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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
樺太
19/19

樺太

遂に北海道を発ったカイ達。日本人が取り返した樺太へ向かうが、そこは黒い霧に覆われた生気の無い島だった。レイの希望でホルムスクと言う港町に来たカイとタケルは、そこで大陸から流れ着いた中国人に出会う。

19 樺太


 遠くに見える港町は、黒い霧の薄闇に覆い尽くされている。低速で進む輸送艦の甲板で、カイは霧に覆われた樺太を眺めていた。二百年以上前にロシアによって奪われた日本の領土。それが今、世界の誰が口を挟むでもなく、どこの他人が認、否認を訴えるでもなく、殺し合いと言う単純な方法で日本の領土に戻ったのだ。樺太には天然ガスの採掘施設もあり、液化する設備もまだ稼働していると聞く。日本人にとってはこの上なく喜ばしい話だ。

 だが、薄闇に沈む生気の無い陸地を見ると、大手を振って喜ぶ気にはなれないカイだった。

「樺太だけならそこまで心配する必要ねえよ」

 艦橋の傍でうっすらと浮かぶ樺太を眺めていたカイ。その背中にレイの声が届く。振り返ると、同じく海風を受けるレイが居た。

「この島は俺達が制圧した場所だ。ロシア人どもは殆ど残ってねえからな。問題はウラジオストクから北、ちょうど樺太の西に当たる大陸だ」

「何があるんだ?」

「昔からロシアが陸海空軍を重点的に置いてる地域なんだ。空軍はどの国も機能しなくなったが、海は多少、陸はそれなりに生き残ってる。まあ、俺達よりも先に朝鮮や中国がドンパチやったみてえだけどな」

「朝鮮や中国の情報も陸自には入って来るのか?」

 レイは徐々に近付く陸地を眺めながら、目を細める。

「まあな。現状、北朝鮮は存在しない。韓国はめでたく北を取り戻したが、ロシアや中国からの難民で瀕死だ。中国は元々力で抑えていただけの国だったから、国民は霧から逃れるために隣国や山間部へ散り散りになり、共産党は暴動もあって瓦解した」

 レイの話を聞きながら、カイは東京で聞いていた国際情勢を思い出していた。

「俺が東京に居た頃は、九州で韓国からの難民を受け入れてるって聞いたぞ」

「そうだ。日本の時と同様、米軍のクソはとっとと出て行ったからな、あいつらを助けてやれるのは日本だけって訳だ。それに、あいつらは貴重な情報を持って来るし、半導体の技術もある。助けて損はねえって事だろうよ」

「ふうん……」

 そこまで聞いたところで、カイの中に一つの疑問が湧いた。霧が湧く直前、中国は世界で唯一アメリカと比肩する国力を有した国だったと聞く。その中国が今や国家としての体を成さないのだ。

 では、アメリカはどうなのだろう。雷発電で復興に成功したと聞くが、今現在どうなっているかは誰も知らない。

「なあ」

「なんだよ」

「アメリカについては、何か聞いてないのか」

 レイの緑の瞳はカイの言わんとする事をすぐに察したようで、小さく口角を上げた。

「アメリカへ着く頃には紀元前に戻ってるかもしれねえって不安なのか?」

「万が一にも有り得るだろ」

「その可能性も無い訳じゃねえが、残念ながらアメリカの情報までは届いてねえ。今のご時世、陸路でアメリカから日本まで生きて辿り着く奴が居ねえんだろ。そもそも政府のジジイ共はその雷発電ってやつの情報をどこから入手したんだ?」

「物好きな探検家のランド・ウォーカーからだと言ってた」

「探検家……暇な奴も居るもんだ」

 呆れ顔で溜息を吐き、レイは近付く陸地を見て艦橋の中へ戻って行った。

 霧のせいで電波は届かず、海底の光ファイバーも何十年も前に耐用年数を超えた今、遠く離れた場所の情報を時差なく入手するのは不可能だ。その物好きな探検家のランド・ウォーカーと言うのもどこまで信用できるか分からない。そんな情報に縋り付くのだから、このままでは日本も中国やロシアのように亡国の一途を辿る事だけは確実なのだろう。

 そんな事を考えていると、突然目の前が真っ暗になった。カイは驚くでも焦るでもなく、低い声で一言もらす。

「やめろ、タケル」

 すると目の前を覆っていた大きな手が消え、後ろからタケルのつまらなそうな声がやってくる。

「お前ってさ、本当につまんねえ野郎だよな」

 振り向いた先のタケルは、いつものように鉄パイプを肩に担いでカイを見下ろしていた。

「無駄が嫌いなんだ」

「人がせっかくおセンチモードから引っ張り出してやろうと思ってんのによ」

「余計なお世話だ。別に、神経質になんかなってねえよ」

「そっか、元々神経質だもんな」

「お前が考えねえ分も考えてんだよ」

「何を考えるんだよ」

 能天気な大男に深々と溜息を吐き、カイは樺太の方角を指さす。

「このもっと先にある、アメリカの事だ!」

「アメリカ? 考えたってどうにもなんねえじゃん」

「なるべく情報を集めながら、最悪の事態に備えて進むんだ」

「最悪の事態? アメリカが滅んでるとか?」

「そうだ」

「日本が生き残ってんだから、アメリカは大丈夫だろ。無理そうなら戻れば良い」

 タケルの単純明快な返答を聞き流しながら、カイは心の中で呟いた。

 戻る場所があればの話だろ。


 カイ達を乗せた輸送艦は驚くほど慎重な速度でホルムスクの港へ入って行く。ここまで図体の大きな輸送艦で低速航行してきても、ロシア海軍の船は一隻も見なかった。レイの言っていた通り、大陸の方もそれどころではないようだ。

