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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
3/18

神の森

筑波を出て北上するカイとタケル。珍しく運転を代わると言い出したタケルだったが、それにはある魂胆があった。

3 神の森


 この日、カイはジープの助手席に座っていた。昨日までは運転席でハンドルを握っていたが、今朝になって急にタケルが運転すると言い出したのだ。まだ東京を出てから数日だが、タケルが運転すると言い出した事など一度もない。きっと何か思惑があるのだろうと考えながら、窓の外を流れる深い緑を眺めていた。

 巨木と化した街路樹がアスファルトを押し上げるせいで、道はどこも凹凸がひどく、ジープは大きく揺れる。カイは地図を取り出して今よりもいくらか良い道は無いものかと探していた。

「タケル、もっと街の中心部に行けばここよりマシな道路があるぞ。そっちに行こう」

「嫌だ」

「は?」

 カイは地図を畳み、ハンドルを握るタケルを睨む。迷いのない答えを寄越したタケルは、何故か目を爛々と輝かせて食い入るようにフロントガラスの向こうを見ている。やはり何か別の目的があったのだ。

「何でだよ」

「行きたい場所があるんだよ」

「行きたい場所?」

「そう。お前に先に言っちまうと絶対に反対されると思って、黙ってた」

「お前の観光に付き合ってる時間なんてねえよ」

「ほらな! 絶対そう言うと思ったよ!」

 タケルはいっそうアクセルを踏み込んだ。そのせいで車は更に大きく揺れる。その拍子にカイはドアフレームに頭をぶつけた。

「やめろ! 危ねえだろが!」

「俺は俺の行きたい場所へ行くんだ!」

 まるで激流の川を下っているかのように揺れる車内で、カイは舌を噛まないよう気を付けながら何とか声を上げる。

「どこなんだよ! 行きたい場所って!?」

 タケルは爛々と目を輝かせて前を見たまま言った。

「温泉だ!」

 思いもよらない答えに、カイは呆れを通り越して脱力する。

「……温泉」

「そう! 東京に居た頃、一回だけ入った事があるんだ。それが最高に気持ち良かった! この先の鬼怒川って言う川の近くには温泉街があったらしい。もしかしたら今でも入れる場所があるかもしれねえ」

 タケルが嬉々として語る度に車体は飛び跳ねる。カイはシートにしがみつきながらこの先の長旅の事をあれこれ考えていたが、遂に観念して深く頷いた。車が揺れるせいで頷きなのか何なのか分からなくなっていたが。

「分かった。温泉でも池でも沼でも好きな場所に入れ。だからもっと慎重に運転しろ!」

 それを聞いたタケルは助手席でシートにしがみついているカイを振り返って笑う。

「やったね!」

「……最初からこうするつもりだったんだろ」

「そうだよ。お前は俺の事を見くびり過ぎだ。こう見えて頭も切れるんだからな」

「それを自分で言わなけりゃ、いくらかマシだったよ」


 濃い緑が左右から迫る道をひたすら進むと、小さな川の向こうに小高い山が見えて来た。山や森などはこれまでも見飽きるほどあったが、カイはその山の異様な景色に目を細める。その小高い山の周囲だけは道が整備されており、その道に白い点がいくつも見える。よくよく目を凝らすと、車が進むにつれてその点の正体が明らかになってきた。

「あれ……人か」

「うん?」

 タケルもハンドルを握りながら山の方を見る。

「ああ、人だな。二十人くらいは居るんじゃないか? 全員白装束だ。すげえ怪しい」

「確かに、怪しいな。で、お前の言う温泉ってのはこの辺で合ってんのか?」

 するとタケルは豪快に笑って言った。

「知らねえ! だいたいこの辺だと思ったんだけどな!」

「は? 知らねえのに走らせてたのかよ!」

 咄嗟に地図を確認するが、温泉の在処など書かれている訳がない。

「あそこで誰かに訊こうぜ」

「…………」

 カイは盛大な溜息と共に窓の外に視線を投げる。このタケルと言う人間とはほとほと相性が合わない。こう言う行き当たりばったりのいい加減な性格はどうにも受け入れられなかった。

 タケルが車を山の方へ進めて行くと、川に掛かる橋の手前で黒い服を着た何者かが突然前方に飛び出して来た。

「あぶね!」

 ブレーキを踏み込み、車は黒装束の寸前で止まる。近くで見れば、黒装束は男だった。長い髪を綺麗にまとめた背の高いその男は、煙草をふかしながら運転席側の窓に近付いて来た。そして窓ガラスを軽くノックする。タケルが窓を開けると煙草の臭いが風に乗って入り込んだ。

「お兄さん達、こっから先は神域ってやつだからさ、車は降りてくんないと困るんだ」

 カイはこの臭いに耐え兼ね、助手席の窓を開けた。タケルは何ともないようで、いつもの能天気で男に言う。

「あんた、この辺に温泉あるか知ってる?」

「温泉?」

 煙草をくわえた男は訝し気にタケルを見る。

「お兄さん達は温泉旅行でもしてんの?」

「そうじゃねえんだけど、どうしても温泉に入りたくてさ」

 すると男は煙草を唇の寸前まで吸い込み、吸殻を吐き捨てて足で踏み消した。

「知ってるよ、温泉」

 タケルは嬉々としてカイを振り返る。

「知ってるってよ!」

「聞こえてるよ」

 車の窓枠にもたれる男は、怪しい笑みを浮かべてタケルに言った。

「でもな、悪いが、ただじゃ教えられない」

 その瞬間、タケルの笑みが消え去る。

「何でだよ」

「この辺じゃ、温泉に入れんのはそれなりの仕事をした人間だけだと決まってんだ。入りたけりゃ、お兄さん達も仕事をしてもらわなきゃ困る」

「は? 仕事? これ以上面倒な仕事増やされると困るんだよなあ」

 タケルはいかにも不機嫌そうで今にも鉄パイプに手を伸ばしそうだったが、外の男はそんな事は全く気にかけていない様子だ。見たところ二十代で、飄々とした口調に緩んだ口角は見ているだけで気怠い。

「そうだ、仕事だよ。ここで働いてるランド・ウォーカー達は仕事の見返りに温泉に入って美味いものを食う。そしてその温泉を管理しているのは、この俺だ」

「面倒だ、どっか別の場所に行こうぜ」

 助手席から聞こえたカイの声に、男は愛想の良い笑みを浮かべた。

「好きにしな。温泉は鬼怒川以外にもある」

「出せよ、タケル」

 だが一向に車は動かない。カイが運転席のタケルを見ると、タケルは難しい顔で何やら考え込んでいた。

「おい、何してんだよ!」

「考えてんだよ」

「考えるほどの事が何かあったか?」

「あった」

 タケルは漸く外に立つ男の方を向いた。全開した窓のフレームに身を乗り出し、真面目な顔で男に言う。

「美味いものって言ったよな? 具体的には?」

 思いもしない質問に男は楽しそうに笑った。

「いっぱいあるぜ。俺の一押しはカレーだ」

「カレー!?」

 カレー、名前だけは聞いた事がある。様々なスパイスやハーブを組み合わせて作られるカレー粉は貴重品で滅多に手に入らない。タケルは生まれてから一度もカレーを食べた事がなかった。

