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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
4/19

日光を出て、福島に入った三人。そこで物資を補給するべく、そして三陸産の魚介を食べるべく、福島第一原発の居住区へ向かう。そこで出会った女から、三人は「海へ連れて行って欲しい」と頼まれる。

4 海


 カイは広大な湖のほとりで太陽の白い光が煌めく水面を眺めていた。この日も相変わらず五月の日差しが眩しい。風は爽やかで、湖を取り囲む緑の合間から湖面を駆けて来る。その風を浴びながら、カイはただぼんやりと湖と向き合っていた。

 聞いた話によると、黒い霧が出始めた頃は世界中で地球温暖化による異常気象が問題になっていたそうだ。気候難民と呼ばれる人々が赤道直下の一帯を中心に年々数を増していたほどだ。

 だが、霧によって人類の大半が地下へ潜り、潜れなかった者は悉く死んだ。それによって人類の活動は大幅に制限され、数十年の時を経て地球は健康な状態を取り戻しつつある。

「人間なんて……居ない方が良いのかも」

 カイの呟きは風に攫われて消えた。

 その時、目の前に広がる静かな湖面にぽつんと波が立った。そこから顔を出したのはタケルだ。タケルは湖畔に座り込んでいるカイを見付けるなり、大声で叫んだ。

「カイ! 魚獲ったぞ!」

「…………」

 この美しい青空と煌めく湖面、それを囲むように広がる鮮やかな緑。その世界に汚点が一つ現れた。カイは深々と溜息を吐いて湖の水を汲み上げている浄水装置の様子を見る。

「見ろよ、これ!」

 タケルは騒がしい水音を響かせて湖から上がり、大股でやって来た。その手には鋭利に光る軍用ナイフと、そこに刺さったままの大きな魚がある。魚の血がナイフを伝い、タケルの腕に垂れていた。当の本人はそんな事など全く気にしていないようで、いつもの能天気な笑顔でやって来る。

「でかい魚だろ! シズマが言ってた通りだったぜ。この湖、魚がいっぱい居るんだ!」

 カイは豪快に笑うタケルを見て目を細めた。

「何でも良いからさっさと服着ろよ」

「体が乾いたらな。天気良いし、風もあるからすぐ乾くだろ」

「…………」

「いやあ、気持ちいな! お前も泳げば?」

「いやだ」

 タケルはナイフから魚を抜いて血を払う。そして地面に座ったままのカイを見下ろした。カイは振り向きもせず、相変わらず湖の果てを眺めているだけだ。

「もしかして泳げないとか?」

「……泳ぐ必要性がない。必要ない事はしない主義だ」

「うわー、つまんねえ奴」

 タケルが髪の水を払い飛ばす度に、その水滴が足元のカイに落ちて来る。カイはそれを服の袖で拭ってタケルを睨んだ。

「水飛ばすなよ! 拭けって!」

「心配すんな、この程度の水なら溺れねえから!」

「……てめえ」

 カイが立ち上がったところでシズマの声が聞こえて来た。

「おーい! お待たせ!」

 二人が声のした方を振り返ると、そこには何やら草のような物を持ったシズマが居た。

 シズマは全裸のタケルを見るなり目を丸くして足元の魚と交互に見比べる。

「え、タケル……もしかして泳いで獲ったの? てっきり釣りとか網とか、そう言うのかと思ってた」

「お前が魚獲れって言ったんだろ。これが一番早いから泳いだ」

「こいつに扱える道具はナイフと鉄パイプだけなんだよ」

「泳げるのが羨ましいからってそう言う嫌味は良くないぞ、カイ」

「素っ裸で泳ぎ回るのが羨ましいなんざ死んでも思わねえよ」

 睨み合う二人の間でシズマは楽しそうに声を上げて笑った。

「ははは! 楽しいな!」

「楽しくねえよ」

 そっぽを向くカイに、シズマはタケルの足下に転がっている魚を覗き込みながら言う。

「まあまあ。今から昼飯作るから、機嫌直せって」

「なあ、その魚なんて言うんだ?」

 魚を持って車の方へ向かうシズマはタケルを振り返った。

「これはサクラマスだよ」

「へえ」

「できたら呼ぶから、ちょっと待ってろ」

 そう言って車へ向かうシズマの背中を眺めていたタケルだったが、放り投げていた服に漸く袖を通した。


 それから暫くして、車の方から良い匂いが漂って来た。カイもタケルもシズマを手伝う気は全く無く、それぞれが気の向くままに時間を潰していた。そこにシズマの声が飛んで来る。

「できたぞ!」

 返事をする間もなく真っ先に駆けて行くのはタケルだ。水の汲み上げを終えたカイも車の方へ向かう。

 ジープの後部ではシズマが石の上に置いた大きなまな板に料理を並べていた。必要最低限の荷物しか持たされていないため、テーブルや椅子などと言ったものは積んでいない。そのため、まともな食事を摂る時はこうしてまな板をテーブル代わりにしている。

「ちゃんと三人分作ったから喧嘩するなよ」

「良い匂いだな!」

 タケルがまな板の横に腰を下ろすと、大きいはずのまな板がみじめな流木のようにちっぽけに見える。

 まな板には白米が盛られたカップ、透き通った汁物の入ったカップ、そしてアルミの包みがあった。カイが来て三人揃うと、シズマはそのアルミの包みを開く。アルミが口を開けた瞬間、中から湯気が立ち上った。香ばしさを含んだ奥深い香りがふんわりと広がる。

「サクラマスをホイル焼きにしてみた。バターが無いから、酒とあく抜きしたふきのとうを刻んで混ぜた味噌を塗ってある。俺は甘いものが嫌いだから、砂糖は入れてないぞ」

「美味そう!」

 箸を握って瞳を輝かせているタケルの横で、カイはまじまじとアルミホイルを見ていた。

「このアルミ……」

「何だよ、カイ。食わねえなら俺が食うぞ!」

「誰も食わねえなんざ言ってねえだろ! ただ、このアルミって水素発生用のやつじゃ……」

「え、そうなの?」

 シズマは箸を止めてカイを見た。難しい顔のままのカイは、黙ってその目を見返す。

「はは、ごめん。知らなかったわ」

「水素は大事な燃料なんだぞ」

 そんな二人の間をタケルの箸が忙しく動き回っている。

「カイさあ、飯が不味くなるからそう言う話はまた今度にしようぜ? それよりさ、この汁は何なの? めちゃくちゃ美味いな!」

「それはタラの芽のお吸い物だ。椎茸で出汁を取った」

「すげえな! 山ってこんなに美味いものがあんのか!」

 晴れない表情のままだが、カイはその透き通った汁を口に含む。椎茸の深みのある香りの中に、タラの芽のほのかな苦みがより奥深さを加えている。そしてちょうど良い塩気が食欲をそそった。彩に添えられている菜の花の黄色が、タラの芽の鮮やかな緑に映える。

「どう? 美味い?」

 どこか控えめに訊いて来るシズマ。その目に映るカイは幾分明るい表情になっていた。

「……美味い」

「良かった!」

 シズマは笑顔と共に再び箸を動かす。タケルは自分の分をすっかり平らげ、黙々と食べているカイをじっと見ていた。

「この魚も美味い。ふきのとうって不思議な匂いがするんだな」

「ああ、これまでこの匂いは春を感じさせるものだったらしい。でも地球が少しずつ涼しくなってきて、五月でも東北で採れるみたいだ。もっと大きくなっちまってるかと思ったけどな。案外いけるもんだ」

「この匂い、好きかも」

「お前にも好きなものがあったのか」

 水を口に運びながらしみじみと言うタケル。それを一度睨んで、カイはサクラマスを頬張った。程よく脂がのった柔らかい身に、ふきのとうの苦みが心地良い。味噌のコクがそれを更に引き立て、酒が入っているためか塩味がきつ過ぎずちょうど良い。

