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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
8/19

青森へ入った三人は弘前の居住区で、人々に地上の写真を見せているランド・ウォーカーと出会う。多くの人間が地下に潜り、地上の世界は人の手を離れていく。

8 鶴


 秋田を出た三人は梅雨で深まる緑に阻まれ、青森に入ったのは夏がやって来た頃だった。地図上では通行可能なはずの道でも、梅雨の豊富な雨に後押しされて生き生きと成長した緑が、人の行き来を拒絶するかのように覆い隠す。極力大きな道を選んで進んで来た三人は、やっとの思いで弘前に辿り着いた。

 弘前もかつては栄えた市街地だったようで、その亡骸が四方八方から迫りくる緑の木々に飲み込まれている。もはや瓦礫の山と化した建造物に鮮やかな緑が覆い被さる様は、生と死の逆説のようにさえ思えた。

 カイはハンドルを握りながらそんな街を進んで行く。細々とではあるものの人の往来があるのか、道を浸食している蔦がタイヤに踏み潰されていた。

「なあ、ここにも城があるんだってよ」

 いつものように助手席で地図を広げているタケルが、周囲を見回しながら言う。

「どこにも見当たらねえけど」

 恐ろしく目の良いタケルが言うのだから、見て分かる場所には無いのだろう。カイも運転の傍らで周囲をちらと見回した。やはり城と思しき建物は無い。

「もう残ってねえんだろ」

「会津とは違うんだな」

「残すための代償がでかすぎる。そんな事より、居住区はどこなんだよ」

「あれ。あそこだろ、きっと」

 シズマの手が後部座席から伸びて来た。その指先が示す方には薄汚れた看板が一枚建っている。そこには「県営居住区弘前支部」と書かれていた。その看板の隣には会津若松市の居住区と同様、鉄筋コンクリート製の小屋が建っている。どうやらそこが入口のようだった。

 カイはその小屋の隣に車を停め、アタッシュケースを持って降りる。タケルとシズマも同じく車を降り、アスファルトが所々剥がれている荒れた道を踏みしめた。

「会津の時はあの街に綺麗な城が建ってて不自然だったから、逆にこれが自然なのかもな」

 地図にある城の記号は目と鼻の先だが、何もない澄んだ青空を眺めながらタケルが言う。その隣でシズマは空白の景色を見やって呟いた。

「弘前城も見てみたかったけどな」

「無いものは仕方がない。俺達は目的を果たすまでだ」

 そう言ってカイは小屋の扉に手を伸ばす。分厚い鉄の扉を押すと、錆びた蝶番の甲高い音を纏いながら薄闇が現れた。四畳ほどの狭い小屋の中は、窓も無いコンクリートに囲まれた空間に一つの照明が哀れに灯るだけだ。その照明の真下に、潜水艦の甲板にあるようなハッチが一つある。

「青函トンネルまでの道中、大きな公営居住区はここだけだ。ここで可能な限りの物資の調達と情報収集をする。北海道がどんな有様か分かったもんじゃねえからな」

 カイはハッチを開けるため、ホイール型のハンドルに手を伸ばした。小屋の中は空気が淀んで蒸し暑いが、ハッチを開くと地下の涼しい風を感じる。鉄でできた簡素な梯子が、一筋の光のように暗い穴の底へ伸びていた。

 三人が漸くその長い梯子を下りきると、今度は一本の長い通路が待っている。通路は二人並んで歩くのがやっと程度の幅しかない。しかも照明は感知式で、人の動きを拾った場所しか点灯しないようだ。

「これは筑波と同じか」

 目の前だけが暖色に照らされ、奥には暗い闇が広がっている異様な景色を見ながらタケルが言った。その隣ではシズマが壁を指さして首を傾げている。

「いや、違うところがあるぞ。あれ見てよ、何か壁に掛けてある」

 シズマが指さす先は、頭上の灯りが照らせる範囲の端だった。そのせいで半分闇に呑まれている壁はよく見えない。

 三人は足元に注意しながら通路を奥へと進み始めた。すると徐々に壁に掛かる何かが鮮明になってくる。

「何でこんな物が……」

 カイがまじまじと眺めるそれは、額縁だった。簡素な額縁には大判の写真が収まっている。薄暗い照明の下に浮かび上がった写真には、咲き誇る桜と共に城が写っていた。かなり日に焼けた写真なので本来の色味ではないだろうが、それでも純白の外壁が輝いて見えるようだ。整然と積まれた石垣の上に、その城は確かに建っていた。

「もしかして、これが弘前城?」

「そうかもな。古い写真のようだし、もしかしたらまだ霧が出る前の物かも」

 カイの後ろから同じく写真を覗き込むタケル。その隣でシズマがそっと言った。

 そこから先もこの通路には点々と城や街、祭りと思われる写真が飾られていた。三人はそれらの写真をどことなく異世界でも見るかのような気持ちで眺めては、黙々と足を進める。そして漸く執着地点に来た。そこには特殊ゴムで入念に目張りされた鉄の扉がある。

 カイはその重々しい取っ手を持ち、扉を引いた。

 扉の先にどんな地下世界が広がっているかと、どこか好奇心を駆り立てられるような気持でいたが、目の前に広がる居住区は一般的なものよりかなり質素だ。扉を潜ってすぐに集合住宅が立ち並ぶ居住エリアがあった。その集合住宅は全て鉄筋コンクリート製だが、コンクリートは塗装される事も無くそのままの姿で仕上がっている。集合住宅は棟ごとに番号を振られている事が多いが、その番号もここではペンキで手書きされている。