 ホルムスクの港には数隻の護衛艦が停泊しており、端の方へ押しやられるようにして小さな漁船がいくつか停まっていた。大きな港町ではあるが、活気は全くない。漁船はあるが、港に居るのは日本の自衛官ばかりだ。コンテナの積み下ろしに使うのであろうクレーンも、ところどころ錆びて生気が無い。

「樺太に居る間は自衛隊の基地で寝泊まりした方が良い。まだ昼だから、できるだけ北に移動しておくぞ」

 輸送艦から車ごと降り、不気味なほど静かな港に出たカイ。何としても冬になる前にカナダまでは行きたいため、先を急ぐ事で頭がいっぱいだった。そこに後部座席からレイの声が飛んでくる。

「いや、まずはここの拠点を見て行く。それから東へ出てユジノサハリンスクに行った方が良い。そこから幹線道路でひたすら北上だ」

「だったら何で最初からコルサコフに行かなかったんだよ? ここよりユジノサハリンスクに近いじゃねえか」

 助手席で地図を開くタケルが言った。コルサコフはユジノサハリンスクのすぐ南にある港町で、ここホルムスクよりも明らかに近い場所だった。

「最近、間宮海峡を渡って大陸からこっちに流れて来る中国人が増えたって聞いてな。様子を見がてらこっちに来た」

「もう自衛官じゃねえのに仕事熱心だな」

 目を丸くしてレイを振り返るタケルに、レイは後部座席に堂々ともたれたまま足を組む。人の上に立つ役目は退いたはずだが、存在感だけは変わらない男だ。

「俺が取り返した島だ。外の奴らに手ぇ出されてたまるか」

「ああ、そう言う事ね」

「で、どっちに行くんだよ」

 運転席のカイは港の出口で立ち往生している。

「ここを出たら左に進め。少し行くと右側に大昔の大砲やら石碑やらがある広場が見えて来る。その向かいにある建物だ」

 車は漸く港を出て広い道を走り出した。港の正面は一帯が小高い丘のようになっていて、廃墟と化した集合住宅が広大な墓地さながらの景観を作り出している。その廃墟の丘と港の間を走る道も、両脇にいくつも廃墟が立ち並んでいる。

「ひでえ有り様だな。艦砲射撃でもしたのか」

 カイの呟きに、レイは窓の外を眺めながら臭そうに吐き捨てる。

「廃墟は元からこうだった。戦車が転がってたら、それは俺達がやった。とっくに死んだ街だったんだよ、ここは」

「なあ、ここって元はサハリンって言うロシア領だったんだろ? その頃からさびれてたのか?」

 タケルの疑問を解消したのはカイだった。

「そもそもロシアは首都がヨーロッパの近くにあって、主だった都市は西に偏ってた。この辺は確かに元からクソ田舎だったはずだ。それに、サハリンの北緯五十度以南はポーツマス条約で日本領になった場所だった。それを、第二次世界大戦の時に当時はソ連だったロシアが不可侵条約を破って一方的に奪っちまった場所だ」

「……ふうん。ポーツマス条約って何?」

 カイは目を細めて助手席のタケルを一瞬睨んだ。だが腹を立てても仕方ないほどタケルが歴史的な事に関して無知だと言うのは知っていた。アイヌ民族すら知らなかった男だ。カイは仕方なく説明を始める。

「二百年以上前に、日露戦争があったんだよ。その時日本はロシアに勝った。その停戦条約がポーツマス条約だ」

「じゃあ、戦利品って訳か」

「まあ、そう言う事だ」

「それをまた奪われちまったのか」

「そうだ。賠償金も払わない上に条約も守らねえ。ロシアってのは大昔からそう言う国なんだよ」

「なるほど」

 タケルは地図をまじまじと眺めては、周囲の死んだ街の景色と見比べていた。

「こんなに馬鹿みたく広い土地があんのに、ロシアは欲張りだな」

「ロシアが領土拡大に燃えた理由はいくつかあるだろうが、凍らない港や地下資源が主だろう」

 レイはそう言いながら後部座席から身を乗り出し、道の左側にある大きな建物を指さした。

「あれだ」

 それは鉄筋コンクリート製の四階建ての建物だった。周囲の廃墟とは違い、外壁に刻まれた無数の弾痕を除けば、生気のあるまともな建物だ。

 カイは建物の前にある駐車スペースに車を停め、アタッシュケースを持って外へ出る。薄灰色の外気の中、ふと向かいの広場を見やると、レイの言う通り博物館級の大砲があり、石碑が立っていた。その近くには何者かの石像があるが、膝から上が粉々に砕かれているせいで、ここからでは誰なのか確認できない。

