思い出
カイとタケルは多摩を出て北上する。人間が地上から消えて数十年、道と言う道が朽ち果て、頼れる物は地図だけだった。だがその地図も三年前のもので役に立たず、困り果てる二人の前に地図情報を取って回る測量士の少年、ユウヤが現れる。
2 思い出
次の日、カイとタケルは多摩地方を出て埼玉へ入った。地上から人間が居なくなって久しく、通り過ぎる景色はどこもかしこも深い緑一色と化している。多摩の山と比べれば埼玉はまだ平野が多く、かつて畑や水田だった場所は草原や雑木林に変貌していた。山道に比べれば進み易い平野だが、道選びには苦労する。霧が湧く前、人々が地上で生活していた頃は高速道路と言う便利な道が存在していた。今もその亡骸が各地に残ってはいるが、何十年も整備されていない高架の道を通ろうとは思えなかった。そうすると残る選択肢は地上を這っている道になる。かつての国道など、広い道を選んでも植物の浸食やアスファルトの劣化は目に見えて酷いものだった。悪路にも耐えられる設計の特殊車両を以てしてもすんなりとは通れない。
「この調子で最低でも青森まで行くんだろ? 着く頃にはケツにデカい穴が空いた爺さんになってるぞ」
「うるせえな。あまりしゃべると舌噛むぞ」
大きく揺れる車内でカイはハンドルを握りながら隣でぼやくタケルを睨んだ。
「因みに、青森から先もこの車で行くつもりだからな」
「海峡はどうすんだよ」
「あそこは青函トンネルが今でも残ってる。前に測量士から聞いた」
「ふうん」
タケルの返事は風に流されて消えそうなほど軽い。よほど興味が無いようだ。だが、そうかと思えばドアに備え付けられているポケットに手を伸ばし、徐に地図を取り出した。
「これ合ってんのか? さっき国道が一部分断してたじゃねえかよ。嘘書きやがって」
「いつのだよ、それ?」
地図の右下に作成された年が書かれていた。
「三年前だよ、当てになんねえな。青函トンネルも沈んでるかもしれねえぞ」
カイは盛大な溜息と共にブレーキを踏んだ。そしてタケルの手から地図を引っ手繰る。地図にはしっかりと青函トンネルが書き込まれていて、通行不可のマークも付いていない。だが所詮は三年前の情報だ。
「くそ、こんなもん持たせやがって。トンネルが沈んでたらその時は船だ」
「船か、それも面白そうだな!」
目を輝かせるタケル。その大きな手に地図を押し付けて、カイは目を細めた。
「お前はいつも幸せそうで良いな」
「お前こそ不幸ぶってんじゃねえよ」
「この状況が不幸以外の何なんだよ」
車は再び走り出す。片側二車線の国道は、至る所で植物がアスファルトを侵食している。隙間から突き出し、蔦を伸ばし、根で掘り返す。植物とは本当に強い生き物だ、カイはそう思った。
道の脇にある金属製のガードレールは錆が目立ち、所々崩れ落ちていた。その向こうには廃墟の街並みが広がっている。大きな廃墟はかつて何かしらの店だった物だ。その向こうには民家の墓場が延々と続く。雨ざらしになった木造建築と、それを容赦なく貫き通す木々。どこかから飛んで来た種子が廃屋を新たな拠点として生命力を吸い取って行く。
「このまま行けばもうすぐ茨城に入るはずだ」
原始の姿に戻ろうとしている街の中に、点々とランドマークが立っていた。道端に穴を掘り、足にセメントの土台を付けた金属製の安っぽい標識を立てる。そしてその上から更にセメントを流し込んで固めただけのランドマークだ。ランドマークには数字が書かれており、その番号は全て政府が発行している地図上の番号と符合するように作られている。人工衛星からの電波を受信できなくなってからはこうしたアナログな方法で場所を特定していた。
「カイ、ちょっと止めろ」
「は?」
「良いから!」
突然タケルが声を上げるので、カイは仕方なくブレーキを踏んだ。車が止まるなりタケルは身を乗り出して道端のランドマークを見る。
