霧隠れ
福島第一原発を出た三人は報酬として手に入れた魚介を浜焼きにするため、海岸へ向かった。そこで怪しげな老人に出会い、会津の居住区への伝言を頼まれる。
5 霧隠れ
福島第一原発を後にした三人は暫く車を走らせて浜辺のある海岸線まで来ていた。海の傍に車を停め、カイは潮風の中に降りた。昼の日差しが霧の無い海に煌めいている。この香りは朝も嗅いだが、この白く輝く日差しの中ではまた違う趣を感じる。
「浜焼きってのはどうすりゃ良いんだ?」
発泡スチロールの箱を抱えたタケルが殺風景な浜を前に立ち尽くしていた。そこに金網を持ったシズマがやって来る。
「こいつを使うのさ」
「そんなもんどこで手に入れたんだ?」
カイは記憶を辿るが、金網がこの車に乗っているのは見た事がなかった。
「居住区でもらったんだよ。俺が何も考えずに聞き込みしてたと思ってるのか?」
「……そんな下らねえ事考えてるとは思わなかったよ」
肩を落とすカイに笑顔を向け、シズマは手ごろな石を集め始める。タケルも箱を置いてそれを手伝いながら、突っ立ったままのカイに言った。
「なんだかんだ言っていつも美味いって言って食うんだから、素直じゃねえよな」
カイはそんなタケルを睨みながらもぼそりと呟く。
「焼きって言うからには火を使うんだろ。薪が必要なんじゃねえのか」
シズマは風で流れる前髪を耳にかけながら顔を上げた。見上げた先のカイは目を逸らして海の方を眺めている。
「そうだな。薪が必要だよ」
そう言うと、カイは何も言わずに二人に背を向けて歩き出した。その背中を見てタケルが手を止める。
「珍しいな、あいつが食い物のために動いたぞ」
「カイも気になるんだろ、海の幸ってやつが」
「ったく、面倒くせえ野郎だな。そうならそうと言えば良いのによ」
徐々に小さくなるカイの背中は、ただでさえ細身の彼をいつも以上に心細く見せた。
「それがカイなんだよ」
すると突然タケルが笑い出す。
「なあ、シズマ! あいつは薪を拾って来るなんて一言も言ってないんだ。もしかしたら小便しに行っただけかもしれねえぞ!」
「はは、いくらカイでも、あの流れでそれはないだろ」
タケルとシズマが即席の釜戸を作り、上に網を乗せて焼く準備をすっかり整えた頃、薪を抱えたカイが海岸に戻って来た。その姿を目に留めたタケルは眉を寄せて目を細める。その様子に、シズマはタケルの視線の先を見た。
「カイ……だよな」
シズマは何度も見直すが、やはりカイの後ろに誰かもう一人付いて来ている。
「後ろに誰か付いて来てる……シズマにも見える?」
「ああ、もちろん」
「良かった、幽霊ってやつじゃないんだな」
両腕に薪を抱えるカイは心なしか速足で歩いていた。二人との距離が縮まるにつれ、カイの後ろを歩いている人物がはっきり見えるようになる。カイよりも一回り小さいその人影は、老人だった。
「なにあれ、じいさん?」
タケルは噴き出して笑う。不機嫌そうに歩調を速めるカイの後ろを、小柄な老人が黙って付いて歩いているのだ。こんなにも可笑しい状況はない。
タケルが腹を抱えて笑っているので、カイは持っていた薪を一本掴んでタケルに向かって投げ飛ばした。薪は一直線にタケルの顔目がけて飛んで行くが、大きな手がいとも簡単に掴み取る。
「笑ってんじゃねえよ!」
「だって、すげえ面白いんだもん! なにそのじいさん!」
「知らねえよ! 何度追い払っても付いて来るんだよ!」
漸く二人と合流したカイは薪を乱暴に地面に落とし、老人から離れるようにしてタケルの後ろへ隠れた。地面に散らばった薪を拾い集めながら、シズマは小柄な老人に声を掛ける。
「あの、おじいさん? 大丈夫?」
老人はしわだらけの顔に何の表情も作り出さないまま返した。
「大丈夫だ」
「全くそんな風には見えねえけどな」
タケルの後ろからカイは老人を覗き見て言う。そんなカイを一瞥し、老人は背負っていた袋を降ろして口を開いて中身を見せた。シズマが恐る恐る中を覗き込むと、そこには見た事のない不思議な形の物体がいくつも入っている。
「何だ、これ」
そのグロテスクな外見に手を伸ばす気になれず、シズマは袋から一歩たじろいだ。そこにタケルが興味津々にやって来る。
「何だよ」
タケルは臆する事なく袋の中から謎の物体を一つ取り出した。タケルの手が大きいせいでその物体が小さく見えるが、普通程度の人間なら掌ほどの大きさの赤い塊だ。
「キモいな!」
イボのようにごつごつとした表面。何かの木の実なのかとも思ったが、表面は思いのほか柔らかく、湿っている。
「ホヤだ」
老人はタケルが握っている一個を見上げて言った。そして袋の中からいくつか取り出して見せる。
「好みはあるが、これもなかなか美味いぞ。これをやるから、お前さん方に頼みがある」
「……頼み?」
老人はカイに頷いた。濁った瞳にはわずかな光がある。
「お前さん方、旅をしてるんだろ? そのついでに会津へ行って俺が生きている事を伝えて欲しい」
「どうして俺達に頼むんだ? こうして外をほっつき歩いていられるって事はあんたもランド・ウォーカーなんだろ? だったら自分でやった方が早いはずだ」
「そっか、言われてみればこのじいさん、ランド・ウォーカーなんだよな」
ホヤを袋へ戻し、タケルはみじめな流木のような老人を改めて見た。今はこの海岸線に霧は湧いていないが、この周辺にシェルターはない。この老人がどこかの地下から出て来たのだとしても、この海岸へ来るまでにどこかしらで死んでいるはずだ。だがこうしてピンピンしている。
「話すと長くなる。まずは食うものを食ってからにしよう」
老人はタケルとシズマが用意した即席の釜戸を見て言った。この男は口を開いてから一貫して驚くほど平坦な口調だ。
「それに賛成」
笑顔で頷くシズマ。タケルも二つ返事で釜戸に薪をくべる。
「おい、この変なもん食っちまったらじいさんの頼みを聞く事になるんだぞ」
嬉々として火を囲む二人にはカイのそんな声など届いていないようだった。深々と溜息を吐いて老人を振り返ると、ちょうど老人もカイを見たところで、生気の無い目にぶつかってカイは反射的に目を逸らす。
「まあ、お前さんもこいつを食えば気が変わるさ」
老人の枝のような手には例の赤い物体があった。
「……それ、どうやって食うんだよ」
「まだ新鮮だから刺身でも良い。もちろん焼いて食っても美味いぞ」