「お前まさか……」

 カイがそう言い欠けた時、タケルが声を上げる。

「働く!」

「おい! 勝手に決めんじゃねえ!」

「お兄さん、力持ちな感じがするぜ。ちょうど力仕事があったんだ。そっちのお兄さんは?」

 男は窓の外から助手席を覗き込む。カイは天井に向かって盛大な溜息を吐き出して言った。

「仕事っていったい何なんだよ。内容を聞いてからだ」

「食いもんには釣られねえか。慎重だな」

「慎重じゃない。俺が普通なんだ」

「まあ、話なら俺達の居住区でゆっくりしようぜ。あっちの空き地に車停めて来なよ」


 二人が案内された地下居住区は筑波のそれとは大きく違っていた。入り口は例の小高い山のすぐ近くにあり、川の手前だった。そこもまた周囲より高くなった場所だが、その高台の側面に地下への入り口がある。ドアの周囲に密閉用のゴムパッキンはあるが、ドア自体は普通の鉄の扉だ。その先の通路は狭く薄暗かったが、第二の扉を潜ると景色は一変する。

「おお、天窓付きなのかー!」

 タケルが見上げるほどの天井には広い天窓があった。初夏の青空が見渡せる上に、外へ出なくとも太陽光を浴びる事ができる。こうした天窓は大抵の居住区に作られているが、ここほど大きなものは珍しいだろう。

「かなりデカい天窓だろ?」

「こんなにデカい天窓、よく付ける気になったな。地底人どもは日光浴をしたがるが、同時に天窓は万が一壊れれば死んじまう代物だろ」

 眩しそうにその大きな天窓を見上げるカイに、男はにやりと笑った。

「お兄さんの地図には無かったか? ここは霧の発生が極端に少ないんだ。だからこれだけ大きな天窓を作る事もできる。入り口の扉も簡素だっただろ」

 カイは車から持って来ていたアタッシュケースを開け、地図を取り出した。確かにあの小高い山を中心に、この周囲は霧の発生が驚くほど少ない。

「本当だ……」

「何でなのかは誰も解らない。だが、霧が滅多に湧かないってのは事実なんだ。だから地底人達は週に一回くらいの頻度であの山に参拝するんだよ。今日も白い奴らがいっぱい居ただろ? あれは全員地底人だ」

 カイとタケルは驚きに目を見開いた。地底人が防護スーツも着ずに地上を歩き回るなど、一度も聞いた事がない。よほどの緊急事態でなければ絶対にありえない事だ。

「あの山に入ってった奴等だろ? あれ全部地底人なのかよ!」

 盛大に驚くタケルに、男は可笑しそうに笑う。

「はは! 良いリアクションだな! そうだよ、あいつら全員地底人だ! あの山にある日光東照宮に参拝してんだよ。だからあの川から先は神域だって言ったんだ」

 カイは相変わらず難しい表情で天窓を見上げた。

「まさか、東照宮があるから霧が湧かないとでも?」

 男はカイを見て首を傾げる。

「さあ、俺には解らない。でも地底人達はそう思ってる。だから命懸けで参拝するんだ」

「へえ、もしも霧が湧いたら、全員死ぬのにな」

 タケルは地底人達の行動など、あまり興味が無いようだった。

「この先に俺達の休憩室がある。そこで座って話そう」

 男は天窓のある明るい部屋から更に扉を二つ隔てた先にある部屋へ二人を案内した。そこはどこの居住区にもあるような地下室だったが、決定的に違うところがある。二十メートル四方ほどある部屋の中は暖色の照明で満たされ、木製の家具が綺麗に配置されている。テーブル、椅子、ソファー、そうした物が全て高級感を放っていた。照明の傘に至るまでが洒落ている。東京の集団居住区でさえこんな装飾は無かった。カイはまじまじとその空間を眺める。

「お茶でも持って来る。そこに座っててくれ」

 男はそう言って部屋の隅にある電気ポットからティーポットに湯を注ぐ。

 カイとタケルは男に勧められたソファーに腰を下ろした。座り心地の良い柔らかさだ。

「驚いただろ、まさか地下の居住区にこんな部屋があろうとは」

 男はカップに紅茶を淹れていく。そしてソファーテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰かけた。

「さあ、落ち着いたところで自己紹介といこう。俺はシズマ。温泉のためにここで地底人達の手伝いをしてる」

 タケルは真っ先に紅茶へ手を伸ばし、まだ熱いにもかかわらず一気に飲み干して言った。

「俺はタケル。カイのボディーガード兼見張り役だ」

「見張り……? カイってのが君か。ボディーガードって事は、お兄さんは何かの重役?」

 カイはカップに口を寄せるが、まだ熱いので再びテーブルに置く。そして目の前のシズマをじっと見据えた。この男もランド・ウォーカーにしては珍しく、愛想の良い類だ。

「そのお兄さんっての止めろよ。あんたの方が明らかに年上だろ」

「はは、君は手厳しいな。で、お偉いさんなの?」

「別に偉くなんかない。ただ、お遣いを頼まれたんだよ。それでアメリカを目指してる」

 アメリカと言う単語を聞き、シズマは危うく紅茶を吹き出しそうになった。

「アメリカ!?」

「嘘みたいだろ。嘘なら良いんだけど、本当なんだよ」

 カイは如何にも不機嫌そうに目を細めるが、向かいに座るシズマは対照的に目を輝かせている。

「何それ、すげえ面白そうじゃん! 色んな温泉に入れるぞ!」

「……は?」

「海路は今時使えない、空路は論外だ。って事は、君達これから北に向かうんだろ? そうすると……」

 シズマは両手の指で何かを数えていた。その表情は誕生日までの日数を数える子供のようだ。

「入りたい温泉がありすぎる!」

「おい、何であんたが入りたい温泉の話になってんだよ」

 すると、シズマの口からカイが予想していた通りの言葉が飛び出す。

「俺も連れてってくれ!」

「嫌だ」

 カイは用意していた答えを吐き出す。

「えー! 何でだよ、良いじゃん! タケルはどう思う?」

「こいつに訊くな。ロクな答えが出ない」

「カイ、俺にも決定権があって良いはずだぞ。少なくとも意見を言う権利はある!」

「うるせえ、黙ってろ」

 カイに睨まれながらも、タケルは全く臆する事なく声を張った。

「シズマ、お前、美味いもん自分で作れるのか?」

 シズマは待ってましたと言わんばかりに大きく頷く。

「当たり前だ! 何せ俺はここの地底人達の頭である料理長の爺さんに教わってるからな! 温泉に美味い食い物は絶対に欠かせないだろ!」

「よし、採用だ! な、カイ?」

 盛り上がる二人の隣でカイは程よく冷めた紅茶を飲んだ。こうなったら何を言ってもタケルは譲らないだろう。黙ったままのカイを見て、その答えを肯定と取ったシズマは目を輝かせる。