「何だよ」
「あれ、足元のセメントがまだ乾いてねえぞ! この先に測量士が居るかもしれねえ!」
カイはタケルが示すランドマークを見やった。確かに足元を満たしている灰色のセメントはまだ太陽の光を受けて光り、濡れているように見えた。
「測量士に会えれば、最新の地図がもらえるかも!」
「分かったよ、どっちみち先へ行くんだ。騒ぐなよ、うるせえな」
「少しは感謝しろよな、俺が見付けたんだぞ」
走り出す車の中でカイは前だけを見て言う。
「お前が見付けなくても俺達はこのまま北へ行くんだ。この先に測量士が居るなら、結局はち会うんだよ」
「お前さ、ランド・ウォーカーである事と性格の悪さは別問題だからな」
「タケル、お前自分が性格良いとか思ってんのか?」
「ああ、俺は良い奴だ」
するとカイは噴き出した。
「何それ、すげえウケる!」
「ほらな、俺の話で笑えるだろ。人を笑わせる事ができるランド・ウォーカーなんだよ、俺は!」
「……やっぱ幸せな奴だな」
車は荒れた道を北へ向かう。地図によるとこの先に利根川を渡る橋があるはずだ。尤も、三年前の情報だが。
廃屋の群れに左右から挟まれた道は、川に近付くにつれて土手を上る坂となる。その坂を上り終えた所で車は止まった。カイとタケルはフロントガラスの向こうを見たまま暫く言葉も出さずに居た。橋は落ちていないが、大きな亀裂が向こう岸まで真っ直ぐ走り、点々とコンクリートが剥げている。この重量の軍用車両が渡るには心細い。
「これは無理そうだな」
橋の惨状にカイが溜息を吐くと、タケルが助手席の窓を開けて身を乗り出した。
「ほんとだわ」
「使えねえ地図だな」
カイがギアへ手を伸ばした時、タケルが開けた窓の方から人の声が聞こえて来る。
「ここから下流に向かって二本目の橋なら使えるよ!」
タケルは体の向きを変えて後方を見やった。ついさっき上って来た坂の下に、自分達が乗っている車両と同じような車が停まっている。その車の傍には一人の少年が立っていた。タケルは背の高い細身の少年に向かって声を投げる。
「お前、測量士?」
少年は頷いた。
「そう」
タケルは満面の笑みと共に素早く運転席を振り返る。
「カイ、測量士だ!」
「聞こえてるよ」
ここに止まっていても仕方ないので、カイは淡々と車をバックさせた。
測量士の少年が乗って来た車の隣に停車すると、カイとタケルは外へ出る。初夏の爽やかな太陽の下、二人は少年と向き合った。少年は身長こそタケルに負けないほど高いが、無駄のないすっきりとした体つきだ。そして日に焼けた肌の上に死人のような目をくっ付けている。
「俺はタケル、こいつはカイ。お前、名前は?」
カイが何か言う前にタケルは自己紹介を始めた。少年はそんな二人をまじまじと見ながら返す。
「僕はユウヤ。こんな場所に車が来るなんて珍しいね。この辺は居住区から遠いし、地上の施設も無いから地図の更新も後回しになってるんだ」
「どおりで使えないわけだ」
タケルが持っている地図を見るなり、ユウヤは自分の車から別の地図を持って来た。
「これが今更新中の原本。さすがにこれは渡せないけど、次に寄る居住区で複製してあげる事はできるよ。僕は静岡の方から来たんだけど、きっと今頃東北や北陸の情報も集まってると思うから、来る価値はあるよ」
「行く、行く! なあ、カイ?」
「……その居住区ってどの辺なんだ?」
ユウヤは早速地図の原本を広げて見せる。そして現在地よりやや北の地点を示した。
「茨城の筑波だよ。ここの大学がまだ生きててね、地図の情報を集めながら霧について研究してるんだ」
「茨城なら北上できるし一石二鳥だな!」
「お前はどうせ何か美味いものでも食いたいくらいしか考えてねえだろ」
「だったらどうなんだよ」