「おい、行くぞ」

 車を降りて建物へ向かおうとするレイが足を止め、広場を見つめているカイを呼んだ。凝視するほどの物も無い空間を見ながら、カイは膝から下しかない石像を指さす。

「あれ、誰なんだ」

 レイはぶっきらぼうに答えた。

「レーニンだ。恐らく元からああだった。土台の石に名前があったから、レーニンだったのは間違いねえ。さっさと行くぞ」

 カイは大破したレーニン像に背を向け、息のある建物に向かって歩き出す。

 自衛隊がここに来る前に、あのレーニンは壊されていた。自然に粉々に砕けるとは思えない。間違いなく人が壊したのだ。日本人でなければ、ロシア人が。


 三人が立ち寄った建物は、つい最近までロシア軍が使用していた施設のようだった。各部屋の入口にある案内板や、廊下の壁に書かれた文字は全てロシア語だ。レイが言うには、今は陸自が使用しているとの事だ。

「橘一佐!」

 三人が廊下を歩いていると、不意にどこかから声を掛けられた。レイが声のした方を見ると、そこには一人の若い男が居た。緑の迷彩を着こんでいるところからするに、陸自の隊員だろう。

「いつこちらへ? 何も連絡が無く、気が付かずに失礼しました」

「坂井、久し振りだな。俺はもう自衛官じゃねえんだ。昨日辞めたんだよ。後任は岩永だ。その内人事の情報が来るだろ」

 坂井と呼ばれた男は突然の報せに目を丸くして、レイと彼の後ろに居る二人の少年を見ていた。

「でしたら、なぜ樺太へ?」

「今度は別の仕事だ。こいつらが政府の仕事でアメリカに向かうって言うんで、その手伝いをする。それにあたって、大陸の情報を知りたい」

「え……アメリカですか。疑う訳ではありませんが、形式上、身分証のご提示をお願いします」

 カイはアタッシュケースを開いて身分証と政府の依頼文を見せた。それらに目を通した坂井はなおさら不思議そうにカイとタケルを眺める。

「しかし……、アメリカへ行く大任を少年に任せるとは……」

「ガキの方が言う事聞くと思ったんじゃねえか?」

 レイの発言に、背後からカイの咳払いが降ってかかる。カイは黒い瞳をじっとり細めて坂井とレイに言った。

「年は関係ねえ。英語も話せねえ奴を送り込んだところで何の役にも立たねえからだ」

「ま、まあ、まあ、そうムキにならずに。ちょうど海峡を渡って来た中国人を確保したところなので、話を聞いてみてはどうですか。へたくそですが、日本語も話せるようです」

「問題ない。俺は中国語も使える」

「さすが、政府の使者ですね!」

 坂井は調子良く頷いて三人を建物の奥にある一室へ案内した。


 三人が案内された先の部屋は、窓も無いただの四角い空間で、その壁際に一脚の長椅子があるだけだった。天井には白色の蛍光灯があり、鉄筋コンクリートの壁をいっそう冷たく感じさせる。扉を潜ると正面の壁際に置かれた長椅子に、一人の男が横たわっていた。扉が開く音に目を開き、男は徐に起き上がる。

「やっと出してもらえるのか」

 かなり訛っているが、聞き取れないほどへたくそな日本語ではなかった。男は見たところ二十代前半で、やせ型だ。中国を出る時はやせていなかったのかもしれないが。

「こちらは日本政府からの使者だ。お前にいくつか話を聞きたいそうだ」

 男は怪訝そうに坂井を見上げ、その奥に居る三人を覗いた。

「自由にしてもらえるなら話そう」

「それはできない。お前の身分も目的もはっきりしないんだから」

「何度も言ってるだろ! 俺は中国共産党の使者で、任務中、戦闘に巻き込まれてやむを得ず海峡を渡ってここへ来たって」

 必死に訴える男に背を向け、坂井は三人に向き直る。

「確保した当初からあの主張を繰り返しているんですが、裏付けになる身分証や公文書の類は全て船が難破した際に海に落としたと言うんです。こちらとしても不審な外国人を易々と自由にするわけにいかないので、こうしてここに置いてるんですが」

「中国語で話をさせよう。政府の使者かは判断できないが、大陸の人間なのかはある程度判断できる」

 そう言うとカイは狭い部屋の中に踏み込んで、長椅子に腰を下ろしたままの男と向き合った。男は立ち上がるでもなくカイを真っ直ぐ見上げる。その目には明らかな不満と敵対心が見て取れた。