「いやあ、まさかこんな出会いがあるとは……」

「おい」

 漸く口を開いたカイ。

「俺が居なきゃアメリカ行きはない。タケルは馬鹿で厄介だが、あくまで主導権は俺にある。それを絶対に忘れるなよ」

「うん、分かった」

 本当に分かっているのか怪しい笑みのシズマ。この男も飄々とした態度のせいで、どうも掴めない。カイは空になったカップを置き、念を押すために改めてシズマを見据えた。

「じゃあ、お前があの車に乗って一緒に移動する上で条件がある。まだ先は長いから、保存食は極力温存しておく。お前の言う美味いもんってやつの材料は現地調達しろ」

「それなら俺も手伝うぞ。カイが入手した罠の情報もあるし」

 カイは再びタケルを睨む。そして淡々と続けた。

「それと、ここの温泉は働かないと入れないと言ったな。お前を乗せてやる代わりにただで入らせろ。俺達は呑気に働いてる時間が無いんだ」

 この温泉馬鹿なら快諾すると思っていたが、意外にもシズマは難しい顔をする。

「いやあ、それは難しいと思う。少なくとも多少は働いてもらわないと」

「何でだよ、温泉の管理はお前がやってんだろ?」

「俺は管理権限を委託されてるだけなんだよ。ここのあらゆる物事は、さっき俺が料理を教わってるって言った料理長の爺さんが仕切ってんだ。その爺さんが驚くほど頑固で、働かざる者食うべからずってのが座右の銘なんだよ」

「面倒な爺さんだな」

 お前の方が面倒だ、と心の中でぼやきながら、カイはそう言うタケルを睨む。

「力づくでやっちまうか」

 タケルの何気ない言葉に、シズマの顔から笑みが消えた。

「それは無しだ、タケル」

「別に、その爺さんが居なくなっても困らねえだろ?」

「そう言う問題じゃないんだ。あの爺さんはここの地底人達を束ねてる。そんな爺さんを殺せば俺達は良い生活ができなくなる。それに……ここは神域なんだ。人殺しは無しだぜ」

「シズマ、それ本気で信じて……」

 その時、タケルの声を遮って休憩室の扉が開いた。そこには全身白い服に身を包んだ小柄な老人が立っている。老人はシズマの姿を認めるなり、険しい顔つきで怒鳴った。

「シズマ! 居なくなったかと思ったら、なにをサボってやがる!」

「お、噂をすれば料理長の爺さんだ」

 老人は危なげない堂々たる足取りで三人の下へやって来る。小柄だがその存在感はこの部屋の誰よりも強烈だった。

「噂をすればだと……? この二人は、見ない顔だな」

 カイとタケルをじろりと見る老人。明らかに歓迎されていない様子だが、シズマは構わず笑って言った。

「この二人は客だ。鬼怒川温泉に入りたいんだと」

「ふうん、わざわざ温泉のためだけにこんな場所まで来るとは思えん」

 訝し気に二人を見る老人に、カイが答える。

「俺達は政府から重大なお遣いを頼まれて目的地へ行く途中なんだ。こいつがどうしても温泉に入りたいって言うから立ち寄った」

 カイは隣に座るタケルを指さす。当のタケルは何も言わずに目の前の気丈な老人を眺めていた。カイの説明にも、老人の険悪な表情は変わらなかった。

「お遣い? いったい何だってんだ」

 カイは仕方なくケースの中の書類を見せた。本来ならばこんな場所で得体の知れない老人相手にひけらかすような書類ではない。

 老人は服のポケットから眼鏡を取り出して黙々と書類を読んでいる。それから暫くして眼鏡を仕舞い、カイに書類を返した。

「話は分かった。私はここの長老の松平だ。電力供給のためと言う事なら我々も協力しよう。だがな、温泉に入るには東照大権現様のために何かしら働いてもらわなきゃならん。そう言うしきたりなんだ」

「東照大権現?」

 松平は敵意こそ無くなったものの厳しい表情のままタケルに言う。

「東照宮の神様だ。徳川家康と言う昔の偉い方が祀られてるのさ」

「神様か……。何をすれば神様は温泉に入らせてくれるんだ?」

「そうだな、あんちゃんは力がありそうだから、今修理中の工事を手伝ってくれ。そっちのあんちゃんは……」

 松平の視線の先には気まずそうに座ったままのカイが居る。色白で線の細いカイは、どこからどう見ても力仕事には向いていない。

「霧の見回りをしてくれ。参拝者が外へ出る前に東照宮周辺に霧が湧いていない事をシズマと一緒に確認するんだ」

「タケル、そこまでして……」

「よし、やるぞ!」

「…………」


 思いも寄らない運びとなり、結局のところ二人は明日から東照宮で働く事になった。

「タケル、お前のせいで全然先に進めないんだが」

 松平が出て行った後の休憩室は重苦しい空気の中で静まり返った。そこにカイの不機嫌な低い声が嫌に響く。カイはソファーに深くもたれると、溜息と共にタケルを横目に見た。当のタケルは全く気にも留めない様子で楽しそうにしている。

「ちょっとくらい良いじゃねえかよ。お前は霧が湧いてるかどうか見るだけで温泉に入れるんだぜ? 俺より楽じゃん」

 すると向かいからシズマの苦笑が割って入る。

「霧の確認も楽じゃねえんだけどな。まあ、力仕事よりはマシか」

 カイはそんなシズマを注意深く見据えた。東京の居住区でも、ランド・ウォーカー達は報酬と引き換えに様々な仕事を請け負っていた。どれも地下施設では対応できない地上設備の管理や運営で、その多くはライフラインに大きく食い込んでいる。そのため、地下に暮らす人間達の命綱をランド・ウォーカー達が握っていると言っても過言ではない。だが、それは同時に危険な事でもあるのだ。ランド・ウォーカーからすれば地底人達の命など何の価値も無い。気まぐれで仕事を放棄する事も考えられるからだ。

 それ故に、最も責任の重い場所には地底人が防護服や密閉室を準備して携わるのが常なのだ。そうしてランド・ウォーカー達を管理して働かせている。

「お前、霧の見回りを一人でやってるのか」

 シズマは警戒の眼差しを向けるカイに対してにやりと笑った。カイの言わんとする事を悟っているようだ。

「まあな」

「あの松平って爺さんにも信用されてるみたいだ。どうやってそこまで地底人どもに信用させたんだ?」

 シズマはまじまじとカイを眺める。カイの黒い瞳は鋭くシズマを捉えていた。

「どうって、あいつらが望む事をやってやるんだよ。全ては温泉のためだ。そう言う君はどうして命懸けでアメリカまで行くんだ? 確かに日本の電力供給はいつ壊れるか分からないようなオンボロの原発に頼ってる。でも俺達は例え電力が無くなっても原始的な生き方だってできるんだ。地底人達が絶滅したって関係ないだろ?」