大きな溜息を吐くカイの隣で、タケルは豪快に笑う。そんなタケルを見て、ユウヤは首を傾げた。
「タケルくんは元気だね」
「元気と頑丈が取り柄だからな!」
「うるせえのも取り柄だろ」
「カイは嫌味ったらしいのが取り柄だ!」
するとユウヤはにこりと笑って言う。
「僕が前に行った時は、確か霞ヶ浦で獲れる魚を食べさせてくれたよ」
魚と言う言葉に、タケルの目がいっそう輝いた。
「魚! 良いね!」
二人はユウヤの先導で筑波にある大学の跡地に来た。地上に残る鉄筋コンクリートの巨大な廃墟は、周囲の自然に呑み込まれている。茶色い外壁に鮮やかな緑の蔦が伸び、あたかもそれ自体が巨木のようだ。かつては学生達で賑わったのであろう通りも、今となっては伸びきった雑草が風に揺れて緑の波を作っている。それでも多少手入れをしているようで、出入り口の周囲だけは人の入れる空間が確保されていた。
廃墟の正面に広がる緑生い茂る空き地に車を停め、三人は茶色い建物にぽかんと空いた暗い口に向かって歩いて行く。
「この大学は、昔は結構有名な頭の良い大学だったらしいよ。まだ光ファイバーが生きてた時は、日本各地の研究施設なんかと連携して霧の研究をしてたみたい」
鮮やかに伸びた緑を踏みしめながらユウヤはそびえ立つ廃墟を見て言った。
「光ファイバー……随分前に話だけ聞いた事があるな」
カイは地底人から聞いた話を思い出す。霧によると思われる電波妨害が起き始め、光ファイバーの需要が爆発的に高まった時期があったらしい。だが、ケーブルを海外からの輸入に頼っていたせいで供給が追い付かず、そうこうする内に霧の発生が世界中で増加し、更に輸入困難となった。国内での製造も行われていたが、日本でも各所で霧が発生し、あらゆる産業で地上の工場を停止せざるを得ない状況になってしまったのだ。
「この辺の光ファイバーはだいぶ長い事頑張ってたらしいよ。でも今はもう劣化して使えないんだ。まだ使えていれば僕ら測量士がわざわざ足を運ぶ事もないんだけど」
ユウヤが足を踏み入れて行く廃墟は、暗い口から初夏とは思えないひんやりとした空気を垂れ流している。窓と言う窓には植物が生い茂り、日光を塞いでいた。そのせいで鉄筋コンクリートの内部は洞窟のように寒かった。
「すげえ涼しいな!」
楽しそうに鉄パイプを振り回すタケル。その様子にカイは目を細める一方、ユウヤは優しく微笑んで頷いた。
「そうなんだ。真夏でも凄く涼しいよ。霧の功績の一つが地球温暖化の抑止だね」
「人間が余計な事をしなくなったからな」
カイはそう言ってコンクリートの壁にそっと指を触れた。氷のように冷たい。
ユウヤは薄暗い廊下を暫く進んだ。すると突き当りに厳重な鉄の扉が現れる。ホイール型のドアロックが分厚い鉄板の中央に付いている。周囲は霧の侵入を防ぐための特殊ゴムで密閉されていた。
「ここが地下への入り口だよ。この先に研究施設と共同居住区があるんだ」
ホイールを両手で握って回しながらユウヤが言う。ロックは高い音を立てて最後まで回り切った。分厚い鉄の扉が開かれると、その先には地下へ続く狭い坂道がある。人が二人並ぶといっぱいになるような幅の通路は、なだらかな傾斜と共に暗黒の地下へ伸びている。
「真っ暗じゃねえかよ」
タケルがぼやくのも無理はなかった。通路には明かりが一つも灯っていない。
「人感センサーなんだ。動くと点くよ」
ユウヤが一歩踏み込むと、頭の上で小さな灯りが点く。
「徹底した節電だな」
暖色の小さな灯りを見上げるカイ。その後ろでタケルがドアロックを片手で易々と回して閉めた。
暗い通路は心許ない照明で点々と明るくなる。中途半端な暗闇のせいで不気味な涼しさを感じた。三人の足音が細長い空間に響き、もう何キロも歩いたのではと錯覚する。暫くそうして歩いていると、長い空洞の突き当りに地上にあった物と同じドアが見えた。