すると三人は同時に老人を振り返った。そしてタケルが真っ先に共通の疑問を口にする。
「刺身って、なに?」
老人は包丁で手際よくホヤを捌きながらも一瞬手を止めて顔を上げた。
「何だって?」
「刺身って何なんだよ」
「刺身を知らないのか?」
老人は再び手を動かし始める。ホヤの両端を切り落とし、縦半分に開いた。
「刺身と言うのは魚や貝を生で食うものを言うんだ」
発泡スチロールの箱から魚を取り出し、シズマはそれを老人に見せる。
「魚って生で食べられるのか……。これも?」
「いつ釣った?」
「たぶん昨日の夜から今日の早朝の間。一応下処理はしてあるみたいだ。それで冷蔵保存されてる」
「じゃあ大丈夫だ。お前さん方は山育ちか?」
頷く三人に老人は再びホヤへ視線を落として続ける。
「山の魚は寄生虫が居るから養殖でもない限り生では食えない。だが海の魚は寄生虫が居たとしても肉眼で確認して除去できるから生で食えるんだ」
その手元ではホヤが殻から取り出されていた。包丁の背で内臓を取り除き、老人はホヤの身を持って立ち上がる。
「洗って来る」
独り言のように呟いて海の方へ歩いて行った。穏やかな波が押し寄せては引いて行く波際。そこに老人の背中がごみのように小さく点を作っている。その背中を見ながらタケルがしみじみと言った。
「俺さ、あんなに年取ったランド・ウォーカー見るの、初めてだわ」
「俺もだよ」
火の様子を見ながらシズマは網の上に貝や魚を置いて行く。生で食べられると聞いても、寄生虫を肉眼で確認すると言う過程に些か抵抗があった。
「ランド・ウォーカーってどちらかと言うと短絡的で無鉄砲な性格が多いらしいじゃん。だからあまり長生きしないみたいだけどさ」
「じゃあ、俺達の中ではカイが一番長生きしそうだな」
楽しそうに笑うタケル。カイは波際にしゃがみ込んでいる背中を見ながらぼやいた。
「別に長生きなんてしなくて良い。面白い事なんか何もねえんだから」
「出たよ、そう言うの」
カイはタケルの方を振り返って目を細める。
「お前は長生きしない方が人類のためだぞ、タケル」
「俺は元々人類のためなんか考えた事もねえよ」
「そうだろうとも」
そこにシズマが皿を突き出した。
「ほら、喧嘩してる間に焼けたぞ」
皿には開いて塩を振った焼き魚が乗っている。カイはそれを受け取ってよくよく眺める。見た目では淡水魚を焼いたのと違いはなかった。そこに箸をつける。すると川魚よりも多少皮が固いように思えた。身は柔らかいがよく締まっていて型崩れしない。一切れ口に運ぶと、川魚とはまた違う独特の香りがした。
「なあ、どうなんだよ」
カイは難しい顔のまま皿をタケルに渡す。タケルは待ってましたと言わんばかりに箸を構えて大きく切り取った身を頬張った。
「不思議な香りがする。これが海の香りってやつなのか……」
そう言うカイの隣でタケルは少し残った魚を皿ごとシズマに渡す。
「うん、確かに。なんかこう、脂っこいと言うか……匂いが強いな。でもこれはこれで美味いぞ!」
シズマは残った魚を静かに口へ運んだ。この魚が何と言う種類なのかも知らないが、香ばしい匂いに程よく脂の乗った身は柔らかい。これは間違いなく白米が欲しくなる味だ。
そこにホヤを洗い終えた老人が戻って来た。
「それはメバルだ。まだあるなら刺身にして食ってみると良い。煮つけも美味いが、型が良ければ刺身にできるぞ」
「おじいさん、普通に三枚おろしで良いの?」
包丁を握るシズマに、老人は黙って頷く。そして自分も包丁を手に下処理済みのメバルを取り出した。
「まず三枚におろしたら腹骨を取る。それから骨抜きで血合い骨を抜いていく」
老人は自分の荷物から毛抜きのような物を取り出し、薄桃色の艶やかな身から小さな骨を器用に抜き取っていく。
「血合い骨の部分を削ぎ落としても?」
「ああ、それでも良い」
シズマは細かい骨の並ぶ部分を薄く切り落とした。カイとタケルはただ黙って二人の様子を眺めているしかなかった。
「最後に尾っぽの方から皮を引き剝がす。そして切り分ければ刺身の完成だ」
続いて老人は例のホヤを薄く切り分けていく。そうかと思えばその内のいくつかは再び殻に戻してそれを網の上に置いて焼き始めた。
「ホヤも刺身で食えるが、焼いても美味い。あとは何を持ってるんだ」
シズマは老人に発泡スチロールの箱ごと渡す。
「同じ魚があと三匹。それから……何かの貝だ」
老人は黒い殻の長細い貝を取り出した。掌に二、三個は乗りそうな大きさの二枚貝だ。
「これはシュウリ貝だ。焼いて食っても良いが、もし鍋と酒があるなら酒蒸しでも良いだろう」
「酒蒸しか! 良いな、それ」
そう言ってシズマは一目散に車の方へ駆けて行った。
二人が次々に魚介を調理していく姿を眺めながら、カイはふと例のホヤと言う食べ物を見やる。焼いている物も刺身も、橙色の身が妙な好奇心をそそる。あの外観からは意外なほど中身は普通だった。中身にまであのイボがあったら絶対に食べないと決めていたので、どこか安心する部分もある。
鍋と酒を持ったシズマが戻って来て、老人は貝の足糸を引き抜くと次々にその中へ入れた。そこに酒を適当に入れ、網の上に置いて蓋をする。
「さあ、ホヤも焼けたし刺身もできた。食べるとしよう」
四人は釜戸の隣に大きな石を置き、その上に皿を並べて囲んで座った。
「これってこのまま食うの?」
好奇心のままにホヤの刺身を箸で摘まむタケル。さすがのタケルも踏み止まっているようだ。
「醤油でも良い。だが今日はこれがある」
老人は袋の中から小さな瓶を取り出した。蓋を開けると酢の香りが広がる。
「これを食うために作っておいた酢味噌だ。本当は一人で食うつもりだったが、この兄ちゃんが歩いてるのを見かけてな。話を聞いてもらおうと思ったが逃げられたんで付いて来たってわけだ」
「なんだ、カイが話を聞かねえからくっついてたのか」
ホヤに酢味噌をつけ、タケルは思い切って頬張った。見かけ以上に弾力のある身は噛み応えがあって味わい深い。そして何より表現し難いのがその味だった。
「どうだ、タケル?」
タケルはシズマの方を向くものの、難しい顔で首を傾げている。その様子にシズマは思い切ってホヤの刺身を口に運んだ。弾力は申し分なく、磯の香りが一気に広がる。
「シズマ……?」