「茨城でも思ったけど、魚がこうも美味いとはな。きっと海の魚も美味いのがたくさんいるんだろうな」

「はは、タケルは本当に食う事ばっかだな」

「当たり前だろ。人間、食って寝て生きるんだから」

 空になったカップをまな板に置き、シズマはどこか遠くを見るように視線を泳がせた。

「実を言うと、俺も海の魚って食った事ないんだ。山育ちだからさ。逆に君達の方が東京湾の魚とか無かったの?」

 カイとタケルは顔を見合わせた。言われてみれば、東京湾は目と鼻の先なのに魚介と言う物を食べた事がない。

「食い物を作るのは地底人の仕事だし、あいつら外に出れねえから獲って来られないんじゃねえか?」

「洋上太陽光パネルの整備に行ってるランド・ウォーカーも居たが……魚を食ったとか言う話は聞いた事がない……」

 タケル、カイともに今まで改めて考えもしなかった事に首を傾げた。

「ふうん、東京でもそう言うもんなのか」

 そう言って食器を片付けていくシズマだが、ふと手を止めて顔を上げた。

「前に参拝に来た奴から聞いた話だが、三陸の魚は美味いらしいぞ」

「おい、俺達は食べ歩きしてる訳じゃ……」

「よし、行こう!」

「あのな……」

 嬉々として頷くタケルに、カイは俯いて頭を抱える。この旅の目的がますますずれて来ている気がしてならない。

「俺が使っちゃったアルミ、ここで取り返せるかも」

 地面ばかり見ていたカイの目に、シズマが差し込む地図が映った。シズマの指は太平洋側のある一点を示している。カイは地図を受け取ってその地点に視線を落とした。そこには発電所の記号が記されている。

「福島第一原発……」

「そう。原発なら近くに必ず居住区があるだろ。そこで燃料とか、色々補充しよう」

「そうか……。福島には原発があったな」

「温泉もあるし」

「…………」

 その一言には何も返さず、カイは地図を畳んで立ち上がった。

「よし、原発近くの居住区に行くぞ」


 福島第一原発は福島県双葉郡の太平洋に面した海岸沿いにある。百年ほど前の大地震で津波が発生し、その影響で六つある原子炉の半数が致命的な損害を被った。だが致命傷を負ったのは原子炉や電力事情だけではない。何より、その周辺に暮らす人々の日常が大きく変わってしまった。

 今となっては全人類の殆どが地下に潜って生活しており、自由も何もあったものではない。だが、まだ霧が湧く前の社会であったにもかかわらず放射線により立ち入れなくなった土地は、今の日本全国に広がる景観そのものだっただろう。

 カイはハンドルを握りながら見渡す限り緑の生い茂る道を黙々と進んで行く。頭の中では期待と不安が複雑に渦巻いていた。期待は物資の調達ができる事。そして生まれて初めて太平洋を見る事。不安は原発で働くランド・ウォーカー達だ。

「そう言えばさ……」

 後部座席で荷物に埋もれながらシズマがぼやいた。

「原発で働いてるランド・ウォーカーってさ、雷発電が日本でもできるようになったらどうなるんだろうな」

「今まさに俺も同じ事を考えてた」

 カイは揺れる車体をコントロールしながら自分が抱えていた不安を口にする。

「雷発電の詳細は何も知らないが、場合によっては職を失うかもしれない」

「無職か……。じゃあ地底人に衣食住の保証をしてもらえなくなる訳だ」

 すると助手席で転寝していたタケルも目を覚まして顔を上げた。

「それは大変だ。俺達が優遇されるのは奴等の生命線を握ってるからだってのに」

「タケルはそれでもアメリカに行くの?」

 シズマは運転席と助手席の間に身を乗り出す。

「俺には関係ないし。だって俺はこの仕事を終えたら中央都市に行く事になってるからな」

「へえ、中央都市ね。一生働かずに好きなように暮らせるって言う……」

 カイは何も言わずに二人のやり取りを聞いていた。だが原発を目前にして一言だけはっきりとした口調で言う。

「いいか、居住区では代表者以外には絶対に雷発電の事を言うなよ」

「まあ、そうビビるなって。万が一の事があっても俺が助けてやるから」

「そう言うお前が一番怪しいんだよ、タケル」

 そうこうする内に遠くに見えていた原発の建屋が少しずつ大きくなってきた。そしてその手前に周囲の景色と全く似つかわしくない近代的な建物がある。地上十階以上はあるガラス張りの建物で、ガラスは外からの視線を通さない物のようで、眩しい光が反射していた。

「何だ、あれ?」

 更に身を乗り出して目を丸くするシズマ。建物に近付くにつれて道は整備され、車の揺れも収まってきた。タケルはダッシュボードから地図を取り出し、原発周辺をよく見回す。

「驚くなかれ、あれは居住区の入り口だってよ」

「入り口……? あんな物、生まれて初めて見たよ」

「安心しろ、シズマ。見た目は凄いが価値は東照宮の方が高いから」

 そう言ってカイは車をガラス張りの建物の前に整備されている駐車場に停めた。

 車から降りて近付いて行くと、その見上げる高さのガラスの塊は更に存在感を増す。ガラスはどこも一点の曇りもなく磨かれ、まるで鏡のように周囲の景色を映し出している。そして駐車場と面している正面側には、周囲と殆ど同化しているガラスの自動ドアがあった。

 入り口の前に立つと、最初の自動ドアが音もなく左右に分かれて開いた。三人が中へ入ると素早く閉まり、天井からエアシャワーが降り注ぐ。それと同時に空調の音が低く唸り、空気清浄機が作動したのだと分かった。その先には第二、第三の自動ドアがあり、それを潜ると漸く建物の中に辿り着く。

 中へ入ると、そこはエントランスホールだった。高い天井から照明が垂れ、ソファーやテーブルまで配置されている。あの一面のガラスは外から見た時は鏡のようだったが、中から外を見ると驚くほど鮮明な景色が広がっていた。

「福島第一原発居住区へようこそ。どちら様でしょうか」

 三人が煌びやかな天井や空気のように透明なガラスの壁に意識を奪われていると、一人の若い男がやって来た。カイは一面のガラスから目を離して男を振り返る。

「政府からの依頼で北へ向かってるんだが、少し物資の補充をさせて欲しい」

 男は一瞬三人を見て言葉を選んでいたが、すぐに応えた。

「大変恐れ入りますが、何か証明する書類などはお持ちでしょうか」

 カイは持っていたアタッシュケースから東京で渡された身分証明書を見せる。男はそれを一目見て、すぐに笑顔を作って見せた。

「ありがとうございます。それでは、当居住区代表の下へご案内致します」

 三人は前を行く黒いスーツ姿の男に続く。東京の居住区では権力者を相手にする店などでこうした案内人を見る事もあったが、居住区自体の案内人など初めてだった。ましてシズマには全てが新鮮だ。

「なあ、あんたはランド・ウォーカーなのか」

 この異様な空間でも臆することなく口を開くのがタケルだった。男は肩越しに笑顔で答える。

「いいえ、私はランド・ウォーカーではありません。この居住区ではランド・ウォーカーは全員原発で働いていますので」

「普通、地底人は地上の建物には上がって来ねえだろ? どうしたって多少は空気が漏れるから」

「この建物は全て強化ガラスと特殊ゴムによる目張りを施してあります。また、常に高機能フィルターによる空気清浄を行っておりますので、我々もこの建物内までは活動できるのです」