「俺は……」

 カイは少しの間目を泳がせた。その隣でタケルまでもがカイの返答を待って、体ごとカイに向かってじっとしている。漸くカイは重たい口を開いた。

「うるさい地底人どもに、俺に構わないでくれと言いたかった」

「それなら、居住区からとっとと出て行けば良いだけだろ」

 するとカイは視線を落として頭を振る。

「お前、東京みたいな政府や自治体公営の居住区に行った事ないのか? ああ言う場所には地底人どもが特別に技術を教え込んだランド・ウォーカーが居るんだ。あいつらは生き残るために地上に出られる人間に自分達が受け継いだものを教え込む」

「それが君なのか?」

 カイは顔を上げて隣に座るタケルを指さした。

「俺だけじゃない、こいつもだよ。地底人どもはそう言うランド・ウォーカーを逃がさない。だから俺は今回の任務の報酬を俺に構わない事にしたんだ」

「なるほどな」

 シズマは椅子にもたれて息を吐いた。

「君達からしたら理解し難いだろうが、この居住区では神と言う存在が頂点に居るんだ。ここでは如何なる不和も嫌われる。地底人もランド・ウォーカーも、極力摩擦を起こさずに生きてるんだ」

「それが神域ってやつか」

 不可解そうに眉を寄せるタケル。シズマは口角を上げて頷いた。

「そう、それが神域の力だ。実際、俺はそれが気に入ってる。殺し合っても自分も死ぬかもしれないし、何の得も無いだろ? そして現にここでは霧が滅多に湧かない。因果関係は解らないけどな」

「確かに良いかもしれねえな、それ」

 難しい顔をしていたタケルが、思い付いたように身を乗り出す。

「だってよ、シズマが言う通り、殺し合いになったら自分にだってリスクがあるんだ。そんな事しなくても美味いものが食えて温泉に入れるなら、一番良いよな」

「いつも鉄パイプ持ってる奴が言うと説得力が無いな、タケル」

「これは俺の商売道具だからな。俺みたく圧倒的に強ければリスクの大きさが変わるだろ? 俺の場合は黙らせて好きな事した方が早い」

 タケルの大きな手がそっと擦る鉄パイプを見て、シズマは苦笑した。

「ここではそいつの活躍は無いだろうな。いや、無いようにしてくれよ」

 そう言うと椅子から立ち上がって二人に微笑む。

「さあ、実際に見に行こうか、日光東照宮を」


 二人はシズマの案内で東照宮を見に行く事になった。居住区を出ると、昼下がりの日差しが目に眩しい。初夏の風が濃い緑を揺らし、葉がざわめく。鳥の鳴き声がその中を軽快に縫って行き、川の水音がその下を流れて行く。確かにここは平穏だ。周囲には廃墟もなく、荒れ果てた森林も無い。道路も小高い山の周囲は綺麗に整備され、ここだけ見れば神域と言われてもおかしくない様相だった。

「日光東照宮ってのは江戸時代からあるんだってよ。関東を守るために、江戸幕府を開いた徳川家康を神として祀ったらしい」

 川に掛かった橋を渡り、三人は坂道を登っていく。深い緑に覆われてはいるが、この周辺の木々は良く手入れされている。人が居なくなり、ただ荒れ放題になって伸び続けている草木とは全く違った。

「ここに霧が湧かないのは昔からなのか?」

 カイは鮮やかな緑を眺めながら、前を行くシズマに訊く。

「そうらしい。日本でも霧が湧き始めた当初なんかは、霧を避けるためにたくさん人が来たんだと。霧避けの祈願とかも流行ったらしい」

「何でここだけそんなに霧が少ねえんだろうな」

 タケルは木々の太い幹をまじまじと眺める。無駄な枝は落とされ、地面には程よく日光が落ちていた。下草も伸び過ぎず刈り込まれ、風の通りも良い。

「さあな、それは誰も知らない。地底人達は東照宮の神様が守ってると信じてる。俺はそう言うのよく解らないけどな。二酸化炭素の発生量だとかなんとか言われてた時期もあったらしいが、今となっちゃあ、二酸化炭素なんざその辺の無人区域と変わらない。それでもここの方が霧は少ないんだ」

「実は他にもこう言う場所があるんじゃないのか? 後で地図を見れば書いてあるだろ」

 そう言ってカイはしっかり持ち歩いているアタッシュケースに目を向けた。霧の情報など自分には無関係だと思っていたので、これまで気にしていなかった。

 シズマは大きな石の鳥居の前で立ち止まる。

「ここは参道だ。鳥居をくぐる前には一礼し、参道の端を歩く。真ん中は神の通り道らしい」

「なんだか色々あるんだな。で、修理してるってのはどこなんだよ」

 タケルは物珍しそうに周囲を見回していた。

「この先だ」

 三人は鳥居をくぐり、参道を奥へ進む。鳥居の先には五重塔やいくつもの建物があり、外の様子とはまた違っていた。荒廃した街とは打って変わって、そのどれもが驚くほどきれいに管理されている。カイもタケルも、これだけ保存状態の良い伝統建築を見るのは生まれて初めてだった。

 壮麗な建築を眺めながら歩いていると、不意にシズマが足を止める。そして第二の鳥居の近くにある水場を示した。

「あそこだ。あれは御水舎と言って、参拝する前に水で手や口を清める場所だ。今は無いが本来あそこには屋根があるんだ。今それを直してる」

 そしてシズマはカイとタケルを振り返った。

「せっかくここまで来たんだ、参拝するか?」

「俺はいい。興味が無い」

「俺もいいや」

 カイ、タケルと味気ない返事が飛び出し、シズマは頷いて苦笑する。

「そう言うと思ったよ。実は俺も参拝した事ないんだ」

「ずっとここに居るのに?」

 シズマはカイに頷いて鳥居の奥を遠い目で眺めた。晴天の日差しに照らされた鳥居が、参道にくっきりと影を落としている。

「解らないんだよ。東照宮の神様ってのがここの霧を抑えてるなら、どうして地底人達をランド・ウォーカーにしてやらないんだって思うんだ。そうすればあいつらは自由になれる。いつでも好きな時に参拝できるし、掃除も修理も自分達の手で出来る」