「表にあれだけ街の写真があったから、中はどんな所だろうと思ったけど……案外普通だったね」

「会津の時みてえにデカい山に映写してんのかと思ったぜ」

 シズマ、タケルがそれぞれに思った事を口に出す中、カイは居住区の代表に会うべく適当な住人に声を掛けようと見回していた。そんな中、ふと足を止めて集合住宅の一角を指さす。

「あれ見ろよ」

 二人がカイの指さす方を見ると、この静かな居住区には似つかわしくないような人だかりができていた。

「何だあれ……」

 ただでさえ背の高いタケルが背伸びをして覗き込むと、人だかりの中心に一人の女が居て、家庭用テレビ程度の液晶画面に外の景色を映し出している。

「何してるんだ?」

 タケルは一度人だかりから離れてカイに答えた。

「外の景色を液晶に映して見せてる」

「ふうん」

 カイは団子になっている人々の最後列に居る男へ声を掛ける。

「すみません、この居住区の代表の部屋はどこですか」

 男は忙しそうに振り返ると、小さく頭を下げた。

「兄ちゃん、悪いけど今は他の場所に居る人に訊いてもらえるかな。少し取り込み中なんだ」

 そう言うと男は再び例の液晶画面に食いつく。よほど熱中しているようで、誰一人として男とカイのやり取りに関心を示す者は居なかった。

「…………」

 何も言わず、ただ目を細めて男の背中を見ているカイ。そこにシズマの声が飛んで来た。

「カイ! 分かったぞ!」

 どうやら他の住人から聞き出せたようだ。

「たまたますれ違った人に訊いた。この棟の一室らしい」

 シズマは自分達のそばに建つ、一号棟と書かれた味気ない集合住宅を見上げる。

「え……、普通に家なの?」

 タケルもそのコンクリートの塊を見上げた。普通、居住区の代表は言わば市長や都道府県知事のようなものなので、自宅以外に執務室のような物が用意されている。だがここはどこからどう見てもただの集合住宅だ。

「代表に会いたいって言ったらここを案内されたんだから……、ここに居るんだろう」

「会えるならどこでも良い。それで、何号室なんだ」

 カイは入り口に掲示されている住人の一覧を眺めていた。

「名前は刈谷で、一階に住んでるらしい」

「これか」

 カイが指さす名札は、確かに一階の一番手前の部屋だ。

「代表って言うからには最上階とかに住んでるのかと思ったけどよ……、かなり庶民的な奴なのかもな」

 タケルはそうぼやいて、薄暗い集合住宅の中へ進むカイに続いた。


 この居住エリアへ至るまでにいくつもの鉄の扉を潜って来たが、この部屋の扉ほど簡素で寒々しいものは無い。薄灰色の塗装を施された扉の横に、刈谷と書かれた小さなプレートがくっついている。カイはインターホンなど無いその冷たい扉を、三度ノックした。

「はーい」

 すると中から女の声がして、鉄の扉が開く。

「どなた様ですか?」

 現れたのは小柄な中年の女だった。細身で子供のように輝く瞳、そして短く切られた髪が、この女を少年のように見せている。

「こちらにこの居住区の代表が居ると聞いて来たのですが」

 女はカイを不思議そうに眺めていたが、優しい笑顔で家の中へ招き入れた。

「珍しいお客さんですね。代表は私です。どうぞ、中に入って下さい」

 刈谷に招かれた部屋は、執務室と言うよりは個人の家そのものだ。部屋は二部屋しか無く、部屋の他に台所や洗面所などがある。トイレや風呂は共同のようだ。

 三人は二部屋の中の一室、居間と思しき部屋へ通された。部屋の中は綺麗に整頓されていて、掃除も行き届いている。そして六畳ほどの空間は、壁に飾られたいくつもの写真が存在感を放っていた。

「弘前へようこそ。何かお困り事でも?」

 三人は座敷用のテーブルを囲んで座布団に腰を下ろした。床は板張りだが、椅子とテーブルではない。そこへ刈谷が三人分のお茶を持って戻ってくる。

「俺達は政府の依頼でアメリカへ向かっています」

「まあ、アメリカですか」

 カイに差し出された公式文書を見ながら、刈谷は目を丸くして声を上げた。このご時世にアメリカへ向かうなど、正気の沙汰ではないからだ。

「そうしますと、物資の補給か何か?」

「はい。これから北海道へ入るにあたり、情勢が不安定だと聞いたので本土に居る内に備えておきたいと思います」

「そうですか……」

 そこまで話を聞き終えると、刈谷の明るい笑顔はすっかり曇っていた。そして暫くの沈黙の後、漸く重たい口を開く。

「できる限りの協力はさせて頂きます。ですが、見ての通りここは住人やこの居住区に所属するランド・ウォーカー達の生活を支えるだけで精一杯。それ以上の余裕はありません。どこまでお力になれるかどうか……」

「もちろん、できる限りで構いません。こちらも何も持たずに出て来ている訳ではないので」

 すると刈谷はにこりと笑った。

「そうですよね。では、必要なものを書いて頂けますか。出せるだけ揃えますので」

 カイは刈谷に渡された紙にいくつかの項目を書いていく。その隣でタケルが壁の写真を見回しながら言った。

「なあ、さっきその辺の道端で液晶画面に写真を映して皆見てたけど、あれは何なんだ?」

「あれは写真好きのランド・ウォーカーの子が、外の写真を皆に見せてくれているんですよ。この居住区の人達は彼女が持って来る写真が楽しみでしてね。ああして皆で見せてもらうんです」

