生きる理由
旭川居住区での惨劇を生き延びたカイ達。カイはすぐにでもロシアへ向かいたかったが、レイは旭川居住区の殲滅を目論む。一方、岩永の追跡から逃れたリョウヘイは、アイヌの少女アペカに助けられた。
何のために生きるのか、何のためにアメリカへ向かうのか。
18 生きる理由
右足が痛い。信じられないような激痛だ。こんな痛みは生まれてから一度も味わった事が無い。
「っ……」
目を開くと、そこはどこかの建物の中だった。痛みの根源は自分の右大腿から弾丸を抜き取っている男だ。リョウヘイが男に手を伸ばすと、アペカがその手を握る。
「頑張って、両平。弾を抜かないと足が腐っちゃう」
アペカは両平の顔に手を伸ばし、額の汗を拭う。
「骨には当たってない。すぐに抜いてやる」
男はそう言い終わるのが早いか、一息に長いピンセットを引き抜いた。
「ああ!!」
「両平!」
唸るリョウヘイをアペカが必死に宥める。男は引き抜いたピンセットをリョウヘイに見せた。赤く染まった金属の先に、岩永に撃ち込まれた弾丸が挟まっている。
「無事取れた。後は消毒して傷を塞ぐだけだ。もう少し痛いが、さっきほどじゃない」
そう言って素早く処置に取り掛かる男に、リョウヘイは息も絶え絶えに言う。
「そりゃ……どうも」
「両平」
リョウヘイの手を握るアペカが、不安げな面持ちで彼を覗き込む。彼女の長い黒髪が、下を向いた拍子に肩から流れた。リョウヘイは痛みから気を逸らすためにも、必死にアペカの黒い瞳を見つめていた。
「どうしてこんな事になったの? あの男は何者?」
アペカもリョウヘイの気を痛みから逸らし、気をしっかり持たせるために必死な様子だ。白い肌にうっすらと汗が滲んでいる。
「っ……俺は……函館に居る兄貴に、レイを殺すよう……頼まれたんだ」
「レイ……自衛隊の?」
「そうだ……。っ、でも、しくじったかも……まあ、俺がしくじっても……カイが、あいつを日本から……連れ出してくれる……そしたら、戦争も……きっと終わるから、御の字だな」
流れ落ちる汗の中で苦笑するリョウヘイ。アペカはその手をさっき以上にしっかりと握った。
「お兄さんが、あなたに人を殺して来いって言ったの? そんなの、ひど過ぎる……」
リョウヘイは閉じそうになる目を何とか開いてアペカの顔を見た。大きな黒い瞳は本心から悲しみに沈んでいるようだった。この少女は確かにランド・ウォーカーだったはずだ。ランド・ウォーカーがこんな顔をするのだろうか。
「兄貴は……元は良い奴、なんだ……。大勢に好かれてる……。けど、レイの……部下に、嫁とガキを……殺されちまった……」
「……そうだったの。でも、それでも両平に人を殺させるなんて、私は許せない」
どうやら本心から怒っているアペカを見ていると、リョウヘイは不思議と笑いが込み上げて来た。こんな状況で笑えるなど、我ながら呆れてしまうほどに。
「はは、なに……怒ってんの。俺の事なんか……君に、関係ないだろ……。それに……俺はさ、君が思ってるような……人間じゃないよ」
そこまで言うと、リョウヘイはすっと目を閉じた。アペカはハッとして汗まみれの頬を軽く叩く。
「両平! 両平!」
そんなアペカの肩を、足の処置を終えた男がそっと引かせた。
「大丈夫。眠っただけだ。こっちも終わったよ。後は感染症にならないように経過を見よう」
「……はい」
旭川居住区が封鎖され、地上からの電源供給が断たれてから二日が経った。北海道中から防護服が徴収され、特に洞爺湖の居住区ではその過程は凄惨を極めたと言う。どうやら反政府組織のアジトと化していたそこは、決死の抵抗にも関わらず、レイによって壊滅にまで追い込まれた。レイはそこから持って帰った防護服を使って旭川居住区の汚染区域を洗浄し、そこに暮らす地底人を根こそぎ殺す勢いで決行の日を迎えようとしていた。