「ここを過ぎれば居住区だよ」
「どこも厳重なのは同じか」
カイに頷いてユウヤは笑った。
「そりゃそうだよ。ランド・ウォーカーじゃない限り、死活問題なんだから」
「ここは霧の研究をしてるんだろ? 成果は上がってないって事か」
ユウヤは最後のドアロックに手をかける。金属のホイールがギイギイと嫌な音を立てて回った。
「成果は上がらない方が良いんじゃないかな、タケルくん。だって彼らがまた地上へ出られるようになったら、きっと僕らみたいな人間を生かしておかないよ」
「数じゃ奴等の方が多いからな」
「そう。僕らを殺すなんて、造作も無いんだよ」
ユウヤは笑顔だった。その微笑みを扉の隙間から漏れ出す居住区の明かりが、ゆっくりと照らしていく。
扉の向こうには東京と大して変わらないような地下空間が広がっていた。見上げる高さの巨大な空洞に、味気ないコンクリートの集合住宅がびっしりと張り付いている。狭い通路では地下で生き延びている人々が行き来しており、薄暗い中に色の白い顔が嫌に浮き立って見えた。その白い面々が煙たそうに三人を見ては、忙しく通り過ぎて行く。
どこの居住区でも地下に生きる人々は、それぞれに仕事を割り振られている。主に食糧生産、衛生、医療、警察などである。それ以外は必要に応じて適宜仕事が与えられていく。報酬は基本的な衣食住の安定供給。その中でも地上でのライフラインを握るランド・ウォーカー達は格別の高収入なのだ。
集合住宅のトンネルを中ほどまで進むと、広い十字路が現れた。ユウヤはそこを右へ曲がって行く。二人もそれに続いた。曲がった先には天井まで続く集合住宅の壁は無く、水耕栽培農場が一面を占めている。ここまでの道のりは徹底した節電のためにどこもかしこも薄暗かったが、農場は地上かと錯覚するほど明るい。農場の遥か奥からはコオロギの鳴き声が微かに聞こえて来た。やはりここでもコオロギを育てているようだ。
「この先に研究室があるんだ。僕が入れるのは入口までなんだけどね。これを渡したらちょっと遊びに行くんだよ」
ユウヤは車から持って来た筒状に丸めた紙の束を示す。遊びと言う言葉にタケルが真っ先に食いついた。
「遊べる場所があんのか?」
「いや、場所と言うか……僕が考えた遊びがあるんだ」
「女か?」
目を輝かせるタケルの脇腹をカイは肘で小突く。
「お前は少し黙ってろ」
「それ以外に遊びって何があんだよ」
「外に出て熊でも獲って来い」
「だったら霞ヶ浦ってとこに行って魚獲ろうぜ」
「勝手に行け」
「はは、二人は面白いね」
そうこうする内に三人は研究室の入口へ着いた。そこは地上から降りてくる途中にあった厳重なドアロックの付いた扉と同じもので隔てられている。ユウヤが呼び鈴を押すと、中からドアロックが解除された。そして一人の男が出て来る。白衣を着た眼鏡の中年男だ。男は無精ひげを生やした顎を擦りながら、くたびれた目を三人へ向けた。
「静岡からここまでのデータです」
「どうも」
不愛想に地図を受け取り、ユウヤの隣に居る二人をじろりと睨む。
「この二人は?」
「途中で会ったランド・ウォーカーです。東京から来たみたいで、最新の地図データを欲しいって」
「……何のために?」
目を細める男に、カイは持って来ていたアタッシュケースを開けて政府の書類を見せた。男はそれに素早く目を通し、死んだ瞳に生気をみなぎらせる。
「アメリカに……?」
初めて聞いた二人の目的地に、ユウヤも目を丸くした。名前だけは聞いた事のある太平洋の向こうにある大陸だ。あんな場所を目指していたとは思いもしなかった。
「この発電方法が日本でも運用されれば……我々の生活は一変するぞ……」
書類を返して寄越す男の手は震えている。
「だろうな。だから頼まれたんだから」
カイはアタッシュケースをロックして、タケルと自分の間になるようにしっかり持った。
