カレー
遂に北海道が目前まで迫って来た。カイ、タケル、シズマは、青函トンネルが使えない今、津軽海峡を渡るためにアスカの案内で大湊の海上自衛隊を訪ねる。
9 カレー
青森県むつ市には海上自衛隊の地方隊がある。霧が発生してからは人口減少や地上での活動制限などにより、政府に優遇されている自衛隊であってもその数を減らしていた。維持できなくなった地方拠点は統合され、今となっては必要最低限の要所への配備のみとなっている。
カイ達が目指す大湊地方隊は、そうした時流の中でも生き残って来た拠点の一つだ。ロシアとの戦争状態が続く北海道と本島を繋ぐ重要拠点であるが故に。
三人が乗る車は、前を行くアスカのジープに先導されて陸奥湾を臨む道へ出たところだった。弘前を出たのは夜が明けてすぐだったが、ここまでの悪路に時間を取られたせいで、すっかり昼前になってしまっていた。
「なあ、アスカは北海道まで付いて来るのかな」
助手席の窓から眩しい太陽が煌めく陸奥湾を眺めながら、タケルが不意にこぼす。その呟きを拾ったのはカイだった。
「付いて来ると言っても俺は断る。女を連れて行けるような環境じゃねえし、そもそも連れて行く理由がねえ」
「お前はどうすんだよ、シズマ」
助手席から投げられた声に、後部座席で横になっていたシズマは天井を見上げたまま気の無い返事をする。
「うーん、どうするかな」
「モテる男は大変だな」
そう言って楽しそうに声を上げて笑うタケルに、シズマはそっと苦笑した。
「モテてんのは俺じゃなくて、俺の料理だから。彼女はランド・ウォーカーだぞ」
「はは、だよな」
そんな話をしていると、前を走っていたジープが徐々に速度を落として停止した。運転席から降りて来たアスカは、カイに窓を開けるよう合図する。
「どうした?」
「休憩しましょう」
「……分かった」
本音で言えば、カイはこのまま大湊地方総監部まで行ってしまいたかった。陸奥湾まで来たと言う事は、もう目と鼻の先にあるはずだから。だが、案内役のアスカが休みたいというのでは仕方がない。エンジンを切ってこちらも停車する事にした。
車を降りると、道の先でアスカが手招きしている。三人はいったい何が待ち構えているのかといささか身構えながら、そちらへ向かった。
「見て、綺麗でしょ」
アスカが示す先は昼の日差しの下、穏やかに波打つ陸奥湾だ。福島以来二度目の潮の香りが、海の雄大さを感じさせる。福島も青森も、海は繋がっているのだ。
「この近くに漁をやってるランド・ウォーカーが居るのよ。もしかしたらこの時季だと、イカが食べられるかもしれないわよ」
「イカって、弘前で食べたかき揚げに入ってたやつか」
カイが目を丸くしていると、アスカは面白そうに笑って肩をすくめた。
「あれはゲソを刻んだものでしょ? ここでは丸ごと食べられるわよ」
「……ゲソ?」
相変わらず不可解そうな顔をしているカイ。カイだけではなく、タケルとシズマも似たような反応だった。
「もしかして、イカを見た事ないの?」
頷く二人の間で、タケルだけは首を振る。
「俺は……全体像は見た事ねえけど、塩辛は食った事あるぞ」
「なるほどね。ここで私が説明するより実物を見た方が早いと思うから、付いて来て」
アスカに続いて陸奥湾の方へ進んで行くと、かつては港町だったのであろう廃墟の群れと化した集落が現れた。その中でも湾に一番近い建物が一軒だけ、未だに生気を放っている。見るからにみすぼらしい小屋だが、周囲が一面廃墟と荒れ放題の自然だけなので、まるで新築の豪邸のように見えた。
四人が小屋の方へ近付いて行くと、それを察知したように小屋から人影が現れる。日の光の下に明らかになったその姿は、中年の女だった。
「サナエさん!」
サナエはアスカの姿を認めるなり、同じように片手を上げて大きく振る。
「アスカ! また陸奥湾を撮りに来たのかい?」
「違うの。今日はこれから大湊の基地に行くのよ」
「へえ、それはまた、どうして?」
女はアスカの後ろに居る三人の人物を目で追っていた。見慣れない少年二人と、少年と言うよりは青年が相応しい男が一人。
「この人達、北海道へ行きたいんだって。だから引き合わせてあげようと思って」
北海道と言う言葉に、サナエは不思議そうに三人を眺める。