「この写真もそのランド・ウォーカーが撮ったんですか」

 シズマは立ち上がって壁の写真をよくよく眺める。どれも街の写真で、よく撮れていた。

「ええ、そうですよ。皆さんもご覧になったかもしれませんが、この居住区の入り口から続いている通路の写真は、昔、まだ人々が地上で暮らしていた頃のものです。あれを撮ったのが誰なのかは……私は知りませんけどね」

 視線を落としていた刈谷だったが、ふと顔を上げて三人を見る。

「そうだ、皆さん北海道へ行くならアスカに話を聞いてみるのも良いと思いますよ。アスカは住民に写真を見せているランド・ウォーカーです。あの子は北海道から来ましたから」

「なるほど。じゃあ、ここを出たらそのランド・ウォーカーを探してみます」

 注文を書き終えたカイは、紙を刈谷に渡しながら言った。刈谷は受け取った紙を見て目を丸くする。

「わあ、あなた物凄く綺麗な字を書くのねえ」

「……そうでもないですけど」

「あ、そうだ。一つだけ注意して欲しい事があります。ここに暮らすランド・ウォーカー以外の人間には政府の遣いだと言う事は言わないで下さい」

「なんで?」

 タケルは刈谷の重苦しい表情に首を傾げた。

「弘前だけではありませんが、東北や北海道ではランド・ウォーカー達が何人も北海道の防衛線に招集されて行ったんです。大切な労働力を奪われ、ここのように貧しい暮らしをせざるを得ない居住区がたくさんあります。そのせいで政府への風当たりが厳しいのです」

 カイは目を細めて刈谷を見る。そして淡々と言った。

「もしかして、刈谷さんは政府から派遣された役人ですか」

「はい、そうです。だからと言う訳でもありませんが、こうして静かに暮らしています」

「通信が殆ど絶たれているようなものなのに、あなたは全然訛っていないので地元の人間ではないと思ってました」

「私は五年ほど前に東京からここへ派遣されたんですよ。当時、ここの居住区長と数十人の住民が政府に対して反乱を起こしましてね。最終的には彼等がここを出て行くと言う形で終結しましたが、未だに政府への疑念は根強いのです」

「そうでしたか。分かりました」

 刈谷は深く頷き、三人を玄関先まで見送る。

「明日の朝には可能な限りの物資を調達しますので、今夜はこの棟の二階の空き部屋に泊まって下さい。朝になったら声を掛けに行きます」

「宜しくお願いします」

 カイは軽く頭を下げ、二人はその背中に続いて集合住宅を出て行った。


「カイ、いつもの横柄な態度からは想像もできねえほど畏まってたじゃねえかよ」

 通りを歩きながら、カイは隣のタケルを睨み上げる。

「どう見ても余所者歓迎って雰囲気じゃねえし、生活が潤ってるって感じでもねえから下手に出たんだよ」

「お前、本当に演技派だよな。よくもまあ、そこまで使い分けられるもんだ」

「お前が単細胞なんだろ」

「俺は正直者なんだよ」

「馬鹿正直だ」

「馬鹿は余計だ」

「ねえ、あそこ!」

 睨み合う二人の間に飛び込み、シズマが先ほど人だかりができていた場所を指さした。既に人は捌けていて、若い女が一人で液晶の片付けをしている。

「あの子がアスカじゃないか?」

 カイは何も言わずにその女へ向かって歩き出した。女はこちらに気付いたようで、電源コードをまとめながら顔を上げる。

「あんた、アスカか?」

 突然投げかけられたぶっきらぼうな問いに、アスカは訝し気にカイを見返した。

「だったら何なの。と言うか、あんた誰よ」

 カイは周囲に人が居ない事を確認すると、やや声を落として答える。

「俺達は政府の依頼でアメリカを目指してる。その話を刈谷にしたら、お前から北海道の情報を聞くと良いと言われたんだ」

「……へえ、刈谷さんがね。で、あんた達の名前は? 自分だけが一方的に知られてるって言うのも気持ちの良いものじゃないからね」

「俺はカイ。デカいのがタケル。長髪がシズマだ」

 いい加減この自己紹介にもうんざりしているカイだった。いっそのこと名札でも下げて来ようかと思うほど。

 アスカは液晶モニタにベルトを着け、肩から下げて三人を振り返った。

「私はアスカ。刈谷さんの頼みなら聞いてあげる。でも、これから行きたい場所があるから、話はそこでしましょう」

「……行きたい場所? この居住区内か?」

 アスカはカイに首を振る。

「車で移動するわ。そんなに遠くないから、カイくん達は自分の車で付いて来て」

 そう言ってさっさと歩き出すアスカ。その後ろに三人も続く。

「君、車持ってるの?」

 後ろから聞こえて来たシズマの声に振り返るでもなく、アスカはただ前を向いたまま通る声で返した。

「私、元々北海道で測量士やってたの。その時のお古をもらってね」

「自分の車があるって良いな。好きな所へ行けるし」

「そうね。私みたく転々としてるランド・ウォーカーからしたら貴重品よ」

 アスカは時折腕時計で時間を確認しながら足早に出口へ向かう。例の長い通路を過ぎ、鉄の梯子を上る。そして重たいハッチを押し上げ薄暗い小屋を出た。

 三人が地上に出ると、昼下がりの晴天の下でアスカが待っている。長い髪を綺麗に編み込んでまとめ上げ、一見すると女性らしい印象だが、その鋭い瞳には確固たる芯が備わっていた。

