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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
6/18

北の風

会津の居住区を出た三人は、北海道の情報を得るため東山温泉に住み着いていると言うランド・ウォーカーを訪ねる。そこで得た情報は、必ずしもカイにとって好ましいものではなかった。

6 北の風


 会津の街を出ると、霧は殆ど姿を消して視界が晴れ晴れとしてきた。ダッシュボードの上では車が揺れる度に赤べこが首を振っている。小高にもらった地図と自分達が持っている地図を合わせると、かつて宿が軒を連ねていた川沿いの道は崩落の危険がある場所だと分かった。

 カイは崩落危険区域の手前で車を停める。

「ここから先は歩きだな」

「たまには体も動かさねえとな!」

「温泉のためなら何てことない」

 タケル、シズマ共に異論なく車から降りて歩き出した。

 車二台が優に通れる程の幅がある道は片方を川、もう片方を山に挟まれている。山間部の川なので、道と川との高低差がかなりあった。しかも反対側から迫る緑はアスファルトを侵食し、長年風雨に晒されたせいで土が道まで流れて来ている。その土から新たな緑が茂り、道幅は本来の幅より狭くなっているようだった。

「それにしても、わざわざ北海道から来てここに住み着くなんて、変な話だよな」

 蜘蛛の巣を払いながら先頭を行くタケルが鉄パイプを振り回しながら言う。それに頷いてシズマが言った。

「北海道にも良い温泉がたくさんあるはずだよな。温泉が目当てでここまで来たって訳じゃなさそうだ」

「温泉のためだけに北海道から海を渡ってここまで南下してくる奴なんざお前くらいだろ、シズマ」

「はは、そうかも。カイはどうしてそのランド・ウォーカーが東山温泉に来たと思う?」

 カイは背後から投げられた疑問に、少し考えを巡らせた。この話を小高から聞いた時から不思議には思っていた。自分達は政府と言う後ろ盾を持って長旅をしているが、いくらランド・ウォーカーであっても個人の旅は楽な道のりではないだろう。それでも海を越えてここまで来たと言うのは何故なのか。

「さあ、何でだろうな。よほど北海道が嫌になったんじゃねえのか」

「北海道が嫌か……。贅沢な悩みだな」

「タケル、お前、北海道に行った事あんのかよ」

 いかにも知っているような口ぶりのタケルに、カイはぼそりと言った。

「俺は行った事ねえけど、同じ部隊に居た奴が北海道から来てたんだ。北海道は治安が悪いが、山あり海ありで食い物は美味いし、霧が無ければ見晴らしがよくて良い場所だって言ってたぞ」

「治安が悪いって言うのはどの程度だ」

「知らねえよ、そんなに詳しく聞いてねえし。まあ、分からなくもねえよな。だってさ、目と鼻の先があのロシアなんだぜ?」

「ロシア……霧が最初に出た場所か。この霧はロシアの化学兵器実験が失敗して発生したとか、未だに言われてるよな」

 シズマが言うように、人を殺す霧はロシアで最初に発生した。そのため当初はロシアの霧と呼ばれていたが、ロシア側の抗議があって徐々にその名は廃れていったのだ。だが、霧が最初に現れた場所である事実は変わらず、ロシア自体にこの霧を発生させた原因があるのではと言う見方は根強く残っている。

「もしそうだとしたら、ロシアって馬鹿だよな。だって百年近く経つのにまだ解毒剤が作れねえって事だろ? 漏れ出てなかったとしてもどの道失敗作には違いないわ」

 タケルは楽しそうに言って順調に歩みを進めた。すると荒れ果てた緑の中に、明らかに異質な人工物が見えてくる。それは木造の質素な小屋だった。

「お! あれじゃねえか?」

 タケルはそう言うが、前を歩く背中が大きいのでカイはその陰から先を覗く。そこには確かに小屋があった。周囲の木々に飲み込まれそうだが、小屋の周囲だけはある程度整備しているようだ。そしてその奥に同じく木造の大きな屋根があり、屋根の下には岩で囲まれた湯船が見える。湯船からは白い湯気が立ち昇っていた。