「へえ、すげえな」

「じゃあこの上は居住スペースなのか」

 カイは外で見たこの建物の上階を思い返す。高さと言いフロアごとの広さと言い、かなりの人数が暮らしているはずだ。前を行く男は首を横へ振った。

「この上は全てランド・ウォーカーの居住スペースです。我々は地下に住んでいます。ランド・ウォーカーへの食事提供や身の回りの雑務を行う時だけ上がって来るのです」

 男の声音は先程までよりも些か低く聞こえる。だがそれを余所にシズマが感心して言った。

「仕事の時だけとは言え、こうして外を一望できて日の光も浴びられる場所があるって言うのは良い事だな。どこの居住区も大抵は小さな天窓が限界なんだし」

 すると男は笑顔で頷いた。

「はい、それはもう」


 三人が案内されたのは、建物の奥にある地下への入り口を降りた先だった。地下は地上とは違い、綺麗ではあるが地味な内装で一般的な居住区と大して変わらない。一つ違いがあるとすれば、多くの居住区が節電のために薄暗い事が多いのに対し、明るい白色の光が隅々まで行き届いている事だ。コンクリートの壁面は白く塗られ、そこに照明が反射してなおさら明るく見せる。地下空間特有の閉塞感を少しでも軽減しようとの試みだろう。

 純白の通路を進んで行くと一枚の扉があった。男はその扉を開けて奥へ入って行く。三人もそれに続くと、扉の向こうには更に地下深く掘り進められた巨大な空間があった。まるで自分達はダムの上にある通路に居て、空になったダムを見下ろしているようだ。

「ここが我々の居住スペースです」

 男は平然と通路を進んで行くが、カイ達はまじまじと眼下の空間を見ている。まさかあのガラス張りのビルの下にこれだけの大型居住区があるとは思いもしなかった。大きくくり抜かれた空間だが、強度確保のために地面から天井までの距離を何本もの巨大な鉄筋コンクリートの柱が支えている。そしてその柱の間を集合住宅などの建築物が埋め尽くしていた。

「皆さん、代表の部屋はこちらです」

 通路の柵に張り付いて眼下の居住スペースを見下ろしている三人に、男は首を傾げて言った。男に促され、三人は巨大な穴から意識を戻して歩き出す。

「あんなにデカい集合住宅は東京でもなかなか無いぜ」

 タケルは鉄パイプ片手に周囲を見回しながら言った。

「ここは関東へ送る電力を担っている場所なので、政府からの援助が他の居住区より多いんですよ」

「太陽光パネルとか風力とか色々やってるが、原発には敵わないからな」

 カイはそう呟いて眼下の集合住宅を視界に捉える。この巨大空間にいったい何人の人間が暮らしているのだろう。地上のランド・ウォーカー達だけでもかなりの人数だが、その生活を支えるとなると、最低でも倍以上は居るはずだ。

 純白の通路には所々に分岐があり、水耕栽培施設や浄水施設へ続いていた。この居住区ではランド・ウォーカーを原発へ回すため、浄水施設が地下にあるようだった。そうした分岐を全て通り過ぎた所の突き当りに目的の部屋がある。

「ここが代表の部屋です」

 そう言うと男は分厚い木戸をノックした。すぐに中から返事が来る。

「はい」

「佐伯です。東京からの客人をご案内しました」

「東京から? どうぞ」

 佐伯と名乗る案内人は扉を開けて三人に入るよう促した。カイは扉が隔てていた先の空間へ足を踏み入れる。

 中は思いのほか小ぢんまりとした部屋で、突き当りに執務用のデスクが一つ。その前に応接用のソファーとテーブルがあり、それ以外には殆ど物が無かった。突き当りにあるデスクには一人の男が居た。眼鏡をかけた中年の男は些か頬がこけており、見るからに苦労性と言った目つきだ。これだけ豪勢な居住区を管轄している代表ともなれば、もっと威勢の良い人物かと想像していたが、意外にも地味な男だった。

「福島第一原発居住区へようこそ」

 男はデスクから離れ、三人に応接用のソファーを勧める。カイは一度軽く会釈してソファーに腰を下ろす。タケル、シズマもそれに続いた。三人が腰を下ろすと疲れた男も向かいに座る。

「私はこの居住区の代表をしている大杉です」

「政府の依頼で東京から来たランド・ウォーカーだ。俺はカイ。このデカいのがタケル。こっちの長髪がシズマ」

「長旅ご苦労様です。ここへは何か御用がおありで?」

 相手が少年であるにもかかわらず大杉はひたすらに腰が低い。これが政府公認の効力だろうかとカイは思った。

「俺達はアメリカへ向かっている。ここではいくらか物資を補給させてもらいた」

 大杉はカイが思った通りの反応をした。アメリカと聞いて俄かに信じ難いと言いたげな、あからさまな驚きを見せる。

「アメリカですって……。途方もない距離ですね。海路も空路も困難になった現在ではなおさら……」

「ああ。だが、行かないと言う選択が無いもんで」

「大変失礼ですが、何か公文書の類はお持ちで?」

 カイはアタッシュケースをテーブルの上に出した。中の書類を取り出して大杉に手渡す。大杉は眼鏡を一度押し上げ、注意深くその書類に目を通した。暫く黙々と読み、漸く顔を上げる。

「確かに政府の依頼書ですね。身分証やパスポートも全て本物だ。政府も漸く原発に代わる発電方法に本腰を入れましたか……。分かりました、協力しましょう。ただ、あまり長居はしない方が良いですよ」

「……そのつもりだ」

 警戒の眼差しを向けるカイに対し、タケルがあっけらかんと言った。

「別に少しくらいゆっくりしたって良いじゃねえかよ。せっかくこんなに豪華な居住区に来たんだし」

 大杉はタケルが握っている鉄パイプを一度ちらと見て、慎重に口を開く。

「この書類に書かれている雷を利用した発電方法ですが……。もしもこれが日本でも行われるようになれば、原発で働いているランド・ウォーカーの多くが職を失うでしょう。そうなれば今のような暮らしはできません。彼等が皆さんの目的を知れば、凶行に出ないとも限りませんからね」

 大杉はきちんとアイロンがけされたワイシャツの襟を少し緩めて目を細めた。

「地下にランド・ウォーカーは一人も居ないのか」

「はい。この居住区ではランド・ウォーカーと我々の生活領域は明確に分かれています。保証はありませんが、基本的にランド・ウォーカーは地下へは立ち入りません」

 シズマの質問に答え、大杉は入り口の壁際に立っている佐伯を呼んだ。佐伯は大杉に指示されるとすぐにタッチパネルを持って来て手渡す。

「必要な物品を教えて下さい。すぐに在庫と照会して可能な限り提供しましょう」

「どうも」

 カイは準備していたメモを取り出してそのまま大杉へ渡した。


 物品の照会が終わり、大杉の厚意で三人は居住区内の休養スペースへ移動する。案内役の佐伯が先を歩く中、純白の通路を進んだ。この居住区は立派だが、逆に構造が複雑で案内役が居なければ道に迷いそうだ。

 暫く通路を進んで行くと、前から何人かの住人がやって来た。その中の一人が佐伯に声をかける。

「そら、その人達はお客さん?」

「ああ。東京から来たランド・ウォーカーだ」

 佐伯に声を掛けて来たのは若い女だった。少女と言うほどの歳ではないが、恐らく二十歳そこそこだろう。地底人にはありがちだが、肌が透き通るように白く、髪は黒々と艶がある。女は長い髪を背中へ流し、三人をまじまじと見ていた。

「うみ、これから彼等を休養所へ案内するんだ。話なら後で聞くから」

「そっか。私も後で行く」

「…………」

 うみと呼ばれた女は三人をじっと見ていたが、先に行った仲間を追って小走りに去って行く。

「可愛いな」

「うるせえぞ、タケル」

 カイの素早い制止に佐伯は目を丸くして苦笑した。

「彼女は私の幼馴染です。本人の前ではあまりそう言った事を言わない方が良いですよ。ランド・ウォーカーから言われると、警戒されますから」

 そう言うと佐伯はさっさと歩き出した。彼の警告の意味をカイはすぐに理解する。

 大抵の居住区ではランド・ウォーカーとそれ以外の人間との間に歪な権力構造があるのだ。そもそもの人口比率から言えばランド・ウォーカーの方が圧倒的に少数だ。そのため地上に出られる数少ない存在として必須でありながら、他者への共感性や良心が欠落していると言う点で疎まれ、衣食住の保証と引き換えに使役の対象である。