箸を持ったまま固まっているカイ。シズマはホヤを呑み込んで言った。
「美味いよ。何と言うか……上手く言えない味だけど。塩味、苦み、甘みもある。今まで食べた何にも似てない味だ。食べてみれば分かる」
遂にカイは箸をホヤへ向けた。二人と同じように酢味噌を付けて一息に口へ放る。そしてよく噛みしめて味わう。その様子を向かいから眺めていた老人が淡々と話し出した。
「これで全員俺のホヤを食ったな。じゃあ取引だ」
三人は老人の現実的過ぎる発言に一瞬驚いたが、すぐに話の続きに耳を傾ける。
「ここから内陸へ入ると会津と言う場所がある。そこには市営の地下居住区があるんだ。俺は十年ほど前にそこから離脱した」
「元々居た場所なら自分で行けば良いじゃん」
焼いたホヤを黙々と食べていたタケルがそう言うと、老人は無表情のまま首を横に振った。
「俺が自分で行くと真っ先に殺される」
「何かヤバい事して逃げ出したのか?」
カイは目の前の老人を怪訝そうに眺める。その視線に気付いた老人が生気のない目で見返した。
「ああ、人を殺した」
その一言にカイは更に表情を曇らせる。
「面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。俺達は趣味で旅をしてる訳じゃないんだ。本業に差し支えては困るんだよ」
「殺したのは俺だ。お前さん方に累は及ばんよ」
「確か、自分が生きている事を伝えてくれって最初に言ってたよね。人を殺して逃げて来たなら、そんな事伝えない方が良いんじゃないの?」
メバルの刺身に醤油をつけるシズマ。その尤もな質問に老人は初めて小さく笑った。
「これは俺の楽しみなんだ」
「は? 楽しみ?」
さっぱり分からんと言った風のタケルに、老人は目を輝かせて話す。
「お前さん方、俺を見て驚いたんじゃないか? 俺みたいな年寄りのランド・ウォーカーはあまり居ないから。そもそもどうしてランド・ウォーカーは年寄りが少ないと思う?」
「性格的に長生きできない奴が多いからだろ」
老人はそう言うカイに首を振った。
「それも間違いではないかもしれない。だが、地底人どもと比べて圧倒的に老人が少ない。それはな、間引かれているからなんだよ」
三人は箸を持ったまま老人の無味乾燥な顔をじっと見る。初めて聞いた説に驚きを隠せなかった。
「地底人どもにとって俺達は外に出られる労働力でしかない。年を取ってまともに働けなくなったランド・ウォーカーはただの穀潰しなんだ。だからそう言う使い物にならん奴を陰で殺してんのさ」
「ちょっと待て、奴らがそうやって俺達を処理して来たってのはさして驚かない。それより、そんな横暴が公営の居住区でも行われてたってのか?」
カイの驚いた部分は他の二人とは違ったが、その疑問には二人も同感だった。
「ああ、そうだよ。公営と言っても通信が断絶されている今、政府には伝わらない。いや、そもそも政府自体も黙認しているのかもしれない。地底人どもが限られた資源の中で生き抜くには有効な手段だからな」
そこにタケルが些か声を荒げて言う。
「でもよ、それなら地底人の老人だって間引きした方が良いだろ。なんで俺達だけ殺処分されなきゃならないんだよ」
「地底人は家族や身近な人間に愛着を持ち、社会を形成している。その社会の構成員を殺処分すると言う選択は、俺達を根絶やしにした後の事だろう」
「で、あんたは誰を殺したんだ?」
カイと老人の間にはシズマが火からおろした鍋が置かれた。蓋を取ると白い湯気が立ち昇り、酒と磯の香りがふわりと広がる。その湯気の向こうで老人は相変わらず淡々と言った。
「俺達を殺しに来た地底人の男だ。そいつは居住区の長である市長の息子だ。そいつを殺して俺は海へ出た。山に潜っても良かったが、海の方が霧の発生する確率が高いからな」
「身を隠すには持って来いか」
「違う」
老人の死んだような目には首を傾げるカイが映っていた。
「俺は事ある毎に試しているんだ。奴らが俺達の命より大事に思っている身内のために、俺を殺しに来るかどうかを」
そう言うと老人は背負っていた袋の底の方から何かを取り出して見せる。それは白い石のような物だ。
「……何それ?」
老人は隣に座るシズマにその白い何かをよく見せる。シズマはそれを間近で眺めた。そして思い当たる答えを口にする。
「もしかして……骨?」
「そう、俺が殺した男の骨だよ」
その瞬間、タケルは箸を伸ばしかけていたホヤから手を引いた。骨が入っていた袋から出て来たホヤだ。
「俺はランド・ウォーカーに会う度、この骨を少しずつ預けて会津へ運んでもらっている。お前達の息子はまだ俺の手の内に居る。取り返したければ命懸けで俺を殺しに来いと言う伝言と一緒にな」
「……悪趣味だな。で、地底人がランド・ウォーカーを差し向けて来たらどうするんだよ。食い物で買収される奴ばかりじゃねえぞ」
カイは隣のタケルを指さす。すると老人は原発のある方を示した。
「もっと割の良い仕事を紹介してやる。原発の地底人には伝手があってな。地下の穴倉より良い場所に住めるし、報酬も良い。その話を出せば俺を殺そうとする奴は居ない」
「……なるほど」
すると老人はその骨をカイに差し出す。カイはいかにも嫌そうな顔で魚が入っていた発泡スチロールの箱を引っ張り出し、その中に入れるように顎で示した。軽い音を立てて骨が箱に転がり込む。
「じゃあ、頼んだぞ」
カイは箱に蓋をして後ろに置いた。そして改めて目の前の老人と向き合う。
「仕方ねえな。食っちまったもんはやるしかない。どの道海岸線は霧の嵐が来れば視界が悪いから内陸へ入ろうとは思ってたところだ。やってやるよ。で、あんたの名前は? 名前が分からなきゃ伝言も何もないだろ」
老人は骨を渡す時以外、滅多に口にしない自分の名をぽつりと吐いた。
「俺はゼンジだ」
三人はゼンジと別れて内陸へ向かう事にした。走り出す車の運転席で、カイはサイドミラーに映る小さな老人の姿を捉えた。彼の背後には黒い霧の嵐が迫るのが見える。程なくゼンジは霧に飲み込まれ、姿が見えなくなった。
「三陸の魚介、美味かったな!」
助手席のタケルはいつもと変わらない調子でフロントガラスの向こうを眺めている。その足元にはあの発泡スチロールの箱があった。車が揺れる度に中から軽い音が聞こえて来る。