「中国語で話そう。その方があんたも楽だろ」

 カイの口から流れる聞き慣れない言葉に、タケルは今更ながらカイの本業を思い出していた。

「中国語が話せるのか」

「ああ。お前も日本語が話せるようだな」

「日本に来る予定はなかったが、念のために学んではいた。俺が本当に中国人か試そうと言うのか」

「身分証が無いんじゃ仕方ねえだろ。今時外国語が話せる人間は滅多に居ない。日本語より中国語の方が圧倒的に得意そうだな」

「当たり前だ。そろそろここから出してくれ。俺は先を急がなければならないんだ」

「いったいどこへ何をしに行くつもりだ?」

 男はカイに警戒の眼差しを向ける。その警戒の意味を、カイは自分の事のように理解していた。今まさにカイが抱いている感情そのものなのだから。

「お前達には関係ない」

「突っぱねるのは勝手だが、ここは既に日本の領土だ。外国人が自由気ままにうろついて良い場所じゃねえ」

「だったら船を一艘くれ。今すぐにでも大陸へ戻ってやるよ」

「焼け出されて命からがらここに流れ着いたんだろ? 戻れんのかよ」

 男は目を伏せて黙り込んだ。そこでレイが口を開く。

「で、こいつは本当に中国人なのか?」

 カイは振り返って頷いた。

「そうだろうな。今の日本にここまで自然な中国語を話せる人間が居るとは思えねえ」

「そうか」

 そう言うと、レイは坂井の肩に手を置く。

「坂井、こいつ、いつまでもここに置いておけねえだろ」

「まあ、こちらとしては早く処遇を決定したいですね」

「じゃあ、俺達がユジノサハリンスクの本部まで連れてってやるよ。どのみち、ここで情報を拾ったらユジノサハリンスクへ行く予定なんだ」

「なるほど。そう言う事でしたら上官に確認しますので、他の部屋でお待ち下さい」

 坂井に促され、三人は狭苦しい窓の無い部屋を出た。一人部屋に残された男は項垂れ、部屋の外まで聞こえるほどの盛大な溜息を落とす。


 坂井に通された別室で、レイは向かいに腰かけるカイに言った。

「ここからユジノサハリンスクに行くまではひたすら山沿いに森の中を走る。これで俺があの野郎を連れ出せたら、ユジノサハリンスクに着くまでに情報を引き出せ」

 カイもちょうど同じ事を考えていたようで、当然だと言わんばかりに頷く。

「奴に利用価値があるとしたら、大陸に関する情報と、奴が何故中国を出て、どこに向かっているのかって情報だけだからな。聞き出したら山ん中で殺すのか」

「そうだ」

 何の迷いもなく頷くレイに、タケルが疑問を投げる。

「ユジノサハリンスクまで送り届けるって名目で連れ出すのに、向こうに着く前に死んじまって大丈夫なのか?」

 カイの隣に座るタケルを見やり、レイは緑の瞳を細めて口角を上げた。

「森や山には、まだロシア人の生き残りが潜んでいて、ゲリラ化してる事がある。そいつらにやられたって言えば良い。あいつの存在自体が中途半端で面倒なお荷物なんだ。手に負えない状況で不幸にも死んじまったって事なら、誰も気にしねえよ」

「なるほど。奪還したとは言え、脅威が全く無くなったわけじゃねえんだな」

「そうだ。奴らを一掃するにはまだ時間がかかる」

「それなら良いけど、あいつが本当に中国政府の使者だったらどうするんだ? 殺しちまっても平気なのか?」

 その疑問に一つの見解を示したのはカイだった。さきほどの狭苦しい部屋とは正反対に、窓から日差しの差し込む広い部屋で、カイの黒い瞳はただぼんやりと窓の外を眺めていた。

「中国は昔から友好的とは言えない国だった。野心的で自己中心的な面が強い。立地的にも、力を付けられると日本にとっては脅威になるかもしれない。奴の目的が何であれ、中国の国益のために送り出されたのは間違いないだろう。死んでもらった方が日本にとっては良い」

「なるほど。本当に友好国でない限り、下手に自分の身分を言うと、それだけで命取りになるってわけだ」

「……友好国かは誰にも分からねえ」

 カイは北海道を出てからずっと抱えている不安を再びにじませた。

「言っちまえば、アメリカを友好国だと思っていたのは過去の日本人だ。俺達がアメリカに行ったところで、あの中国人と同じ立場になるかもしれねえ」

 その時、部屋の扉が叩かれた。返事をするまでもなく坂井が顔を出し、三人に結果を告げる。

「お待たせしました。人事院からの正式な通知がまだこちらには届いていないため、橘一佐にお任せしろとの事です」

 レイは苦笑して坂井を見る。

「いい加減だな。その俺が自衛官は辞めたと言ってるのに、それで良いのかよ」

 苦笑を投げられた坂井もただ苦笑し返すほかなく、内心を吐露した。

「本音を言えば、あの面倒な男を連れ出してもらえるだけで万々歳と言うわけなんです。中国政府の使者だと言われてしまえば、俺達は迂闊に手を出せませんし、そうかと言ってそれを証明する物も無いので本人から情報を引き出さなければならない。でも、張本人は詳しい話をしようとしない。正直、あいつの食い扶持が減るだけでも有難いですよ」

「面倒ならさっさと殺しちまえば良いのに」

 そう言って天井を仰ぐタケル。その姿を羨ましそうに眺めながら、坂井は言った。

「俺個人としては、別にそれで構わないんですけどね。ただ、上の人間はそう言うのを嫌うんですよ。俺達みたいな集団は、誰かが決まりを破ってそれを正当化しちまうと、あっと言う間に崩壊するんです。敵に勝って生き残るためには、規律を守れるかが大事なんですよ」

「ふうん。大変だな」

「俺は理にかなってると思うんで、そこまで大変ではないですよ。ところで、十五時までには北海道から二隻目の輸送艦が来る予定です。そこに人事院の通知が乗ってきたら、奴を引き渡す事は難しくなります。出るなら早めが良いかと」