 ランド・ウォーカーからすれば、数で圧倒的に勝る地底人に歯向かう事に利はない。その上、それなりに仕事をすればこの不足ばかりの世界でもある程度満足の行く生活ができる。そのため、地底人を煙たがりながらも大々的に反発する個体は少ないのだ。

 だが、この居住区は違う。地下に住む人々の数は地上のランド・ウォーカーよりも確実に多いが、ここのランド・ウォーカーは福島だけでなく東京へ送る電力も担っている。また、単に発電だけでなく送電線の管理なども請け負っていると聞く。危険が伴う上に日本を支える電力には欠かせない存在であるだけに、この居住区での権力構造はある意味で明白だった。そんなランド・ウォーカーの中にタケルのような女好きが居ればどうなるかは想像に難くない。

「それにしても、空に海か。洒落た名前だな」

 シズマがしみじみ言うと、佐伯は背中越しにこぼした。

「私達は生身で外へ出る事ができませんから、憧れるものを名前に付ける事が多いんですよ」


 佐伯に案内された休養所と言うのは、集合住宅の一角にあった。地下の居住区としては珍しく、三十メートル四方ほどの広さがある庭園だった。霧が出るため土は無く、大豆や他の野菜を育てる水耕栽培の技術を転用したもののようだ。地下空間に突如として現れた鮮やかな緑。その足元を水が満たしている。緑を照らす白色の光は人工の照明だ。この居住区は天井が高く、その更に上にはランド・ウォーカー達の居住スペースがあるので天窓は一つもない。

 地下のオアシスとでも言えそうなその庭園には、所々にベンチが置かれている。何人かの住人がそこで休息を取っていた。

「物品の準備ができるまで、ここでお待ち下さい」

 三人にテーブル付きのベンチを示し、軽く会釈して佐伯は庭園を出る。

 カイとシズマは大人しくそのベンチに腰を下ろすが、タケルは好奇心に引かれるまま庭園を散策し始めた。

「タケルは何でも楽しめて良い性格してるな。あ、これは褒めてるからね」

 テーブルに頬杖を突きながらタケルを眺めるシズマ。カイはその向かいでつまらなそうに溜息を吐いた。

「あいつはおめでたい奴なんだよ。それにしても……」

 カイは改めて庭園を見回す。よく手入れされていて確かに綺麗な場所だ。

「あいつらなりの配慮なんだろうけど、俺達にとっては植物なんて見飽きるほど見てんだから、あのおっさんの部屋で座ってるだけで良かった」

「はは、カイはいつも手厳しいな。まあ、良いじゃん? 人間ってのは緑視率が上がると心理的に良い影響があるらしいぞ。地底人にとっては、ここは大切な空間なんだろう」

「あいつらだって上の建物に行けば外を眺められるだろ」

「やっぱり直に見るのとは違うんだろ、きっと」

「ふうん」

 二人がそんな会話をしている最中もタケルは一人で庭園を歩き回っていた。所々に花も咲いている。東京にも水耕栽培以外に緑を楽しめる場所は用意されていたが、ここの庭園も負けず劣らず綺麗だった。

「どう? 気に入った?」

 不意にかけられた声に振り返ると、そこには先ほど通路で会った女が居た。確か海と言う名前だったはずだ。タケルは鉄パイプ片手に小柄な海を見下ろす。

「まあね。地上も木は死ぬほどあるけど、誰も手入れしてないからただのジャングルだし」

 すると海は小さく微笑んで頷いた。

「私もここは好き。でも、地上のジャングルも見てみたいな。君の仲間は?」

「あそこで座ってる」

 タケルが指さす方に二人の姿を認めるなり、海はタケルに微笑んでそちらへ向かう。

 庭園の小道を海がこちらに向かって来るのがシズマの向こうに見え、カイは顔を上げた。カイの様子にシズマも自分の背後を振り返る。

「長旅ご苦労様」

 海は笑顔でシズマの隣に腰を下ろした。突然の珍客に二人は咄嗟に言葉が出ない。

「ごめん、ランド・ウォーカーと話した事なくて、つい気になっちゃったんだ」

 そこで漸くカイが口を開いた。

「口を利く分にはその辺の地底人と変わらない。別に俺達に話しかけなくても誰とでも人語は通じるだろ」

 その返答にシズマは腹を抱えて笑い、海は一瞬目を丸くしたが同じく吹き出して笑う。

「ははは! 面白いね!」

「カイ、そう言うとこなんじゃないか?」

 二人に笑われ、カイはムッとしてシズマを睨んだ。

「そう言うお前だってランド・ウォーカーだろ!」

「悪いけど、俺はもっと社会性があるんだ」

「社会性? そんなもん生きる上で必要ないね。俺は無駄が嫌いなんだ」

 そこへタケルがやって来て、ふくれっ面のカイの隣に座った。

「何だよ、カイがまたいじけてるぞ」

「いじけてねえよ!」

 海は更に楽しそうに笑う。

「本当に面白いね、君達。そうだ、まだ名前も言ってなかった。私は海。君達は?」

 カイはここへ来て二度目の自己紹介にうんざりしながらも淡々と答えた。

「俺はカイ。このデカいのがタケル。そっちの長髪がシズマ」

「ねえ、カイくん達はすぐ出て行っちゃうの?」

「ああ。俺達はデカい依頼を受けてるんだ。のんびりしていられない」

「そっか、残念」

「何で残念なの?」

 シズマの問いに海は目を輝かせる。その声には期待と言う名の熱がこもっていた。

「私ね、ランド・ウォーカーと仲良くなったら頼みたい事があるの」

「仲良くって時点で一生無理だろ」

 その熱を一瞬にして断ち切ったのはカイだ。そこにタケルが割って入る。

「お前さ、そんな事を言うから嫌われるんだぞ」

「嫌われるって言う事ならお前に言われたくねえな」

「俺はもうちょっと分別あるからな」

 そう言うなり、タケルは向かいに座る海をじっと見て自信満々に言った。

「別に仲良くならなくたって、それなりの報酬があれば俺達は頼み事聞いてやるよ」

「そ、そっか。そうだよね」

 たじろぐ海の隣でシズマが苦笑する。

「なんか、どっちもどっちだな。で、君の頼みって何なの?」

 海は周囲に人が居ない事を確認すると、声を潜めた。

「海を見たいの」

 思いもしない依頼に、三人は一瞬目を丸くする。そして案の定カイが一刀両断した。

「上に行けば見えるだろ。すぐ目と鼻の先なんだから」

「違うのよ。直に見たいの。風を感じて、波の音を聞いて、潮の香りって言うのを嗅いでみたいの」

「でもそんな事したら死んじゃうんじゃない?」

 シズマの尤もな意見にタケルも頷く。

「あの車は地底人の陸上移動にも使えるから、防護スーツ無しでも海まで行く事自体はできるだろうな。でも、風を浴びるとか匂いを嗅ぐとかは難しいと思うぞ」

 タケルが珍しく真っ当な事を言っている様子に驚きつつも、カイは海の輝く瞳を見返した。

「あんたさ、死にたいの?」

 海は何も答えなかった。

「死んでも良いなら連れてってやるよ。けどその場合、報酬を先払いにするか、誰か他の人間に保証してもらわないと引き受けられない」

「報酬って例えば何?」

 三人は白色の明るい照明の下で顔を見合わせる。ランド・ウォーカーへの報酬は殆どが個人の希望に沿った物になっているので、相場と言う物は存在しないのだ。

「俺は依頼人が死んだ場合の死体運びとか地底人とのトラブルの可能性を考えると……今回請求した必要物品の三倍量だな。重量にもよるけど。あと、車の充電も」

 カイの現実的な要求に続き、シズマが考えを巡らせる。

「難しいが……俺はこの辺でまだ入れる温泉を全部教えて欲しい。あと、調味料の補充かな。あ! あと、三陸産の海産物が食べたい!」

「俺もそれ食べたい! あとは、死ぬ前に一回ヤ……」

「俺達の要求は以上だ」

 タケルの要求は前半で切られたが、カイは海の反応を待った。海は難しい顔で考え込んでいる。

「うーん……」

「無理なら諦めな」

「ほらほら、カイ。もうちょっと優しくしてあげなって」

 自分を宥めるシズマを軽く睨み、カイは溜息混じりに言う。

「あんたもよく知ってると思うけど、俺達は報酬が無きゃ動かない。同情や温情で何かやってやるほどお人好しじゃないんだ」

 すると海は顔を上げてぼんやりと宙を眺めていたが、漸くカイの黒い眼を真っ直ぐ捉えた。

「そうだよね。それは分かってるよ。別にそれ自体が悪いとかも思わない。でも、私一人ではその報酬は払えないと思って。物資も父さんに頼んだところで無理だろうし、三陸の海産物も今は食べられないの」