「温泉だ!」

「そっちじゃねえだろ。まずは小屋に行って北海道の情報を聞く」

「温泉に入りながら聞けば?」

「別に付いて来なくて良い。勝手に入ってろよ」

「うん、そうする!」

「…………」

 真っ先に温泉へ向かうシズマ。カイはタケルを伴って迷わず小屋の扉を叩いた。

「誰か居るか?」

 小屋の扉は分厚い木材で作られた開き戸だ。ノブはあるが、鍵穴は無い。改めて見れば、この小屋の窓にはどれもガラスが入っていない。木枠で仕切られた四角い穴があるだけで、外側の壁に窓を閉じるための木戸が付いている。

 中からの返答が無いので、カイは仕方なく扉を開ける事にした。

「……入るぞ」

 扉は蝶番の軋む音と共にゆっくり開く。小屋の中は薄暗く、人が居るのかは確認できない。だが、部屋の中央にある囲炉裏の灰に、小さな火種が見えた。

「タケル、近くに居る……」

 そこまで言った時、突然後ろからタケルが背中を押してきた。カイはその勢いで突き当りの壁際まで押しやられる。壁に背を当てて後ろを振り返ると、二人が小屋に入った後、開いた扉の影から音もなく人が飛び出して来た。薄暗い中でもその人物が握る大きなナイフの刃が僅かな光を反射するのが見える。

 ナイフは真っ直ぐタケルへ向かうが、鉄パイプが鋭く振り下ろされると、ナイフを持った人物は素早く数歩引いて距離を取った。カイは薄暗い小屋の中でその人物をよくよく見る。それは間違いなく男だ。タケルほどではないが、かなり体格の良い大柄な男だ。

 男はその体躯からは思いも寄らない素早さでタケルの懐へ飛び込む。だがタケルも鉄パイプを両手で持ってナイフの刃を受け、弾き返したところに追撃を加える。鉄パイプは空を切り、男の胸を真っ直ぐに突こうと迫った。男はナイフを鉄パイプの下へ滑らせ、体勢を低くしつつ上方へ薙ぎ払う。そしてそのままタケルの胴へ斬りかかった。

 タケルは自分の懐へ迫る男の動きを逆手に、男の腹へ強烈な蹴りを繰り出す。体勢を崩した男の首筋に、鉄パイプが振り下ろされた。

 鈍い音と共に、男は板張りの床に突っ伏す。その頭部に更に追い打ちを加えようと振り上げられた鉄パイプを、カイが止めた。

「タケル、そこまでだ。こいつに死なれちゃ困る」

「え? あ、そっか」

 鉄パイプは失速し、タケルは足先で男の手からナイフを蹴り飛ばす。男は気を失っているようで、床に転がったきり微動だにしない。

「死んでねえだろうな……」

 カイが男の脈を確かめようと首に手を伸ばした時、その手首を男の手が力強く掴んだ。

「てめえ!」

 タケルが引き剥そうと詰め寄るが、男は顔を少しだけカイの方へ向けて力なく言う。

「……負けた」

 そして手を離し、ゆっくり起き上がった。

「生きてたようだな」

「……お前が止めたからだ」

 男は起き上がったものの、壁に背をもたれて座り込んだままだ。見たところ三十代くらいだろう。

「あんたに訊きたい事がある」

「……分かった。落ち着いて話そう」


 三人は一先ず囲炉裏を囲んで床に座った。板張りの床に座布団も無いので座り心地は悪いが、見回してもこの小屋には座布団どころかその他の調度品も何も無い。鍋とおたまと箸しかない。