「良いだろう、最新の地図が完成したら君達に複製を一式渡そう。霧に関する各種のデータも提供する」
「霧は別に良いんじゃねえか? だって俺達は霧に遭っても死なねえし」
男はそう言うタケルを見上げた。
「確かに君達にとっては霧など怖くないかもしれない。だが濃霧では視界が悪いし、電子機器にも悪影響があるから、知っておいて損はないだろう」
「ああ、なるほど」
「ちょうどこれで今季は全て集まったところだ。あと二時間ほど待ってくれないか。そうすれば全て用意できる。待っている間はユウヤと一緒に食事でもして来れば良い」
男はそう言って一度頭を下げると分厚い鉄の扉の奥へ消えた。
仕事を終えたユウヤは二人に向かって微笑む。
「じゃあ、昼ご飯でも食べに行こうか。もしかしたら魚が食べられるかも知れないよ」
「おおー! 魚!」
「……うるせえな」
三人は集合住宅が壁を作っているエリアへ戻る。ユウヤは慣れた足取りでその一角へ向かった。カイとタケルはそれに続くが、やはりすれ違う人々は皆臭いものでも見るように三人を睨んで行く。こんな事には慣れているが、この居住区ではそれが一段と強く感じられた。
「ここの奴らはよほどランド・ウォーカーが嫌いなんだな」
「お前がデカすぎて怖いんだろ」
鉄パイプを握って歩くタケルは確かに一見しただけでも威圧的だ。だが、前を歩くユウヤがあっさりと答えを寄越した。
「みんな僕が嫌いなんだよ」
あまりに穏やかに言うので、二人は一瞬内容が理解できなかった。タケルは眉を寄せて首を傾げる。
「……お前の事が嫌いなの?」
「そうだと思うよ」
「お前、そんなに嫌な奴に見えねえけど?」
「はは、ありがとう、タケルくん」
肩越しに振り向くユウヤは楽しそうに笑っていた。
そして三人はそびえ立つ集合住宅の一階にある食堂へやって来た。食糧は配給が基本なので、こうした食堂へやって来るのは医療や警察などの特権階級とランド・ウォーカーくらいだ。
「ユウヤか、いらっしゃい」
年季の入ったカウンターの向こうから顔を出したのは初老の女だった。白い割烹着を着た女は、カウンターに水の入ったグラスを三つ置いていく。
「おばさん、今日は魚ある?」
「運が良いね、あるよ。今朝戻ったランド・ウォーカー達が持って来てくれてね。フナを煮たんだけど、それがまだ残ってるよ」
「じゃあ、二人にそれを出してよ。僕はいつものうどんで良いや」
「はいよ」
平坦な声でそう言うと、女は奥の厨房へ消えた。
狭い店の中には煮魚の甘くコクのある香りが漂っている。今の時間、客は一人も居らず、三人は悠々とカウンター席に腰を下ろした。店が狭いせいでタケルの席だけ異様に小さく見える。窮屈そうに座るタケルだが、その目は朝日を受けた水面のように輝いていた。
「煮た魚ってどんなだろうな。初めて食うよ」
「お前って食い物と女の事以外に何考えてんの?」
「いやだな、カイの事もちゃんと考えてるぜ」
「……気持ち悪い」
二人を眺めながらグラスの水を飲むユウヤ。その穏やかな横顔に、タケルがついさっきまで抱えていた疑問を思い出した。
「そうだ、お前の言う遊びってのが何なのか教えてくれよ」
「えっと、そうだな……」
ユウヤはグラスを置いて半分残った水を見ながら話し始める。
「地下に住んでる人達の中には凄い年寄りとか、年寄りから地上で生きてた頃の話を聞いて育った人とかが居るよね? そう言う人達の中にね、地上にある思い出の品が欲しいって言う人が時々居るんだ。そのお願いを聞いて、僕が仕事のついでに持って来てあげるんだよ」
それを聞いたタケルは不可解そうに首を傾げる。
「は? それじゃ遊びじゃなくてただの使い走りじゃねえか」
するとユウヤは楽しそうな笑顔を見せた。