「変わった人も居るもんだねえ。自分から望んであそこへ行きたいだなんて。ほら、向こうを見てごらん」
サナエは頑丈そうな指で北の方角を示した。
「津軽海峡の向こうの空は、日が出ている内はいつだってくすんだ灰色なんだ。酷い時はそれこそ墨を垂らしたような空になるんだよ。それだけ北海道の霧が濃いと言う事さ」
「別に好きで行くんじゃない。俺達は政府に頼まれて北を目指してるんだ」
「へえ、政府がねえ。それは、それは、ご苦労様」
見るからに屈強なサナエが目を丸くしてカイを見ている様は、どこかちぐはぐとした可笑しさがあった。その光景に、アスカはつい笑いを含んで言う。
「サナエさん、そんなに見ても何も出ないわよ」
「いえ、そうだけどね。大仕事のようだけど、随分とひ弱な感じの子を選んだもんだと思ってねえ」
カイはムッとして目を細めた。こう言ったいじられ方は常々慣れてはいるが、やはりはっきり言われると腹が立つものだ。元々室内で過ごす事の方が多かった上に、体質なのか、肉体労働をしてもなかなかがっしりとした体つきにならないのだ。こればかりは自分ではどうしようもなく、親を怨むほかない。
そんなカイの肩にタケルの大きな手がドカンと乗った。
「だから俺が付いてるんだよ、おばさん!」
これもこれで無神経な一言を容赦なく飛ばす男だ。だがサナエはそんな事など一切気にしていない様子だった。
「なるほどねえ。確かに、あんたはそう簡単にはやられなさそうね」
「まあ、言うなればカイは頭脳で俺は肉体だな!」
「……その自覚があったんだな」
カイのそんなぼやきは陸奥湾を撫でる風に攫われる。
「で、大湊へ行く前に私の所へ来たって事は、何か用があるんだろ?」
「そうなの。三人にイカを食べさせてあげたいと思ってね」
「餞別かい」
「そんな格好いいものじゃないんだけど。私としては、シズマくんに一度イカを食べてもらって、次はシズマくんが料理したイカを私が食べたいの」
シズマは思いがけず飛び出した自分の名前に、アスカの顔を見た。当のアスカは満面の笑みでその視線に応える。
「え、俺が? 別に良いけど……いつになるかは分からないよ」
「大丈夫。そう遠くないわ」
「……そう?」
「そう」
自信満々に頷くアスカ。いったい何を根拠にそんな事を言っているのか分からないまま、シズマはただ首を傾げるしかなかった。
「イカなら、ちょうど昨晩獲ったばかりのがあるよ。あんた達が来る少し前に近所の地底人が送って来たランド・ウォーカーにいくらか渡しちゃったけどね。三杯は残ってるはずだ」
「じゃあ、いつも通り写真と交換ね」
「分かった」
そう言うとサナエは小屋へ向かって踵を返す。四人もその後に付いて行った。
サナエの小屋は近くで見ると益々みすぼらしさが増す。元々ここに在った民家を利用して建てたようだが、廃材を再利用したようで、見た目の美しさなどは少しも考慮されていなかった。海風を浴びて萎びた木造の小屋は、頭上に瓦屋根を乗せている。この小屋が瓦屋根の重量に堪えられている事自体が意外だった。
カイ達が不安と共に小屋を眺めていると、中からサナエが出てきた。手には大きなボウルと、金属でできた弁当箱のような蓋付きの容器を持っている。
「イカを見るのが初めてなら、食べ方は間違いなく知らないだろうね」
そう言いながらサナエは小屋のすぐ近くにある作業場へ向かった。
「言うまでも無く食べ方はたくさんあるけどね、どうせなら無駄なく食べられる方法で調理してあげるよ」
「ありがとう、サナエさん」
「アスカの写真は良い気分転換だからね。別に良いよ」
作業場に着くと、サナエはまな板の上にイカを三杯置く。突如として現れた異様な姿の生物に、男達はただ言葉も出ずに釘付けになっていた。そんな三人の様子に寧ろ驚きながら、サナエは包丁片手にイカの部位をそれぞれ示す。
「こっちが頭でこっちが足。ここが胴体で、これが目だよ。足は十本と言われてるが、厳密には八本だ。この長い二本は足ではないんだよ」
サナエは目の辺りを片手で抑え、手際よく胴を引き抜いた。すると黒い袋状の物の下に茶色くて長細い中身が現れる。
「……何それ?」
珍しく顔をしかめるタケル。この男が食べ物を前にしてこんな表情をする事はまず無い。