カイとタケルは、レイが旭川の始末だけはやらせろと言って聞かなかったため、仕方なくまだ駐屯地に身を寄せていた。
「レイの野郎、まさか旭川の地底人を皆殺しにする気じゃねえだろうな」
「そのつもりなんだろ」
あっさり肯定するタケルに深々と溜息を吐き、カイは窓の外に見える広大な景色を眺めた。この景色はいつ見ても変わらない。遠くに大雪山が見え、地上で起きている惨事など露ほども知らないかのように青空は鮮やかだ。
この北海道のどこかにリョウヘイは潜んでいるのだろうか。はたまた岩永の追跡を逃れたものの、どこかで野垂れ死んでいるのか。
「俺達も暇じゃねえんだ。シベリアやアラスカで冬を迎えるのだけは避けたい。いつまでも待ってられねえぞ」
強く吐き捨てるカイに、タケルは呆れ顔で返した。
「それさ、俺に言われても困るし」
「仕方ねえだろ。あいつがどこに居るかも分かんねえんだから。ただの愚痴だ!」
「岩永に訊けば? あいつ、レイの事ならだいたい何でも知ってるじゃん」
「岩永……」
タケルは概していい加減な男だが、意外にも要点を突くのは上手かった。カイは確かにそうかもしれないと思い、タケルの言う事を聞くのも気が進まなかったが、ここは大人しく岩永を訪ねる事にした。岩永ならよくレイの執務室の辺りで見かけるので、レイを探すよりは早く出会えそうだ。
「行くぞ」
「はいよ」
部屋を出た二人がレイの執務室へ向かって歩いていると、向かいから誰かが来るが見えた。異様に目の良いタケルが真っ先に声を出す。
「あ、噂をすれば岩永だ」
タケルが手を振ると、岩永は自分の後ろに誰かいるのか振り返った。だが誰も居ないようなので、自分に手を振っていると認識してこちらにやって来る。
「どうかしたのか」
「レイはどこに居る? いったいあと何日待たせるつもりなのか確認したい」
苛立ちのこもるカイの声に苦笑し、岩永は持っていた大判な茶封筒を示した。
「ちょうど俺も橘一佐に連絡があったところだ。居そうな場所なら見当がつくが、行くか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、付いて来い」
緑の迷彩に大判な茶封筒を持つ岩永は、黙々と二人を先導する。あの日の暗黒が嘘のように、今日は清々しいまでの青空だ。夏の空は高く澄んでいて、何も知らない鳥たちが方々でさえずっている。
むき出しのコンクリートが冷たく感じる建物を出て、岩永は駐屯地の門へ向かった。
「レイの奴、外に居んのか」
背後から届いたカイの呟きに、岩永は歩きながら平坦に答える。この岩永と言う眼光鋭い男は、レイより年上なだけあって落ち着きが違った。岩永自身は自分の考えをあまり前面に出す男ではなかったが、その瞳からは確固たる意志を感じる。だが、それでいてむやみやたらと力ずくに我を通す訳でもない。
「橘一佐は自由時間が極端に少ない人だ。前まではその間に読書やうたた寝をしてたが、最近はあそこに行っている事が多い」
「読書やうたた寝って、年寄りかよ」
タケルの心の声が完全に飛び出している中、岩永は駐屯地を出て暫く歩いた先の野原を示した。そこも元々は野原ではなかったのだろうが、今は青々と背の低い草が茂り、その中央に大きな石が一つ、ぽつんと立ち尽くす場所となっていた。
「ここで昼寝でもしてんのか」
岩永はタケルに首を振り、たった一つ立っている石を遠目に見て言う。
「ここは、墓だ」
爽やかな夏の風に流れる岩永の声を追うように、カイとタケルもその石を見やった。すると、その陰に人影があるのに気が付く。目を凝らせば、あの目立つ頭髪が見えた。
「やっぱりここに居たか」
歩き出す岩永に続くカイが、石の傍に座り込んでいるレイの姿を見据えながら言う。