「目的地はここから北へ一時間弱行った場所よ。道が良ければもっと早く着くんだけど、現状はこのくらいかかるわ。じゃあ、私が先導するから後から付いて来てね」

「分かった」

 カイが了解すると、アスカは何も言わずに自分の車へ乗り込む。アスカの車も自衛隊の車両ほどではないが頑丈な造りのジープだった。

「けっこう美人じゃん」

 助手席に乗り込むなり、タケルが一言こぼす。その声に、エンジンをかけながらカイが盛大な溜息を吐いた。

「お前な……。大事な情報提供者だ。面倒は起こすなよ」

「分かってるよ」

 すると後部座席からシズマが顔を出す。

「なんか良いよな、ああ言う自由な感じ」

「……お前まで馬鹿な事言わないでくれ」

 カイの呆れた声に、シズマは苦笑して首を振った。

「はは、そう言うんじゃないから心配しなくて良いよ。ただ、アスカは自由に生きてるのかなって思ったんだ」

 走り出した車の中で、タケルは前を行くジープを見ながら言う。

「いくら自由人とは言え、地底人達に写真を見せるのもまさか無償じゃねえだろ? どう言う利害関係なんだろうな」

 カイは居住区でアスカの写真に見入っていた地底人達を思い返す。あの時は何か報酬を支払っている様子などなかった。もしもあれだけの人数の地底人から一人ずつ何らかの報酬を得ているとしたら、アスカの生活はかなり満ち足りているだろう。

「さあな。もしかしたら報酬は物ではないのかもしれない。あの居住区の地底人に写真へ支払える物があるとも思えねえ」

「確かに。形の無い報酬か……」

 そう呟くと、タケルは運転席でハンドルを握っているカイを横目で見た。そしてにやりと口角を上げる。

「どっかの誰かさんみたく、俺に構うな、とか?」

 カイはタケルをじっとり睨み付けてから前を行くジープに視線を戻すと、それきり何も言わなくなった。

「あーあ、へそ曲げちゃった」

 そんなカイの様子など一切気にかけることなく、タケルは楽しそうに笑う。その後ろではシズマが荷物の山の中で窓の外を眺めながらぼやいた。

「でもさ、実際、そう言うものの方が報酬としての価値は高いかも知れないな。だって物なら何とかすれば自力で手に入るだろ? でも形の無いものは自分ではどうにもできない事が多いし」


 アスカのジープが止まったのは、それから数十分走った所だった。最初に彼女が言った通り、目的地は弘前の居住区から一時間弱の距離だ。

 三人が車を降りると、先に降りて待っていたアスカが生い茂る緑の向こうを指さした。

「あっちよ、付いて来て」

 アスカが進む先には獣道のような細い通路がある。人が一人通れるだけの幅で、恐らくアスカ自身が草木を分けて進んだためにできた道だろう。

 その小道を進んで行くと、深い木々が一気に開けた。

「ここよ」

 三人は久し振りに見る見通しの利く景色に、つい声を出すのも忘れて見入る。深い森の先に広がるのは、空の青を反射して輝く湖だった。そして湖の先には山がそびえ、その山の姿が澄んだ湖面に鏡のように映っている。

 そんな美しい景色の中で、最も目を引く物があった。それは橋だ。木造の長い橋が湖の端から端へ架かっている。橋は間に二か所の舞台があり、三連の太鼓橋となっていた。橋の木組みもまた湖にくっきりと反射しているが、その姿は街中の廃墟同様、長い時の流れの中で人の手を離れた人工物の末路そのものだ。

「橋……?」

 目を丸くしているカイに頷き、アスカは鞄からカメラを取り出した。

「そう。ここ数か月はしょっちゅうこの橋を撮りに来てるの。鶴の舞橋って言うんだって」

「昔は綺麗だったんだろうな」

「そうだと思う」

 シズマのこぼした言葉にそう返すなり、アスカはその場で数枚の写真を撮り、今度は三脚を抱えて歩き出す。三人もその後に続いて湖の周りを進んだ。

「北海道の事が知りたいんでしょ?」

 相変わらず前を見たまま振り返る事も無くアスカが言う。

「ロシアからの不法移民のせいで治安が悪化してると聞いた。具体的にどんな状況なのか、青函トンネルや北海道の先、千島列島の事も知っていれば聞きたい」

 ふと足を止めたアスカは一瞬カイを振り返って、すぐに地面へ三脚を立て始める。

「そうね……。私がこっちに渡って来たのは半年前だから、そこまでの情報で良ければ」

「構わない」

「一言でいえば、治安が悪化しているとか言う次元じゃないわ。まあ、全体がそうって訳じゃないけど、特に道東は戦場みたいなものよ。移民も、最初は運の良い民間人が流れ着く程度だったけど、モスクワが霧に呑まれてからは軍事力を使って南下してきたのよ。だからこっちも力で押し返すしかなかったのね」

 三脚を立て終えると、上にカメラを固定した。そして位置を微調整しながら、アスカは話を続ける。

「でも、数年前に自衛隊の指揮権を地底人のお偉いさんからランド・ウォーカーに下ろしてからは日本の方が優勢になって、半年前の時点では千島列島の南半分くらいまで制圧したって聞いたわよ。その先がどうなってるかは知らないわ」