 三人は海の言葉にそれぞれが衝撃を受けた。

「父さんって? もしかしてあの大杉って言う代表があんたの父親なのか?」

「三陸の魚介が食べられないってどう言う事?」

「魚食えないのかよ!」

 カイ、シズマ、タケル、それぞれから飛び出した声に、海は苦笑して一つずつ回答する。

「はは、そうだよ。ここの代表は私の父親。三陸の海産物が食べられないって言うのは、原発がらみの事情があってね。私も聞いた話なんだけど、霧が出る十年前くらいに福島沖で凄く大きな地震があって、その時にここの原子炉もいくつか壊れてしまったんだって。それで地下水が原子炉に漏れ出て来ちゃって、汚染された水をタンクに溜めてたんだけど溜めきれなくなってね」

「海に流したのか?」

 海はタケルに首を振った。

「ううん。放射性物質を安全基準値以下になるまで浄化して、その処理を終えた水を流したの。だからその頃は、風評被害はあるにしても決して食べられない物じゃなかったんだって。でも霧が出始めて……この居住区は電力供給のためにかなり早期から整備されたそうなんだけど、地上で作業できる人間も数が限られてしまって……大勢が避難している陸地で垂れ流せば大変な事になるでしょ? だから苦渋の決断だったみたい」

「それから魚が食えなくなったのか……」

 肩を落とすタケルだったが、シズマは首を傾げている。

「でも、俺が日光に居た時に参拝に来た奴が三陸の海産物を食べたって言ってたよ。確か……二、三年前だったと思う」

「私も詳しい事は分からないんだけど、今はまだ食べるなと言われてるの。父さんならちゃんと教えてくれると思う」

「大杉に話を聞くのも良いが……。そもそもあんたが直に海を見たいって言って来た事が伝わっても大丈夫なのか?」

 海はカイに笑って頷いた。長い髪が笑顔と一緒に揺れる。

「うん、良いよ。そう言うところは気にしてくれるんだね」

「……親子喧嘩に巻き込まれるのは面倒だからな」

 そこへ佐伯が戻って来た。佐伯は三人と同じテーブルについている海を見て、一瞬眉を寄せる。

「海、何してるんだ?」

「生まれて初めてランド・ウォーカーと話したの。凄く面白かった」

 海はベンチから立ち上がって三人に言った。

「皆の期待には応えられないかもしれないけど、頭の隅に置いといて!」

 そして佐伯が口を開く前に、駆け足で庭園から出て行く。佐伯はその背中を黙って見ていたが、すぐに三人に向き直った。

「すみません。何か面倒な事を言われませんでしたか」

「別に。それより、あんたが来たって事は物品の準備が終わったのか」

 そう言うカイに佐伯は笑顔を見せる。

「はい、お待たせしました。再度代表の部屋へご案内します」


 大杉の部屋へ戻ってきた三人は、最初にこの部屋へ来た時と同じ場所にそれぞれ腰を下ろす。大杉もタブレットを持って向かいに座った。眼鏡の奥の目は、この短時間の間に隈を濃くしたように見える。

「大変お待たせしました。幸い、指定された物品は全て準備する事ができました。一階まで持って行きますが、申し訳ありませんが車両への搬入はそちらでお願いします」

「ああ、勿論。車に行くまでの間に死体がごろごろ転がったら困るからな」

 カイがそう言うなり、タケルが堰を切ったように話し出した。

「あのさ、さっきあんたの娘から海を見に行かせてくれって頼まれたんだけど、その報酬に三陸の海産物を要求したら今は食えないって言われたんだよ。本当に食えないの?」

 大杉は眼鏡の下で目を細める。やつれた頬に挟まれた口が、一文字に結ばれた。そしてそれをこじ開けるように重たい声が這い出て来る。

「海がまたそんな事を……」

「また?」

 大杉は入り口の壁際に立つ佐伯を一度見た。佐伯もその弱った目を見返す。そして小さく頷いた。

「……海は……以前、上のランド・ウォーカーに乱暴された事があったのです。その記憶は本人には無いようなのですが……それからと言うもの、海を見たいと言うようになりました」

「自殺願望か?」

 カイの単刀直入な質問に大杉は些か驚いた様子だったが、苦々しく頷いた。

「そうかもしれませんし、単に気を紛らわせたいのかもしれません。私としても、それが叶えてやれる希望なら喜んで海まで連れて行きます。ですが、直接風に当たったりすると、運が悪ければ死んでしまう。まして海岸沿いは内陸より風が強く、所謂霧の嵐と言うものが起き易い環境です。我々にとって海は……もう母なる海ではないのですよ」

 そこでタケルが身を乗り出す。

「三陸の魚は本当に食えないのか? もし食えるなら、それを報酬に海を襲った奴を俺が殺してやっても良いぞ」

 大杉は目を丸くして首を振った。

「魚は、実は食べられます」

「でも海は汚染水を流したって……」

 困惑するシズマに、大杉は更に首を振る。

「それは霧が発生した当初の動乱期です。深刻な人手や物資の不足でやむを得ず放出したと聞いています。ですがその後すぐに政府からランド・ウォーカーの斡旋などの支援があり、地下水の汲み上げも問題なく行えるようになりました。津波の影響で破損した原子炉の廃炉作業や防護壁の建設は国の目標の倍近い時間が掛かってしまいましたが、それも十年前には完了しています」

「じゃあ、何で魚は食えないって事になってるんだ?」

「タケルさんは随分と三陸の海産物が気になるようですね。人を殺してでも食べたいですか」

「うん」

「……魚を食べられない理由は、ここで働くランド・ウォーカー達を原発の仕事に集中させるためです。霧が出るようになってから漁業と言う物は職業としては無くなってしまいました。地上へ出られる皆さんはあまり感じないかもしれませんが、人と言うものは、この楽しみも無い地下空間の中で食と言う物にそれを見出すのですよ。自ずと稀少な漁獲物は価値が上がります」

「原発での仕事より良い報酬が出たら、皆そっちに移るから?」

 大杉はタケルに頷いて眼鏡を押し上げた。

「この居住区は政府からの援助も他と比べれば多いのでランド・ウォーカーが集まり易いのですが、その分地下に居る我々が持つ資産も他より多少は多いのです。漁獲物が出回るようになれば、原発が疎かになってしまう危険があります。それで……不本意ではありますが、嘘も方便です。皆さんもこの事は内密にお願いします」

「……東京湾でも漁をしたとかそんな話は何も聞かなかった。それも同じ理由なのかもしれないな」

 納得した様子のカイだったが、その隣でタケルは縋るような眼差しを大杉に向けている。

「美味い海産物を食わせてくれたら、海を襲った奴をあんたの望み通りに殺してやる。どうだ、良い条件じゃないか」

「い、いえ、確かに娘に乱暴した人物は憎いですよ。だからと言って殺して良いと言う道理はありません。ここにも警察機能はありますし、その男は既に強制労働に従事していますよ」

