屁こき丸異聞
立秋を迎えても汗が滴り、足元の影にぽたりと落ちる。
高後荘司はスマホの地図を片手に、指定された住所を目指している。
アルバイトの延長で就職した会社は、給料は低めで人使いが荒い。
慢性人手不足の、ため息一つで飛ぶような出版社だが、まさか取材や営業まで任されるとは思っていなかった。
目的地まであと数分だ。
高後は自販機で炭酸飲料を買い、一気に飲み干した。
これから会う先方のことは殆ど知らない。
その人の著作を少々、斜め読みしただけだ。
小さなゲップを口の端から漏らし、高後は昨日の福富との会話を思い出す。
**昨日**
「へ、屁こき丸? 何すか、それ」
「あれ、知らないの? 高ちゃん。去年の児童書売り上げ、ベストスリーだよ。三十万部のヒット作、屁こき丸の冒険シリーズ。出版社の人間としてはチェックしとくべきっしょ」
社長の福富は「ほら」と言って、スマホからランキング資料を見せる。
「一応異世界ジャンルらしいけどね、児童書として出版されてる。なんせ子どもって、オナラとかお尻とか大好きでしょ」
異世界とオナラに何の関係があるのだろうか。
「異世界に転生した胃腸の弱い主人公が、オナラで魔物を倒しながら旅をする話、だってさ」
確かに子どもには受けそうな話だと高後は思う。
胃腸の弱い主人公、ねえ……。
「その作者、『花咲男』っていうペンネームなんだけど、本名は勿論、プロフが何処にも出て来ない人でね」
「オナラシリーズ出してる出版社が隠しているんですか?」
「屁こき丸シリーズね。いや、その出版社、俺の同期の奴がいるんで聞いてみたけど、正体明かさず、が条件だって」
なるほど。
花咲男。
年齢不詳。
性別不明だが、多分男性。
「それで、ここから本題。実は。なんと花咲先生からウチに、連絡があったんだ」
「へえ……」
「高ちゃん、もうちょっと驚くとかリアクション欲しいよ、おじさんとしては」
「まさか、ウチから電子書籍でも出してくれる、なんて」
福富はニカッと笑う。
「それは高ちゃんの腕次第」
「なんすか、それ」
「花咲先生のご指名でね。高後荘司を寄越してくれたら、自分のこと取材して良いって。条件が折り合えば、新しいシリーズの作品、ウチから、この福富出版から出してもイイって!」
「えっ?」
何故、売れっ子の作家が自分を指名するのか、高後は全く分からなかった。
それとも「花咲男」とは昔の知り合いの誰かなのだろうか。
高後は工学部出身だ。同じ学部でも学科でも、友だちは殆どいなかった。ましてや小説を書きそうな、例えば文学部なんて知り合いゼロだったのだ。
高校時代まで遡っても、児童小説を書きそうな顔は思い浮かばない。
小中の頃は、あまり思い出したくない。
SNSで身バレか?
それにしても、意味不明な申し出である。
「とにかく先方様の御希望は、高後君の直参。よろしくね、出張旅費だけは出すから」
「出るのは旅費だけなんですね」
「手当が付くようになるかどうかは、明日の君の手腕によるな」
ヘンに爽やかな笑顔の福富に逆らう気も起きず、高後は話を受けた。
「そうそう」
帰りがけ、福富は言う。
「花咲先生は、超イケメンという噂があるから、頑張れよ」
何をどう頑張るのか、高後には分からなかった。
意味不明な依頼に薄ら寒さはあるが、これも仕事である。
帰り道で、屁こき丸シリーズの一作目を買った。
尻を出して放屁している主人公の表紙に、高後は思わず笑った。
ストーリーはこんな感じだ。
屁こき丸こと、田丸たけしは中学生だ。
胃腸が弱いためか、放屁を我慢することが出来ない少年である。
小学生の時、クラスの皆が静かに読書する時間、思わず一発。
以来、たけしには、屁こき丸という仇名がついた。
中学生となったたけしは、不登校気味であったが、担任や唯一仲良くしていた幼馴染の少女に誘われ、校外学習先の動物園に向かう。
その途中、なぜか異世界へと召喚されてしまうのだった。
そこまで読んで、高後は本を閉じた。
過去が蘇り、胸が重くなった。
主人公の少年の境遇が、少しばかり自分に似ていたからかもしれない。
**訪問**
そこは都内の外れ。
閑静な住宅街だった。
一階部分は駐車場となっている。
階段を上がりアイボリー色のドアのチャイムを押す。
カチャリとドアが開き、「どうぞ」との声。
想像していたよりも、軽い声音だった。
ワンルームの部屋に案内され、ソファに座る。
さすがに作家の部屋というか、本棚には床が傾くほどの書籍が雑多に詰まっていた。