「お前の用から済ませてくれ。俺の話はきっと長くなるから」
「俺の話も長くなる上に、この話の後は最高に機嫌が悪くなると思うぞ」
そう言って岩永は小さな笑顔と共に、ずっと持っていた茶封筒をちらりと見せた。封筒の下部には「内閣府」の文字がある。その三文字と岩永の口ぶりで、カイは封筒の中身が言わんとする事が容易に想像できた。
「はあ……、そう来たか。いや、それでもお前から話してくれ」
「じゃあ、そうしよう」
草原で石と対峙していたレイは、三人がこちらにやって来るのに気付いて顔を上げる。カイとタケルはどうせ自分を急かしに来たのだろうと見当が付いたが、岩永が持つ封筒はどうにも嫌な予感がした。
「何だよ、急かしに来たのか」
石の方を向いてぶっきらぼうに言うレイ。そこに岩永が例の封筒を差し出した。
「橘一佐、内閣府からの伝達事項です」
レイは緑の瞳に警戒の二文字を滲ませながら、差し出された封筒を受け取る。すぐにナイフで封を切り、中の書類に目を通した。読書好きなだけあって、レイも文章を読むのがカエデに負けず劣らず速かった。
あっという間に書類を読み終えたレイは、それを引き裂かんばかりの力で握っていたが、何とか自制して再び封筒にねじ込む。
「くそったれの政治家ども……。旭川居住区の後始末は内閣府に任せろと言って来やがった。中央都市を隠蔽してえんだろ。ふざけやがって」
「せめて入江が言っていた密偵の存在の有無だけでも確認できれば……」
そう言う岩永に、レイは首を振って茶封筒を突き返す。
「居ねえよ。もしも本当にあのクソ野郎があそこに居たら、入江は封鎖を解くカードとして出してくるはずだ。奴らの自家発電もせいぜい三日が限度だろうし。今になっても無いとなると、俺に交渉を持ちかける材料が全く無いんだろう」
そこでカイが漸く口を開いた。
「あそこにお前の親父が居ないなら、さっさと出発したらどうだ。ここで何を待つ必要がある?」
するとレイはカイを睨んで目の前の石を指さす。
「これは、今まで死んだ俺の部下達だ。殆どの奴らが死体を引き受ける身内が出て来ねえから、ここにまとめて埋めてある。これはな、俺の負けの証なんだよ。部下が死ぬ度、俺は何度も何度も負けて来た。入江のくそばばあにもだ」
どうやら部下の死を悼んでいると言う訳ではなさそうだが、レイは拳を握りながら無名の墓石を見る。
「俺は……負けた分を何倍にもしてぶつけてやりてえんだよ。入江が殺した奴らの何倍の反政府勢力を殺せば、俺はあいつに勝った事になる? 洞爺湖を潰した今、残るは旭川だろ?」
怒りに沈むレイの瞳は、誰もが言葉を呑み込むほど冷酷な色をしていた。だが、そこに岩永が一言放つ。
「橘一佐、お気持ちは解りますが、内閣府の要請とあっては無視するわけにもいきません」
レイは無表情で淡々と言う岩永を睨み、遂にはそっぽを向いた。
「そんな事は分かってんだよ。だが、俺だってこのまま黙って明け渡すわけにはいかねえ」
「じゃあさ、こうすれば?」
場違いなほど能天気な声はタケルだった。その場の全員がタケルを見上げる。
「その通知がさっき来たばかりなら、封鎖されてる居住区の奴らはまだ知らねえだろ? だから居住区の奴らに、洞爺湖のアジトは全滅した事と、防護服が充分手に入ったから今日には突入するって言うんだ。それが嫌なら入江と密偵の身柄を寄越せって条件出せば、きっと出すだろ。出さなかったとしても、入江の方から出て来ると思うぜ」
その場の全員が暫く静まっていた。そんな中で最初に口を開いたのはレイだった。レイも高身長ではあるが、それを上回る高さのタケルをじっと見上げながら目を細める。
「馬鹿そうに見えて、たまにはまともな事も言うんだな」
「たまにな」