「黒いのは胃で、これは捨てる。茶色いのは肝だ。あんたが食べた塩辛ってやつはこれが入ってんのさ」
「そ、そうだったんだ……」
「今日は肝も全て使って食べてもらうよ」
イカを裏返すと、肝の間に黒い筋のような物があった。サナエは太くごつごつとした指にも関わらず、その細い筋を器用に剥がし取る。
「これはイカが敵に襲われた時、姿をくらませるために吐く墨が入ってるんだ。これは後で私が別に使うから取っておく」
それから目を取り出し、足の間に埋まっているくちばしを押し出した。
「その黒いのは?」
臭そうな顔のタケルとは違い、シズマは興味深くサナエの手元を見ている。サナエが取り出した黒い塊は、まな板の隅に寄せられていた。
「これはくちばしだ。固くて食べられないからこうして取っておくんだよ」
「なるほど」
「あんた、料理が好きなのかい」
「まあね。教わってたんだ。でも山から出た事が無かったから、海の食べ物は全然知らないんだよ」
「へえ、そうかい」
訊いたわりにさして興味もなさそうな返事をしたかと思えば、サナエは包丁を持ってイカを小さく切り始めた。そして一緒に持って来ていた金属の器に肝を入れ、そこに醤油と酒を少し足すと肝を潰して混ぜていく。
「この肝に切ったイカを入れて混ぜ、蓋をして焼く。それだけだ」
作業場の隅に網を乗せた釜戸があった。サナエはそこに火を入れ、網の上に器を置く。
「あとは焼けるまで待つ。さあ、この間に写真を見せてもらおうかな」
「ええ、準備するわ」
アスカがタブレットを取り出す間、サナエは手を洗って来て作業場の椅子に腰かけた。そんなサナエに、カイはこの交換条件を聞いた時から抱いていた疑問をぶつける。
「なあ、食料に対して写真って……あまり良い取引とは思えねえが、いつもそうなのか」
サナエは椅子に座ったまま、鞄を漁るアスカをどこか遠い目で眺めていた。
「あんた、あの子の写真を見た事ないのかい。毎日見ているはずの陸奥湾でも、あの子が撮るとまるで別世界のように綺麗に見えるんだよ。私はそれが好きでねえ」
「ふうん」
カイは夏の日差しに輝く海面を見やる。湾を囲む抜け殻と化した港と、それを包み込むように腕を広げる深い緑。その中を吹き抜ける風に潮の香りが染み込んでいた。
「見て分かるだろうが、この一帯は墓場みたいなもんさ。人間が残して行った物たちの墓場だ。私は自由に生きたくてここへ来たが、この侘しさはたまらなく嫌なんだ。でもね、今のご時世、何処に行ったってこんなもんでしょう。だからあの子の写真を見ると気が晴れるのさ」
「そんなに綺麗に見えるのか」
「あんたも見せてもらえば良い。アスカが良いと言えばね」
「良いよ、別に」
サナエの下へタブレットを持って来たアスカが笑顔で言う。そしてタブレットをサナエに差し出した。
差し出されたタブレットを受け取ったサナエは、慣れた手つきで写真を繰っていく。大きめの液晶画面には陸奥湾が映し出されていた。撮影場所はその時々で違うようで、背景や手前に入り込んでいる建物などがそれぞれに違う表情を見せている。
サナエが夢中になって繰っていく写真を見て、カイは先程の話の意味が解かったような気がした。この液晶画面に映るのは、今も目の前にある陸奥湾だ。だが、この写真からは人間達が残して行った遺物の侘しさは感じられない。そうした物が写っていないのではない。確かに廃墟も大昔の漁船の残骸も映り込んでいるのに、それらはあたかも新たな生命の土台となっているかのように感じられるのだ。森の中で倒れた老木が土に還り、そこに種が落ちて新芽が現れるように。
「不思議でしょう? 自分の目で見る世界と、アスカのカメラを通して見る世界とはこんなにも違うんだ」
「……確かに。不思議だな」
「うーん、俺はよく解からん」
カイの後ろからタブレットを覗き込むタケルが首を傾げた。
「お前が解かるとは誰も思ってねえよ」
「どういう意味だよ、カイ。シズマは? お前は解かる?」
タケルの隣で同じく写真に見入っていたシズマ。タケルの問いに顔を上げるでもなく、タブレットも覗き込んだまま言った。
「俺は解かるよ。弘前でも見せてもらったけど、本当に綺麗だ……」
