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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
17/19

旭川

カイ達は遂に旭川でレイと対面する。レイを引き込もうとするカイだったが、レイには旭川居住区へ踏み込まなければならない理由があった。武器弾薬を大量に入手した旭川居住区の入江。そしてレイの命を狙うリョウヘイ。全ての勢力が集った旭川居住区で、思いがけない秘密が明らかとなる。

17 旭川


 思いがけず三人の前に現れた旭川居住区の代表。この入江と言う女は、これまでカイが聞いてきた旭川居住区の印象とはかけ離れた人物だった。生気に満ちていて力強く、ランド・ウォーカーに対する抵抗も無い。騙されているのではないかと疑わしくなるほど、旭川居住区に抱いていた印象と食い違う。

「仕事の帰りと言っていたけど、あんた達はどこから来たんだい?」

 三人を先導する入江が満面の笑みで振り向いた。ここに至るまでに何人かの住人とすれ違ったが、彼らは一様に三人を警戒しているようだった。その姿こそカイが想定していた旭川居住区だ。

「函館から来た」

 カイがそう言うと、入江は広い道を奥へと進みながら何度も頷く。

「函館かい。じゃあ、自衛隊の仕事だね」

「荷物運びに雇われただけで、隊員じゃない」

「分かってるから、安心しな。取って食いやしないよ。あんた達みたいなまとまりの無い自衛官は見た事ないからね。たとえランド・ウォーカーでも、ああ言う環境に入るとそれなりにまとまるもんさ」

「……へえ」

「それにしても、何で代表がわざわざ道案内に出て来るんだ? 別に俺達は要人でも何でもねえぞ」

 相変わらず鉄パイプを握って肩に乗せたままのタケルが言った。そんな鉄パイプ片手の大男さえものともせず、入江は楽しそうに笑う。

「そりゃあ、あたしが出なきゃあんた達は食事ができないからさ。別に、あたしが案内しなくても、食堂で合流でも良かったんだけどね、あそこで会ったからには案内もしようって事よ」

「飯が食えないってどう言う事?」

 リョウヘイの問いに入江は前を向いて逞しく進みながら返した。

「ここの人達はランド・ウォーカーへの警戒心が強くてね、この居住区で働く馴染の奴にしか食事を出さないんだ。あたしはそれが嫌でね、あんた達みたいな外のランド・ウォーカーがたまに来ると、こうして食わせに出て来るのさ」

 そんな話をしている内に、三人は入江に続いて居住区の奥まで来ていた。

 どこの居住区でもよく見る、そびえ立つ集合住宅の群れを抜け、地下空間の壁際に現れたのは旭川居住区唯一の食堂だ。この居住区内で食事ができる施設はここしか無いため、単なる店と言う規模ではない。横に長いカウンターの奥にある厨房では、数名の担当者が調理をしているのが見える。厨房の広さからして、食事の時間で混み合う時には大勢の調理担当で埋まるのだろう。今は幸いにも昼食と夕飯の合間なので、厨房もテーブル席も空いている。

「おばさん、ここのお勧めって何?」

 カウンターに置かれた品書きを見ながらタケルが言う。いつもの事だが、相手がこの居住区の最高権力者だろうが何だろうが関係ない振る舞いだ。だが、入江もそんなタケルに不快感を抱くでもなく、品書きの最初に書かれている料理を示した。

「もちろん、これさ」

「ニジマスの刺身定食? マスは福島でも食ったけど、淡水魚だよな? 北海道なのに海の魚じゃねえの?」

「ここのニジマスはね、何より鮮度が売りだよ。それに、養殖だからこそできる刺身なんだからね! その辺の湖や川じゃ寄生虫が居るから生で食べられないよ!」

「ここで養殖してるのか」

 カイは広い食堂の中を見回す。確かに駐屯地を出る時にカエデから陸上養殖について聞いていた。ここでは魚を養殖しながら同時に野菜を育てられる設備があるとか。前にチョウザメを養殖していたアクアポニックスと言うものだろう。だが、一見したところそんな設備がありそうには見えない。