そう付け加えたのはカイだ。タケルはそんなカイをじっとり睨みながら、大きな手でカイの頭を掻き乱す。
「おい、いつも助けてやってんだろ!」
「うるせえ! 事実を言ったまでだ!」
非難の応酬を繰り広げる二人をよそに、レイは岩永に指示を出した。
「岩永、内閣府の通知が居住区に届く前に、急いで交渉に行け」
「はい」
岩永は踵を返して駐屯地に向かって駆けて行く。その背中を見ていたレイだったが、まだタケルと小競り合いを続けているカイの肩を引いた。
「おい、俺に用があったんだろ。出発の催促か?」
カイはタケルの手を振り払ってレイに向き直る。
「その通りだ。お前の気が済むまで待ってたら冬になっちまう」
「内閣府のクソどもが出て来て良かったな。これで期限が一気に早まった」
「結果がお前にとってどう転ぼうが、この件が終わり次第出るからな」
「分かったよ。口うるせえ女みてえな野郎だな」
「……あの時死んでた方が良かったか?」
「そんな気ねえだろ」
「生意気なガキみてえな野郎だ」
レイと顔を突き合わせて吐き捨てたカイ。そのままそっぽを向くと、駐屯地に向かってさっさと歩き出した。
「あーあ、怒っちゃった。ああなると面倒臭えぞ? いつまでもグチグチ言ってくるから」
タケルは鉄パイプを肩に担いで、小さくなっていくカイの背中を眺める。だが、ふと思い出したようにレイの傍に立つ墓石を振り返った。
「カエデの死体もそこに埋めたのか?」
「ああ」
「やっぱ毒で死んだのか」
「いや、自殺だ。銃で脳幹を吹っ飛ばしてた」
「ふうん」
レイの緑の瞳が再び無名の墓石を見つめる。黒々とした石は、あの時の暗闇を彷彿とさせた。
「俺の防護フィルターが限界値だったんだ。それを自分のと交換して、それから自殺した」
「え、じゃあ、お前を生かすために死んだって事? そんな事あんのかよ!?」
「俺も驚いた。そんな事をするのは地底人くらいだ。伊山は、防護フィルターの残り時間を……俺の命に託すと言った」
「託す、ね。やっぱお前とカイは気が合うかもな。カイもこれまでに死んだ奴らに、何かを託されてるみたいで嫌だって言ってた」
レイの指がそっと墓石に触れるが、それは冷たいだけで墓石以外の何ものでもなかった。
「俺は、伊山が何を託したのか全く解らねえ。あいつは俺の外見を嫌に気に入ってたから、俺がただ生きているだけで良いって事なのか……」
タケルは一度首を傾げ、そろそろ姿が見えなくなりそうなカイを追うべく歩き出した。そして草原の柔らかい草を踏みしめながら、肩越しに声を放る。
「それって一番得するやつだろ?」
「……得?」
「ただ生きてるだけで良いんだ。楽じゃねえか。お前の命を惜しむ奴がいるってのは、そう言う事だろ?」
レイは離れていくタケルに届くよう、声を張った。
「死んじまったけどな!」
すると、タケルは振り返らずに鉄パイプで前方を示す。
「まだ一人居るだろ!」
鉄パイプの先には、腹を立てて振り返りもせずに去って行くカイの背中があった。レイはみるみる小さくなる背中を見ながら、風に掻き消されるような心もとない声で呟く。
「生意気なクソガキか」
これまで経験した事のないような激痛に耐えたあの日から数日、リョウヘイは松葉杖をつきながら短い距離を歩けるほどに回復した。村の医者曰く、脇腹は弾が貫通していて、奇跡的に内臓は一切傷ついていなかったとの事だ。
ここまで回復する間も、アペカは毎日熱心に看病してくれていた。そもそも滞在先も無い自分を家に置いてくれているのもアペカだ。彼女がどうして自分にここまで手を掛けてくれるのか、リョウヘイには全く分からなかった。