そして、どうしてアスカの写真には不思議な魅力があるのかも、同時に分かる気がした。アスカ自身が美しい世界を望んでいるからだ。この、絶望と不安で閉塞しそうな世界に、美しいものを見出そうとしているからだ。だから一見寂れた廃墟でも、その中に残る力を見出せるのだと。
「そんなに真剣に見てもらえると、私もやりがいがあるわね。でも、そろそろイカが焼けてそうよ?」
アスカに言われ、サナエは慌てて釜戸の方へ駆けて行った。
「どう? この陸奥湾もなかなか良い所でしょ?」
「写真で見ると印象が違うな」
カイはアスカにタブレットを差し出す。それを受け取ってアスカは背後の海を振り返った。
「そんな事ないわ。実物だってとても綺麗よ」
アルミ製の弁当箱は網から下ろされるなり、作業場にある木製の机の上に置かれた。サナエが蓋を開けると、湯気と共に濃縮された潮の香りが溢れ出る。それと同時に魚や貝ともまた違う、独特な香りもあった。
「さあ、食べな」
サナエから箸をもらい、三人はそれぞれイカを摘まむ。身は肝が絡んでいるが全体に白く、半透明でぐにゃぐにゃとしていた生のイカからは想像できなかった。最初に口に入れたのはシズマだった。
「…………」
「どう? 美味しいでしょ?」
アスカの問いに、シズマは弾力のあるイカをよく噛みながら頷く。弘前で食べたかき揚げに入っていたイカは、ゲソを刻んだものだったのでここまでの食感は分からなかった。
「うん、美味い。思ったよりふんわりした食感で、身は甘みがある。肝の苦みと香りがその甘みに凄く合ってるな」
シズマの反応を確かめると、次いでカイが口に運んだ。
「……本当だ。美味い」
サナエが捌いていたあのイカと言う生き物からは想像もできないような深い味わいだ。外見は好きになれそうにないが、食材としては好きになれそうだった。
「じゃあ、俺も」
カイが食べると、漸くタケルがイカを頬張る。食べ物となれば目が無いタケルだが、やはりイカの外見と捌く過程で抵抗があったようだ。だが、その怪訝そうな表情はイカを口に運んですぐに解消された。そしていつも通りの笑顔に変わる。
「美味い! 見た目はキモいのに、こんなに美味いんだな!」
「今回は肝と混ぜて焼いたからこう言う見た目だけどね、獲れたてのイカを刺身にすると、透き通っていて凄く綺麗なんだからね」
念を押すサナエだったが、そんな言葉もろくに聞かずに箸を進めるタケルに小さく肩を落とした。
イカを食べ終え、四人はいよいよ大湊へ向かって走り出す。陸奥湾を回り込むように北へ進めば、緑の取り払われた一角が徐々に見えてきた。鉄筋コンクリート製の建物があり、その前に広がる港には大きな灰色の船が三隻泊まっている。その景色に、ついぞタケルが声を上げた。
「すげえ、あれが自衛隊の船か!」
船と言っても小型のボート程度しか見た事のないカイとタケルは、フロントガラスの向こうに見える灰色の鉄の塊に目を見張った。後部座席では、そもそも船自体初めて見るシズマが、運転席と助手席の間に身を乗り出して言葉を失っている。
「デカいな。あんなにデカい鉄の塊が、水に浮くのか……」
流石のカイも感嘆の言葉が漏れた。
前を行くジープは、地方総監部の近くで停車する。カイもその隣に車を停め、アタッシュケースを持ってアスカに合流した。
「あそこが入口よ」
アスカが示すのは外界と基地とを分けている頑丈な塀が切れる場所、車両が行き来するための門だ。塀が途切れた場所に隊員の小さな詰め所があった。アスカは迷わずその詰め所へ向かい、中の隊員に声を掛ける。
「すみません」
一人しか居ない隊員は物珍しそうに小窓から顔を出した。
「何か御用ですか」
「モトイ……あ、藤木モトイ一尉は居ますか。アスカが会いに来たと伝えて下さい」
「少々お待ち下さい」
そう言うと隊員は一旦詰所の中に戻り、中と連絡を取る。
「自衛隊では苗字を使うのか」
自分の苗字は何であったか思い出しながらタケルが言った。
「そうなのよね。苗字なんて滅多に使わないから忘れかけてたわ。自衛隊みたいに大勢を管理しなきゃいけない場合はランド・ウォーカーも同名と混同しないために苗字を使うそうなの」
「やべえ、俺、自分の苗字思い出せないわ」
「必要になったらその時適当に付ければ良いだろ」