「見ての通り、何も無いから何も出す事はできない」

「別に何も要らねえよ」

「後で温泉に入らせてくれ。つうか、俺達の連れが既に入ってるんだけど、勝手に入って良いのか?」

 タケルの尤もな問いに男は無表情のまま頷いた。

「温泉は地球から湧くものだ。俺の所有物じゃない。好きに入れば良い」

「でも、使えなくなってたのを整備したのはお前なんだろ?」

「俺だけじゃない。ここを使いに来る風力発電の作業員達も各々勝手に手を加えて行ってるんだ。それで今の姿になった」

 その話を聞きながらカイは改めて薄暗い小屋の中を見回す。きっとこの男だけで整備したところで、地面に穴が空いてそこに湯が溜まっているだけの空間が出来上がるだけだろうと思った。

「まだ名前を言っていなかったな。俺はマサユキ。俺に訊きたい事と言ったら、恐らく北海道の事だろう」

 マサユキは傷だらけの顔をカイへ向ける。カイはその死んだ目を見て一瞬息を呑んだが、何とか問いを捻り出した。

「俺はカイ。こいつはタケル。もう一人、外で勝手に温泉に入ってるのがシズマ。俺達は政府からの要請でアメリカへ向かってるんだ。途中、北海道にも立ち寄るが、いったいどんな状況なのか知りたい」

「アメリカ……」

 マサユキは驚くでもなく、ただ遠くを眺めている。そして重たい唇を開き、淡々と続けた。

「北海道は、一言でいえば戦場だ。特に千島列島の方は酷い。政府から見捨てられ、生活に困窮したロシア人達が南下して来ているんだ。だが、日本にそのロシア人達を受け入れる余裕などない。だから力で追い返している。奴等も命懸けだから、武力で対抗してくるんだ。俺はその前線に居た」

「あんた、誰かに命を狙われてるのか?」

 自分達がこの小屋へ入った時、マサユキは最初から殺す気で襲い掛かっている。来訪者を恐れているのだろうとカイは思った。

「俺は脱走兵なんだ。今、東北の各地から自衛隊や訓練を受けたランド・ウォーカー達が北海道へ招集されている。俺は青森から行ったが、これ以上無益な戦いに参加する事に嫌気が差して逃げて来た」

「脱走兵をわざわざ殺すために追っかけるか?」

 疑わし気なタケルに、マサユキは鋭い目を向ける。

「前線に招集されたランド・ウォーカー達を指揮しているレイと言う男、そいつの方針だ。ロクに報酬など払えない政府に代わり、レイは何よりも自分の命が大切な俺達の性格を利用して上手く使っているんだよ。実際、奴の周囲には精鋭が揃っていて懲罰を確実に実行する」

「なるほど、懲罰の徹底は軍の基本だもんな」

「タケル、お前はそのレイって奴の事、何も聞いてねえのかよ」

「初耳だな」

「ただでさえ情報伝達に時間が掛かるご時世なんだ。前線で働くランド・ウォーカーの情報をいちいち他の部隊まで流さない」

 カイの疑念を払拭するようにマサユキは言った。そして囲炉裏を挟んで向かいに座るカイの目を真っ直ぐ見る。その目には鬼気迫るものがあった。

「だが、一度でも北海道で対ロシア戦の仕事に就いた事のあるランド・ウォーカーなら、レイを知らない奴は居ないだろう」

「そのレイって奴は、俺達に力を貸すと思うか」

 カイの問いに、マサユキは暫く視線を泳がせ黙っている。

「……そうでもないって事か?」

「……いや、レイは計算高い奴だから、お前達に手を貸す代わりに政府に色々と要求を突きつけるだろうな。まあ、会えば分かる」

 その時、突然小屋の扉が開いた。その瞬間、マサユキは目にも留まらぬ速さでナイフを扉の方へ投げる。

「うわ!」

 ナイフは小屋へ入って来たシズマの目前で高い音を立てて壁に刺さった。固い板に鋭い刃が食い込んでいる。シズマは薄暗い小屋の中でも分かるほど顔を真っ青にして目の前のナイフに視線を奪われていた。