「分かった」

 レイに続いてカイとタケルも立ち上がり、明るい部屋を出て行った。


 三人は坂井に続いて再びあの小部屋に戻った。扉が開いた瞬間、長椅子に腰かけていた男が立ち上がる。男の黒い瞳には希望と警戒が入り混じっていた。

「この三人がお前をユジノサハリンスクに連れて行く。そこで本部の判断を仰ぐことになるが、恐らく本島へ移送されるだろう」

「……本島だと? そんな時間は……」

 坂井の言葉を聞いた男は明らかに表情を濁らせた。下唇をかみ、前髪をかき上げる。

「お前に選択権はない。身元を証明できない現状で、こちらとしては最善の方法を取っているんだ」

 男は伸びた前髪の下から坂井の後ろに立つ三人を覗き見た。日本政府の使者だと言っていたが、信用できる輩には見えない。いや、この地上で生きていられる人間に、信用できる人物など居ないのだ。ましてやここは日本だ。中国内部でさえ反対勢力の多い共産党が、ここに来て優遇されると思う方がおかしい。どちらにせよ、四面楚歌の現状で自分が生き残る方法は一つだった。

「……分かった」

 煮え切らない様子で頷く男。そんな男にカイが中国語を投げた。

「お前、名前は?」

 男は暗い瞳でぼそりと返す。

「フェイ」

 その返答を聞き、カイは時計を確認した。まだ昼前だ。人事院からに通知がいつ届くのか明確ではないので、あまり悠長に構えてはいられない。だが、それでもここで何の情報も得ずに出発するのはもったいない。

「レイ、ここで大陸の情報を集めると言ったな。どのくらいかかる?」

 レイは退屈そうに壁にもたれていたが、徐に顔を上げる。

「三十分あれば充分だ」

「よし。じゃあお前はそっちの情報収集をしろ。俺とタケルはお前の作業が終わるまでの間、ここでこいつから話を聞く。お前の情報収集が終わり次第、出発だ」

「命令すんな。ここでの聴取は俺の意思だ。お前に言われなくてもやるに決まってんだろ」

 そう吐き捨てるなり、レイはさっさと廊下を進んで行った。

 そんな様子を全く気に掛ける様子もなく、カイはフェイに向き直る。

「まずはここで少し話そうぜ。こっちにもこっちの都合があるんだ」

「……好きにしろ」

 フェイは観念したのか、壁際の長椅子にどかんと腰を下ろした。カイはフェイと向かい合うように扉の横の壁に背を預け、足元にアタッシュケースを置く。タケルはその隣で鉄パイプを握ったまま、壁際にしゃがんでフェイを見ていた。

「お前、中国政府の使者だと言ったな。中国は今どんな状況なんだ?」

 どうやらフェイより自分の方が外国語能力は高いと判断し、正確な情報が得られるよう、カイは中国語で話しかける。タケルは話の内容はチンプンカンプンだったが、ただ二人の表情変化をひたすら追っていた。

「……中国は、まるで前史の戦国時代のような有様だ。いや、それより酷い。共産党は暴動によって政権を追われ、国民は散逸した。それでもかつての富裕層は都市部に残り、地下生活を続けている。彼らが共産党の生き残りだ」

「お前もその中の一人なのか」

「いや、違う。俺は雇われただけだ」

「共産党に雇われたのはお前一人じゃないだろ? 仲間は何人いる?」

 フェイは硬い表情のままカイを見やる。明らかに自分より年下の少年だが、こうして流暢な中国語を話す姿を見れば、政府の使者と言うのも信憑性を増した。

「俺を入れて四人だった。だが、海峡を渡る途中で船が難破して、散り散りになった。恐らく生き残ったのは俺だけだろう。その時に身分証も何もかも流されてしまった」

 カイは相変わらず壁に背をもたれたまま、漸く本題を切り出す。

「それで、お前達は中国共産党から何を依頼されたんだ?」

 案の定、フェイは口をつぐんだ。元々日本に立ち寄る予定はなかったと言っていた事から、言うまでもなく目的地は日本ではない。それどころか日本に協力を求める気も無い時点で、日本を少なからず敵視している。そんな相手に自分達の目的を話すはずがない。

 カイは口ごもるフェイに淡々と付け加える。

「考えてもみろよ。四人で達成するはずだった目的を、お前一人になって達成できるのか? どんな報酬を出されたのか知らねえが、どのみちお前にはもう手に入れられねえよ。諦めろ」

「……そんな事は分かっている。それでも俺は、行くところまで行くつもりだ」

 フェイの意思は固かった。黒い瞳には確固とした意志が光っている。

「俺達に助けを求めようとは思わねえのか?」

「…………」

 警戒の二文字がフェイの視線に乗っていた。

「お前らが何をしようとしてるのか知らねえが、お前の話を聞く限りでは中国より日本の方がよほどマシな状態だ。今のお前の立場から考えても、俺達に助けを求めるのが順当だろ」