とにかく、後になって巨額の報酬を要求されても困るので、できる事を少しでも還元する事にした。その一環で、アペカが商売に使っている馬に餌をやるべく厩舎に来ていた。いつもアペカがやっているように、餌置き場から干し草を運ぶが、その途中でバランスを崩してしまう。
危うく転びかけたところに、またも救いの手が差し伸べられた。
「両平、大丈夫?」
家にリョウヘイが居ない事に気が付いたアペカが様子を見に来たのだ。アペカは両平の体をしっかり支えて体勢を整えさせる。
「怪我してるんだから、無理しないで」
リョウヘイは厩舎の柱にもたれながら、ただ非力な自分を笑うしかなかった。
「ははは、我ながら情けねえな」
「情けなくなんかないよ。誰だって怪我をすれば体の自由が利かなくなるんだから」
「アペカ……」
「なに?」
「……いや」
口ごもるリョウヘイに、アペカは村の外れにある小川の方を示した。
「両平、川の近くにラベンダーがきれいに咲いてるの。見に行こうよ」
普段はあまり表情変化の無いアペカだが、今はうっすら頬を染めている。よほど気に入っている景色なのだろう。リョウヘイは断る理由もなく頷いた。
「ああ、行こう」
アペカに案内された場所は、小川のせせらぎが心地よい静かな花畑だった。昔、誰かがここにラベンダーを植えたのか鳥が運んだのか、起源は定かではないが、一帯を鮮やかな紫が覆っている。そして深みのある穏やかな香りが静かな風に乗って流れていた。
その一角にある丸太に、二人は並んで腰を下ろした。
「きれいでしょ?」
リョウヘイは隣に座るアペカを覗き見る。彼女は目を輝かせて辺り一面に広がる紫の海を眺めていた。長い黒髪が背中まで流れ、白い肌に一層映える。
「ああ、きれいだね」
「ねえ、両平。両平は霧を浴びても死なない人なのに、どうしてそんなに優しいの?」
予想だにしない質問に、リョウヘイは立て掛けていた松葉杖を倒してしまった。
「どうかした?」
「いや、まさかそんな事を訊かれるなんて思わなかった。それは俺が君に訊きたい事だよ」
「私は……、平和な方が良い生活ができるから。喧嘩や殺し合いをしても、何も得する事なんてないし。それがこの村のルールなの」
意外に合理的な返答だったので、リョウヘイは小さく息を吐いて苦笑した。
「はは、やっぱそうだよな。いや、それを聞いて安心した。まさか善意だったら、次に霧が沸いた時に君が死ぬんじゃないかと思って」
「私が死んだら困る?」
「困るに決まってる」
「そうだよね」
アペカは表情の無い目でラベンダーの海を眺めている。同じランド・ウォーカーでも、相手の考えている事がさっぱり解らない事は多々あった。特にアペカのように表情に出ないタイプは余計に解らない。
リョウヘイが言葉を選んでいると、アペカの方から口を開いた。
「両平はどうして優しいの?」
「俺は……善い人で居たいんだ」
アペカの大きな黒い瞳が純粋な疑問をリョウヘイにぶつける。
「どうして?」
「話すと長いけど、良い?」
「うん、良いよ」
「俺は地底人ばっかのエリート一家に生まれた。まさか大松家にランド・ウォーカーが生まれるなんか誰も思わなかったのか、俺が地底人じゃないと分かった時から、俺は一族の奴隷になった」
アペカの黒い瞳は、ただ真っ直ぐにリョウヘイの横顔を捉えていた。
「奴らは俺を家から出さずに使うだけ使った。戸籍にも俺の名前は無いんだ。もちろん、学校なんか行ってない」
「でも、両平は読み書きも計算もできるじゃない」
「兄貴が教えたんだよ。あいつだけは良心の呵責か、自分のプライドがあったんだろ。それ以外の奴らは家では俺を動物以下に扱って、外では善人面してやがった。終いには俺が成人していよいよ隠し通せねえとなったら、殺しちまおうって話し合ってやがったんだ」
「そんな……」