 鳥居の奥からは初夏とは思えない程、涼やかな風が流れ出て来た。生き物の気配が何もない、恐ろしく静かな風だった。

「神が本当に居るなら、地底人どもをランド・ウォーカーにするはずない」

 そう言ったのはカイだ。シズマは眩しい日差しに目を細めるカイをじっと見る。

「だって、ランド・ウォーカーになったら神を信じなくなる。そうだろ?」

 シズマは何も言わずに笑った。


 次の日、カイはまだ空が薄暗い時間から居住区の外へ出ていた。シズマにこの時間に表へ出ているよう言われていたのだ。

 朝の空気はまだどこか涼しさを孕んでいる。青紫の空にはまだ所々に星が見えた。ここのところ東京では霧が多く、空を見上げてもこんなに綺麗に見える事は少なくなっていた。この日光にも居住区があり、東京ほどの規模は無いにしても地下には人間が暮らしている。それなのにここの空はこんなにも美しい。人々が神域と信じるのも無理はないように思えた。

「おはよ」

 そんな事を考えながら空を見上げていると、後ろから短い声がした。振り返ると、そこには長い髪を後頭部で丸めて留めるシズマが居る。手先が器用なようで、背中まである長い髪は少しの乱れもなく綺麗にまとまっていた。

「こんな時間から霧探しか? 薄暗いと見えねえよ」

「まだ霧は探さない。これからシェルターの点検をするんだ」

「シェルター?」

 シズマは頷いて煙草を一本くわえた。マッチで火を点けると、白い煙が朝の空気を泳いでいく。

「そう。いくら俺が霧を監視したって出る時は出るんだ。その時に逃げ込むシェルターがあるんだよ。昨日歩いた参道の周りにいくつもね」

「なるほど、神頼みだけじゃないんだな」

「まあな。けど、俺がここに来て十年以上経つが、未だにシェルターが使われた事はないんだ。それもそれですげえだろ?」

「……ふうん」

「さあ、行くか」

 二人は昨日も通った参道を進むが、この日は石畳ではなくその両脇に広がる砂利の上を行く。

「ほら、あそこに一つ入り口があるだろ」

 シズマが指さした先は、周囲と比べて砂利が避けられて薄くなっている。そこにシェルターの入り口が見えた。近付いて見なければ分からないように工夫されているようだ。

「こんな感じでこの先にも六か所ある。扉の開閉と密閉、空調の稼働を調べるんだ」

 シェルターの入り口を開くと自動的に明かりが点き、狭い急な階段が現れた。カイはシズマに続いてその階段を降りて行く。中はよくあるタイプの家庭用シェルターだが、食料の備蓄などは見当たらない。余計なものは何も置いていないのでスペースを最大限利用できる。

「何も無いんだな」

「長期間使う想定じゃないからな。あくまで霧が消えるまでの一時的なシェルターなんだ」

 シズマは入り口を閉めて管理用のタッチパネルをいじっていた。そこで空気の流れを確認する事ができる。

「霧がすぐに消える事前提か? もしも消えなかったらここで全員餓死するぞ」

「消えない時は俺達が居住区から防護スーツを持って来る」

「はは、そこまでしてやんのかよ」

 タッチパネルから顔を上げたシズマは、味気ないシェルターを見回すカイに微笑んだ。

「ああ、そこまでしてやんだよ」

 カイはさっぱり分らんと言う顔をしている。いくらこの男が温泉好きでも、こんな面倒な事をしなくても入れる温泉は他にあるはずだ。それなのにどうしてここまでして鬼怒川にこだわるのか。

「なあ、あんた、何でこんな面倒な場所にずっと居るんだよ。温泉なんか他にもあるだろ? 俺達と一緒にここを出るなら、もっと前にそうしてても良かったはずだ」

「うーん、何でだろうな。確かに物凄く面倒だし鬱陶しいけど、何でかここを出て行こうと思うほどの事が、今までは無かったんだな」

「俺だったらこんな面倒な場所はすぐにでも出るな。俺も東京では太陽光パネルの設置をやってたけど、それは自分の衣食住のためであって、地底人どもを助けてやるためじゃない。だから今回の任務が終わっても、あそこに戻る気は無いんだ」

 シズマはそう言うカイを見て目を丸くした。

「戻らないのか? じゃあ、アメリカに住むのかよ」

「いや、日本には戻る。情報を持って帰らなきゃタケルの野郎に殺されるんだ。その後だよ」

「ああ、なるほど。君達はそう言う関係なんだな。てっきり友達なのかと思った」

 するとカイは明らかに嫌そうな顔をしてそっぽを向く。

「んな訳ねえだろ」

「だな。俺達に友達なんて言う価値観はないもんな」

 シズマは再び入り口を開けて外へ出た。カイもその後に付いて階段を上る。外に出ると、空は東側が明るくなり始めていた。

「さあ、残りの六か所もこんな感じで点検するぞ。それから参道の周辺に霧が無いかを確かめながら居住区へ戻る」

「はいよ」

 気怠そうに足を進めるカイを引き連れながら、シズマは可笑しそうに笑う。

「カイはタケルの事嫌ってそうに見えて、何だかんだでタケルに付き合ってるの面白いよな」

「好きでそうしてんじゃねえよ。あいつは信じられない程の怪力で、俺を殺そうと思えば一捻りにできちまう。そんな野蛮人の神経を逆撫でしても何も得はねえってだけの話だ」

「まあでも、この先で何か命の危険があった時に守ってくれるのもタケルなんだろ?」

「……一応そう言う話になってる。あいつが馬鹿過ぎて使えない可能性もあるけどな」

「はは、そうなったら俺はさっさと逃げるわ」

 カイは前を歩くシズマの背中を一度睨んだが、小さく息を吐いて返した。

「好きにしろ。俺達に付き合う義務は無いんだ。だが、燃費を食う分は調理係として働けよな」

「分かってるって」


 二人が全てのシェルターの点検を済ませ、霧の有無を調べて戻る頃には昼前になっていた。太陽は高く昇り、風は徐々に熱くなる。タケルは他のランド・ウォーカー達と一緒に御水舎の修理に出ているようだ。シズマからはこの後は特にやる事がないと言われていたので、手持ち無沙汰になったカイはタケルの働きぶりでも見に行こうと外へ出た。

 御水舎の場所はもう分かっているので、真っ直ぐ現場へ向かう。地下の穴倉でじっとしていても仕方が無いし、昼食前の運動だと思えばちょうど良い。

 途中、何人かのランド・ウォーカー達とすれ違う。大きな木材を二人がかりで運んだり、塗料を運んだり、活気は無いが忙しそうではあった。御水舎の前まで来ると、すぐにタケルが目に留まる。作業をしているランド・ウォーカー達も充分体格が良いが、その中でも群を抜いて大きいタケルは遠くからでも目立っていた。