「な、なんだ……!?」

「お前こそ何だ」

 するとタケルが豪快に笑って言う。

「ははは! そいつは俺達の連れだよ。さっき言った、勝手に温泉に入ってた奴」

「……なるほど」

 マサユキは座ったまま改めてシズマを見た。よく見ると髪がまだ濡れていて、頬もやや紅潮している。

「いや、俺死ぬとこだったんだけど」

「こいつ北海道からの脱走兵で、追手が来ると思って警戒してるらしい」

「そ、そうなんだ」

 シズマは一先ずタケルとカイの間に腰を下ろした。囲炉裏の向こうに座っている体格の良い男は、傷だらけの顔に鋭い目を光らせている。見ているだけで背筋に緊張が走る目だ。シズマは重々しい空気の中で、何とか声を絞った

「脱走兵って事は、北海道では戦争してるの?」

 マサユキは何も言わずに深く頷く。

「追手って言うけど、外の温泉、今は人でいっぱいだぞ。あんなに人が集まって来て、その中にその追手が居たらどうするんだよ」

 シズマは外の温泉の方を指さした。確かに、外からは話し声や水音が聞こえて来る。人数にしてみればかなり大勢だろう。

「いつもこの時間は風力発電で働いている奴らで混むんだ。その間、俺はこうして小屋に居ると言う訳だ」

「それでそんなに殺気立ってんのか」

 そう言うタケルに、マサユキは窓の木戸を閉めて囲炉裏の火を強くしながら言った。

「お前達も温泉に入りたいなら好きに入れば良い。北海道に関して俺が話せる事は全て話した。勝手に出て行け」

 まだ昼間だと言うのにこの小屋の中は夜のように暗い。頼りになるのは囲炉裏に灯る暖色の炎だけだ。その息も詰まりそうな空気の中、タケルが一言呟いた。

「腹減った」

「…………」

 マサユキの鋭い視線をものともせず、タケルは隣に座るシズマに詰め寄る。

「なあ、囲炉裏と鍋がある。何か作ってくれよ。温泉は空いてる時に入りたいから、飯食ってからにするわ」

「別に良いけど、食材が無いね。川で何か獲って来る?」

 タケルは狭い小屋の中を見回した。来た時から思ってはいたが、本当に鍋とおたまと箸以外に何もない。マサユキはここで三年もの間、どのように生活してきたのだろう。

「あんたさ、こんなに何もない場所で何食って生きてんの?」

 タケルの単刀直入な質問に、マサユキは囲炉裏の火を見ながらぼそりと返す。

「猪や鹿を獲ってその肉を食っている」

「どうやって食うの?」

「そのまま焼いたり、塩漬けに……」

「それだよ、その塩漬けにしたのまだあんのか?」

 黙っているマサユキに、タケルは鉄パイプに手を伸ばしながら堂々と言った。

「お前さ、さっき殺さないでやっただろ。カイが止めたからってだけじゃねえぞ。俺が止めなきゃお前死んでたんだからな。もう一回やるか?」

「……この近くに小さな風穴があって、そこに保存してある」

「よし、それ少しもらうから」

 そのやり取りに苦笑し、シズマはタケルとマサユキから心なしか距離を取る。

「はは、タケルって意外とゲスなところあるね。じゃあ、俺は車に米と飯盒取りに行って、ついでに食べられるもの他にも探すわ」

「カイはどうする?」

 マサユキから風穴の場所を聞いて立ち上がったタケルが、炉端に座ったままのカイを振り返った。カイは囲炉裏で跳ねる火を見ていたが、その目を向かいのマサユキに向ける。

「俺はまだ訊きたい事があるから、ここに居る」


 二人が出て行った後、ただでさえ暗く重苦しい小屋の中は更に地に沈んだような空気に変わった。だがカイはそんな事など全く気にしていなかった。気になるのは北の事だけだ。

「訊きたい事は何だ」

 マサユキの重い声が囲炉裏の火すら消し去りそうだ。その顔に刻まれた多くの傷を見ても、北の戦線と言うものがいかに熾烈か想像に難くない。

「ロシアは今どんなふうになってるんだ」

「……さあ、俺も一部分しか知らない」

「それで良いから教えてくれ」

「密入国で捕縛されたロシア人の話では、モスクワ以外は街としての体を為していないらしい。地方には日本のような公営の居住区も無く、人々は小規模な集団をいくつも作って散り散りに生活しているそうだ」