所謂純文学の単行書やライトノベルの文庫の他に、歴史とか文化とかが題名についた、分厚い本が何冊もある。
室内には微かに音楽が流れている。
雅楽だろうか。
伽羅の香りがする。
頭を下げて目の前に座った花咲男は、高後と同じ位の年齢の男性だ。
華奢な体躯に端正な面立ち。
確かにイケメン。
ちょっとムカつく高後である。
「わざわざお越し下さいまして、ありがとうございます」
「こちらこそ、お声をかけて下さいまして恐縮です」
高後は滅多に使わない名刺を出す。
「高後さん、ですね。花咲男こと、神野君人です」
本名を名乗られても、高後には覚えのない名前だ。
知人ではないだろう。
「いきなり名指しされて、高後さんも困惑されているでしょうね」
ふわりと微笑む神野に胸のざわつきを感じる高後だったが、「いえ」と短く返答する。
「そうですね。まずは、僕の本、読んでいただいたでしょうか」
「え、ええ。全部ではないですが」
神野は慣れた手つきで、白いカップに珈琲を注ぐ。
「どうでした? 読んだ感想は。あ、珈琲で良かったでしょうか」
小さく頷き、高後はカップを手に取る。
「面白かったです。異世界転生した主人公が、チート能力ではなく、オナラで敵をやっつけるって、なんだか爽快感があって斬新で」
「斬新、ですか」
神野は苦笑する。
「あれね、パクリというか、うん言い方が悪いな。インスパイアされて書いたものなんです」
「インスパイアって……元ネタが、ある?」
高後は驚く。放屁の作品が?
「ええ。江戸時代に成立したと言われている『神農絵巻』という絵の付いた説話集がありまして。神農という神様が、猿と鳥と犬の名を持つ御供を連れて、放屁で妖怪をやっつけるという話です」
猿と鳥と犬って言えば、桃太郎じゃないか。
しかも刀で征伐するのではなく、放屁で……。
「まあ、神農絵巻自体、桃太郎のパロデイという位置づけなので、異世界版を作ってもいいかなと。さらに言えば、神農絵巻よりも古い時代、そうですねえ十五世紀くらいには、放屁合戦絵巻なんてものが現存してます」
伏し目がちで話す神野は、音もたてずにカップを置く。
上品な所作である。
それで「放屁」を連発するイケメン。シュールだ。
「はあ、オナラにもそんな歴史が……」
「それでね、僕考えていたんです。今では揶揄の対象でしかない放屁には、ひょっとしたら別の意味付けがありえるのではないかと」
「あるのですか?」
高後は、放屁に意味など考えたこともない。それは嘲笑を招くものでしかないのだから。
好ましい意味など見出せるはずもない。
せいぜい体調を知る目安くらいだ。
「肉体の内部から外部へと放出されるものを穢れであるとダグラスは指摘し、それらの中でもくしゃみやオナラなどの音を伴うものを、リーチは異界へ到達する記号と認識しました」
高後は段々話についていけなくなる。
所詮、中途半端な理系人間だ。
文化人類学とか歴史とか、基礎知識も危うい。
「だから、僕は思ったのです。放屁とは単なる肉体の反応音ではなく、異世界への道しるべなのではないかって」
恍惚とした表情を浮かべる神野に、腰が引ける高後は、聞きたいことをなんとか切り出した。
「興味深いお話ですが、すみません、不勉強な身で何と言ったらいいのか。ところで神野先生」
「先生はやめましょう」
「はい、では神野さん。私が指名された理由を教えていただけますか?」
「ああ、そうでしたそうでした。それが重要ですね」
放屁の話ばかりしていたからか、高後の下腹は先ほどからゴロゴロしている。
「高後さん、あなた、慢性の腸疾患を抱えてますよね」
「ええっ!」
神野の指摘に思わず高後は声を上げる。
病気のことは、それなりに付き合いの長い福富にも言っていないはずだ。
「ああ、申し訳ない。もの凄い個人情報ですよね。実は私も長らく、似たような腸疾患を患っていまして、かかりつけの病院で、以前あなたをお見かけしたのですよ」
確かに、高後は専門医のいる病院に、中学時代から通っている。
「たまたま、受付で呼ばれたあなたのお名前を聞き、興味を持ちました。それで調べていたら、ある学会誌でお名前を見つけて」
そう言えば、卒研は何かの学会に出したっけ。
ファーストではないけど、当時の所属は載っていた。
「下痢や便秘を伴い、時として不意に放屁してしまうような人を、僕は探していたのです」
「そ、それは何故……」
「有効な放屁を出来る人、放屁戦士をみつけるためです!」