「なんだよ。そんなクズ野郎、一人死んだって誰も困らねえだろ」

「……ええ、彼が死んだところで誰も困らないかもしれません。それに、もしもここが無法地帯なら私だって殺していたかもしれない。ですが、我々は法の下にまとまらなければたちまち殺し合ってしまう脆さを抱えた生き物です。代表である私がそれを守らなければ、この居住区はただの吹き溜まりになってしまう」

 大杉の目には淀んだ光があった。

「なあ、大杉さん」

 シズマの声に、大杉は我に返って視線を戻す。

「三陸の海産物をもらえればタケルが海の望みを叶えてやれる。この辺の温泉の情報をもらえれば、俺でも良い。どうする? 海を連れて行って良いのか」

 大杉は再び視線を床に落とした。少しの間そうして考えを巡らせていたが、徐に顔を上げる。ただでさえ疲れた目元に、更に心労が増したように見えた。

「有難い申し出ですが、私から言える事は……海には防護スーツを着せ、絶対に脱がせない事を守らせて頂けるのであればお願いしたいと言う事だけです」

「でもそれじゃあ海の望みは叶わないけど?」

「……防護スーツを脱いで、もしもその時に霧が湧いたら……」

 そこにタケルが明るい声を挟む。

「全部脱がなくたって、頭だけ出しといて何かあったらすぐ被れるようにしとけば良いんじゃないか? それか、車の中から窓だけ開けて風を浴びるとか。それなら霧が湧いてもすぐには中に入らないし、窓を閉めて空気清浄機を回せば死なないんじゃないかな、たぶん」

「…………」

 遂に目を閉じて考え込む大杉だったが、その姿を見てカイが深い溜息を吐いた。

「もう良いだろ。三陸の海産物はここじゃなくたって獲れるって事が分かった。今度は海に潜れば良いんじゃねえか、タケル? 別にあいつの依頼を受ける必要もない」

「まあな、そりゃそうだ。じゃあ、さっさと出発するか」

 立ち上がる二人をシズマも追う。

「温泉は?」

「そんなもんはその辺で誰かに訊けよ!」

「ご立腹だな、カイ」

「面倒な話は御免だ」

 三人が部屋を出ようとするので、佐伯は慌てて扉を開ける。その開け放たれた扉の前で、カイは顔だけ大杉の方へ向けて言い残した。

「物資は有難くもらう。あんた、娘が心配ならもっと気を配ってやった方が良いんじゃないか。あのままじゃ、いつか勝手にここを出て行って死ぬぞ」

 そうとだけ言って歩き出そうと一歩踏み出したカイに、大杉の珍しく大きな声が飛び込んだ。

「私は……! どうにかして娘を救いたい! でもこの世界を見てくれ。この世界のどこに、私達の逃げ場があると言うんだ! 地下の穴倉で、地上を闊歩できるランド・ウォーカーに媚びへつらって、そうして生きるしかないんだ! どうやって娘を救えと言うんだ!」

 立ち止まったままのカイは、踵を返して椅子に座ったままうなだれている大杉の横に立った。大杉はしおれた雑草のようにしぼんでいた背中を起こし、カイの黒い瞳を見上げる。

 カイの瞳はただ平静だった。地底人に負けず劣らず白い肌には何の高揚も緊張も見られない。そして唇は静かに言葉を吐き出す。

「だったら俺が預かってやるよ。あんたにその勇気がないなら、俺が代わりにやってやる。どのみち海は止められない。四六時中誰かが監視してるなら別だがな」

 大杉が何かを口にする前に、カイは静かに部屋を出て行った。


「待って下さい」

 大杉の部屋を出て純白の通路を進んでいると、後ろから佐伯が駆けて来た。

「タケルさん、あなたにお願いがあります」

 タケルは目を丸くして佐伯を見る。佐伯は至って真面目な顔をしていた。

「え、俺?」

「はい」

 カイもシズマも佐伯の要求が手に取るように分かったが、まずはその訴えを聞く事にする。

「タケルさん、あなたが欲しい物は私が用意します。だから……海を襲った男を……殺してくれませんか」

「良いよ」

 冷や汗をかきながら意を決した佐伯とは裏腹、タケルはいつもと変わらない様子で頷いた。

「魚や貝を用意するには少し時間がかかります。少し待って頂けるなら、明日の夕方までには報酬を渡せると思います」

「分かった。そのクソ野郎はどこに居るの? あまり大事になるとカイが怒っちゃうからさ、できれば人が居ない所で済ませてえな」

「強制労働は外の作業場で行われます。そこなら……」

「じゃあ、詳しく教えてくれよ」

 佐伯と共に通路を進むタケル。カイは海を探すべく先程の庭園に向かおうとしていた。

「おい、タケル!」

 タケルは振り返るとあっけらかんとした笑顔で鉄パイプを頭上に掲げた。

「さくっと済ませるからさ、心配すんなって!」

「下手こいたら置いてくからな!」

「はいはい!」


 タケルが佐伯と共にどこかで作戦を練っている中、カイは例の庭園のベンチに戻っていた。海がどこに居るか分からないので、一先ず分かり易い場所へ戻ったのだ。シズマは温泉を諦められないようで、行き交う住人に訊き込んでいる。

 庭園の緑を改めて眺めると、よく手入れされた造形に感心する。植物の配置も、それぞれの剪定も、見る人の目を楽しませ心を癒す事だけを目的に洗練されている。そんな景色を前にすると、さっき大杉が言っていた言葉が思い起こされた。

 この世界のどこに逃げ場があるのか。どこに救いがあると言うのか。

 この庭園は確かに一時の救いをもたらすだろう。だがこの頭上にはランド・ウォーカー達の居城があり、その外には命を奪う霧がある。ここへ来る前に地図を見た時に確認したが、海岸線一帯は特に霧が出易い地域となっていた。海を連れて行ったとして、無事に帰すのは至難の業だろう。まして本人に自殺願望があるとすればなおさら。