何とか思い出そうと考え込むタケルに淡白に返すカイ。だがそんなカイも、自分の苗字を思い出そうと心中頭を捻っていた。
基本的にランド・ウォーカーは苗字を使わない。苗字は家への帰属意識から来るものだが、一般的にランド・ウォーカーにはそうした帰属意識自体が無いからだ。個体識別のために名前は使うが、親が名前に込めた意味などにも興味が無いため、画数の少ない片仮名を使う。苗字を使うのは個体識別用の記号に更なるバリエーションが必要になった時だけなのだ。
それから少しして、再び隊員が顔を出した。
「このまま少々お待ち下さい」
どうやら目的の人物は確かに居るようだ。
「良かった、どこかに異動してたらどうしようかと思った」
「居るんだな、あんたの伝手がある奴は」
アスカはカイに頷いて基地の方を見る。
「ええ、居るみたい。あ、ほら、出て来た」
細い指が示す先には、青い迷彩柄の服を着た男が居た。男はこちらへ小走りでやって来る。
「アスカ!」
「久し振り、モトイ!」
駆けて来たのは背の高い二十代後半くらいの男だった。服と同じく青い迷彩柄の帽子の下から、爽やかな笑顔が覗いている。
「どうしたんだよ、急に」
「ちょっとお願いがあってね」
そう言うとアスカは自分の後ろに居る三人を示した。モトイは敵意の無い目で三人をそれぞれ上から下まで見ていく。
「入隊希望? それなら大歓迎だ」
「そうじゃないんだけど……」
アスカの様子にこの場では話せない事情があると察したモトイは、一先ず建物の中へ移動する事にした。
「まずは中に入るか。綺麗な応接間なんか無いが、話ができる場所くらいはあるから」
「ありがとう」
四人が通されたのは基地内の一室だ。この小部屋へ至るまでの過程も至って質素だったが、この部屋も壁はコンクリートが剥き出しで塗装もされておらず、折り畳み式の長テーブルとパイプ椅子が数脚あるだけだった。
「てきとうに座ってくれ。椅子が足りなかったら壁に立てかけてあるのを出して」
モトイは帽子を取ってテーブルに置き、窓を背にして四人と向き合う形で腰を下ろす。
「で、頼みって言うのは?」
アスカはモトイの目を真っ直ぐ見て言った。
「この人達を北海道へ連れて行って欲しいの」
アスカの口から出た依頼に、モトイはいかにも好青年と言った風の表情を一瞬曇らせる。
「今の北海道がどう言う状況か分かってるよな。それでも行くと言うのは、何か余程の事情があるのか」
その問いに答えるのはカイだ。アタッシュケースをテーブルに出すと、中から重要書類の数々を取り出した。
「俺達は政府の依頼でアメリカを目指してるんだ」
差し出された書類に目を通しながら、モトイはカイ、タケル、シズマをよくよく眺める。
「アメリカ……なるほど、確かに政府の公式文書に違いない。まさか、君達のような子供にこんな任務を与えるとは……」
「あんたからすれば子供かもしれないが、俺は物心ついた頃から外交のためだけに教育を受けて来た。こっちのタケルは戦闘に特化した訓練を受けてる。言うなれば、こう言う仕事のために用意されたランド・ウォーカーなんだ」
硬い表情のカイとは裏腹、モトイは小さく笑って頷いた。
「悪かった、別に君達を馬鹿にする気なんて無いんだ。ただ、純粋な感想さ。政府が決めた事なら協力しないと言う選択肢は無い。だが、このご時世、護衛艦を動かすための燃料も豊富にあるとは言えない。だから君達三人を送るためだけに船を出すと言うのは無理だ。何かのついでで良ければ送ろう」
「青函トンネルが使えないとなると、何のついででも良いから送ってもらえると助かる」
カイの口から出た青函トンネルと言う言葉に、モトイは思い出したように言う。
「そうだ、青函トンネルと言えばレイが全面封鎖の命令を出したそうだ。電力も遮断して封鎖するらしい。外からの電力が落ちれば、自家発電をフル活用しても持って二、三か月だろうな」
「それまでに降参するのを待つのか?」
タケルの問いにモトイは首を振った。
「レイの事だ、中の人間が全員死ぬのを待つんだろ。下手に生き残らせて、また反乱を起こされても面倒だからな」
「……レイはロシア人とだけじゃなくて、日本人とも戦ってるのね」