**その真相**
高後の頭の中は、疑問符で一杯だ。
昔から放屁を扱う創作があったという話。
放屁とは、現世と異世界の橋渡しをするもの。
そこまでは分かった。いや、半分くらいは聞き流したが。
だが。
放屁戦士? ナニソレ……。
「僕が屁こき丸を書いたのも、放屁で闘えるということを知らしめたかったのが一つ。そして究極の目的は、共に戦う戦士を見つけたいということ」
「ええと」
高後は頭を軽く振り訊ねる。
「何と戦うのですか? そして私の持つ病気と、何か関係があるのでしょうか」
「僕の専門は、文化人類学です」
高後がその分野で知っている名は、柳田とか折口くらいだが。
放屁と、文化人類学って関連があるのだろうか。
「少々異端の研究といいますか、僕なりの仮説を持っていまして」
「それは、一体どのような?」
神野はつと立ち上がり、本棚から何冊かの文庫本を取る。
売れ筋のラノベだ。高後も名前だけは知っている。
「その顔だとこの手の本、ご存知のようですね。異世界に転生したら、ナントカだった。スキルを得た。前世の知識で無双した。まあ、僕の作品も似たようなものですが」
神野は顔を上げ、じっと高後を見つめる。
「僕の仮説は二つです。一つは、さきほども述べた絵巻物に書かれているのは、創作物というより実際にあった出来事を、後世に伝えようとした」
高後は思わず唾を飲む。
咽喉が乾く。
珈琲のせいだろうか。
「二つ目は、流行りのものには、未来を予知する出来事が描かれている」
「ということは、本当に異世界転生が起こると?」
掠れた声で高後は訊く。
「ええ。二つ目の仮説に関しては、続きがあります」
「どんな仮説が……」
「こちらの世界から異世界に行けるということは、逆もまたあり得るのではないかと」
高後の背中に冷たい汗が流れた。
「つ、つまり、異世界の住人が、こちらにやって来る、と」
雅楽調のバックミュージックが止まる。
神野の視線がドアを捉えた。
「ええ。もう、来ているのですよ」
瞬間、バリバリとドアが破られる。
思わず立ち上がる高後に、神野は声をひそめて言う。
「かつて何回も、あった出来事です。異界のモノが人間を襲うというのは。見たこともない存在は、鬼とか化け物とかと名付けられた」
ズリズリと音が這う。
液体と固体の中間のような、ヌメヌメとしたモノがいる。
「ゆえに、それらを排除する役割が求められたのです」
「は、排除……」
ヌメヌメしたモノの表面に、目のような舌のような器官が浮かぶ。
「そう、排除するのです。現世にある武器が有効かどうかは分からない。だが、此の世から異界へ飛ばすことは出来る」
ヌメヌメした目のような物体は、硬球ほどの大きさで、赤と黄色の光を点滅させる。
「飛ばすって、どうやって!」
「放屁です!」
高後の脳裏に、いましがた神野から聞かされた話がぐるぐると回る。
放屁で妖怪を退治した。
放屁音は現世から異界へ到達させる。
バスン!
爆発音と共に、家屋が揺れる。
侵入してきたモノに対して、神野は前傾姿勢で尻を向けていた。
「さあ高後さん、あなたもご一緒に!」
いや、そんなすぐには出ないと高後は首を振る。
「大丈夫です高後さん。あの珈琲は放屁しやすくなるような成分が入ってます!」
高後も神野に倣って、前傾姿勢になる。
ふと。
小学生の自分の姿が見えた。
――コイツ、屁こいた!
――やべえ、くっせえ!
ヌメヌメの目玉は飛び散ったが、本体はまだ床にへばりついている。
高後は神野と無言で頷き合う。
妖しげな現実と、向き合わねばならない。
高後は目を閉じ下腹部に力を籠める。
吹き飛ばす。
異世界からの侵入者を。
そして、自分の過去も。
その日。
原因不明の爆発が、都内の某所で起こったという。
**顛末**
数日後、出社した高後を、社長の福富は満面の笑顔で迎えた。
「よくやったな、高ちゃん! 花咲男センセから次作の出版依頼があったよ」
「え、あ、良かったですね」
「何、その棒読み」
「それより出張旅費の精算、お願いします」
「勿論だよ。ボーナスとして手当も付けるからね、ちょっぴりだけど」
高後の口元が、少し緩んだ。
Q:ホラーなんですか、これ?
A:はい(きっぱり
おならで妖怪吹き飛ばすって、限りなくコワイですよね、ね!
参考文献
榊原悟「放屁譚三題」『サントリー美術館論集』2号 1987年
リーチ「文化とコミュニケーション」青木・宮坂訳 紀伊国屋書店 1981年
尚、「神農絵巻」は、兵庫県立歴史博物館にあるそうです。