「俺も色んな食べ方を知れて良かったよ。本当だったらもっと色々知りたいところだったけど、まあ、仕方ないな」
そう言いながらもシズマの声は弾むように明るかった。カイはバックミラー越しに後部座席を覗く。相変わらず荷物に埋もれているシズマだが、眼を輝かせて外の景色を眺めていた。
「なんだか嬉しそうだな、シズマ」
「さすがカイ、気付いた? 実は会津には温泉があるんだ」
「温泉? 良いねえ!」
カイが何か言う前にタケルが歓声を上げる。
「だろ? 東山温泉って言うんだけど、聞いた話によると八世紀から続いてるらしい」
「八世紀……とんでもなく古いな」
ハンドルを握りながら比較的状態の良い道路を進むカイ。歴史の知識はあまり無いが、八世紀が大昔だと言う事くらいは当然分かる。
三人を乗せた車は原発へ行く前に立ち寄った湖の横を通り、会津の市街へ入った。深い緑が浸食している国道を暫く進み、漸く森林に覆われていない平坦な土地が見えてくる。
「ここが会津か……」
カイはそんな呟きをこぼしながらハンドルを握る。元々は栄えた街のようで、至る所に大きな廃墟が立ち並んでいた。街を貫く国道をゆっくり進むと、鉄道や商店の抜け殻が恨めしそうにこちらを見ているようにさえ感じる。かつて栄えていた場所ほど、今となっては空しさがのしかかるのだ。
そんな中、助手席のタケルが何かを指さして身を乗り出す。
「あれ見ろよ! 城だ!」
タケルが指さす先には純白の外壁に赤みがかった瓦を乗せた何層もの天守閣があった。
「城……? あれが城なのか……初めて見た」
後部座席の窓を開けて熱心に城を眺めるシズマ。
「日光には城が無いのか。俺達は皇居の補修とかに駆り出された事があるから」
そう言いながらもカイはその美しい城に見入っていた。江戸城の堂々たる存在感とはまた違う、繊細な美しさがある。均整の取れた天守閣、それを囲む建造物も白い壁が橙色になり始めた日の光を受けて幻想的に輝いて見えた。
「街はこの有様でも、城だけはすげえ綺麗だな……」
さすがのタケルもその景色には息を呑んだようだ。
「あの城も、ここに生きる地底人達にとって大切な物なんだろう」
シズマがしみじみと言う中、車はその城のすぐ近くに停車する。カイはエンジンを切り、アタッシュケースを手に取った。
「居住区の入り口はこのすぐ近くだ。ここで降りるぞ」
三人は車を降りて地図を頼りに荒れ果てた街を進む。足元のアスファルトはすっかり劣化し、そこら中に穴が空いている。初夏の新緑が、ここにかつて人間が居たと言う歴史すら呑み込もうとしていた。そんな道を進んで行くと、城からさほど離れていない場所に地下への入り口が見えてくる。そこには鉄筋コンクリート製の、窓の無い小屋が一つあった。ただ四角いだけの味気ない小屋には厳重な扉が一つだけ付いている。密閉用のゴムで囲まれた鉄の扉だ。
カイは内外どちらからでも動かせるロックを外し、重たい扉を開いた。小屋の中は驚くほど狭く、天井からぶら下がる電球以外に何も無い。
「原発の居住区とは大違いだな」
背伸びすれば頭が付きそうな天井を見上げながらタケルが言った。
狭い小屋の奥には床面にハッチのような蓋がある。そこから地下へ入るようだ。
「スロープじゃなくて梯子形式か。これじゃあ確かにバリアフリーとはいかないな」
ハッチの奥を覗き込んでそう言うなり、カイは上着を脱いでアタッシュケースの持ち手に通し、背中に背負った。梯子では両手を使うので荷物を持ったまま移動できない。後に続くタケル、シズマも何かしらの方法で荷物を体に固定する。
地下への長い梯子を下りて行くと、漸く安定した地面に足を着けられる場所まで来た。そこは地上にあった小屋よりも多少広い程度の何もない空間だ。白色の鋭い光が天井から部屋中を照らしている事だけが違う。その部屋にもやはり地上と同じ頑丈な扉があった。カイはその扉の横に付いている呼び鈴を押す。ボタンを押しても何の音も聞こえず、動いているのかも怪しい代物だが、程なくしてスピーカーから声が返って来た。
「会津若松市営居住区です」
些か訛りを感じさせる声は男のものだ。カイはなるべく呼び鈴に近付いて言った。
「政府のお遣いで北へ向かってるんだが、ここの代表に会いたい」
「かしこまりました。ロックを解除しますので、お入り下さい」
すると扉から短い金属音が聞こえる。タケルが取っ手を持つと、ロックが外れたようで扉はすぐに開いた。扉を開けた先には漸く広い空間が現れる。東京や第一原発の居住区と比べるとかなり小ぢんまりとしているが、一般的な居住区のようだ。天井はこれまで通過してきた空間の倍以上はあるかと思われる高さで、閉塞感が多少軽減されている。
「こちらへどうぞ!」
三人がやっと味わった解放感に安堵していると、一人の男がやって来た。声からすると先ほどスピーカー越しに話した男だろう。
「東京からわざわざ会津までいらしたんですか。ご苦労様です」
やはり訛りが強いが本人も気にしているのか、共通語に近付けようとしている努力が垣間見えた。カイはその中年の男に軽く会釈する。
「どうも。ここの代表って会えるか」
すると男は力強い頷きを見せて笑った。
「ああ、代表は私です! 小高と言います」
ランド・ウォーカーを間引いていると言う話を聞いてから、三人の中にぼんやりと形作られていた人物像からかけ離れた様子の男だ。がっしりとした骨格で地下暮らしとは思えないほど健康そうな体躯。何か祝い事でもあったのかと訊きたくなるような笑顔。
「……あんたが、代表?」
ぽかんとしているタケルに、小高は首を傾げる。
「ええ、そうですけど? 立ち話もなんですんで、こちらへどうぞ」
小高はそう言うと三人を先導して歩き出した。
外と通じている扉から真っ直ぐ進むと、四角く繰り抜かれた空洞に出る。これまで通って来た道も天井が高かったが、ここはそれ以上に開放的な高さだった。四方の壁には集合住宅が地面から遥か頭上の天井まで伸びている。それが各壁面に二列ほど立ち並んでいた。
何より三人の注目を集めたのはその空洞の中央にある白い山だった。漆喰でも塗ったような純白の壁が高くそびえている。集合住宅の壁に囲まれた空間に、明らかに異質だった。
「あの白い山は?」
タケルが指さす先を見て、小高は楽しそうに笑う。
「ああ、あれはですね、プロジェクションマッピングに使うんですよ」