「だから俺は、やられる前にやった。二十歳になる年の正月、一族がそろった会合で酒に毒を入れたんだ。兄貴だけは利用価値があったから殺さなかった。それで捕まって、本当は死刑になるはずだったが、案の定、兄貴の権力で生き残った。それから決めたんだ。あの偽善者のクソどもみてえな人間にはならねえ。俺は地底人のクズより、立派な善人になってやるって」
「それで人に優しくしてるんだ」
リョウヘイは消えそうな笑顔でアペカの方を見て頷く。
「そう。君が思ってるような人間じゃないんだ。兄貴にレイを殺せと頼まれた時も、見返りに兄貴をぶっ殺して函館居住区を俺のものにするために引き受けたんだ」
アペカは特段動揺するでもなく、ただ澄んだ黒い瞳でリョウヘイと向き合うばかりだった。
「でも、お兄さんは両平に良くしてくれたんでしょ?」
「兄貴に世話を焼かれるたび、憐れみを掛けられてるようで腹が立った。あいつが何人に好かれようと、俺はあいつが嫌いだ。良い奴だと分かっていても、嫌いなんだ」
「待って」
アペカは突然立ち上がってリョウヘイの正面に立った。彼女の白い頬が心なしか紅潮している。華奢な手がリョウヘイの肩を両手で掴み、いつも以上に真剣な眼差しで覗き込んだ。
「お兄さんを殺しちゃダメ」
「……え、何で?」
「両平は信じないかもしれないけど、人を殺したりすると死んでから地獄に落ちるの」
「じ、地獄?」
突拍子の無い単語に、リョウヘイはただ口を半開きにしていた。
「私達はそれを信じてるの。だからお兄さんを殺しちゃダメだよ。だって、お兄さん良い人なんでしょ? 両平を殺そうとした人達は悪い人だと思う。でも、お兄さんは、腹は立つけど良い人なんだから」
「ま、まあね」
「でも、だからって黙ってないよ」
「は?」
リョウヘイの肩を掴むアペカの手には、いっそう力がこもる。彼女がここまで熱くなるのは滅多にない事だ。そんなアペカをリョウヘイはただ見上げるほかなかった。
「函館に行こう。キャビアを買ってもらうの!」
「な、何でキャビア?」
「両平は善い人で、人殺しなんて向いてないって解らせるため!」
「え、え?」
「だって考えてみて。あのキャビアはチョウが作って私達が売る。それって、両平の名前の通りじゃない? 霧を浴びると死ぬ人と、霧を浴びても死なない人の両方を平和にするんでしょ? 私達、チョウと協力して皆に美味しい物を届けるんだよ? タダじゃないけど」
リョウヘイの肩を揺らしながら熱く語るアペカに、ついリョウヘイは小さく笑ってしまった。
「何かおかしい?」
「いや、ごめん。そうだよね、タダじゃ渡せねえよな」
「うん。それは無理」
リョウヘイは自分の肩を持つアペカの手をそっと握る。こんなにも人の手が温かいと思った事は無かった。
「君の名前も、その通りだよ。暗闇でも道しるべになる、火の糸だ」
アペカは何も言わず、ただ控えめに微笑んだ。
岩永がレイの執務室にやって来たのは、その日の昼過ぎだった。執務室の扉を潜るなり、机の向こうに座るレイが反射的に顔を上げる。岩永を待ち構えていた緑の瞳は、期待とも警戒ともつかない色をしていた。岩永はいつもと変わらない冷静さでその視線を受け止める。
「橘一佐、旭川居住区から返答がありました」
「何だ?」
「突入回避のため入江の身柄を渡す事には同意したのですが、入江は既に自殺していて渡されたのは死体です。密偵については、やはり橘一佐を呼び寄せるための嘘だと」
盛大な溜息がレイの口から洩れる。
「入江の奴、死にやがったか。死体なんか渡されてもどうすんだよ。俺は肉屋じゃねえぞ」
すると岩永は準備していたかのように大判な茶封筒を取り出した。この封筒には「内閣府」の文字はない。
「そうおっしゃると思って、これを要求しました。旭川居住区の搬入口を中央都市と偽って報酬未払いのランド・ウォーカー達を殺害していた記録です。地底人達は殺したランド・ウォーカーの身元を確認し、内密に弔っていたようです」