「……ふうん。北の大国が今やただの無法地帯か」

「元々霧が湧き始めた当初、ロシアは近隣の国と戦争状態で既に経済的にじり貧だったそうじゃないか。国民を保護する余裕すらなかったんだろう」

「国民を保護しきれなかったのは日本も同じだが、程度が違うようだな」

 するとマサユキはポケットから紙きれを一枚取り出した。

「見てみろ」

 差し出された紙を受け取り、カイは囲炉裏の火を頼りによくよく覗き込む。それは写真だった。どこかの街を写したもののようだが、景色の殆どが霧で覆われているせいで何を写したものなのか分からない。

「何だこれ?」

「モスクワだそうだ」

「これが……モスクワ? 殆ど何も見えないじゃねえかよ」

 その景観は東京とは大違いだった。東京も最近は霧の発生する頻度が増えてはいるが、それでもここまで視界が悪くなる事はない。

「ああ。俺もその写真を見た時は驚いた。首都がこれじゃあ、南下して来る訳だと納得したよ」

 カイは写真をマサユキに返して小さく息を吐いた。

「東京も少しずつ霧が増えてる。これは将来の東京かもしれないな」

「いずれロシアを通るならかなり注意した方が良い。治安が悪いと言うレベルじゃないからな」

「……そうだな」

 そこに肉を持ったタケルが戻って来た。右手に鉄パイプ、左手に塩漬け肉を一ブロックと言う出で立ちだ。

「あれ、シズマは?」

「まだだ。外に居ねえのか」

「居なかった。何か探してんのかな」

「それなら、今の内に塩抜きした方が良いぞ」

 マサユキはタケルが持っている肉を指さした。

「塩抜き?」

「ああ。そのままだと塩がきついから、水に浸けて塩を抜くんだ。水ならそこの甕に入ってる」

 タケルはマサユキが示す方に目を凝らす。言われなければ気付かなかったが、小屋の隅に垂れこめる薄闇の中に甕が一つ立っていた。蓋を取ると、中には半分ほど水が入っている。

「これ、大丈夫な水なのか?」

「昨日沸騰させて入れたものだから、大丈夫だ」

 マサユキは徐に立ち上がり、囲炉裏の傍に置いたままになっていた鍋とおたまを持って来た。鍋に水を入れ、そこに肉を浸ける。

「料理するまでこうして置いておくんだ」

「ふうん。それにしても、お前よくこんなに塩が手に入るな」

「海の方に住んでいるランド・ウォーカーから、肉と交換でもらう」

「へえ、意外と繋がりがあるんだ」

 そう言いながらタケルは窓の木戸を僅かに開き、外の様子を窺った。

「さっき俺が戻って来た時もそうだったけど、外はもう誰も居なかった。そろそろ窓開けても良いんじゃねえの?」

 マサユキはもう一つある窓の近くで聞き耳を立て、音がしないのを確かめると同じように外を覗く。

「……そうだな」

 木戸を開け放ち、小屋の中に再び日の光が戻って来た。それでも相変わらず薄暗いが、木戸が閉まっていた時よりましだ。

 それから暫くして、外界と隔てていた木戸が無くなり外から微かな物音が聞こえて来た。マサユキが再びナイフを手にした時、扉が開いてシズマが恐る恐る顔を出す。

「やっぱり、また殺そうとしてる……」

「シズマ! 肉もらったぞ」

 まるで別世界に居るかのように明るい笑顔で鍋ごと肉を差し出すタケル。シズマはそれを受け取り、さっさと小屋の外へ出て行った。


 カイはすっかり人が居なくなった温泉に足だけ浸けて、小屋の外で食材を刻むシズマを遠目に眺めていた。この温泉は小さいながら近くで見るとよく整備されているのだと分かる。背あぶり山の風力発電で働くランド・ウォーカーの中に、こうした造形にこだわりを持つ者が居るのだろうと思った。浴槽は平らに割った岩を敷き、隙間にはコンクリートか何かがしっかり詰められていて水漏れしないようになっている。湧き出た温泉は浴槽より高い場所にある注ぎ口から入り、湯船に溜まって一定量を超すと排水するように排水路が川の方へ伸びていた。