「ランド・ウォーカーの方が戦争に向いてるって事か」

 そう言うタケルに、アスカは肩をすくめた。

「さあ、どうかしら。戦争が上手いと言うより、同類を動かすのが上手いんじゃない?」

「……その指揮官って、レイって奴なのか」

 明らかに警戒を含んだカイの視線。その理由は分からないが、アスカも神妙な面持ちで頷く。

「そうよ。私も名前を聞いた事があるってだけ」

 そしてアスカはカメラを覗き込み、シャッターを押す瞬間をじっと待った。

「こっちへはどうやって渡って来たんだ? 青函トンネルは機能してるのか?」

 アスカは顔を向けることなくカイの質問へ答えていく。

「私は船で海峡を渡ったの。あの車があるから、自衛隊の船でね。青函トンネルは今も使えるわよ。大事なインフラだから、優先的に修復作業が入ってるし。でも、問題があって立ち入りできないの」

「……問題?」

「刈谷さんから聞いたかもしれないけど、東北の居住区は北海道へ派遣するランド・ウォーカーの人的負担を多く負ってるの。それに反発した一団が方々から集まってね、青函トンネルに陣取って封鎖してるのよ。あそこは霧が出た当初、万一の避難場所としても使えるように改築されてるから、地底人が住み着く事もできるの」

「その自衛隊の船ってのはいつでも乗れるのか?」

 アスカが覗き込む先の風景を眺めながら、タケルが言った。

「私は測量士をやってた時の知り合いが居たから、物資の運搬に合わせて乗せてもらったのよ。いつでも乗れる訳ではないと思う。でも、あなた達は政府の依頼で動いてるんでしょ? だったらそれを証明できれば乗せてくれるんじゃない?」

「そっか。政府の事を忘れてた」

 その時、湖の方で水が弾ける大きな音がした。これまで風に揺れる木々の葉の音しかしなかった空間に、突然大音量が響く。その中に軽快なシャッター音が混ざった。

 音の源は橋だ。傷みが激しく至る所が崩れ落ちている木造の橋は、地球がもたらす重力によって湖面に吸い寄せられていく。そして朽ちた柱が水しぶきを上げて空と山を反射する湖に沈んで行った。

「あれを撮ってるの?」

 漸くカメラから顔を上げたアスカは、目を丸くしているシズマに頷く。

「そうよ。凄く綺麗な瞬間だと思ってね」

「綺麗な瞬間……? この橋が綺麗な状態で残ってる方が良いんじゃないの?」

「確かに、それも綺麗だと思う。でも、私が見たいのは自然なの。あの橋だって元はと言えば木でしょ? それを人間が加工してあの形に組み上げただけ。それが今、人間の手を離れて少しずつ自然に返ってる。その姿が好きでね」

「あ、そう言えば……」

 道中抱いた疑問をふと思い出したタケルが、カメラを仕舞い始めるアスカを見た。

「あんたさ、居住区で地底人に地上の景色を見せてたよな? あれって報酬は何なの?」

 アスカはカメラの入った鞄を肩から下げ、三脚を畳んでいく。

「ああ、あれね。報酬は平和でいる事」

「は? 平和でいる事?」

「喧嘩も殺し合いもするなって事よ」

 その答えに真っ先に食いついたのはシズマだった。

「何でそれにしたの?」

 意外なほど真剣な眼差しのシズマにどこか圧倒されながらも、アスカは淀みなく答える。

「前に福島の会津で頼まれた写真を撮ってあげた事があったんだけど、あそこって人殺しがあったりするのよね。その時、居住区の周りが霧に呑まれて何も見えないくらいだったのよ。あんな霧があったら、綺麗な景色が台無しでしょ?」

 三脚を抱え、アスカは続けた。

「殺し合いが霧の原因かは解らないけど、北海道も私が子供の頃はもっと霧が少なくて綺麗だったの。でも戦争が始まって霧が増えた。だから弘前では殺し合わないで欲しかったのよ。そうじゃなきゃこの橋が見れないもの」