封筒を受け取りながらレイは目を細めた。内閣府の封筒も忌々しかったが、これも同じくらい忌々しい。
「殺すくせに弔うだと? いったい何がしてえんだ」
臭い物でも扱うように、レイはその封筒を机の上に放った。それから椅子に深くもたれ、大きく息を吸って天井を見上げる。
「この記録はお前が上手く使え、岩永」
「自分が、ですか」
レイは椅子から立ち上がり、壁際に置いてある水のボトルを手に取った。半分残っていた水を一気に飲み干し、改めて岩永に向き直る。
「俺はロシアに行く。このままここに居ても、俺の報酬を政府のクソが用意できる見込みがない。俺がロシアに行く方が早そうだからな」
岩永は至極平然とその話を聞いていた。内心は待ちに待った瞬間が訪れた事に喜びを感じていても。
「俺のポストにはお前が就け。人事には俺から言っておく」
「ありがとうございます。ところで……」
「何だよ」
岩永は自分が潜った扉の方を指さした。
「入江の死体はどうしますか」
レイは溜息と共に虫でも追い払うように手を振る。
「要らねえから返して来い。向こうも要らねえなら、その辺で鳥にでも食わせとけ」
「はい」
それからレイは自室で荷物をまとめた。殆どが防衛省の支給品で、それらを返却すると思っていた以上に私物が少ない事に気付く。そんな中で、ホルスターや銃、銃弾は当然のように持ち去る事にした。これまでこの仕事に命を駆けて来たが、結局報酬である父親の身柄は得られずじまいだった。その上でこれからロシアに行くのだから、武器弾薬を持ち去るのは当然と言うものだ。
そしてこの旅に欠かせない物を、机の引き出しから取り出す。普段は鍵をかけて保管している重要書類だ。父親が残していった手帳。そこにはロシア政府が発行した身分証が挟まっていた。
レイはその身分証を穴が開くほど見つめる。年季の入った写真は父親の若い頃の姿を鮮やかに留めている。それは鏡に映る自分のようだった。レイにとっては不本意だが、これを使えばロシア国内でも行動し易くなるはずだ。目的のためには自分の容姿を利用しなければならない。
「……仕方ねえ」
古い手帳をカバンに入れて、レイは静かな自室を出た。
カイはアタッシュケースからロシアに関する資料を取り出した。東京を出る時に持って来たのだ。その中には地図もあるが、日本人が最後にロシアの状態を確認したのが百年近く前の話なので、地形以外は殆ど当てにならないだろう。日本のように機能している居住区がどの程度あるのかも未知数だ。しかも、居住区に行きついたとして、協力を得られる見込みは無い。
「どうしたんだよ、しけた顔して」
タケルの能天気な声に、カイは持っていた地図を仕舞ってアタッシュケースを閉めた。
「お前と違って考える事が多いんだよ」
「考えたってしょうがねえじゃん。どうにもできねえし」
「どうにもできないなら考えねえよ。どうにかしなきゃなんねえから考えるんだろ」
「ふうん」
興味が無さそうにこぼしながらも、タケルはカイの隣に座って閉じられたアタッシュケースを再び開ける。
「確かに古い地図だな。でもよ、地形が分かれば道は選べるし、日本もそうだけど、だいたい都市があった場所に居住区ってあるもんなんじゃねえの?」
「そう単純な話じゃねえよ。居住区に行ったところで協力を得られるか分からねえ。野宿が基本になる中で、安全な経路を選ばなきゃなんねえんだぞ」
「その辺はあいつの手腕だろ」
その時、部屋の入口で声がした。
「あいつってのは俺だろ」
開いた扉の傍で壁に背を預けて立つレイ。カイとタケルはレイが来ていた事に全く気が付かなかった。