 不思議な事だが、ランド・ウォーカーの中にはシズマやタケルのように実利よりも満足感を求める者が多く居る。その点、地底人の方が現金な性格が多いように思えた。この温泉を整備したランド・ウォーカー達も、きっとそうした満足感を得るためにこれだけの労働をやってのけたのだろう。本業よりも精を出したに違いない。

 そんな事をぼんやりと考えていると、飯盒を持ったシズマがやって来た。

「気持ち良いよな、温泉」

 そう言って飯盒を温泉の注ぎ口へ持って行く。

「どうすんだよ、それ」

「温泉で米を炊く」

「温泉で?」

「ああ」

 シズマが少し傾けて見せた飯盒には小さく刻んだ塩漬け肉と、山で採ったハルシメジ、そしてその下に白米が見えた。

「炊けたらあく抜きしたヨモギを刻んで混ぜる」

「……ヨモギ?」

 初めて聞く名前にカイは首を傾げる。その反応にシズマは一瞬目を丸くしたが、小さく微笑んで言った。

「できれば分かるさ。もう少し待ってて」


「お前は東京の居住区で育ったのか?」

 窓は開放されたものの、まだ薄暗い小屋の中でマサユキとタケルは囲炉裏を挟んで向かい合っていた。マサユキはタケルに蹴りを入れられた腹を、まだ時折擦っている。タケルはそんな事など少しも気に留める事なく、胡坐をかいてくつろいでいた。

「ああ。東京で生まれて東京で育った」

「そうか。政府のお膝元だな」

「まあな。こう見えて都会っ子だ」

 マサユキは能天気そうに笑うタケルをじっと見る。先ほどの身のこなしから考えれば、このおめでたい少年も自分と同じように戦闘訓練を受けて育ったはずだ。元々ランド・ウォーカーにはこうした性格の者が少ないせいか、過酷な環境で育ったせいか、今までタケルのようなランド・ウォーカーに会った事がなかった。

「政府の直轄地で育ったわりに北海道やロシアの事を何も知らないんだな」

 タケルは何も言わずに笑って頷く。囲炉裏では日光と言う明かりを得た小屋に不要になった火が、徐々に力を失っていた。静かな薄闇の中、マサユキは目の前のタケルをじっと見据える。

「……お前、本当は……」

 タケルは不意に身を乗り出した。弱弱しい暖色がタケルの顔に映り込む。

「マサユキ、お前はさっきの俺の一撃で最初程の動きはできないだろ? 俺はお前を一捻りにできるぞ」

 マサユキは目を細めて口をつぐんだ。

 真空のような無音が訪れた後、小屋の扉が開いてシズマがやって来た。手には浜焼きの時に使った金網を持ち、大きな石をいくつか腕に抱えている。

「ちょっと囲炉裏を借りるぞ」

「何すんの?」

 囲炉裏から身を引くタケルに、シズマは灰の上に石を置きながら言った。

「金網を置いて焼き肉をする」

「浜焼きみたいに焼くのか?」

「そう言う事。こっちの準備ができる頃には飯もできるだろう」

 網を置き終えるとシズマは忙しそうに小屋を出て行く。それと入れ違いにカイが戻って来て炉端に腰を下ろした。

「足だけ入ったのかよ」

 楽しそうに言うタケルに、カイは眉を寄せる。

「飯食ったら普通に入る。お前は足すら入ってねえだろ」

「俺も飯食ったら入るもん」

「泳ぐなよ」

「カイは泳げるのが羨ましいんだよな」

「泳げても何も得はねえ」

 タケルを睨むカイだが、マサユキに殺されかけた時に自分を助けに入った事が思い浮かぶ。馬鹿なように見えて用心棒としての役割は自覚しているようだ。全く使えないデカブツでもなさそうだ、そう思った。