「は? プロジェクションマッピング?」
タケルは初めて聞いた言葉に眉を寄せて白い山を見た。
「本当は鶴ヶ城の形に整えたかったところですがね、そこまで余裕がなく、仕方なく山なんですよ。日に一回、あれに地上の鶴ヶ城の姿を映し出すんですわ。そうすれば我々も城を見る事ができるでしょ?」
小高の説明を聞きながら、カイは徐々に背後へ過ぎて行く白い山を目で追う。プロジェクションマッピングは見た事がないが、映写すると言う事なのだろう。
「もうすぐ夜になりますし、皆さん今日はここに泊まりますよね。そしたら明日の朝、是非とも見て行って下さいよ」
「いや、俺達は本物見れるから……」
そう言うタケルを肘で軽く小突くシズマ。だが、小高はそんな言葉など全く意に介さず豪快に笑い飛ばした。
「ははは! そりゃそうだ!」
この小高と言う男が本当に年老いたランド・ウォーカーを殺処分しているのか。ゼンジへ刺客を差し向ける事などするだろうか。三人は前を歩く気さくな男の背中にそんな疑問を膨らませていた。
小高は白い山のある空間からいくつも伸びた通路の中の一つを進んで行き、その突き当りの扉の前で止まった。
「ここが市長の部屋です。まあ、私の部屋って事ですけどね」
ズボンのポケットから鍵を引っ張り出し、扉を開ける。三人は招かれるがまま中へ入った。中は清潔な白い壁に囲まれた小ぢんまりとした部屋で、執務用の机と来客用のソファー、テーブル以外に家具と呼べるものは木製の棚が一つあるだけだ。だが壁面には額に入った写真がいくつも飾られている。
「どうぞ、掛けて下さい」
壁面の写真を見て回るタケルを除き、カイとシズマはソファーに腰を下ろした。
「良い写真でしょう。ランド・ウォーカーに頼んで撮って来てもらうんです。城以外はもはや自然の一部になってますけどね!」
そう言いながらも小高は笑っている。
「さあ、それで私に何か御用で? あ、いや、分かるかもしれませんよ」
「は?」
小高の調子に乗せられたままのカイが唯一漏らした一文字だ。
「東京からいらしたんなら、皆さんも海に行ったでしょう? そこでゼンジって言うランド・ウォーカーに会ったんじゃないですか」
「……俺達で何人目なんだ」
カイはそう言って発泡スチロールの箱をテーブルに置いた。小高は白い箱が現れると一瞬表情を硬くしたが、すぐに疲れた笑みを見せる。
「さあ、覚えていません。ゼンジが遣いを寄越す度に息子の墓に骨を一つ、また一つと収めていますが……皆さんで何回目ですかね。ゼンジはね、息子の頭だけ置いて行ったんですよ。誰が死んだか分かるようにね。頭以外の骨は全てゼンジが持っています。数えれば分かるかもしれませんね」
「いや、そんな事しなくて良い。時間の無駄……」
「カイ」
カイの言い草にシズマは苦笑して止めに入った。だがやはり小高は笑って頷いている。
「良いんですよ、その通りですから。それでゼンジはまた俺を殺しに来いとかなんとか言ってたんでしょう?」
カイの代わりにそれに答えたのはシズマだった。
「まあ、はい。小高さん、俺達はゼンジからここで行われている事を聞きました。それって事実なんですか……」
「ええ、そうですよ」
またしても三人は驚かされた。小高は何のためらいもなくあっさりと肯定したのだ。
「あの……年寄りのランド・ウォーカーを殺してるって……」
「はい、そうです」
写真を見て回っていたタケルがカイの隣に腰を下ろして小高と向き合った。まるで朝食の献立を答えるように対応する小高を、タケルはじっと見据える。そして漸く口を開いた。
「おっさんさあ、喧嘩売ってんの?」
「タケル、止めろ」
カイは鉄パイプに手を伸ばすタケルを制する。
「小高は訊かれた事に対して事実をそのまま言っただけだ」
「お気に障ったのでしたら申し訳ありません。悲しい事ですがね、田舎の小規模な居住区では散見される事なのですよ。殺すまでしなくとも居住区から追い出すと言う場所もあります。でもね……年老いたランド・ウォーカーを外界に放置して、結局は殺しているようなものです」
「あんた達がランド・ウォーカーを殺していようが興味はない。死にたくなければ勝手に出て行けば良いだけの事だ」
淡々と返すカイだったが、その隣ではタケルが不服そうに小高を睨んでいた。
「でもよ、こいつらは年寄りの地底人は大事にしてるんだぜ。俺達は散々働いてるってのに最後には殺処分かよ。もはや動物以下だ。殺された奴等に同情はしねえけど、自分達だけ甘い汁吸って生きてんのは気に食わねえな」
「皆さんがそう思われるのも至極当然です。我々が行える労働はたかが知れている。皆さんが地上で従事している仕事と比べればリスクも小さいものばかりだ。ですがね、我々も望んでそうなっている訳ではないのですよ。それだけはお分かり頂きたい」
「そんな事言って、あんたあのじいさんを殺すためにランド・ウォーカーを差し向けただろが」
すると小高は小さく笑ってタケルに返す。
「いいえ、私ではありません。私はね、自分達がしてきた事を正当化しようとは思わんのですよ。ゼンジに恨まれても当然なのです。息子には可哀そうな事をしてしまったと思いますし、私が死ぬべきだったとも思います。だからゼンジが何度骨を送って来ようと、彼を殺す気は微塵もありません」
小高は発泡スチロールの箱を見て小さく息を吐いた。
「これはね、私への罰なんですよ」
不意にカイはソファーから立ち上がる。そしてアタッシュケースを持って扉へ向かった。
「今日はここに泊まりたい。どこか部屋を貸してくれ」
小高はあの笑顔を取り戻し、机の引き出しから取り出した居住区の見取り図をカイに差し出す。見取り図には一か所赤いペンで印されている場所があった。
「この印の場所が客人用の部屋になります。今は誰も使っていませんので、ご自由にどうぞ。食堂や風呂も書いてありますので」
風呂と言う言葉に、シズマがすっと立ち上がった。そして真剣な眼差しで小高に迫る。小高は一歩たじろぐが、シズマは更に迫った。
「ど、どうかしました?」
「東山温泉は、まだ入れますか」
「お、温泉?」
「温泉に入りたいんです」
「え、ええ。少々お待ち下さいね」
そう言うなり小高は速足に机へ向かって引き出しを漁り始めた。