 するとフェイは重たい唇を開く。

「逆に訊く。お前達は日本政府の使者だと言っていたな。俺に会うためにわざわざサハリンまでやって来たとは思えない。お前達が任された仕事は何だ?」

 フェイの問いに、カイは平然と答えた。

「アメリカに行く事だ」

 その国名を聞いた途端、フェイは黒い瞳を見開く。

「アメリカだと……。いったい何をしに?」

「お前が俺の質問に答えるなら教えてやるよ」

 珍しく楽しそうに口角を上げるカイ。その向かいでは長椅子に座り込んだフェイが深い溜め息をついた。


 二人を坂井に預け、レイはかつてロシア人が使っていたこの建物の情報管理室へ向かう。ユジノサハリンスクの本部ほどではないが、ここにも樺太やその先の大陸に関わる情報が保管されている。ロシア人が集めたものもあれば、日本人が集めたものもある。

 幸いにも自分はまだここで通用する権力を持っているようなので、誰の制止も受けずに情報を手に入れられる。

 資料室には大量の紙媒体の資料と、たった一台のパソコンがあった。パソコンは非常に貴重な物品で、簡易的なタブレットなどを除けば今や公営の施設にしか置かれていない。半導体を生産できる場所も限られ、何よりレアアースと呼ばれる金属も以前に増して希少だからだ。幸い、そこかしこで使われている太陽光パネルは改良に改良を重ねて希少な金属を使用しなくても稼働できるようになっているが、半導体はそうはいかない。今の日本では都市鉱山からの発掘でしか殆ど入手できない。

 そんなパソコンに手を伸ばし、レイはひたすらデータベースを繰っていく。文字を読むのが速い特技はこんな場面でも活かされた。つい最近まで現役の自衛官だったので、樺太や大陸の情報は大方知っている。それを補完する情報さえあれば良いので、そこまで量も多くはない。

 まずは樺太だ。やはり未だに北部にはロシア人の生き残りが巣食っているようだ。彼らはサハリン2と言う天然ガス採掘施設を何としても日本人から取り返そうとしている。現に、エネルギー供給の面では太陽光パネルによる発電効率が低下している北海道と比べても、ここ樺太は満ち足りていると言える。ロシア人達が守り抜いて来た天然ガスが行き渡っているし、液化する技術もまだ生きている。

 日本人が真っ先にここ樺太を取り返したのは単に本土に流れ込むロシア人を断つためだけではない。エネルギー源を手に入れるためだ。

「……現金な奴らだ」

 そう呟いてレイが視線を止めたのは、現地で働くロシア人労働者の記載だった。エネルギー供与、生活の補助、食料の配給、そうした報酬を出せば、ロシア人であろうとランド・ウォーカーは反抗しないと言う。レイは意図してロシア人を逃がさなかったが、サハリン2などの施設を正常稼働させるには人手が必要だ。本土へガスを供給するにも、国籍に関わらず使える人材は使わなければならない。

 その点、ランド・ウォーカーは貴重な働き手だった。外へ出られるのは言うまでもないが、報酬を与えれば面倒な争いを起こさない。

「それなら、ゲリラを操ってるのは誰だ……」

 ゲリラに関する情報を見ると、防護服を着ていないと言う。それならゲリラはランド・ウォーカーに違いない。日本人の下で働く以上の報酬を出す誰かが居て、その人物がロシア人のランド・ウォーカー達を操っているのだ。

 ランド・ウォーカーが報酬に弱いのは何もロシア人だけの話ではない。日本人でも例外ではない。ゲリラの飼い主が誰で、どれだけの報酬を支払っているのかによっては、自衛隊にとっても良い話ではない。

「……それだけの報酬を支払える力が残っているのか?」

 ロシアの有様を考えれば俄かに信じ難い。

 ゲリラの雇い主に関してはまだ明確な情報が無かった。

 続いてロシア本土の情報を漁る。これは極端に量が少ないが、これまで捕らえたロシア人から聞き取ったものが殆どだった。

 どうやら樺太に流れ込んでいたロシア人達は、その多くがロシア本土の東部から来ていたようだ。首都や都市が多い西部に比べ、東部は元々人口も少なく大型地下居住区を作れるような資金も資源も無い。地底人は殆ど死滅し、ランド・ウォーカー達は住み易い環境を求めて南下して来たようだった。そこでウラジオストクなどに展開していた軍に勧誘され、樺太に送り込まれた者達が大半のようだ。

 樺太はエネルギー供給も安定しているので、大型の地下居住区がいくつかある。それを機能停止にしたのはレイなのだが。そうした居住区は既に日本人によって機能を取り戻している。

 レイはロシア本土の情報をいっそう集中して読み込んだ。

 あの男はどこに居るだろう。首都があるモスクワに行ったのか。だが、モスクワの現状を知っていたからこそあの身分証を置いて行ったのだろうから、機能しないモスクワにわざわざ向かったとも思えない。

 あの中国人は何故北上していたのだろうか。もしもカイやタケルと同じようにアメリカを目指しているとしたらどうだ。アメリカが真っ先に復興したと言う知らせが、日本だけでなく、世界中にばらまかれていたとしたら。あの男もアメリカへ向かうだろうか。