「そっか……」

 シズマは少しの間目を伏せ、日光の掟を思い返す。あそこは神域で、人間同士の争いを一切禁じていた。そして現に周囲の地域と比べても霧の発生が極端に少ない。

「それ、強ち間違いじゃないと思う」

「そう?」

「俺が居た日光の居住区は争いを禁止してたんだけど、短時間なら地底人が外に出られるほど霧が少なかった」

「そうなの? じゃあ、私があそこの人達に平和主義を要求するのも無意味じゃないかもね」

「もしかしたらね」

 すると不意にアスカが手を差し出した。シズマが首を傾げていると、にこりと微笑んで楽しそうに言う。

「情報料ちょうだい」

「ああ、そう言う事か」

 シズマはそっとカイを振り返った。カイは当然と言う表情で頷く。

「何が欲しい? 前もって言っとくが、あまり無理な要求はしない方が良い」

「大丈夫よ、そんなに難しくないわ。私、甘い物が大好きでね。何か甘い物ない?」

 その意外な要求を聞くなり、カイとタケルは同時にシズマを見た。食べ物に関してはシズマが専門だ。

「甘い物か……。生憎俺が甘い物嫌いだから、こっちの手持ちには無いや」

「……それは困るわ」

 眉を寄せるアスカに、シズマは苦笑してカイとタケルを見る。何故か二人もシズマを責めるような目をしていた。

「何か俺が悪い事してるみたいじゃない?」

「お前の好き嫌いのせいで取引がすんなり行かないんじゃん」

「砂糖くらいねえのかよ」

 タケル、カイと次々に言われ、シズマは小さく息を吐く。

「いや、砂糖はあるけどさ、ここで砂糖を差し出すのってどうなのかな……。よし、じゃあ何か作るか。と言っても、材料があまり無いから簡単な物だけど」

 そう言ってまだ難しい顔をしているアスカに言った。

「何か果物ない?」

 アスカは少し考えてから思い出したように顔を上げる。

「杏がある!」


 弘前の居住区に戻ると、三人の下に布袋を持ったアスカがやって来た。速足でシズマに詰め寄るなり、片手で口を握っている布袋を、ずいと押し出す。

「これね、青森で採れる八助って言う杏なの。ちょうど昨日知り合いにもらったのよ。これで良い?」

 シズマが布袋の中を見ると、大粒の杏がたくさん入っていた。どれも鮮やかな橙色で、袋を開けただけでも甘酸っぱい香りが広がる。

「うん、良いね。これだけでも美味そう」

「乾燥させて保存食にしようと思ったんだけど、使ってちょうだい」

「ありがとう」

 そのやり取りを少し離れた所からカイとタケルが見ていた。二人ともやり取り自体に興味は無いが、シズマの作る甘い物に興味が湧く。

「あいつが甘い物作るの、初めて見るな」

 鉄パイプ片手にぼんやりとつぶやくタケルに、カイは小さく息を吐いた。

「確かに初めてだが、問題は食い物より北海道の事だろ」

「どうしようもなくね? 行くしかねえんだし」

「いや、方法は考えるべきだ。ここでさえ政府の名は出さない方が身の安全のためなんだぞ。北海道へ入ったらそれこそ俺達は後ろ盾を失う。ただでさえ治安の悪化しているあの広大な北海道を縦断しなくちゃならない……」

 居住区の共同炊事場でシズマが手際よく杏の種を抜き取っていく。まず縦に一周切れ込みを入れ、左右に分かれた身をそれぞれ逆方向に回すようにねじる。すると杏は綺麗に半分になるのだ。そうしたら種を抜き取り、耐熱容器に入れていく。

 そんな光景をぼんやりと眺めながら、カイとタケルはベンチに座って考えを巡らせていた。だが突然、タケルが大きな声と共にカイを振り返る。

「あ!」

 カイは驚いて肩をすくめた。

「うるせえな、急にデカい声出すな!」

「思い付いたんだよ! やっぱ俺は天才だな」

「……何でも良いから早く言えよ」

 タケルは目を輝かせてカイの肩をがっしり掴む。

「簡単な話だ。津軽海峡を渡るのに自衛隊の船を使うんだろ? だったらその時に北まで送ってもらえるように交渉すれば良いじゃねえか」

「そう簡単にいくとは思えない。自衛隊だって俺達二人を護送する余裕なんて無いはずだ。それができてたら最初から俺達だけで行かせたりしねえだろ」

「まあ、それもそうだな」

 タケルの大きな手が離れて行くと、カイはふと顔を上げて独り言のように話し出した。

「……いや、できるかもしれない。今、道内や東北からランド・ウォーカー達が前線へ送られてるんだ。それに乗っかれば良い」

「兵士として輸送される?」

「ああ、そうだ」

「車はどうするんだよ」

「分からない。それに関しては海峡で相談だな。物だけなら兵站と一緒に送れるんじゃないか」

「それに賭けるしかねえな。あの車が無きゃ、後々困る」

 二人がそんな話をしている間もシズマの手は休まない。鍋に湯を沸かし、砂糖を溶かしている。その隣ではアスカが興味深そうに鍋の中を覗いていた。

「何作るの?」

「コンポートだよ」

 そう言うとシズマは何やら茶色い液体の入った瓶を取り出す。そして砂糖を溶かした湯の中にスプーンで数杯入れた。

「それは?」

 シズマは瓶を仕舞ってからにやりと口角を上げる。

「高級品」

「もしかして、お酒?」

 鍋から立ち昇る湯気に、ふと酒の香りが混ざっていた。

「そう、ブランデーだよ。原料はリンゴ」

「凄い、そんな物どこで手に入るの?」

「日光に居た頃、いろんな所から参拝者が来てね。中には嗜好品を作ってるもの好きも居るんだ。そう言う人にもらった」

 アスカは甜菜糖とブランデーが見せる琥珀のような色合いに、ついぞ声を弾ませる。

「そんな高級品を使ってもらえるなんて、思いもしなかった」

 目を輝かせるアスカの横顔を見ながら、シズマはそっと微笑んだ。

「せっかく作るなら、喜んでもらえるものを作った方が良い。その方が俺も満足できる」

 するとアスカは目を丸くしてシズマの顔をじっと見る。

「シズマくんって、珍しいランド・ウォーカーね。人の喜びが自分の喜びって事?」

「さあ、どうだろう。俺自身が評価されてるみたいで達成感があるからじゃないか?」

「そっか。でも、良いわね、そう言うの。結果的にどちらにも利があって、かつお互いに負担が無いし」

「だろ? 君の平和主義も良いと思うよ。確かにあの湖も橋も綺麗だった」

 するとアスカは鞄からタブレットを取り出してシズマの隣に腰を下ろした。器用そうな指が液晶画面を軽快に滑る。

「もっと凄い写真もあるのよ」

 アスカが開いた写真には、白と黒に赤い差し色が鮮やかな、大きな鳥が写っていた。

「……鳥? ずいぶんデカいな。シラサギより大きい?」

「タンチョウよ。見た事ないでしょ?」

「初めて見た。鶴って言うやつ?」

「そう。綺麗でしょ? 江戸時代はね、青森にも鶴がたくさん越冬しに来てたんだって。でもその数は徐々に減って、遂に鶴は来なくなった。それが、霧が湧いて人間が地下へ潜るようになってから少しずつ戻って来たそうよ」