そう言って視線を落とすアスカ。シズマはその横顔をふと覗く。アスカもランド・ウォーカーなので、同じ日本人が何百人も青函トンネルの中で悲惨な死を迎えるであろう事を憂いているのではないだろう。単純に霧が濃くなるのを嫌がっているのだと思う。それでもこう言った悲惨な事態に心を動かすだけ、ランド・ウォーカーとしては珍しい。
「仕方がない事だ。青函トンネルは北海道への物資の運搬と言う点で非常に重要なインフラだが、それを塞いでいるとなれば彼等を敵と見なすほかない。俺もレイのやり方は好かないが、青函トンネルの開通はするべきだと思う」
「確かに、レイって奴のやり方はかなり反感を買うだろうが、効率的だとは思うな。ただ封鎖するだけなら最小限の人手で足りるし、一度封鎖しちまえば後は放って置くだけで良い。部隊を送り込んだり交渉に時間を割いたりするより楽だ」
そう言って感心しているのはタケルだった。
「君の言う通りだ。手勢を割けない分、時間はかかるがレイのやり方も大間違いではない。ところで……」
モトイはシズマに向き直り、じっとその目を見据える。
「外交がカイ、護衛がタケルで……君はこの書類には載っていないが、同伴者なのか」
「俺は温泉を巡りたくて二人に乗っかっただけなんだ」
「なるほど。まあ、一人増えるくらい何ともないが、忠告しておくと、今の北海道は温泉を楽しむどころじゃないぞ」
「そうか……」
「まあ、まだ出発までに五日ある。よく考えておくと良い」
そう言ってモトイは席を立ち、再び迷彩柄の帽子を被った。
「出発まで時間があるから部屋が必要だろう。宿舎に案内するから付いて来てくれ」
モトイに続いて宿舎へ移動する道中、最後尾を歩くシズマにアスカが声を掛ける。
「ねえ、シズマくん」
「あれ、アスカはもう帰るんだろ? ああ、そうだ、君にまた礼をしないとね」
「そうよ、それ。もうちゃんと考えてあるの」
シズマは前を行く三人と少し距離を取り、アスカの声に静かに笑った。
「はは、準備が良いね。何が良いの?」
「カレー! できればシーフードカレーが良いわ」
「カレーか、良いかもね」
そう言えば、日光から持って来たカレー粉をまだ一度も使っていない。
その時、先頭を進んでいたモトイが突然足を止めた。おかげでその後ろを歩いていたカイは、彼の広い背中に顔面から突っ込む羽目になる。
「な、なんだよ! 急に止まるな!」
モトイは恐ろしく真剣な眼差しでシズマを振り返った。シズマはいったい何が起きたのかと戸惑うばかりだ。
「君、カレーと言ったか」
「え、ま、まあ、言いましたけど……」
「カレーを作れるのか」
「はい、作れますよ。ただ、持って来たカレー粉だと……ちょうど五人前くらいですけど」
するとモトイは目にも留まらぬ速さでシズマに詰め寄り、その肩を両手で掴んだ。
「是非とも作ってくれ! 俺は一生に一度で良いからカレーを食べてみたい!」
「わ、分かりました」
その異様な光景にタケルが声を上げて笑う。
「はは、そりゃあ、カレーは美味いけどさ、そんなに必死になるか、普通?」
するとモトイの鋭い目がタケルを素早く捉えた。
「君達は知らないかもしれないが、海上自衛隊ではカレーと言うのは特別な食べ物なんだ。霧が湧く更に昔から、毎週金曜には必ずカレーが出されていた」
「金曜? 何で?」
モトイの視線に臆するでもなく、タケルは能天気に首を傾げる。
「海上での勤務が長いと日にちの感覚が薄れがちだ。そんな中でも時間感覚を維持するために毎週金曜にカレーを食べていたんだ。だが、霧が湧いてからはカレー粉自体が手に入らなくなり、その習慣を続けられなくなった。現にこの大湊でも最後にカレーを食べたのがいつだか分からないくらいだ。基地によってはカレー粉用の食材を自分達で栽培している所もあるくらいなんだぞ」
「へ、へえ……よほどカレーが好きなんだな」
さすがのタケルも半ば唖然とするカレー熱に、シズマは苦笑して頷いた。
「分かりました。じゃあ、今日の昼飯はカレーにしよう。厨房を貸して下さい。あと、食材も少しもらいますよ」
他の隊員の昼食が済んだ後、シズマは厨房を借りてカレー作りを始めた。その間、自衛隊の給養員達は物珍しそうにその工程を見守っている。そしてその更に向こうでは、アスカが熱心にシャッターを押していた。