「タケル! その丸太をこっちに持って来い!」

「その丸太ってどの丸太だよ!」

 タケルに指示を飛ばしているのは驚く事に、あの松平だ。

「分かんねえのか! 俺が指さすのを持って来いって言ってんだ!」

「は? これか?」

「そうだ! さっさとしろ!」

「うざ! 何だこのジジイ!」

 そんなやり取りを見ていると、つい可笑しくて笑いが漏れた。その笑い声に気付いたタケルが振り返る。

「カイ! 何だよ、手伝いに来たのか?」

「馬鹿言え。俺はもう仕事が終わったんだよ。お前がちゃんと働いてるか見に来たんだ」

「……暇だな、お前」

「うるせえ」

 カイはタケルをあしらって現場で指揮監督している松平を見やった。その視線に気付いたのか、松平もカイを見て視線を止める。

「あんちゃん、力仕事する気になったのか」

「いや、タケルがちゃんと働いてるか見に来た」

「ああ、しっかり働いてもらってるよ。しかし、恐ろしく力があるな」

「実は品種改良された人間かもな。そんな事より爺さん、あんた外に出てて平気なのか?」

 松平はよく日に焼けた顔にしわを作って豪快に笑った。

「そのためにシズマとあんちゃんが下見したんだろうが!」

「いや、まあ、そうだろうけど」

 あまりに楽観的な返答に、カイは逆に呆気に取られてしまった。生まれてこの方、一度でもこんな地底人を見た事がない。

「ここはな、あんちゃん、我々にとって何より大切な場所なんだ。全部人任せにして、穴の中に引っ込んでる訳にいかねえのさ」

「ふうん」

 そこで松平はその場の若者全員に声を張った。

「おい! そろそろ昼飯にするぞ! 一旦居住区に引き上げだ!」

 その声に真っ先に反応したのはタケルだ。目を輝かせて松平に詰め寄った。

「昼飯!? 爺さん! 今日の昼飯は何だ!?」

「カレーだ!」

「やった! 遂にカレーを食う日が来たんだ!」

「今日のカレーはシズマが作ったやつだ。だが味に関しちゃあ、文句ねえできだぞ。何せ料理長の俺が仕込んだんだからな」

 嬉々として駆け出すタケルを後ろから微笑ましく眺める松平。その姿に、カイはずっと抱えていた疑問を呟いた。

「爺さん、シズマは俺達と一緒にここを出て行くつもりだって聞いてんのか?」

 すると松平は足を止めてカイを振り返る。その表情に先ほどまでの生気は無かった。

「シズマが、出て行く?」

「ごめん、まだ聞いてなかったのか」

 松平はのろのろと足を進め始めたものの、暫く黙り込んでいた。カイは問題提起してしまった手前、この老人をこのまま放置して先に行ってしまう事もできず、その隣を並んで歩く。山を出て橋を渡る頃になって、漸く松平が声を出した。

「……そうか」

「あいつの他にもランド・ウォーカーは何人も居るんだろ?」

「ああ、居る。だが、シズマはここに居るランド・ウォーカーの中でも一番信用されているんだ。あいつが居なくなる事を良く思わない者も多いだろう」

「あんたは長老なんだから、あんたの決定に従うんじゃないのか?」

「……ああ、そうであって欲しいが」

「まあ、そもそもあんたが良いと思うかどうかだけど」

 カイは隣を歩く老人を覗き見た。体つきは小柄だが、どこか気迫と威厳を感じさせる人物だ。その松平が、今は弱弱しく見えるほど狼狽えているように見えた。

「あんちゃん、私はね、ここの誰であっても縛る気は無いんだ。あんちゃん達に働いてもらっているのも、ここの食事や温泉と言った恵みは、全て東照大権現様からの頂き物だからこそなんだよ。我々のためでも何でもない」

「じゃあ良いんだな、シズマが出て行っても」

「嬉しい事ではないが、シズマがそれを望むなら、止める事はできん。他の者達には私の方から言っておこう」

 控えめな笑顔の下に確固たる不安を湛えている松平。その様子にカイの疑問は更に深まった。ランド・ウォーカーのためにこんな風に悩む地底人は見た事がない。大抵の地底人はランド・ウォーカーに対して良い印象を持っていないし、一人減っても代わりは居ると考えている。働き手が減る事への不安はあっても、その個人が居なくなる事への不安を持つ者は会った事がなかった。

 カイは湧き起こった疑問を口にした。

「なあ、爺さんとシズマって親子なの?」

 すると松平は目を丸くして笑った。

「ははは! おかしな事を言うなあ! 私からしたらシズマは孫みたいな歳だろうが!」

「別に、男なら歳なんて当てになんねえだろ」

「あんちゃん、少しは節度ってもんを持たんと、女にモテんぞ」

「…………」

「あいつは十年以上前にどこからか突然やって来て住み着いたんだ。元々温泉が好きなガキだった」

「……ランド・ウォーカーと地底人が仲良くしてんのなんか、初めて見たんだよ。地底人からランド・ウォーカーが生まれる事なんかザラだし、そうなのかと思っただけだ!」

「まあ、気持ちとしちゃあ、息子みたいなもんさ」

 そう言って笑う松平を、カイは黙って見ていた。


 居住区の食堂にはランド・ウォーカーもその他の住民も関係なく集り、それぞれテーブルを囲んでいる。ここの家具も休憩室と同様に凝った造りで、食堂と言うよりもレストランと言った風だ。それぞれのテーブルには四人ほどつく事ができるようになっていて、天井からは暖色の光を落とす洒落た照明が下がっている。

「ほら、これがこの居住区自慢のカレーだ!」

 カイとタケルが座るテーブルに、シズマがカレーライスの盛られた皿を持ってやって来た。二人の前に皿を置くと、自分も空席に腰を下ろす。もう一つ空いている席には二人分のカレーライスを持った松平がやって来た。

「ここのカレーは美味いぞ! もともとこの居住区の上には明治時代から続くホテルがあったんだ。そこで出されていたカレーを今でも手に入る材料で極力味を変えずに受け継いでいる」

 松平はシズマの前にも皿を置いてそう言った。

「ホテル? もしかしてここの家具って……」

「察しが良いな、カイ。そうだよ。この居住区にある家具や照明はみんなそのホテルから持って来た物らしい。なあ、爺さん」

「ああ。本当であれば地上の建物も残しておきたかったが、東照宮を残すので精いっぱいだった」

「でもカレーは残ったじゃん!」

 そう言うなり、タケルはスプーンを掴んで大きな口にカレーライスを吸い込んだ。

「美味い!」

「そうだろ?」

 シズマは満足げに笑う。カイも初めて見るカレーと言う食べ物に、どこか警戒しながらもまずは一口運んだ。

 スパイシーで切れのある味でありながら、深いコクとまろやかさも同時に感じる。今まで食べたどんな料理にも似ていない、独特な風味だ。ルーに溶けかかっている肉を口に運ぶと、あの多摩で食べた猪の肉とは全く違い、噛まずとも溶けていく。