 アスカの話を聞きながら何枚もの鶴の写真を繰っていくシズマ。そしてふと手を止めた。

「これってどう言う場面?」

 タブレットには二羽のタンチョウが向かい合い、翼を広げて跳び上がっている情景があった。一面の雪景色の中で、二羽の鶴は踊っているように見える。

「これはね、求愛ダンス。繁殖期の前になると、オスとメスが向き合って鳴きながら踊るの。凄く綺麗よ」

「ふうん。ここには綺麗なものがたくさんあるんだな」

 そう言って鍋の方へ視線を移すシズマ。鍋の中では糖液が沸騰していた。すぐに火を止め、耐熱容器に入れてあった杏に注ぐ。

「これで粗熱を取ったら冷蔵庫に入れて冷やすんだ。夜には食べられると思うよ」

「じゃあ、夜になったらまた来るわ。まだ出発しないでしょ?」

「うん、今日はここに泊まる事になってる」

「良かった。またね」

 そう言って居住区の奥へ消えて行くアスカを見送っていると、作戦会議を終えたカイとタケルがやって来た。

「シズマ、飯食いに行くぞ」

 カイに言われ、もうそんな時間かと時計を見るシズマ。だがいつも夕飯を食べている時間を考えると、少し早いようだった。

「もう? まだ夕方だろ」

「明日はここを早く出て大湊の海上自衛隊基地に向かう。この先の交渉もあるから、時間に余裕を持ちたい」

「そうか。じゃあ、食堂行く?」

「そうしよう」


 食堂に来た三人は、一種類しかないメニューから人数分注文した。料理は注文するなりすぐにカウンターの向こうから出てきた。三人はカウンター席につき、同時に料理を目の前にする。

 トレーの上にはキツネ色のかき揚げと葉物のお浸し、雑穀米と味噌汁が乗っている。

「美味そう! いただきまーす!」

 タケルが座ると小さく見えるカウンターで、湯気を上げる料理に箸が向かった。タケルの箸が真っ先に捉えたのは、勿論かき揚げだ。少しだけ醤油を垂らしたかき揚げは、口元に運ぶと香ばしい熱を感じる。そして口に入れた瞬間、衣の立てる軽快な音と共に、野菜とも違う意外な食感があった。

「これ……イカ?」

「え、イカ?」

 目を丸くしてかき揚げを見ているタケル。その呟きに、カイも箸を取った。イカと言う生き物は聞いた事がある。だが、実物を見た事はない。聞いたところによると、イカは足が十本あるらしい。全体像がどのような物なのか想像もつかないが、その味には非常に興味がある。

 かき揚げを口にすると、細かく刻まれた弾力のある具材から独特の風味が広がる。

「これが、イカ……。美味い」

「俺も初めて食べた。野菜だけのかき揚げと違って、香りも味も深みがあって良いね」

 シズマも満足そうにかき揚げを頬張った。

「この味噌汁も美味いぞ! 何か不思議な物が入ってる」

 驚異的な速さでかき揚げを平らげたタケルが、今度は味噌汁を飲みながら言う。カイはそんなタケルを横目に見て、自分の味噌汁を覗く。確かに、よく見ると何なのか分からない物が入っている。

「何だ、これ」

「それはね、煎餅ですよ」

 カイの疑問を拾い上げたのは、つい今しがた食堂へやって来た刈谷だった。

「煎餅汁って言います。味噌汁に南部煎餅を割って入れるんです」

「味噌汁に煎餅……。麩みたいな感覚?」

「そうなのかもしれませんね」

 味噌汁に浸かった煎餅を口に運ぶシズマに、刈谷は微笑む。そしてふと本題を切り出した。

「皆さん、今夜消灯後に物資をお渡しします。お手数ですが、搬入に手を貸して頂けますか。こちらではあまり大きく動けないもので……」

「分かりました。時間になったら部屋に呼びに来てもらって良いですか」

「では、また伺いますね」

 刈谷が去った後、カイは味噌汁を飲み干してからタケルとシズマに言う。

「荷物運ぶからそれまで寝るなよな」

「はいよ」

 タケルがそう言うと、シズマは箸を置いて二人の方を見て軽く頭を下げた。

「ごめん、俺は少し遅れるかも。アスカに報酬を払わないといけないから」

「いいなー。俺も杏食いたい」

「大丈夫、タケルの分は取っとくよ。さすがにあれを全部食べるって事はないだろ。カイは食べる?」

 カイは少し考えてから一言返す。

「どっちでも良い」

「分かった」


 夜、風呂から上がったシズマは部屋へ戻るカイとタケルとは別れて炊事場の冷蔵庫へ向かった。コンポートはもう充分冷えたはずだ。煮て作ったわけではないのでもう少し寝かせても良いと思ったが、明日の早朝にはここを出るのだから、アスカに渡せるのは今夜しかない。

 冷蔵庫の扉を開き、杏を入れてある容器を取り出した。液が零れないように静かにテーブルに置き、蓋を取る。すると熱を持っていた時とはまた違う、落ち着きのある甘酸っぱい香りが広がった。試しに箸で一つ取り出し、食べてみる。