「こうも見られてると緊張するな……」
居心地の悪さを感じながらも、シズマは手際よくカレーを作っていく。本当はもっと時間をかけてスープから準備したかったが、ついさっき決まった事なので、すぐにできる範囲で最高の味を出さなければいけない。
ここへ来るまでに、福島では魚や貝を食べ、つい数時間前にはイカを食べた。それで確信を持ったのが、海の食材も絶対にバターとの相性が良いと言う事だ。基地の冷蔵庫に保管されていたシーフードを幾らか分けてもらい、それをバターで炒める。炒めたシーフードは、前もって別の鍋で準備していた野菜と合わせるのだ。野菜は予めカレー粉を加えて炒め、味を染み込ませて香りをしっかり付けておく。
スープには隊員達の昼食が冷しゃぶだったため、肉を通した後の湯をもらった。アクを取り除き、野菜とシーフードに投入する。そこにカレー粉を更に追加し、ソースなどの調味料で味を調える。最後に小麦粉でとろみをつけると、急いで作ったわりには良い出来栄えのシーフードカレーが出来上がった。
皿にカレーを盛り付け、サラダとゆで卵を付ければ完成だ。
「できたよ」
シズマが盆を持って食堂へ行くと、四人は既にしっかり着席していた。
目の前に現れたカレーに、モトイはすっかり言葉を失っている。その向かいではタケルがスプーンを握って食べる態勢に入っていた。
「美味しそう!」
アスカは厨房からずっとだが、またもシャッターを押す。カイも初めて食べるシーフードカレーとやらに興味津々だ。
「お待たせ。じゃあ、食べようか」
シズマが席につくなり、四人は早速カレーを口に運んだ。そしてそれぞれに感嘆の声を上げる。中でもモトイはタケルに劣らない速さで次々に飲み込んでいた。その隣ではアスカが目を輝かせて満面に笑みを浮かべている。
「シズマくん、本当に美味しいわ!」
杏の時もそうだったが、アスカは本当に美味そうに食べるのだ。この瞬間のために生きて来たとでも言うかのように、目を輝かせてカレーを頬張り、呑み込んでは嬉しそうに唸る。シズマはその様子を見ながら、自分も初めて食べるシーフードカレーにそこそこ満足していた。
あっと言う間にカレーを食べ終えた五人は、食堂のテーブルでその余韻に浸っていた。
「シズマ、君を給養員として雇っても良いぞ」
モトイの提案に、シズマは苦笑する。
「はは、有難いですけど、俺はこう言う組織とかには向かないから」
「大丈夫、ランド・ウォーカーは皆そうだ。まあ、職に困った時はいつでもここに来てくれ」
「それはどうも」
シズマの返答に頷き、モトイは立ち上がって食堂を出て行くが、出口で一度振り返った。
「それでは出発は五日後だ。それまでは先程案内した部屋で待機していてくれ。なお、車両は出発の前日には積み込むので忘れずに港へ来てくれよ」
モトイが出て行くと、カイとタケルも席を立つ。シズマもそれに続こうとしたが、その腕をアスカが掴んだ。
「シズマくん、ちょっと海でも見に行かない?」
「え? ああ、良いよ」
アスカと二人で基地の外に出たシズマは、陸奥湾を眺めながら西に傾き始めた太陽の光を浴びる。まだ夕方とまではいかないが、昼間と比べていくらか気温も下がり、風も心地良かった。
「ねえ、シズマくん」
ふと隣で陸奥湾を眺めているアスカが呼ぶ。
「うん?」
「お願いがあるの」
シズマは隣に立つアスカの横顔を見た。何を言われるかは勘付いていたが、正直なところ自分の中でも答えがまだ出ていない。
「北海道には、行かないでちょうだい。私と一緒に本島に残って欲しいの」
「…………」
振り向いたアスカは真剣な目をしていた。
「そんなに俺の料理が食べたいの? 料理ができる奴なんて探せば他にも居ると思うけど」
「私、あんなに美味しい料理を食べたのはあなたが初めてよ。料理ができる人はたくさん居るかもしれないけど、あなたほど美味しく作れる人は会った事ないわ。これからもずっと、あなたの料理が食べたいの」
シズマは穏やかな陸奥湾に視線を戻し、独り言のように言う。
「あのカレー粉、俺が日光の地底人からもらった物なんだ。その地底人はガキの頃から俺に料理を教えてくれた。俺は元々日光よりも山の方の四万って所で生まれたんだ。でもそこの因習が嫌で逃げ出した。ただの穀潰しのはずの俺に、料理と言う生きる術を教えてくれた」