「これって……肉なのか?」

 目を丸くするカイに、松平が深々と頷く。

「そうだ。牛肉だぞ」

「牛ってこんなに柔らかいのか」

「牛なら何でも柔らかい訳じゃない。もしかして、肉食べた事ないのか?」

 カイはカレーを頬張りながらシズマに頷く。

「前にタケルが獲った猪を焼いて食った事がある。物凄く硬かった」

「はは、そりゃそうだ」

 カレーを食べ終え、食堂内の人がまばらになった頃、水の入ったグラスをテーブルに置いてシズマが静かに言った。

「なあ、爺さん。俺、カイ達と一緒にここを出て北に行こうと思う」

 松平は湯呑を置いて重たい声で返す。

「カイから聞いた」

「そっか」

「皆には私から話しておく」

「別に良いよな、俺が居なくなっても」

 松平は隣に座るシズマを一度見て、再び視線をテーブルへ落とした。

「良し悪しではない。お前の人生だ、お前の好きなように生きろ」

「ああ、そうするよ」

 するとシズマは向かいに座るカイとタケルを見て満面に笑みを浮かべる。

「行こうぜ、温泉」

 タケルは温泉と言う単語に目を輝かせて立ち上がった。その勢いのせいで椅子が後ろに倒れかけるが、カイがそれを抑える。

「よっしゃ! 温泉だ!」

「まだ昼間だろ。それにタケルは仕事があるんじゃねえのか」

「早く風呂に入って出発の準備をするんだ。それに君達はもう東照大権現のために働いたんだから、温泉に入る権利はあるはずだぜ。なあ、爺さん?」

 すると松平は苦笑しながらも頷く。

「良いだろう」

「そうと決まれば、行こうぜ!」

 シズマに続き、二人は食堂を出て行った。その後ろ姿を、松平はじっと眺めていた。


 居住区の一室、ランド・ウォーカーではない住民達が神事に関する打ち合わせに使っている部屋に、松平は主立った住民を集めた。住民達はそれぞれ長テーブルを囲む椅子に腰を下ろす。

「急にどうしたんですか、松平さん。何か急用でも?」

「もしかして、あの二人のランド・ウォーカーが何か?」

 松平は次々に疑問を口にする住民達に、よく通る声で言った。

「シズマがここを出て行く」

 室内は一瞬静まり返ったが、すぐにざわめき始める。

「シズマが? まさか松平さん、あんた、了承した訳じゃないだろうね」

「彼が居なくなったら、ここのランド・ウォーカー達を束ねる人間も居なくなるんだぞ」

「何より、シズマは彼等の中でも一番信用できる。シズマが居なくなったら、我々は霧の中に踏み込む事になるかもしれないんだ」

 方々で飛び交う声を制したのは松平だった。

「皆の不安は解る。だが、我々の身の保証のために誰かをここに縛る事はできん。そんな権利は誰にも無いんだ。シズマの他にも何年もここで働いてくれているランド・ウォーカーは居る。彼等に代わってもらおう」

 すると一人の住人が言う。

「松平さん、シズマはいったいどこへ行くんです?」

「あの二人のランド・ウォーカーと共に北へ行くそうだ」

 部屋は再びざわめき出した。突然現れた部外者が信用の要であったシズマを連れて行くとなれば当然だ。

「あの二人はいったい何なんだ?」

「どうしてシズマを連れて行くんだ?」

「あの二人がここを出なければ、シズマも去って行かないのでは?」

 松平は声を張って眼光鋭く言い放つ。

「彼等は政府が遣いに出したランド・ウォーカーだ。日本の電力供給に関わる重大事項を請け負っている。彼等の身に何かあれば、我々は皆処罰されるんだ! 絶対に彼等に手を出してはいかん!」

 そこで一人の男が立ち上がった。

「政府? 政府がいったい何だって言うんですか。我々はここでずっと自分達の力で生き延びて来た! 政府が何をしてくれたって言うんだ。その電力供給だって、どうせ東京にしか行き渡らないんだろう!」

 その発言に乗るようにして政府批判が始まってしまう。しまいにはカイとタケルを亡き者にしてしまおうなどと言う過激な主張まで飛び出す始末だった。

「いい加減にせんか!」

 松平は机を力いっぱい叩いて立ち上がった。その鋭い音に、部屋に集まった全員が目を丸くして松平を振り返る。

「ここは東照大権現様のお膝元、神域だぞ! 人を殺めるなどと、何があっても口にするんじゃない!」

「だが松平さん、政府は何もしないどころか、我々からシズマを奪うんですよ……」

「シズマはここを出て行く。それは決まった事だ! 我々が考えを巡らせるべきは、シズマが居なくなった後、どのようにして代役を立てるかだろうが! 皆、一度頭を冷やしてきてくれ」

 そう言うなり、松平は分厚い木のドアを開いて部屋を出て行った。

 住民達の不安は尤もだ。ランド・ウォーカーと言う人種は総じて他人に興味が無い。他人がどうなろうとどうでも良いのだ。その中でシズマはどこかが違った。元々真面目な性格で、自分の好きなもののためなら面倒な事でも言われた通りにやるのだ。見返りが無ければ何もしないと言う点では他のランド・ウォーカーと変わらないが、面倒がったり手を抜いたりは絶対にしない。その点で信用が置ける。それに、何よりこの日光における調和の掟を理解している。

 薄暗い通路をどこへ向かうでもなく歩いていると、不意に後ろから呼び止められた。

「爺さん」

 振り返ると、着替えを持ったシズマが立っている。

「どうした、風呂に行くんだろ」

「随分荒れてたな。何だか外まで声が聞こえたぞ。大丈夫なのか?」

「お前が気にする事じゃない」

「そっか」

「そうだ、シズマ」

 松平はシズマに手を差し出した。

「煙草を一本くれ」

 シズマは訝し気に老人を見て首を傾げる。

「爺さん煙草吸うのか」

「今は吸いたい気分だ」

 シズマは上着のポケットから小さな四角い缶を取り出し、そこから煙草を一本抜いて掌に置いた。

「歳なんだから吸わない方が良いぞ」

 すると松平はいつもの豪快な笑いを見せる。

「お前も、いい加減やめろ! 長生きできんぞ!」

 シズマは苦笑して通路を先へと駆けて行く。松平は何も言わずにその背中を見送った。そして受け取った煙草をポケットに仕舞う。


 温泉は居住区の中から地下通路を暫く進んだ場所にあった。ランド・ウォーカー以外の住民も入れるよう、土の露出が一切ない浴場が作られている。その浴場以外にもランド・ウォーカーであれば入れる露天風呂もあると言うので、カイとタケルはそちらへ入る事にした。