「うん、まあ、大丈夫だろ」

 元々甘いものが嫌いなので良さと言うものが分からないが、味としては上々だ。

「どう? 上手くできた?」

「うわ!」

 突然背後から聞こえた声に、シズマは咄嗟に振り返る。すると後ろに立っているアスカは一瞬目を丸くして、すぐに声を出して笑った。

「ははは! そんなに驚かなくても良いのに!」

「びっくりした……」

「食べても良い?」

 アスカはテーブルの上で琥珀色の液体に沈んでいる杏を指さす。

「ああ、もちろん。どうぞ」

 そう言ってシズマは皿を取り出し、杏をいくつか乗せた。その皿を差し出すなり、アスカは両手で持って素早く自分の方へ引き寄せる。

「美味しそう! いただきます!」

 アスカは箸で杏を取ると、一口で頬張った。

 声も出さずにひたすら杏を頬張るアスカ。その様子をシズマは固唾を呑んで見ていた。アスカは相変わらず一言も発することなく目を閉じて味わっている。その口角は徐々に上がり、閉じられていた瞼がゆっくり開いた。現れた瞳は星空のように輝いている。

「美味しい!」

 アスカの手がシズマの両肩を掴むので、まだ少し濡れている長い髪が揺れた。

「そ、そう? それは良かった」

 想像もしていなかった程の反応に、シズマは完全に呆気に取られている。

「本当に美味しい! シズマくん、あなたって凄い人ね!」

「いや、そんなに……?」

「もっと食べても良い?」

「どうぞ。そもそも君のものだろ」

「それもそうね」

 するとアスカは次から次に皿にとっては杏を口に運んでいく。そして何個食べても毎回心底美味しそうに笑顔をこぼした。

 細身のアスカがタケルにも劣らない勢いで杏を平らげて行く姿を見て、さすがのシズマも最初は開いた口が塞がらなかった。だが、あまりにも美味しそうに食べるその笑顔に、徐々にシズマにも笑みが移る。

「良かったよ、美味しくできて」

「うん、最高よ!」

 気付けば容器の中は琥珀色のシロップを残して何も無くなっていた。

「凄いな! もう全部食べたの?」

「あんまり美味しいから一気に食べちゃった。このために夕飯抜いてたんだから」

「そうだったのか、気合入ってるな」

「でも、夕飯食べてても同じだったと思うわよ。本当に美味しかった」

 アスカは満面の笑みで箸を置く。

「ありがとう」

「こちらこそ。こんなに喜んで食べてもらったのは、たぶん初めてだよ」

 シズマがシロップを別の容器へ移していると、居住区内に消灯時間を告げるアナウンスが流れた。白色の照明が落ち、代わりに暖色の照明が灯る。

「ねえ」

 アスカは椅子に座ったまま、奥の流しで食器を洗っているシズマの背中に声を掛けた。薄闇に暖かい光が射し、髪を垂らしたままのシズマの背中が浮かび上がる。シズマは振り返らずに声を返した。

「うん?」

「シズマくんは、カイくん達みたいに依頼されて旅してる訳じゃないんでしょ?」

「そう。俺は温泉のために二人に付いて行ってるだけだよ」

「温泉が好きなの?」

「そう。凄くね」

 アスカは立ち上がり、食器を洗い終えたシズマの方へ歩み寄る。

「北海道へ行くの?」

「そうだな、北海道にも入りたい温泉がたくさんあるし、行きたいと思ってる」

「死ぬかも……しれないのよ?」

「まあ、そうだよね」

 薄闇の中でも分かるほど、アスカは難しい顔をしていた。いったい何に悩んでいるのか、シズマには見当もつかない。

「どうかした?」

「ねえ、私も海峡を渡る手前まで一緒に行っても良い?」

「え?」

「自衛隊に頼むなら私には伝手もあるし、役に立てると思うわ」

 今度はシズマが悩む番だった。

「俺は構わないけど、カイに訊かないと」

「分かった。明日は早く出る?」

「ああ、その予定」

 アスカは深く頷き、背中越しに手を振って速足に去って行った。その背中をぼんやり眺めながら、シズマはどことなく弾む気持ちで呟く。

「来るのかな」


 次の日、太陽が東の空を明るくして間もない時間に三人は居住区を出た。鉄筋コンクリート製のみすぼらしい小屋から出て車へ向かうと、朝日の中に人の姿が見える。

「俺たち以外にも早起きが居たみてえだ」

 タケルがそう言うと、その人物はこちらに向かって来た。シズマは期待を確信へ変えるために、その人物に目を凝らす。

「アスカ……」

 シズマの声に、カイはこちらへやって来るアスカに向かい合った。

「見送りか?」

「いいえ。提案と言うか、お願いに来たの」

「お願い?」

 アスカは警戒の眼差しを向けて来るカイに微笑む。

「私も海峡の手前まで付いて行って良い? 自衛隊の伝手を紹介してあげる」

 そう言うアスカに、カイは暫く何も返さずに考えていた。そして漸く口を開く。

「それはあんたの厚意って事で良いのか? 俺達は頼んでいない事だからな」

「ええ、勿論よ」

「……報酬を要求しない?」

 そんなランド・ウォーカーはまず居ない。面倒事から逃れたいなど、よほどの理由が無い限りは。

 疑り深くなかなか納得しないカイに、アスカは苦笑して肩をすくめる。

「そうね、何か要求した方が良いならするわ。またシズマくんに美味しいものを作って欲しい。これでどう?」

「あ、やっぱあの杏、美味かったんだ!」

 アスカが物凄い勢いで食べたせいで杏を食べ損ねたタケルが声を張った。

「ごめんね、全部食べちゃった。凄く美味しかったの。だからシズマくんの料理がまた食べたいのよ。どう? 付いて行って良い?」

 カイはアスカをじっと見据えた後、シズマを振り返る。シズマはカイの視線にも気付かず、ただアスカの方を向いたまま頬を緩ませていた。

「……分かった。好きにしてくれ。車は自前で来てくれよ」

「ありがとう!」

 そうして弘前の居住区を出た四人は、一路大湊へ向かって走り出す。


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