「温泉はですね、城の維持が精いっぱいで殆ど手付かずなんですよ。だから荒れ放題だったんですがね。三年ほど前に北海道からやって来たランド・ウォーカーが住み着いてね、入れるようになったって聞いてますよ。ああ、これだ」
小高が引っ張り出したのは年季の入った地図だ。
「これはね、昔この街の観光協会が出していた地図です。入れるようになった温泉は……ここです」
古い地図には赤いペンで新たに印が付けられた。
「川沿いにいくつも温泉宿があったんですがね、今は全て廃墟で倒壊の危険があるので入らないように注意してます。それにも関わらず、突然北海道からやって来たランド・ウォーカーがここに居座りましてね」
カイは自分が持っている地図と見比べる。どうやら風力発電を行っている山の近くのようだ。
「背あぶり山で風力発電の仕事をしているランド・ウォーカー達も使うようになりましてね、だいぶ賑わってるって聞いてますよ」
地図を受け取り、シズマはまじまじと川沿いの温泉街を眺める。小高が印をつけたのはその中の一つ、国の文化財に指定されていた宿だった。
「さすがに建物は残っていませんよね」
「ええ、木造建築ですからね。聞いた話では簡単な小屋がある程度で、温泉には屋根だけで殆ど吹きっさらしだそうですよ」
「良かった、温泉があって」
「よ、良かったですね」
シズマは地図を丁寧に上着のポケットにしまい、小高に満面の笑みを向ける。
小高の部屋を出た三人は一先ず今日借りる部屋へ向かった。もらった見取り図を眺める限り、ここはあの白い山のある広い空間が主な居住スペースになっており、そこからいくつも通路が伸びて水耕栽培場や食品加工場に繋がっているようだ。あの白い山を中心に全てが回っている。
来客用の部屋は居住スペースの一角にあった。天井まで伸びる集合住宅の最上階だ。エレベーターは無く、ひたすら階段を上る。
「何と言うか、ここは基礎体力が鍛えられそうな居住区だな」
少し息を乱したシズマがそう言う隣を、タケルがいったい何の話だと言いたそうな顔で上っていた。その背中を見ながらカイがぼやく。
「一人だけここに適合してる奴が居るぞ」
「俺はこんな場所嫌いだな。あの山と言い、城と言い、ああ言う物のためにランド・ウォーカーを殺処分してるんだぜ。そんなにあの山や城が大事なら自分達も血を流せば良いじゃねえかよ」
「タケルがそんなにムキになるなんて、珍しいな」
漸く目的の部屋に着き、シズマは息を整えた。
「俺はフェアじゃないのが嫌いなんだ。この仕事が終わったら中央都市に行くって言うのも、本当はそこに住みたくて言ったんじゃない。中央都市が本当にあったら、そこに住んでる奴等を皆殺しにするためだ」
カイとシズマは返す言葉が無く、少しの間沈黙する。その沈黙を破ったのはカイが差し込んだ鍵が立てた小さな金属音だった。
扉の先の部屋は板張りが多い居住区にしては珍しく畳が敷かれている。流しやトイレもあり、窓からはあの白い山がそびえる広場を一望できた。畳の部屋は三人が並んで寝るには充分な広さで、何故か床の間まで付いている。
「思ってたより広いな」
押し入れを開けて布団の枚数を確認するカイ。間違っても一つの布団に二人以上で寝るなど御免だった。だがその不安はすぐに解消される。和室の奥にもう一つ部屋があり、そこにベッドが二つ並んで置かれていたのだ。
「ベッドだ……久し振りだな」
カイは真っ先にベッドへ腰を下ろす。東京ではずっとベッドで寝る生活をしていたので、床に布団を敷くより落ち着く。
「カイはベッドの方が良いの? じゃあ俺が布団で良いよ」
荷物を置きながらシズマが言う。その向こうでタケルが床の間の置物をいじっていた。
「おい、タケル! 壊すなよ!」
カイが慌てて駆け寄ると、タケルの大きな掌には小さな赤い何かが乗っている。
「これ何だと思う?」
差し出された物を見ると、赤い牛の置物のようだ。
「……牛?」
「首が動くんだぜ」
「へえ、可愛いじゃん」
シズマも興味津々だ。カイはタケルの掌からその置物を取り上げる。そして元々あった棚に戻した。
「何でも良いだろ。さあ、飯食って風呂入ってさっさと寝るぞ。明日はなるべく早くここを出よう」
「そうだな、温泉にも行きたいし!」
「…………」
目を輝かせて息巻くシズマに、カイは深い溜息を吐く。だが、その温泉には行く価値はあると思っていた。
「温泉はともかく、北海道から来たって言うランド・ウォーカーの事は気になる。俺達もいずれ北海道には行かなきゃならない。事前に情報を仕入れられれば得だ」
「だよね! 温泉に入りながら皆で話そうぜ!」
「……分かった。温泉には行くから落ち着け」
それから三人は見取り図に書かれた食堂へ向かうことにした。食堂は居住スペースから伸びた通路の先にあり、外での仕事を終えたランド・ウォーカー達が集まっている。これも大抵の居住区でよく見る光景だ。ランド・ウォーカー達はその日勤務に当たったと言う証明書を見せ、それと引き換えに食事を受け取る。
三人は来客用に作られている例の見取り図を見せて食事を頼んだ。メニューは選べるほど無いようで、一先ず三人とも味噌田楽を注文する。
三人が食堂の外に並べられているテーブルに座っていると、料理は驚くほどの早さで出て来た。
「はい、田楽定食ですよ」
店の男が置いて行った盆には、田楽、漬物、白米、味噌汁が乗っている。
「これが味噌田楽か」
タケルは目を皿のようにして串の刺さった四角い物を手に持った。四角い物は焼いた豆腐だ。豆腐に赤黒い味噌が乗っている。
「椎茸やこんにゃくを田楽にする事もあるよ。赤味噌の風味が良いんだよな」
そう言うとシズマは味噌を少し箸先に取って舐めた。
「うん、美味い!」
カイは田楽の前に味噌汁に目が行く。椀を持って箸を潜らせると、肉が入っている事に気が付いた。
「味噌汁に肉が入ってる」
「それは猪だ。しし汁だよ」
不意に背後から聞こえた声に振り返ると、後ろのテーブルで同じく田楽定食を食べている客がこちらに手を振っている。
「どうも」
その若い男はカイ達が何かを言う前に、自分の盆を持って三人のテーブルにやって来た。四人掛けのテーブルだったので、男は空席だったタケルの隣に腰を下ろす。
「君達、今日骨を持って来たランド・ウォーカーだろ?」
カイは訝し気に男をじっと見据えていた。男はその視線に苦笑し、慌てて自己紹介をする。