「はは、まだ続きがあるんだよ。僕だってランド・ウォーカーだからね、さすがにそんなお人好しじゃないさ。思い出の品をあげる代わりに、依頼してきた人にはある物を持って来てもらうんだ」
「……ある物?」
漸くカイが興味を示す。
「土だよ」
カイとタケルは何も言わずにユウヤを見返した。ユウヤは相変わらず楽しそうに笑っている。
「ちょっと待てよ、地底人に土を持って来させるなんて無理だろ。霧は土から出るってみんな知ってんだから」
「それが不思議な事に持って来る人が居るんだよ、タケルくん。初めてこのお遣いを頼まれた時、正直言って物凄く面倒くさかったんだ。でもなかなか諦めてくれなくて、代わりに土を一握り持って来たらやってあげるって言ったんだよ。そしたら持って来たんだ! それから面白くなっちゃってさ」
ユウヤは些か興奮していた。
「中には持って来る途中で死んじゃう人も居たけど、みんな色々工夫して持って来るんだ。袋に入れたり缶に入れたり、瓶もあるな。そう言うのを見てると凄く面白いんだよ」
カイはグラスの水を飲み干して深く息を吐いた。
「お前、愛想は良いけど悪趣味だな。そんな事してたらいつか地底人どもに殺されるぞ」
「それはそれで面白いんじゃないかな。測量士を殺すのは重罪だろ? 殺した本人もその親族もただじゃ済まされない。それでも僕を殺すのかな? 殺すとしたら、どんなふうに彼らはやって来るのかな?」
相変わらず楽しそうに話すユウヤ。タケルは彼の体には明らかに低いカウンターに頬杖を突きながら言った。
「お前、変わってんな。そりゃ嫌われるって」
そこに店主の女が奥の厨房から料理を運んで来た。
「フナの煮魚とわかめうどんね。煮魚には白米をつけといたよ」
出された煮魚と白米に、タケルは大はしゃぎだ。白く艶やかな米の丘を眺めながら甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。
「米だ! めっちゃ久し振り!」
早速がっつくタケル。その隣でカイはユウヤのわかめうどんを見た。
「粗食だな」
「こう言うのが好きなんだ」
「ふうん」
カイは自分の煮魚と白米に向き直った。どちらも白い湯気を立ち昇らせ、それに乗って深みのある甘じょっぱい香りが広がっている。最初に白米を一口食べた。米の甘さと丁度いい柔らかさに自然と箸が進む。そして照りのあるフナに箸を沈ませた。身は柔らかく、一片切り分ければタレが白身に流れる。フナの身は柔らかくふんわりとしていた。味も申し分ない。強いて言えば多少濃い目だったが、白米と一緒に食べるとそれが逆に丁度良かった。
「美味い!! おばちゃん、美味い!」
隣でタケルが喚いている。女は驚いた顔で奥から出て来た。
「そ、そうかい。良かったよ。坊やみたいなランド・ウォーカーは初めて会ったね」
「俺は坊やって歳じゃないぜ。こう見えて十八だ。カイと同い年だよ」
「そうかい、二人はお友達なのかい。ランド・ウォーカーが誰かと一緒に居るのは珍しいわよね」
「仕事仲間だ」
「無理やり一緒に行動させられてるんだ」
タケル、カイ、それぞれの回答に女はただ苦笑する。そしてふと思い出したようにユウヤを振り返った。
「そうだ、ユウヤ。六号棟の高瀬さんがあんたを探してたよ」
「ああ、分かった」
女は何か言いたそうにユウヤを見ていたが、結局何も言わずに店の奥へ消えた。
「高瀬ってのはお前の遊び相手?」
口いっぱいに米と煮魚を頬張りながらタケルが言う。
「うん。土を持って来たのかな。持って来たらこれを渡す約束なんだ」
ユウヤはカウンターの上に止まった卓上時計を出した。かなり古い物で、文字盤のガラスは割れて外枠の木の部分も殆ど朽ちている。
「高瀬さんのおじいさんの物らしいよ。これを探し出すのにはかなり時間がかかっちゃったんだよね」
「時間がかかった分、土の量も増えるとか?」
ユウヤはタケルに笑う。