レイはそのまましっかりとした歩調で二人の下へやって来て、ベッドにあの身分証を乱暴に落とす。その表紙に書かれた三文字を見たカイは、目を見開いてすぐさま手を伸ばした。見開きを開けると、レイそのものの証明写真が貼られている。
「お前、どこでこれを?」
「親父のだ。あの野郎が置いてった荷物の中にあったんだよ。もう要らねえって事だったんじゃねえのか?」
「こんなもの……置いてく馬鹿が居たとはな」
「だからクソ野郎だって言ってんだろ」
タケルはカイの持つ身分証を覗き込んではレイを見てを何度か繰り返していた。
「それにしても瓜二つじゃねえかよ。双子か?」
「俺が望んでこうなった訳じゃねえよ。それより、あのクソがこいつを置いて行ったと言う事は、これがもう効力を持たない可能性もある。俺がロシア人のふりをする最低限の道具程度に思っとけ」
カイは身分証を置き、アタッシュケースから一枚の写真を取り出した。以前、会津に寄った際にもらった写真だ。写っているのは殆どを霧に覆われ、僅かな霧の切れ目から石造りの建物がかろうじて見える景色だ。
「これは前に脱走した陸自の奴にもらった、モスクワの写真だ。ロシアからの密入国者から手に入れたらしい」
レイは既にロシアの現状を知っているようで特段驚く様子はなかったが、タケルは首都のありさまに表情を硬くする。
「今やロシアは大国としては完全に消滅し、弱小国として何とか生き永らえているようなもんだ。この身分証もどれだけ意味を成すか、保証はねえ」
身分証を再びカバンに仕舞いながら言うレイ。そこに今更ながら疑問を呈したのはタケルだった。カバンに仕舞われていく表紙の三文字を目で追いながら首を傾げる。
「その身分証って、何のやつなの?」
表紙の文字も見たが、見慣れない文字で読めなかった。
するとカイがいつになく難しい顔で答える。
「CBP、ロシア対外情報庁だ。入江が言っていた密偵と言うのは、お前を呼び出すための口実ってだけだと思ってたが……。まさか本当にスパイだったのか」
「俺もあいつが居なくなった後にこれを見付けて初めて知った。あいつは商人のふりをして日本に来たんだ」
レイが持ち込んだ身分証によって、カイの憂慮は大幅に払拭された。そのおかげでカイの表情は漸く普段通りの無表情に戻る。
「お前の言うように既にロシア政府が機能しなくなっていたとしても、その身分証はお前がロシア人である証明としては利用できる。生年だけいじれば良い」
そう言ってわずかな笑みを含んでレイを見やった。
「お前さ、何だかんだ運が良い奴だよな」
レイはムッとしてカバンを背負い直す。
「本当に運が良けりゃ、こんな世界にわざわざ生まれて来ねえよ。生まれちまったからには、黙って死ぬわけにいかねえだろ」
その台詞に大きく頷いたのはタケルだ。
「うん、俺もそう思う!」
「で? 早く出発してえんだろ? こっちは準備できたぜ」
レイに頷き、カイはベッドから立ち上がった。
遂に日本を離れる時が来た。目的地はまだ遠いが、それでも少しずつ前進している。
カイは自分でも解らない事があった。どうしてこの無謀とも言える仕事を今でも続けているのか。途中放棄すればタケルに殺されると言う脅しの下で始まった仕事だが、今やタケルは新天地へ行く楽しみで旅を続けている。新天地での生活には通訳であるカイが欠かせない。そのためにカイを守っている。そうなれば、今のタケルにカイを殺す意思は無いのだ。
この仕事はいつでも放棄できる。わざわざアメリカまで行って、また日本へ帰る必要はない。
「どうかした?」
車のドアノブに手を伸ばしながらも考えを巡らせるカイに、助手席に片足をかけたタケルが言う。カイは首を振って運転席に乗り込んだ。
「いや」
いつでもやめられる。そう思う度に、海や叶の顔が浮かぶ。
早く終わらせたい。ただそれだけだった。