日光を出てからまだ数か月しか経っていないはずなのに、松平の日に焼けた顔がすっかり懐かしく感じる。
「その地底人はさ、もしも俺が病気かなんかで働けなくなったとしても、俺を追い出さないでいてくれそうな奴だったんだ」
「良い人なのね」
シズマは漸くアスカを振り返って頷いた。
「ああ、良い奴だった。アスカはさ、俺の料理が欲しいんだろ? もしも俺が料理を作れなくなったらどうするの?」
するとアスカはにこりと微笑んで言う。
「病気になるって事? 私が毎日シズマくんと同じものを食べていたら、あなたが罹る病気には私も罹るわ。シズマくんはどうなの? 私はあなたを色んな温泉へ連れて行ってあげられる。でも、私の車が壊れたら? もう動かなくなったら他の足を探す?」
その問いに、シズマは目を丸くした。人間に対して愛着が無いのはお互いに同じだった。
「そうだな、その時は君の測量士としての資格を使って新しい車を手に入れてもらおうか」
シズマの答えを聞き、アスカは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、相互利益があるって事ね」
「そうみたいだ」
その時、シズマの笑顔に吸い込まれるようにしてアスカはその胸に頬を寄せた。アスカの華奢な腕がシズマの背中を包み込む。シズマは予想もしなかった行動に、ただ目を丸くしてアスカを見下ろしていた。
「どうしたの!?」
「もしも私がランド・ウォーカーじゃなかったら、きっとこうしていたんじゃないかと思って」
「ランド・ウォーカーじゃなかったら……」
「私が普通の人間だったら、きっと……あなたの料理じゃなくて、あなたが欲しいって言えたのかもしれない」
シズマは自分の胸に顔を埋めたままのアスカの背を、そっと撫でた。
「良いんだよ、そんな事。だって、もしもそんな事を言える人間だったら……俺達はここで死ぬしかないんだから」
陸奥湾の水面を、北からの風が駆けて来る。黒の滲んだ、静かな風が。
「そうか。じゃあ、お前とはここでお別れだな」
茜色の夕日が照らす陸奥湾が、窓の外に煌めいている。宿舎の一室から見える絶景には目もくれず、カイとタケルは部屋の入り口に立ったままのシズマと向き合っていた。シズマの顔には二人の後ろから差し込む夕日の色が滲んでいる。
「ああ、俺は本島に残るよ。アスカと一緒にこっちの温泉を巡ってみる」
「良いのか? 北海道の方が……」
そこまで言い欠けたタケルの脇腹をカイが小突いた。
「俺もその方が良いと思う。お前には北海道の現状は向いてないだろ、どう考えても」
「はは、だよね。殺し合いは面倒だし」
タケルはまだ不服そうだが、カイに説き伏せられて何とか呑み込む。そうして一旦は大人しくなったが、まだぶつぶつぼやいていた。
「せっかく美味い食材が山ほどある北海道に行くってのによ……」
「おい、美食ツアーじゃねえんだよ。真面目に仕事しろ」
「カイは良いよな、楽しみなんか何も無くても平気で居られてよ。元々根暗だとそう言うのに慣れてるんだろうな」
苦笑するシズマの前で、カイはいつものようにタケルを睨む。
「少なくとも、俺は食い物の事くらいでいちいち愚痴は言わねえ」
「はいはい、分かりましたよ」
そう言うと、タケルはシズマに真っ直ぐ向き直った。その表情には漸くいつもの快活な笑顔が覗き始めている。
「シズマ、もうお前の美味い飯が食えないかと思うと、それだけでこの仕事の価値がガタ落ちだ。でも、今まで作ってくれた物は全部美味かったぜ。ありがとな」
「それは良かった。タケル、これからはもっとよく噛んで食べろよ」
「はいはい」
そしてシズマはカイを見た。いつもどこか眠たそうなシズマの目には、いつになく真剣な光がある。
「カイ、無事に雷発電の技術を持って帰って来たら、またどこかで会えると良いな。その時は最高の御馳走で慰労会をしてやるよ」
カイは小さく頷き、いつもの淡々とした調子で返した。
「それは無償なんだろうな」
いかにもカイらしい返事に、シズマは大きく笑って頷く。
「ははは、そうだな! 慰労会の代償は雷発電だ!」
カイは何も言わず、小さく口角を上げただけだった。