「あれ、カイくん。もう出発したんじゃないの?」

 ぼんやりと緑を眺めていると、背後から海の声がした。

「やっぱりここに居れば来ると思ったのは当たりだったな」

「私に会いに来てくれたの?」

 海は嬉しそうに笑って隣に腰を下ろす。カイはどこか気まずくなって少し距離を取った。

「別に、会いたくて来たんじゃねえよ。タケルの奴が野暮用で出発が遅れたんだ。明日の夜くらいにはここを出る」

「そうなの? でも今、ここに居れば会えると思ったって言ってたじゃん」

「会いたかったんじゃない。用があったんだ」

「用って何?」

 距離を詰めて来た海から離れようとするが、カイの先にはもうベンチは無かった。諦めてそのまま話を進める。

「お前の望み、叶えてやるよ」

 海は目を輝かせてカイの目をまじまじと見た。カイは咄嗟に顔を背ける。

「海に連れてってくれるの?」

「そうだよ」

「嬉しい! ありがとう! あ、でも……カイくんの報酬はちょっと払えないかも。それとも……父さんが良いって言ったの?」

「大杉は何も言ってない。大杉があまりにも煮え切らないから代わりにやってやるって言ったんだ」

「そうなんだ……。でも、報酬は?」

「面倒だから要らない。後で適当に大杉からもらう」

「ランド・ウォーカーってそんな事してくれるの?」

 信じ難いと言った顔でカイを覗き込む海。カイは益々居心地が悪くなった。

「言っとくけどな、命の保証はないぞ。死んでも良いんだな」

 ちらと海の顔を見返すと、彼女はどこか遠い目で頷く。

「うん、良いよ」

 やはり、この女は死ぬ気なのだ。カイはそう思った。そんなカイに、海は至って明るく言う。

「ねえ、そうと決まったらいつ行く?」

 カイはハッとして時計を見た。既に夕方になっている。

「太平洋なら朝行った方が良いだろ。朝日が見られるぞ」

「そうだね! じゃあ朝早く行こう!」

「なあ」

 カイはこの女に会ってからずっと抱いていた疑問を口に出した。

「あんた、何でそんなに元気なの?」

 海は庭園に視線を泳がせる。

「だって、元気が無きゃ嫌になっちゃうじゃん? 逆にさ、何でカイくんは元気じゃないの? 自由に外の世界を生きられるんだよ。それって凄い事じゃない」

「別に、生まれた時からこう言う性格だから」

「楽しみとか無いの?」

「楽しみ……特に無い」

「好きな事は?」

「……特に無い」

「仕事が無い日は何してたの?」

「俺は外国語を使えるように教育されていたから、本を読んだり、映像資料を見たりしてた」

「勉強してたんだ! 凄いね! じゃあ英語とか中国語が話せるの?」

「英語、中国語、ロシア語は不自由なく使える。あとはフランス語、スペイン語……まあ、この辺はまだ充分とは言えないかもしれない」

 海は目を輝かせてカイの話を聞いていた。カイは自分の話をこんな風に聞く人間に会ったのが初めてで、どう反応すれば良いのか分からず、ただ黙ってじっとしている。

「カイくんって偉いね」

「は? 偉い?」

「だってそう言う勉強って日本のためにやってくれてるんでしょ? そっか、分かったかも!」

「何が?」

「カイくんは自分の楽しみよりも皆のためになる事を優先してたから、好きな事とかまだ見付かってないだけなんだよ」

 カイは難しい顔をして首を傾げた。

「いや、別に社会貢献とか考えてねえよ。子供の頃からそうやって育てられたってだけ。やらなきゃまともな生活させてもらえなかったし。まあ、幸い語学は嫌いじゃなかったけど」

 すると海はカイの肩を小突く。

「人に褒められたら素直に喜んだ方が良いぞ!」

 カイは小突かれた肩を擦ってそっぽを向いた。

「別に……」


 その日の夜、カイとシズマが来客用の部屋で休んでいる中、タケルは居住区の外へ出ていた。佐伯から聞いた強制労働施設は居住区のビルから少し離れた場所にある。周囲を森の木々に囲まれ、高い塀に遮られていた。さすがのタケルもこの塀をよじ登って入る訳にはいかない。塀の上には有刺鉄線が張り巡らされているのだから。

 そこで佐伯から渡されたのは看守の制服だった。タケルのサイズに合う物を用意するのに少し手間取ったようだが、何とか調達した。それを着て、タケルは塀の内側に居る。

 ここは居住区が運営している小規模な刑務所代わりの施設だ。そのため受刑者も少なければ看守は更に少ない。最低限の人数で運営しているので野外に一人、屋内に二人くらいしか夜勤者は居ないのだ。

 この日の作業を終えて宿舎へ戻る受刑者の中に、タケルは佐伯から聞いていた男の特徴を探す。そして服に書かれている受刑者番号を確認し、目標と思しき男に近付いた。

「おい、八五番!」

 男は気怠そうにタケルを振り返った。

「何だよ」

「ちょっとこっち来い。お前の作業は半端だったぞ。もう一回やり直せ」

「は? 難癖つけてんじゃねえよ」

 そう言って宿舎へ戻ろうとする男に、タケルは薄闇の中で男の目の前まで歩み出た。男は目の前に立ちはだかるタケルを見上げる。

「八五番、それが看守への態度か? お前、自分がやった事反省してんのか?」

 男は負けじとタケルを睨み上げた。

「反省? あんた俺がランド・ウォーカーだって知らねえのか? 俺達に反省なんて言うもんがある訳ねえだろ」

 タケルは男の頭を片手で鷲掴みにする。男はその恐るべき怪力に呻き声を上げた。

「反省をしない生き物は、学習をしない生き物だ。俺もランド・ウォーカーだけどな、反省はするぞ」

「っ……! な、んだ、てめえ……!」

「さあ、さっさと終わらせよう。俺だってもう寝る時間なんだよ」

 そう言って男を物陰に放り投げる。盛大な物音が響くが、既に屋外には誰も居ない上に屋内の看守も帰室した受刑者の点呼のためにその場を離れていた。

「や、やめろ! 殺す気か!」

 怯える男を塀の際まで追い詰め、タケルは体を屈めて男の首を掴む。そして地面にへたり込んだままだって男を軽々と立たせ、その頭部を硬いコンクリートの壁に強打した。重たく鈍い音が徐々に濃くなる闇に広がる。

「殺す気だよ。そうに決まってるだろ」

 既に男からの返答はなかった。それでもタケルは打ち付けるのを止めない。手はすっかり血糊を被り、生温かい体液が飛び散る。損壊した頭部の一部が地面に落ちる度、水っぽい音を立てた。

「お前を見るも無残なくらいにボコボコにして、俺は美味い魚を食うんだよ。こんな良い話は無いね。楽な仕事は好きだぜ」

 もう打ち付ける場所が無くなった男の首から手を離し、タケルは佐伯に言われた通りの順路で強制労働施設を後にした。

 施設を出たタケルはガラス張りの玄関から堂々と居住区へ戻る。既に消灯した建物内は常夜灯の光だけで薄暗いが、入り口のすぐ先に佐伯が立っているのが見えた。

「ありがとうございました」

 そう言って頭を下げる佐伯に、森の中で血を洗って着替えて来たタケルはパーカーのポケットに手を突っ込んだまま笑う。

「さあ、これで明日はシズマに美味い料理を食わせてもらえるぞ!」

「奴は……どうなりましたか」

「あんたの依頼通り、ボコボコにしたよ。頭が殆ど無くなった」

「……そうですか。苦しみましたか」

「さあ、それはどうだろうな。本人じゃなきゃ分からねえだろ」

 タケルはカイとシズマが借りた部屋へ向かうべく、地下への扉を開いた。佐伯も来るのかと振り返ったが、彼はただ何も言わずにガラスの内側から空に浮かぶ月を眺めていた。


 地下の居住区ではカイは既に布団で横になっていた。三枚並べて敷かれた布団の一番奥がカイだ。シズマは真ん中の一枚に座ったまま、明日作る料理の事を考えている。既に電気を消した暗い部屋の中、暫く考えを巡らせていたが不意にカイを呼んだ。

「カイ、起きてるか」

「……寝ようとしてた」

「はは、ごめん。明日の朝、本当にあの子を海に連れてくの?」

「ああ」

「やっぱりあの子、死ぬ気なんだろ?」

「たぶんな」

「良いの?」

 カイは暗い室内で何もない天井を見上げる。地下は静かだ。地上で車中泊をしていた時は虫の鳴き声や風の音が聞こえて来た。今はそれもない。正真正銘の闇が訪れようとしている。

「なあ、シズマはさ、この世界に救いがあると思うか」

「救い?」

「大杉のおっさんが言ってただろ。この世界には救いが無いって」

「ああ、あれか」

 シズマは同じく布団に仰向けになり、暗い天井を見上げる。

「別に救って欲しいとか思った事ないし、分からない。日光の爺さんたちは東照大権現が救いだったみたいだけどな」

「そうか、あそこには救いがあったのか」

「カイは?」

「……俺も分からない」

 その時、部屋の扉が開いてタケルが入って来た。

「ただいま!」

「うるせえよ、さっさと寝ろ!」

「何だよ、カイはまたご機嫌斜めか」

 そう言って布団に腰を下ろす。

「どうだったの?」

「聞きたい?」

 タケルは横になったままシズマの方に寝返りを打つ。シズマも同じくタケルの方を向いた。

「何て事ないつまらない野郎だった。注文通りボコボコにしてやったよ」

「はは、タケルが言うボコボコは、俺達が言うメチャクチャだろうな」

「そうかも」

 そんな二人にカイは言う。

「俺は明日早いんだ。寝るから黙ってくれ」

「はいはい、デートだもんね」

 カイの手がシズマを一発叩いた。


 次の日の朝、カイは約束通り居住区の入り口で海を待っていた。まだ日が昇らない空には星が輝いている。だが東の空はうっすらと明るくなり始めていた。

「おはよう」

 くぐもった声に振り返ると、そこには防護スーツを着た海が立っている。防護スーツも霧が現れて八十年経ち、かなり改良されている。昔はまるで宇宙服のようなとてつもなく重くかさ張る物だったが、今は服の上から着られるにもかかわらず、ウェットスーツほどの軽量化に成功した。それでもろ過装置の付いた背部は膨らんでいる。顔の部分はドーム型のアクリル板で覆われているので、顔は見えるし視界も確保されている。