「はは、さすがにそんな面倒なルールは無いよ! 一握りの土なら何でも良いんだ」
そしてユウヤは箸を置いて席を立つ。
「じゃあ僕は行くね。二人はてきとうに時間を潰して研究所に行ってね」
「おう! ありがとな!」
「気を付けろよ」
二人に手を振ってユウヤは店を出て行った。
カイとタケルは料理を平らげて一息つき、店を後にした。だが研究所へ行くにはまだ時間がある。暇を潰そうにも他に何かできそうな場所も見当たらない。
「そうだ、高瀬って奴らを見に行こうぜ、カイ」
通りを歩きながらタケルが思い付いたように言った。
「見てどうすんだよ」
「あの役に立たねえ時計をどうしてるのか気になるんだ」
「お前まで悪趣味な遊びに乗っかるなよ。俺達は騒動を起こしても何も得しないんだ」
「分かってるって。騒動は起こさねえよ。ただ遠目に見るだけだって!」
「……分かったよ。確か六号棟って言ってたな」
実を言うとカイも気にはなっていた。悪趣味だと思うし危険も伴う遊びだが、自分達には無い感性を持つはずの地底人達が何故命を懸けてまで物にこだわるのか。物など、それが持つ機能を果たさなくなった時点で無意味だと言うのがカイの考えだ。恐らくタケルやユウヤも同じだろう。だが地底人は違う。機能を持たない無駄な物に何らかの価値を見出しているのだ。
集合住宅は壁と一体化してそびえているが、無秩序に広がっている訳ではない。それぞれに数字が振られていて、住人の数や名前などが全て管理されている。二人は六号棟へ向かって歩みを進めた。
暫く奥へ進むと、研究所へ行く十字路を通り越した先に六と書かれた住宅が見えてきた。それと同時に路地から溢れる人だかりも目に入る。
「……やっぱり」
予感が的中し、カイは人だかりへ向かって駆け出した。
「あ、カイ!」
タケルもそれを追う。
人だかりは六号棟と五号棟の間にある路地の入口を塞いでいた。カイはそれを無理やりかき分けて奥へ入って行く。タケルはカイが作った細い道を更に押し広げて飛び込んだ。
暗い路地にはユウヤが仰向けに倒れていた。その腹には小さなナイフが突き刺さっている。ユウヤの口からは真っ赤な血が大量に溢れ、苦しそうに喘ぐ度に血は音を出して溢れ出た。
「ユウヤ……」
カイはユウヤの向こうに立ち尽くしている数人の男達を見やった。犯人に間違いないが、男達も顔面蒼白でユウヤを見下ろしている。その中の一人はあの時計を握っていた。
「お前らがやったのか」
カイに睨まれ、男達は冷や汗をかいて声を上ずらせる。
「こ、こいつのせいで、親父は死んだんだよ! こいつが土を持って来いなんて言わなければ!」
タケルはユウヤの状態を確かめるが、これは動脈を切られている。助かりそうになかった。
「こりゃ無理だな」
血で汚れたユウヤの顔を一度撫でて、タケルは立ち上がった。その手にはいつもの鉄パイプが握られている。
「お前らの親父が死んだとかどうでも良いんだけどさ、好きで土を取りに行ったんだろ? 勝手に死んだんじゃねえかよ」
男達は嫌悪の目を二人に向ける。周囲の人だかりも同じく殺気すら漂わせ始めた。そんな中、男達の一人が震える声で叫んだ。
「お前達、何様なんだ? 人の命を何だと思ってるんだ? ランド・ウォーカーがそんなに偉いのか? 思い出の品を持って来て欲しいって頼んだだけだろ? 礼ならすると言ったんだ。それなのに、こいつは土を持って来いと言った! この人でなしが!!」
カイは足元のユウヤを見下ろした。既に目を閉じ、こと切れている。目尻から流れた涙が赤い血溜まりに繋がっていた。カイもタケルも、ランド・ウォーカーの涙を初めて見た。悲しい涙ではなく、むせた事による生理的な涙だろうが。
「なあ」
カイは視線を男達に戻して言った。男達はじっと身構える。息も詰まるような緊迫した空気の中、カイは怒るでもなく平坦に言う。