 それから少しして、飯盒とまな板を持ったシズマが戻って来た。まな板には薄く切った塩漬け肉が綺麗に並んでいる。そして飯盒からは白い湯気と食欲をそそる香りが立ち昇っていた。

「さあ、飯ができたぞ! 肉を焼こう!」

「待ってました!」

 シズマがまな板を炉端に置くなり、タケルがすかさず箸を伸ばす。そして肉を一枚取り、熱くなっている網の上に置いた。その瞬間に軽快な音が弾ける。

「もちろん、マサユキの分もあるよ。肉をくれたからね」

 そう言ってシズマは炊き込みご飯をよそったカップをマサユキに差し出した。マサユキはそれを受け取り、自分が仕込んだ塩漬け肉の新たな姿に目を輝かせる。

「肉をこんな風に調理できるのか」

「ああ、やりようによって色んな食べ方ができる」

 艶やかな米は塩漬け肉の程よい脂を吸って艶やかに照り輝いている。そこにハルシメジの味とヨモギのふくよかな香りが驚くほど上手く調和していた。予め塩抜きしたが、焼いた肉と一緒に食べると塩気も丁度良かった。

「うん、美味い!」

 いつもの通りタケルは物凄い勢いで口に運んで行く。その様子を満足そうに眺めていたシズマだったが、黙々と食べているカイに向き直った。

「カイは?」

 箸を止め、カイは混ぜご飯が入ったカップに視線を落としたままぼそりと言う。

「美味い。ヨモギってこの草なのか?」

「そう。良い匂いだろ?」

「……ああ」

 網で焼いた肉も、塩漬けにしてあったので普通に焼いた肉よりも味が濃厚だ。元々猪肉は筋肉が多い上に網で余分な脂が落ちるので、米に肉が混ざっていてもしつこさを感じない。

 肉が焼ける高い音の中に、シズマの声がそっと落ちた。

「戦争なんかしてないで、美味いものを食べて温泉にでも入れれば、それで良いと思うけどな」

 マサユキは一瞬箸を止めて宙を見つめる。そして小さく息を吐いて口角を上げた。

「……そうだな」

 自分がこの場所で足を止めたのも、立ち入り禁止区域で人が寄り付かないと言うだけでなく、温泉があるからだった事を思い出す。傷を癒したかったのだ。全ての傷を。今は図らずも人が寄り付くようになってしまったが、それでもこの場所を離れる気になれない。それだけの力がこの場所にはあるのだ。


 食事を終え、三人は小屋を出て温泉に入った。昼過ぎの日差しを受けて緑が鮮やかに輝き、鳥のさえずりが深い山に響く。注ぎ口から流れ出る湯は高い音を立てて滔々と広がる。カイはその音を聞きながら岩の壁に背をもたれて目を閉じていた。

 シズマの言うようにこの穏やかな時間だけで人生を終えられたら、特段面白い事も無いような一生でもそれはそれで良しとできる気がする。だが、今の自分にはタケルと言う監視役が居て、任務を放棄しようとすれば恐ろしく痛い目に遭わされるだろう。北海道やロシアが戦争状態だと聞いた以上、この先の道のりが思いやられるが、ここで自由気ままに生きると言う選択肢は無いのだ。

 その時、顔に湯がかかった。目を開けて前を見ると、タケルがこちらを見て笑っている。

「なに物思いに耽っちゃってんの?」

「タケル、お前本当にうるせえな。少しは黙ってらんねえのか」

「だってつまんねえじゃん」

「お前さ、十八才って嘘だろ。八才の間違いじゃねえのかよ」

「そんな事言って良いのか? 俺はお前の命の恩人なんだぞ?」

 そう言って胸を張るタケルに、カイは湯をかけ返す。

「それがお前の仕事だろ。恩着せがましくすんな!」

「やったなこの野郎!」

 二人の応酬を眺めながら、シズマは肩まで湯に浸かって笑っていた。

 外から聞こえる賑やかな声。マサユキは小屋の中で壁に背を預けたまま暗い天井を見上げていた。いつも風力発電の作業員達が温泉に入っている時は、この中に自分を殺しに来た刺客が混ざっているのではないかと神経を尖らせている。だが今は、ただ静かにその声を聞いていた。