「これ着るの初めて。変じゃない?」

「変も何も、そう言う物なんだからそれ以上も以下も無い」

「はは、だよね」

 海はカイに促されるまま、車の助手席に乗り込んだ。

「中では顔出しても良いよね?」

「ああ」

 車が走り出し、海は防護スーツから頭だけ出す。そして物珍しそうに周囲の景色を眺めた。

「やっぱり近くで見ると同じ森でも全然違うね」

「そう言うもんか」

「うん。ガラス越しだと……お預けされてるみたいだもん」

「ふうん」

「カイくんは運転上手だね。これも習ったの?」

「ああ。さすがに船や飛行機は操縦できないけど」

「まあ、今はどっちも動いてないもんね」

 二人を乗せた車は原発の敷地外をぐるりと回る形で海岸へ向かった。幸い、まだ霧は立ち昇っていない。

 カイは海岸線ぎりぎりで車を止める。そしてエンジンを切った。助手席の海は防護スーツを着直し、頭もしっかり覆う。

「さあ、好きなだけ見て来いよ」

「カイくんも一緒に行こうよ!」

「俺は連れて行くだけだろ」

「早く降りて!」

 海は助手席から降りて運転席側へ回り、ドアを開けてカイを引っ張り出した。

「何で俺まで……」

「カイくんも太平洋の日の出見た事ないでしょ?」

「ないけど……」

「じゃあ、ほら! 早く!」

 カイは仕方なく海に引かれるまま海岸へ向かう。

 二人は明るくなり始めた水平線を並んで眺めた。海はふと隣に立つカイを見る。カイの少し伸びた髪が風に揺れている。

「風、冷たい?」

「いや、それほどでもない」

「潮の匂いする?」

「ああ、海の匂いだ。あ、日が昇るぞ」

 カイの指が示す先を見ると、水平線に眩しい光の塊が顔を出し始めていた。

「わあ、凄い! あれが日の出なんだ!」

「確かに……凄いな」

 カイの瞳が太陽の光を吸って輝いて見える。海は防護スーツのジッパーを下げ、頭を出した。

「本当だ。風が気持ち良いね。それに、不思議な匂いがする」

「おい、早く着ろよ。向こうに霧が見える」

 太陽が昇った事によって今まで闇に潜んでいた霧が見えるようになってきた。海岸線の土から、うっすらと黒いモヤが上がっている。風向きを考えればこちらへ流れて来るのも時間の問題だ。

「ねえ、カイくんはどうして霧が出ると思う?」

「は? 今そんな事……」

「私はね、地球が怒ってるんだと思う。人間は好き勝手し過ぎたんだよ」

 カイは海を振り返ってその頬を両手で覆うように自分の方を向かせた。

「しっかりしろ! さっさと着るんだ」

 防護スーツに伸ばそうとするその手を、海が掴んで止める。

「私達は地球で生まれて地球で生きる生き物なんだよ。それなのに、地球に殺される。私はもう……こんな世界は……いや」

「……そんなに死にたいのかよ」

「あんな土の下で、ガラス越しに指をくわえて生きるのはつらいよ……。それに……」

「あんたは覚えてないかもしれないが、あんたを傷つけた奴は昨日タケルが殺した。そいつがのうのうと生きてるせいで死にたいなら、そんな事のために死ぬ必要ないんだ」

 海はカイの目を真っ直ぐ見てにこりと微笑んだ。

「……ありがとう」

 そう言って、カイの方へ顔を寄せる。

「私からの報酬」

 二人の唇がそっと重なる。カイは驚いて海の肩を掴んで離れようとするが、その前に海がカイを抱き込んだ。その時、風が二人を包み込む。五月の朝、爽やかな海風。だがそれは真っ黒な風だった。

 カイは急に力を失って地面に落ちて行く海の体を抱き止める。霧の嵐で視界が悪い。目の前に居るはずの海の顔すらよく見えなかった。こうなったら風が止むまでじっとしているほかない。

 黒い空気の中、手に海の髪が触れる感覚があった。そのまま引き寄せると、海は眠るように目を閉じていた。喉元に手を当てて脈を診るが、やはり死んでいる。

 霧に当たると、地底人は眠るように死ぬと言う。果たしてそれは本当だった。


 霧の嵐が止み、カイは海の体を車に乗せて居住区へ戻った。三重の扉を潜ると、ガラス張りのエントランスホールには大杉が立っている。海を抱えて入って来るカイを見るなり、大杉は涙を流して駆け寄った。

「海! 海!」

 カイは力ないその体を近くのソファーに横たえる。

「死んだ。自殺だ」

「……ああ、海……」

 大杉は海の遺体から防護スーツを脱がせていく。すると胸元から一枚の紙が出て来た。

「これは……」

 紙に綴られた文字に大杉は何度も目を通す。そこには自分の意志で死を選んだ事、そしてそれは誰の責任でもないと書かれていた。

「海……。許してくれ……父さんが、もっと早くお前と向き合ってあげられていれば……」

 カイはただその様子を見ていたが、地下へ向かう前に海の顔をもう一度覗く。穏やかな寝顔のようだった。

 ガラス張りの世界に、朝日が差し込む。


 その日の昼にはタケルのもとに佐伯から三陸の海産物が届いた。どうやら佐伯は防護スーツを着て自ら貝や魚を獲って来たようだ。漁の規制が嘘だと悟られないよう、日勤のランド・ウォーカー達が外をうろついていない時間を狙って行ったらしい。防護スーツの耐久時間はせいぜい三十分程度で、それを過ぎるとフィルターを交換しなければならない。そう考えれば佐伯にとっては賭けのような漁だったはずだ。

「数は少ないですが、皆さんで食べて下さい」

 発泡スチロールの箱を受け取り、タケルは大きく頷いた。

「ありがとな!」

 本当はこれを料理するまでは居住区に居る予定だったが、海が死んだ事を受け、騒ぎになっては困るのでタケルの報酬が入ればすぐにでも発つ事にした。

 エントランスホールには大杉が用意した物資が並んでいる。三人はそれを車に積み込んでそれぞれがシートに座った。運転席のカイがエンジンをかける。

「眼鏡のおっさんは居なかったな」

 助手席のタケルが発泡スチロールの箱を覗き込みながら言った。

「わざわざ見送りに来る必要もないだろ」

 カイはハンドルを切ってサイドミラーに映るガラス張りのビルを一瞬見る。だがすぐに前に視線を戻した。

「なあ、シズマ! これどうやって食う?」

「そうだな……」

 シズマは更に狭くなった後部座席から身を乗り出し、タケルが抱える箱を覗く。

「浜焼きって言う食べ方があるらしい。至って簡単なんだ。炭火を起こしてそれで焼くだけ」

「それ美味いの?」

「新鮮なものは新鮮な内にシンプルな方法で食べるのが一番美味い!」

「よし、じゃあそれで!」

 意見が固まったところでシズマはそのままカイの方を向いた。

「と言う事で、どこかの海岸に停めてよ、カイ」

「海岸……」

「俺も目の前で海を見てみたいな」

 そう言うシズマに、カイは苦笑して頷いた。

「分かったよ。行こう、海」


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