 答えの無い想像を中断し、レイはロシア本土の公営居住区が記録された部分を印刷し、折りたたんでポケットに入れた。


 中国人が拘留されている小部屋へ向かうと、開いたままの扉から坂井が顔を出した。レイの姿を認めるなり、小さく会釈する。

「どうだ、話したか」

 坂井は苦笑しながら首を振った。

「いや、それが全部中国語でして……さっぱりです」

「あのガキ、ただのモヤシじゃなかったんだな」

 そう言って部屋に入ると、壁際に立つカイが冷たい目を向けて来た。

「俺はガキじゃねえし、モヤシでもねえ」

「それは俺を伸せるようになってから言え。情報は集めた。出るぞ」

 カイは不服そうにアタッシュケースを持ち上げる。固い長椅子に座り込んでいたフェイも立ち上がり、一歩踏み出した。そこにタケルが歩み寄り、カイとレイに言う。

「こいつは俺と一緒に後部座席に乗せよう。レイ、お前は助手席だ」

 タケルは自分を見上げるフェイの目を真っ直ぐ見返していた。

 中国語は分からないが、タケルはこの男がカイと話している間、ただじっと観察していた。今は痩せているが、指には射撃によるタコがあり、レイや坂井を見る時は武器の在処を真っ先に確かめていた。何かしらの訓練を受けている可能性が高い。

 カイはアタッシュケースしか持っていないし、どう見ても物理的な脅威にはなりそうにない。自分は鉄パイプしか持っていないし、狭い車内で鉄パイプを奪ったところで逆に不利だと踏んでいたはずだ。自分なら素手でこの男を沈黙させられる。レイを隣に座らせて銃やナイフを奪われるよりマシだ。

「勝手にしろ」

 カイは一言そう言って部屋を出て行った。


 弾痕が生々しい建物を出て、四人は正面に停めた車両へ向かう。その途中、フェイはふと足を止めた。急について来なくなった足音に、カイは背後を振り返る。フェイはただ硬い表情で道の向こうに立つ石像の残骸を見ていた。

「おい、行くぞ」

「……あれは、誰なんだ」

 呆然と呟くフェイ。カイはフェイが見つめる石像を見やって吐き捨てる。

「レーニンだそうだ。共産主義ってのは、結局は嫌われるんだな」

「……レーニン」

 フェイの脳裏に天安門の姿が蘇る。中国はこれまでも破壊と再生を繰り返してきたが、共産党も例外ではなかった。自分は熱心な共産党員などでは全くないが、破壊され、瓦礫の山と化した天安門と、引き裂かれ、何者であったかも定かではない毛沢東の肖像は、どこか人の性の虚しさを感じずにいられなかった。

 その再現が、今まさに目の前にあるレーニン像だ。

 中国を再生させる技術を得られれば、一生裕福に暮らせる。ただそれだけで国を出たが、世界は思っていた以上に過酷で醜かった。

「さっさと来いよ!」

 いつの間にか先に車両へ行き着いたカイが大声で叫んだ。フェイは我に返って駆け出す。

 タケルが言った通り、運転席にカイ、助手席にレイ、後部座席にタケルが乗り、その隣にフェイが乗り込んだ。これからこの車はユジノサハリンスクへ向かう。そしてフェイにとって最も望ましくないのは、そこから日本の本島へ送られてしまう事だ。日本などに立ち寄っている場合ではない。どうすればその流れを断ち切れるか考えていた時、隣に座るタケルが口を開いた。

「お前、中国が嫌になって出て来たのか?」

 フェイは隣に座る大きな男をちらと見て、すぐに窓の外へ視線を流す。

「中国は便利だ。何より母国語が通じる。それだけでそこに居る価値がある」

 訛った日本語で言うフェイに、タケルは大いに頷いた。

「確かにそうだ。じゃあ、何でわざわざ不便な場所に出て来たんだよ」

「……国を再興させるためだ」

 するとタケルは目を丸くしてフェイを覗き込んだ。

「お前、愛国心があんの?」

 珍獣でも見るような目で言うタケルに、フェイは困惑して身を引く。

「愛国心……違う。俺の生活のためだ。この仕事を終えれば、俺は一生裕福に暮らせる」

「どこもここも同じだな」

「お前達は何をしにアメリカに行くんだ」

 その問いに答えたのは、運転席でハンドルを握るカイだった。

「それを答えたらお前も中国政府から依頼された内容を教えろ」

「……ああ、良いだろう」

 相手はランド・ウォーカーだ。お互いに相手が言う事を真実と思って鵜呑みにするのは危険だが、どこかで隙を見せるかもしれない。カイはそう思って真実を口にした。

「俺達は発電技術を得るためにアメリカへ向かってる。そっちは?」

 するとフェイは驚きの表情で顔を上げる。

「……俺達もだ。アメリカから来た探検家のランド・ウォーカーが、最先端の発電技術によってアメリカはいち早く再興したと情報を流して来たらしい。その技術を得るため、アメリカに向かっている」

「え? ちょっと待て。その探検家って、いつ中国に来たんだ?」

 タケルから出た問いに、フェイは怪訝そうに答えた。

「確か、今年の四月頃だと聞いた」

「カイ」

 後部座席から飛んできたタケルの声は、僅かに困惑を孕んでいた。カイはいつもの淡白な表情のまま、ハンドルを握っている。だがその思考は今まさに目まぐるしく駆け回っていた。