 まだ日が高いので、太陽を浴びる木々の緑が鮮やかに映える。爽やかな風が湯気を攫い、水面には日の光が煌めいていた。

 三人は体を流して湯に浸かった。タケルは豪快に飛び込んだが。

「タケル! 静かに入れ!」

 そう言うカイの顔に湯をかけ、タケルは楽しそうに空を仰いだ。

「良いなー! 青空の下で温泉に入る! 最高だ!」

「だろ? ほんと、ここは良い場所だ」

 岩に背を持たれながらしみじみ言うシズマ。カイは顔を拭ってそんなシズマに言う。

「良いのかよ、そんなに気に入ってる場所から離れちまって」

「良いんだよ。他にも入りたい温泉がたくさんあるんだ」

「でもよ、だったらもっと前に出てってれば良かったじゃねえか」

 そう言うタケルにシズマは遠くを眺めながら言った。

「そうだな……足が無かったってのもあるが、何だかんだで居心地が良かったんだろう。不思議なんだよな。ここに居ると、俺は必要とされているんだって感じるんだ。他の居住区でもランド・ウォーカーは必要とされてる。でも、ここは違うんだ。特にあの爺さん。あの爺さんは、もしも俺が病気かなんかで働けなくなっても、俺を追い出したりしないんじゃないかって気がする」

 カイは松平がシズマの事を息子のようだと言っていたのを思い出した。

「そう言うのって、俺達には理解できない事じゃないか?」

 するとタケルは大いに頷いて掌に湯をすくい、顔を流した。

「何の得も無い奴を食わせたって仕方ねえよな、普通。俺だったらそんなお荷物はとっとと追い出すぜ。なあ、カイ?」

「……ああ、俺もそうする。でもあの爺さんは違う気がするんだろ?」

 シズマは緑の奥に広がる青空を見上げて頷く。

「そうなんだよ。それが不思議な感じがするんだ。それでダラダラ残っちまったのかもな」

 そして再び視線を戻して笑った。

「でも、君達の話を聞いたら面白そうで、付いて行きたくなったんだ」

「部外者は物見遊山気分で良いな」

「はは、そうだな」

「そう言うなよ、カイ。これからは美味いもんが食えるんだぞ?」

「お前みたく単純な思考回路じゃないんでね」

 すると突然タケルが思い出したようにシズマに食いついた。

「なあ、シズマ!」

「な、なに?」

「ここって混浴なのか?」

「は? いや、女は別の場所にある風呂に入る。当たり前だろ」

 カイはシズマからタケルを引き剥して睨み付ける。

「お前はいったい何なんだ? 少しは人間らしくしろ!」

「何言っちゃってんの、人間だって動物だろ」

「動物は動物でも、お前は野生動物だ! シズマ、こいつに聞こえる場所で絶対に女の話はするなよ! 面倒を起こされても困る」

「ははは! ほんと、君達二人は面白いな!」

「面白くねえよ!」

 カイはふくれっ面のまま首まで湯に浸かった。だがその時、ふと異変に気付く。湯気に混じって微かに変な臭いがする。温泉からではない。これは風に何かが混じっているのだ。

「……おい、なんか変な臭いしないか?」

 タケルとシズマも周囲の臭いを嗅ぐ。するとタケルが勢いよく立ち上がった。

「何か燃えてるぞ!」

 シズマは湯船から飛び出して急いで体を拭き、服を着ていく。カイとタケルも慌ててそれに続いた。

 この露天風呂からは居住区へ続く地上の道もある。すぐさま荷物をまとめたシズマは脱衣所を駆け出してその道に出た。居住区の方を見ると、青空に灰色の煙が立ち上っている。

「火事だ!」

 漸く駆け付けたカイとタケルが追い付く前に、シズマは居住区へ向かって駆け出していた。どうやら煙は東照宮側ではなく、川の手前、居住区側で上がっているようだ。

 シズマは濡れたままの髪が服を濡らしていくのも気にかけず、ただ真っ直ぐ居住区へ駆ける。こんな風に全力で駆ける事など滅多に無い。だが今はそうせざるを得なかった。もしも居住区の周りが燃えているとしたら、悪くすれば地下の人間達は蒸し焼きになってしまう。言うまでもなく自分の財産も取り出せなくなる。

 そして、松平が死ぬかもしれない。あの老人には一言礼を言いたかった。

 居住区の入り口が見える所まで駆けてシズマは足を止めた。肩で息をしながら煙のもとを辿る。それは居住区の目と鼻の先にある森林だった。既に居住区から何人も人が出て来ていて、ランド・ウォーカー達は川から水を汲んで消火に当たっている。

 シズマもその中に加わろうと踏み出した時、居住区の方から飛んで来た声に呼び止められた。

「シズマ!」

 男が叫ぶと、ランド・ウォーカー以外の住民達が集まって来る。居住区の目の前と言う事もあって、皆外へ出ていたようだ。

「シズマ! お前、よくもこんな事を!」

「俺達を蒸し焼きにする気か!」

 シズマは訳も分からず松平の姿を探す。すると住民達の奥から松平が出て来た。

「爺さん! いったいどうしたんだよ!」

 シズマが駆け寄ると、松平は掌を差し出した。何かと思って覗き込むと、そこには煙草の燃えカスがあった。

「火元はこれだ、シズマ」

「は? 俺は……」

 そこにカイとタケルが追い付く。きな臭い空気の中、濡れた髪を垂らしたままのシズマに駆け寄った。

「何があったんだ?」

 俯いたままのシズマを見て、カイが松平を問い詰める。

「この煙草が火元だ。この居住区で煙草を吸うのはシズマ、お前だけなんだよ」

「いや、おかしいだろ、だってシズマは俺達と……」

 タケルがそこまで言うと、シズマがその先を遮った。

「良いんだ。そう、俺の煙草だよ」

 そう言った途端に住民達からは次々に罵声が飛んで来る。タケルはそんな住民達を睨んで鉄パイプに手を伸ばした。

「てめえら、散々世話になっといて……」

「止めてくれ、タケル!」

 シズマの大きな手が鉄パイプを下げさせる。

「ここは神域なんだぜ」

「お前、まだそんな事……」

 そしてシズマは松平の目をじっと見降ろした。松平もその目を静かに捉える。

「シズマ、もうここにお前を置いておく事はできん。出て行くんだ」

 シズマは小さく口角を上げた。

「ああ、そのつもりだよ」

「持ってけ、お前の荷物だ」

 松平は二つの大きな麻袋を突きつける。一つは服が入っているようだが、もう一つはいやに重たく、金属音がする。見たところ調理器具のようだ。

「もう煙草はやめろよ、シズマ」

 シズマは笑って頷いた。

「分かった。もう止めるよ。温泉と料理の礼だ」

 すると松平は日に焼けた顔に、しっかりと笑顔を浮かべる。

「行ってこい」

「じゃあな」

 三人は殆ど追い出されるようにして日光を後にした。

 走り出したジープの後部座席で、荷物に埋もれながらシズマは二つの麻袋の内、重たい方を開いた。中には包丁や鍋、フライパンなどの調理器具と共に、缶に入ったカレー粉があった。


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