゃ陽介とウマくやりなね。」
「うん…」
何か見据えられている気がしたが、陽介に誘われたのも事実だし、茜さんとバイトしたらずっとこんな空気だろうと、少し抵抗感があった。
ギフト包装のコーヒー豆を袋に下げて、店を出る。
「ありがとうございます。」
茜さんの声と共にドアが閉まる。
自転車に乗り漕ぎ出そうとすると、窓ガラスから茜さんがこちらに小さく手を振っている。
こちらこそありがとう、との思いで頭を下げる。
自転車を漕ぎ、家までは数分で着く。
自転車に揺れるギフト包装のコーヒーを見ながら、既に俺はバイト先を決めていた。