 政府から依頼を受けて自分とタケルが東京を出発したのが五月頃だった。と言う事は、政府の連中が探検家のランド・ウォーカーと接触したのはそれ以前。依頼内容からして、情報を得てから何か月も放置していたとは考えにくい。そうなると、アメリカの情報がもたらされたのは四月頃だと考えられる。

 同時期に同じ情報を持った探検家を名乗るランド・ウォーカーが中国政府にも接触していたのだ。偶然とは思えない。

「どうかしたのか」

 フェイの声に、カイは何食わぬ様子で返す。

「その探検家、発電以外の情報は持ってなかったのか?」

「……日本に来た奴は持っていたのか?」

 この返答から察するに、中国に来たランド・ウォーカーは発電以外の情報も持っていたのかもしれない。カイはカマをかける事にした。

「ああ。俄かに信じ難い情報だった」

 するとフェイは、山間の道に揺れる車内で深く息を吐く。それは呆れとも驚きとも取れた。

「……俺も、まさかヒトのゲノム編集がアメリカで継続されていたとは思わなかった。元々は百年以上前に中国の学者が実際に行ったものだが、今やアメリカでランド・ウォーカーを作り出すために発展していたとは……」

「ふうん」

 そう言うと、カイは不意に減速してブレーキを踏んだ。四人を乗せた車両は緑に囲まれた道の真ん中で停止する。何事かと周囲を見回すフェイ。そこに運転席から冷たい声が飛んできた。

「タケル、やれ」

 次の瞬間、大きな手と屈強な腕がフェイの頭部を捉えた。フェイが抵抗する間もなく、過酷な旅に痩せた首が、鈍い音を立てて捻じれた。たちまち力を失ったフェイは、音を立てて後部座席の扉にぶつかり、足元に転がる。タケルは一度それを見下ろし、さっさと扉を開けて外の森に放り出した。

 自衛隊がある程度整えたとは言え、植物に浸食され欠けている道に、死体が一つ転がる。カイはそれをサイドミラー越しに見ていたが、後部座席の扉が閉まるなり、アクセルを踏んで走り出した。

「どういう事だ? 探検家を名乗るランド・ウォーカーが複数人いる上に、ゲノム編集の情報は日本には流されてねえんだろ」

 まるで何事も無かったかのように、助手席でくつろぐレイが言った。

「偶然とは思えねえ。誰かが、意図的に情報を流したとしか……」

 カイはそう言いながらひたすら考えを巡らせる。そこにレイの思考が声を持って流れ込んだ。

「日本と中国、アメリカからすれば距離的に差がある地域においても同時期に到着するよう計算して出発させた。しかも、それぞれの国が確実に興味を示すような話題を持たせて」

 その呟きにカイも続く。

「エネルギー資源に乏しい日本には雷発電、得ようとすれば資源はある中国には発電以外にもヒトのゲノム編集と言う、中国が真っ先に禁忌を犯した領域に踏み込んだ……」

 助手席のレイが、緑の瞳をカイの方へ向けた。

「誰かが、俺達をおびき寄せている。そう思わねえか」

「……そうかもしれない。だが、そんな事をして例え俺達やあの中国人達を殺したところで、いったい何の利益がある? 辿り着くかも分からねえような旅に出るランド・ウォーカーをわざわざ雇ってまで、何がしたい?」

「さあな、そんな事俺が知るわけねえだろ」

 すると、そこに後部座席からあっけらかんとした声が届く。

「遊びなんじゃねえの? 一番早く到着した奴にだけ教えるとか、到着した奴らを戦わせて、生き残った奴に教えるとか」

「そんな暇人がこの世に居るか?」

 カイの呆れた声に、タケルは楽しそうに笑った。

「居るかもよ?」

「そんな奴が居たら、俺が真っ先にぶっ殺してやる」

 カイの声に怒りが滲む中、レイはフロントガラスの向こうを眺めたまま淡々と言う。

「この発信者の意図は不明だが、発電やゲノム編集の技術が嘘とは言い切れねえ。アメリカへは変わらず行くんだろ」

 レイの声に頷き、カイは盛り上がる木の根で上下する道を進み続ける。

「ああ、なおさらだ」


 一台の軍用車両がユジノサハリンスクへ続く山間の道を通過して行った。どうやら日本の自衛隊の物らしかった。その車両が通った後に、一つの死体が転がっている。

 その知らせを受け、一人の中国人が生き残ったロシア人達と共に山を抜ける。そして話に聞くところの死体を見付けた。

 人も車も通らない、物寂しい一本道。そこにそれは転がっていた。どうやら首を折られたようで、頭部が心もとなく揺れ動く。顔を見れば、やはり共に中国を出た男だった。

「フェイ……死んだのか」

 しゃがみ込んで死体を確認する男に、ロシア人の一人が声を投げた。

「シャン!」

 名を呼ばれ、男はロシア人を振り返る。間宮海峡で船が難破し、命からがら岸へ這いあがったところを拾われた。ロシア語は多少分かるので、話を聞けば日本人に抵抗するために雇われた傭兵だと言う。

「行くぞ!」

 ロシア人の男が更に声を張るので、シャンは立ち上がって一度フェイの亡骸を振り返った。特に思い入れはないが、多少気の毒のような気持ちが湧いた。シャンは再びしゃがみ込んでフェイの目をそっと閉じ、体を整えてからロシア人の下へ駆けて行った。


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