「そう。厨房の奥に養殖エリアがあるんだよ。一年半くらい前に入れたばかりなんだけどね。函館にもあるんだろ?」

「……さあ。興味ない事は知らない」

 カイの返答に、入江は目を丸くして色白な少年を覗き込んだ。

「食べる事に興味ないのかい」

「食わなきゃ死ぬから食うだけだ」

「なんと、まあ!」

 驚き呆れる入江の横で、厨房の様子を眺めながらリョウヘイが答える。

「函館にもあるよ、それ。アクアポニックスだろ」

 やっとまともに話が通じる相手ができて、入江は目を輝かせてリョウヘイを振り返った。

「そう、それだよ! 知ってるだろうけど、旭川はこのアクアポニックスが軌道に乗るまでは飢餓に苦しむ居住区だったんだ。元は札幌や函館にも劣らない場所だったんだけどね。戦争のせいさ」

「じゃあ、今は回復したんだ」

 入江はリョウヘイに頷いて満面に笑みを浮かべる。

「まあね、まだ昔ほどじゃないけど。飢えて死ぬ人は居ないよ」

「そうか。良かったな」

 笑みを向けるリョウヘイに、入江は一瞬驚きの表情を見せた。それから有無を言わさず刺身定食を三人分注文する。

「刺身定食三人前ね!」

「あ、勝手に頼むなよ。まだ対価も訊いてねえのに!」

 食い付くカイに、入江は豪快な笑いで答えた。

「ははは! 若いのにそんな事気にしてんのかい! 良いよ、ここは私の奢りだ!」


 旭川居住区の代表に食事を奢ってもらうなど、三人とも全く思いもよらない事だった。そもそもランド・ウォーカーに対して負の感情を抱いている場所だと聞いていたので、代表に会えるとも思っていなかったのだから。

 だがそんな旭川居住区の代表である入江は、今まさに三人が座るテーブル席の一角に陣取り、楽しそうに笑みを浮かべている。

「あんた達、名前は?」

 ここに至るまで何度自己紹介をしたか分からないカイは、うんざりしながら決まり文句を吐き出した。

「俺はカイ。このデカいのがタケル。そっちはリョウヘイ」

「三人とも函館出身かい」

「ああ」

「じゃあ、この辺の状況は知ってるね。戦争はだいぶ落ち着いたけど、まだいつ何が起こるか分からない。食事を終えたら早く帰った方が良いよ」

「……何か起きそうなのか?」

「さあ、それは私達には分からないよ。あんた達が荷物を届けた自衛隊の方がよく知ってるはずさ。外の様子はどうだった?」

 カイは入江の何気ない問いも警戒し、首を傾げる。

「さあな。俺達は荷物を届けるだけで、何も知らされない。ただ、少なくとも銃撃戦は起きてなかったぜ」

「そうかい、そりゃあ良かった」

 入江が屈託のない笑みを見せたところに、鉄パイプを近くの椅子に置いてタケルが言った。

「そう言う情報なら俺達より寧ろあんたらの方が詳しいんじゃねえのか? 物資の補給や食料の供給もあるだろ」

「私らも何も聞かされないのさ。物が必要になったら取りに来るだけでね。まるで出来の悪い息子みたいな奴らだよ」

「それじゃあ嫌われても無理ねえな」

 そう言って深々と頷くリョウヘイに、入江は目を細める。

「リョウヘイ、あんたもランド・ウォーカーなんだろ? あまりそれらしくないね」

 それらしくないと言う表現がどこか可笑しくて、カイはつい口角を上げた。その隣でタケルは噴き出して笑っている。当のリョウヘイは一度溜息を吐き、入江に向かって念を押した。