「教えて欲しい事があるんだ。お前ら地底人は俺達とは違う感性があって、思い出とか愛着とか、そう言うのが好きだよな? それなのにどうして命懸けで物を欲しがるんだ?」
男達は顔を見合わせる。そして重たい口を開いた。
「物にも思い出があるんだよ」
「物に思い出? 思い出って脳に記憶されてる情報だよな? 記録媒体でもない物に情報は無いし、ましてそのぶっ壊れた時計には何も記録されてないだろ」
理解できないと言う目を向けるカイに、男達も完全に困惑していた。目の前で人が死んでいる。それなのにこの少年は淡々と訳の分からない質問をしてくる。
「記録とか情報じゃない。感じるものだ。どうせお前らには解らないだろうよ」
男の一人がそう言うと、カイはムッとしてその男を睨んだ。
「地底人の何が偉いんだよ。そんなに欲しけりゃ自分で取りに行けよ。どうせ一人じゃ人も殺せないから徒党組んで待ち構えてやがったんだろ。タケル、警察呼ぶぞ」
踵を返すカイに、人だかりは自然と道を開けた。だがタケルはそれに続かなかった。
「カイ、ちょっと待て」
タケルは男の手からあの時計を引っ手繰った。
「何すんだよ!」
男は奪い返そうとするが、長身のタケルから奪う事はできない。
「おい、面倒は起こすなって言って……」
カイの言葉を最後まで聞く前にタケルは時計を地面に叩き落とした。その上、鉄パイプで木っ端微塵に叩き潰す。男達は青い顔でその虚しい音を聞くしかなかった。鉄パイプを振り下ろすタケルを止めに入れる者など居ないのだから。
「や、止めろ……」
蚊の鳴くような絶望の声に、タケルは何食わぬ顔で言った。
「なあ、思い出って奴はこれで消えたのか?」
男達は時計の残骸とユウヤの死骸の前に立ち尽くすだけだった。
二人は研究所の前で呼び鈴を鳴らす。丁度いい時間に来る事ができた。
鉄の扉が開き、あの眼鏡の男が大判の紙を持って顔を出す。
「お待たせしたね。これが最新の日本地図だ。霧や居住区、電力供給施設とか、必要な情報は全て記されている」
「どうも」
カイは地図を折りたたんでアタッシュケースに仕舞う。
「君達がアメリカから無事に朗報を持って帰るのを待っているよ」
「たぶん戻ると思う」
そう言うカイに、男は眼鏡の向こうで目を細めた。そして漸くユウヤが居ない事に気が付く。
「ユウヤはもう帰ったのかな?」
「死んだよ」
あまりにあっさりともたらされた訃報に、男は報せの主であるタケルを見上げた。
「少し前に六号棟の隣で殺されたんだ。あいつがやってた遊びのせいだよ」
「……そうか」
「測量士が減ると困るな」
そう言うタケルに男は希望の無い目を向ける。
「君達は友達じゃなかったのか」
顔を見合わせるカイとタケル。その姿に男は首を振って言う。
「いや、良いんだ。君達も道中気を付けてくれ。我々は基本的には争いを好まない生き物だ。だが集団になった時、そうではなくなる場合がある」
「知ってるよ」
カイは深々と頷いた。
研究所を後にした二人は大きな十字路で立ち止まり、六号棟の方を見る。既に警察によって規制線が張られ、人だかりも無くなっていた。あの男達は恐らく原発内部の危険区域で一生ただ働きだ。高収入が目当てのランド・ウォーカーでさえ嫌がるような現場だ。霧が入らないような奥深い屋内だが地上である事に外ならず、いつどこから霧が入り込むか分からない。しかも知らず知らずの内に放射線を浴びているかも知れない。そうした場所には重罪を犯した地底人が送られる。
そうと分かっていても父親の仇を取りたかったと言う気持ちを、カイとタケルは全く理解できなかった。
道行く人々に冷たい視線を送られながら、タケルはカイの持つアタッシュケースを指さして言う。
「その地図がユウヤの最後の思い出なのかな」
カイはアタッシュケースを見て呟いた。
「さあ、どうだか」
 