 人を殺す事には特に何も感じない。これはランド・ウォーカーである事の強みだ。戦場では良心の呵責を持つ者から狂っていくのだから。だが一方で、ランド・ウォーカーであるが故に自身への還元が何もない戦いに嫌気が差した。軍紀に反すれば命は無いと言う脅迫の中で自分の命を懸けるなど、全くもって逆説的だ。何も得るものが無い飢えたロシア人を殺すなどと言う行為に自分の命を懸けられるはずがない。

 マサユキはレイの緑の瞳を思い返した。あのカイと言う少年を見ていると、冷たい緑の瞳を思い出す。


 温泉を出た三人は、小屋に立ち寄る事なく真っ直ぐ車へ向かって歩き出した。その頃には傾き始めた日差しが眼下の川に長い影を作っていた。

「それにしても、シズマは平和思考だな。親は二人とも地底人か?」

 シズマは髪を乾かしながら前を行くタケルを見た。

「親は確かに二人とも地底人だ。でもまあ、その影響はほぼ受けてないと思うけど」

「……俺も両親とも地底人だぞ」

 タケルは後ろの二人を振り返ってカイをまじまじと眺める。

「え、そうなの?」

 するとシズマが小さく吹き出した。

「やっぱ親は関係ないんだよ」

「……何とでも言え」

 そっぽを向くカイの肩を軽く叩き、シズマは楽しそうに言う。

「まあまあ。でもさ、戦争って本当に何の得も無いと思わないか? 俺達が殺し合っても得するのはお偉方だけだろ? 人間はせっかくデカい頭が乗っかってるんだから、頭使って解決して、あとは好きな事をして生きれば良い。俺はそう思う」

 そう言うシズマを横目に、カイは小さく息を吐いた。

「お前、レイって奴の前では絶対にそれ言うなよ」

「分かってますよ」

 緑が覆い被さる川沿いの道を三人は停めたままの車に向かう。その横を、向かいから来た人物が通り過ぎて行った。

 カイはふと足を止めて、温泉の方へ向かうその後ろ姿を見る。すれ違ったのは女だった。

「女だ……」

「何だよカイ、一目惚れか?」

 そう言うタケルの脇腹を小突き、カイは再び女の背中を見やる。

「女のランド・ウォーカーは珍しい」

「まあな。でも全く居ない訳じゃないぞ」

 シズマも徐々に小さくなっていく細身の背中を見た。女も風力発電で働いているのだろう。

「温泉に入りに来たんじゃねえのか?」

 カイは女の背中を見たままタケルに首を振る。

「あの温泉は屋根しかねえんだ。女が入るとは思えない」

 その途端、タケルが頭を抱えて言った。

「くそ! こんな事ならもう少し温泉に入ってれば良かった! そしたら混浴できたのに!」

「お前さ、人の話聞いてんの? お前みたいな野蛮人が居たらそれこそ入るわけねえだろ」

「俺あそこに忘れ物したかも……」

 そう言って温泉へ向かって一歩踏み出そうとするタケル。その大きな手が握っている鉄パイプを掴み、カイは車へ向かってさっさと歩き出した。

「行くぞ。タケルが犯罪行為に走る前にな」

「ああ、そうしよう」

「えー!」

 しぶしぶ歩き出したタケルだが、カイに引っ張られながら一度だけ女を振り返る。そして線の細い姿が殆ど見えなくなったのを確認すると、何も言わず大人しくカイに続いた。

 あの女は、ガンオイルの臭いがした。


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