「急にごめん。俺は小高修一、市長の息子だ。あの骨の弟」
「……ふうん」
警戒の眼差しのまま、カイはしし汁を口に運んだ。肉は前に多摩で食べた猪と同じ生き物とは思えないほど美味い。薄切りだから柔らかく、脂肪分が少ないので脂っこくない。味噌のコクと肉の風味がよく合っている。
「骨の弟が何の用だ?」
既に定食を半分以上平らげたタケルが声を低くする。
「君達に訊きたい事があってね。あのじいさん、どんな様子だった?」
少し考えてからカイが答えた。
「気味が悪いじいさんだった。でも足腰は丈夫そうだったな」
「……そうか、じゃあまだ死にそうにないな」
すっかり定食を平らげたタケルが修一に向き直ってじっと睨む。驚くべき事に、修一はそんなタケルの威圧感に屈する事なく見返していた。
「お前さ、そんなにあのじいさんに死んで欲しいなら自分で海まで行って来いよ」
「俺だってできる事ならそうしたいね。でもそんな事をしたら、じいさんを殺す前に俺が死んじまうだろ」
「だいたい、あの城と人間と、どっちが大事なんだ? それともランド・ウォーカーは人間じゃないってか?」
険悪な空気をものともせず、カイとシズマは黙って食事を続ける。その目の前では修一がタケルを睨み上げていた。
「会津若松城は、俺達の生きる理由なんだ。あの城があるから、俺達はこの世界に生きていると言う実感を持てるんだよ。でもランド・ウォーカー達は自分の事しか考えていない。俺達がいくら交流しようとしても繋がるものが何も無いんだ。だから俺達は城を守る道を選んだ」
「その城を修繕してんのもランド・ウォーカーだけどな!」
「そのランド・ウォーカーを食わせてんのは俺達だ!」
声を荒げ始めた二人に、遂にシズマが口を挟む。
「その辺にしとけよ。ここで二人が殺し合っても解決しない問題だろ」
修一は苦笑するシズマを見て目を丸くしていた。
「兄さんはランド・ウォーカーにしては珍しく温和だな」
「はは、まあ、そう言う環境で育ったからな。元々流血沙汰は面倒だから好きじゃないし」
「どこで育った?」
「元々は四万。でも嫌気が差して出て、それからはずっと日光だ」
「日光……」
向かいに座るシズマをまじまじと見つめる修一。その視線が気まずく、シズマは少し身を引いた。
「日光には東照宮って言う立派な神社があるって聞いた事がある。その保全もランド・ウォーカーがやってるんだろ? 日光では何も問題は無いのか?」
「問題……無いと思うな。俺達は美味い飯と温泉のために働いてたけど、自分達にとって大事な物を残すために必要な存在として普通程度には扱われてたし。年寄りのランド・ウォーカーは確かにあまり居なかったけど……俺の知らない場所で死んでたのかな?」
シズマが助け船を求めて質問を振って来たので、カイは田楽を呑み込んで淡白に返す。
「俺に訊くな。知る訳ねえだろ。地底人だろうがランド・ウォーカーだろうが、生まれればその内死ぬんだ。俺はこの問題に関しては特に興味が無い」
「カイは興味ない事には徹底して無関心だよね」
しし汁を飲み干し、カイは修一を見据えて言った。
「お前も、もうあのじいさんの事は放っとけよ。多分あと十年も生きないから」
「羨ましいよ」
修一はそう言うとさっさと席を立つ。
「ランド・ウォーカーは無関心と言う武器がある。俺達のように愛着が無い分、恨みも持たない。俺はな、兄貴の首を見付けたあの瞬間から一歩も前に進めないんだ。兄貴を殺したゼンジが憎い」
背中越しに言い残し、修一は去って行った。その後ろ姿を見ながらタケルは修一の盆に残った田楽を口に運ぶ。
「何なんだ、あいつ!」
食事を済ませた三人は風呂に入り、あの客室へ戻った。タケルとシズマが布団の上で話しに花を咲かせている傍ら、隣の洋室でカイは暗い天井を見上げていた。この部屋にもベッドサイドの台にあの赤い牛が居る。カイは寝返りを打って牛の首を軽く突いた。すると首がゆらゆらと揺れる。
考えてみれば東京の居住区でも年を取ったランド・ウォーカーはあまり居なかった。満足に働けず、報酬が減ってしまうので自由な地上へ出て行ったのだとばかり思っていた。だが、多摩で聞いた中央都市の話と言い、地底人は環境調整のために不要になったランド・ウォーカーを殺処分していたのかもしれない。
別に他のランド・ウォーカーに対して仲間意識は微塵も無い。死にたくなければ一人で生きて行けば良いだけの話だ。だが、何故かこの居住区は居心地が悪かった。
カイは赤い牛を手に取ってベッドから出る。そして二人に気付かれないように部屋を出てあの広場へ向かった。
広場は既に照明が半分ほど落とされて薄暗くなっている。そんな中にもあの白い山がはっきりと見えた。カイは山の周囲に置かれているベンチに腰を下ろした。
「どうしました?」
不意に掛けられた声に振り返ると、そこにはあの屈託のない笑顔を浮かべた小高が居る。
「ちょうど帰宅するところだったんですが、あなたを見かけてね」
「……連れのせいで部屋がうるさいから、少し歩きに来たんだ」
「はは、なるほど。あれ、それは部屋に置いてある赤べこですね?」
「え?」
小高はカイが手に持っている赤い牛を指さした。掌にすっぽり収まる大きさの赤べこが、その大きな瞳でカイを見上げている。
「可愛いでしょ? 赤べこはね、この辺の郷土玩具で魔除けなんですよ」
「魔除け……」
「気に入ったなら、それ差し上げますよ。まだ北へ向かうんでしょ? 旅の安全を願ってね」
赤べこの揺れる首を見下ろしながら、カイはぼそりと言った。
「あんたは、ゼンジが憎くないのか」
小高からの答えはすぐには返って来ない。カイはまた赤べこの首を揺らして続けた。
「今日、あんたの息子に会った。骨じゃない方だ。よほどあのじいさんが憎い様子だったぞ」
「修一はね、第一発見者なんですよ。しかもまだほんの子供だった。そりゃあ、ショックでしょうよ」
そう言うと小高はカイの隣に座って目の前の白い山を眺める。その目はどこか遠い別の場所を見ているようだった。
「私はね、ゼンジを憎んだ事はないんです。怒りを覚えた事は数えきれないほどあった。でもね、どうして私がゼンジを憎めますか。今日もね、未明に処理する命令を出した後の帰路なんですよ。この殺人者が、何故殺人者を憎めますか」
カイの黒い瞳が隣に座る小高を捉える。小高は変わらず白い山を見つめていた。だが、その表情に笑顔は一片も残っていない。
「我々はこの街を、この鶴ヶ城を愛しています。この城はね、昔から多くの人々が命を懸けて守って来た、我々の誇りです。地下の穴倉でしか生きられなくなっても、この地に鶴ヶ城がある。あの闇の中でも輝く純白の壁に赤瓦、あの美しい城がある。それだけで我々はこの穴の中で生き延びて来ました」
「あの城を放棄すれば、あんたはこれ以上人間に人間を殺させなくて良いんだ。それでもあの城を愛せるのか」
小高はカイを見て深々と頷いた。
「ええ、愛せますとも。自分の生きる理由を愛せなくなったら、我々は意志の無い蟻と同じだ」
「……そうか」
小高は立ち上がり、白い山を見たまま言う。
「明日の朝、八時にプロジェクションマッピングでこの山に地上の鶴ヶ城が映ります。是非見て行って下さい。あなたはじかに見れるでしょうけど」
白い山はただ無機質に立ち尽くしていた。この山はここに暮らす人々の執着そのものだ。カイはそう思い、赤べこを持ったまま部屋へ戻った。
次の日の朝、三人は食堂で朝食を済ませてからあの白い山の前へ来ていた。もうすぐ八時になる。山の周りには多くの人が集まっており、広場を囲む住宅からも人々が顔を出している。
「こんなに人が居たのか」
改めて居住区を見回すタケル。その足元に突然何かが音を立てて転がり込んだ。タケルが瞬時に視線を落とすと、地面に大きな麻袋が転がっている。袋は赤黒く染まり、漂う生臭い臭いにタケルはそれが血液だとすぐに分かった。
「おはよう、ランド・ウォーカー」
やって来たのは修一だ。白い山に集まる人々は自然とカイ達を避けてざわめく。
「そいつは贈り物だ。ゼンジに渡してやってくれ」
タケルは修一を睨んでいたが、足元の麻袋を持ち上げる。袋からは赤黒い色が混ざった黄色っぽいどろりとした液体が滴った。袋を開けるなり、タケルはそれを修一に投げつけた。
「お前が持ってけ!」
人々の悲鳴が広場に点々と上がる。袋から転がり出たのは人間の首だった。どれも老人で、鋭利な刃物と鋸のような物で切断されたようだ。
「あいつが兄貴の体を持ってるなら、俺はランド・ウォーカーどもの首を贈ってやる」
鉄パイプを握るタケルの腕をカイが掴む。危うく一緒に振り飛ばされそうになったが、何とかしがみ付いて止めた。
「馬鹿、止めろ!」
「馬鹿はこいつだろ! 俺達に喧嘩売ってんだぞ!」
「勝手に言わせとけ! こいつを殺して俺達に何の得がある? 面倒を起こすな!」
タケルは鬼の形相で修一を睨みながら、漸く鉄パイプを持つ腕を下ろす。それを確認してカイは修一に詰め寄った。
「お前、いったい何のつもりだ。あいつに殺されてえのか!」
「俺は依頼に来ただけだ。あの首をゼンジに届けてくれってな」
「知ってるだろうが、俺達は報酬が無ければ動かない。お前の取引は到底受けられねえよ」
すると修一は笑って背後の山を示す。
「報酬なら、今からここに映るからよく見て行ってくれよ」
「……は?」
次の瞬間、広場に八時を知らせる時報が響いた。それと同時に白い山に城の姿が映し出される。
「何だ、これ……」
目を丸くするカイの隣で、修一は白かったはずの山を見上げた。
「これは珍しい景色だぜ。数年に一回、役に立たなくなったランド・ウォーカーどもを処分した日にだけ現れる景色だ。これがお前達への報酬だよ」
山は黒かった。あの純白の壁すら視認できない程の濃霧が城を覆い尽くしている。あの漆喰の純白がいったいどこに消えたのか、山は巨大な黒曜石の塊のように黒一色に染まっている。広場に集まっていた人々は無言の内に次々と姿を消した。いつの間にか残ったのはカイ達三人と修一だけになっていた。
「修一!」
そこに小高が数人の男達と一緒に駆けて来る。地面に転がる麻袋と首を見るなり顔を真っ青にして修一を殴り飛ばした。
「何をすんだ!」
修一は地面に転がって、顔を擦りながら父を睨む。
「この首を、ゼンジに届けてもらおうと思ったんだよ」
「いい加減にしろ! まだ解んねえのか! お前は、ゼンジと同じ事をしたんだぞ!」
力なく立ち上がった修一は目にいっぱい涙を浮かべて叫んだ。
「俺は、許せねえんだよ! 兄貴を殺して、その骨を遊びの道具にしやがるゼンジが!」
「お前も同じ人殺しになってどうすんだ!」
「……親父だって……親父だって、ランド・ウォーカーを殺せって言ったじゃねえかよ」
それは消えそうな声だったが、その場の全員の耳にしっかり届いた。修一は涙を拭って居住区の奥へ駆けて行く。
「市長……」
「大丈夫だ。悪いが、これを片付けてくれ」
小高は駆け寄る男達に指示し、三人の方へやって来た。
「申し訳ありませんでした」
「あんたの息子もかなりのもんだな」
不機嫌を丸出しにしたタケルが吐き捨てるが、小高は怒るでもなくただ無気力に返す。
「……はい、正直、恐ろしい」
そして背後の黒い山を見上げた。相変わらず濃霧が純白の城を覆い隠している。
「……我々は、道を間違ったのでしょうか」
カイは部屋から持って来ていた赤べこに視線を落として言った。
「さあ、それは解らない。でも、あんたもこの牛みたく色んな方を見れたら良かったのかもな」
小高はカイの持つ赤べこを見る。大きな瞳が自分を見上げていた。今はその目を見るのもやっとだった。
「あんた、あの城は闇の中でも輝くと言ってたよな。でも今は霧で少しも見えない。この霧はあんた自身が呼んだんじゃねえのかよ」
そう言ってカイは広場を出口へと向かう。タケルとシズマもそれに続いた。
地上へ出ると、そこはやはり黒一色の濃霧だった。だが風もあるおかげで十メートル程度なら見る事ができる。
「なあ、カイ。その牛盗んで来たのか?」
「馬鹿言え、もらったんだよ。お前みたく人の物を勝手に食ったりしないんだ、タケル」
「カイって意外と可愛いもの好き?」
シズマの声にムッとして、カイは掌の赤べこを見る。確かに可愛らしい。
「これをダッシュボードに置いとけばタケルが静かになると思ったんだよ」
「は? 俺をあやそうってのか!」
「ははは! 効果あるかもね!」
三人が城の近くに停めていた車へ辿り着く頃には霧はだいぶ薄くなっていた。風が切り裂いていく暗幕の先に、あの純白の壁が眩しい城が現れる。その姿は変わらず荘厳で、青い空に映える赤瓦は美しかった。