「あのな、あんたがどんな奴らに会って来たか知らねえが、ランド・ウォーカーが全員人格破綻者って訳じゃねえんだ」

「そうなのかい」

「それらしい奴にしか会った事ねえんだな!」

 楽しそうに笑うタケルの横で、カイがぼそりとこぼす。

「地底人が全員聖人君子じゃないように、俺達もこぞってイカレてる訳じゃねえ」

 カイの言葉に頷き、入江はどこか遠い目をして言った。

「そうだねえ。私達も皆が善人って訳じゃないもんね」

 その時、三人の定食ができたようで、食堂内のスピーカーから番号を呼ぶ声が響く。

「お! できたぞ!」

 真っ先に立ち上がったタケル。嬉々としてカウンターまで駆けて行く。その後を追うようにカイとリョウヘイも席を立ち、配膳のカウンターへ向かった。

「あ、いけね」

「何だよ」

 不意に立ち止まったリョウヘイは、ズボンのポケットを探っていた。

「引き換える半券忘れた。取って来るから先に行っててくれ」

「ああ」

 半券を取りにテーブルへ戻るリョウヘイ。その後ろ姿を視界の隅に捉えていたカイだが、自分の半券を持ってカウンターへ向かった。

 リョウヘイがテーブルに戻ると、入江は不思議そうに顔を上げる。

「どうしたんだい」

「おばさん、落ち着いて聞いてくれ」

「何を……」

 入江が言い終わる前に、リョウヘイはカイとタケルに背を向けたまま声を潜めた。

「レイが来る。あんたら、レイを殺したいんだろ? 協力してやるよ」

「…………」

「俺は大松一平の弟だ。兄貴にレイを殺すよう頼まれた」

「大松一平……トンネルの大松かい」

 何も言わずに頷き、リョウヘイは配膳のカウンターへ駆けて行く。その背中を眺めながら、入江は努めて平静を保っていた。まさかあの男が本当に大松一平の弟なのか。だが、これはレイの罠かもしれない。彼らを送り込み、こちらの様子を窺っている可能性もある。元はと言えばその可能性を疑っていた事もあって、こうしてあの三人に接触したのだから。

 だが、もしもリョウヘイの言う事が真実だったらどうだろう。確かにあのリョウヘイと言う男は他の二人とは印象が違う。より人間味があり、地底人に近い部分を感じる。人格者と言われている大松一平の弟なら、納得できる部分もあった。荷物運びとは言え自衛隊の駐屯地に出入りできるランド・ウォーカーが、自ら協力を申し出た。これは何物にも勝る好機だ。

 そこに刺身定食を持ったカイとタケルが戻って来た。

「おばさん! 美味そうだな、これ!」

「こう言う色の刺身は初めて見た……」

 テーブルに着くなり、カイは目の前の刺身定食をまじまじと眺めている。福島でサクラマスを食べたが、あの時は加熱されていたので身の色まで分からなかった。今目の前に整然と並んでいるニジマスの刺身は、魚の身とは思えないほど鮮やかな橙色をしている。しかも非常に新鮮で艶やかだ。

 目を輝かせるカイの横ではタケルが驚くべき速さで次々に刺身を平らげている。そこにリョウヘイもやって来て、三人は漸く全員が箸を進めた。

「どうだい、美味いだろ?」

 満足そうに三人を眺める入江。黙々と食べていたカイは顔を上げ、小さく頷いた。

「美味い」

 確かに美味かった。程よく脂の乗った身は柔らかく、甘味がある。その上、臭みは全く感じなかった。

「うん! すげえ美味い!」

「ははは! 良かったよ!」

 既に完食寸前のタケルを見て、入江は豪快に笑う。その姿には一片の動揺も見られなかった。リョウヘイが内心胸を撫で下ろしているその時、不意に入江が言った。

「あんた達、レイを知ってるかい」

 その問いに答えたのは冷たい目を上げたカイだ。

「もちろん、知ってる」

「やっぱりね。レイはあんた達の中でも知られた男か。レイを一目見たいなら、またこの居住区へおいで」

「レイに会うなら普通、基地や駐屯地だろ」

 すると入江は口角を上げて首を振った。

「普通はね。でも、近々ここへレイが来るんだよ」

「何でここへ?」

 逆に驚かされたのはリョウヘイだった。確かにカエデからレイが旭川へ戻って来るとは聞いたが、わざわざ自分の命を狙っているかもしれない旭川居住区の中に足を踏み入れるとは思っていなかった。

 入江はリョウヘイの目を真っ直ぐ見て言う。

「今ここに、レイの父親が居るんだ」

「は? 父親? 父親に会いに来るってか? レイってそう言う奴なの?」

 不可解そうにするタケルに、入江は笑って首を振る。

「まさか。父親想いの息子って訳じゃないよ。知らないのかい? レイの父親は、レイがまだ子供の頃にロシアへ帰っちまったのさ。そのショックで母親は心を病んじまってね。生活もかなり苦しかったようだよ。それでレイは父親を誰より憎んでるって話だ。今、その父親の身柄をこの居住区で拘束してるんだ」

「ロシアに逃げ帰った野郎が何でのこのこ戻って来たんだ?」

 怪訝そうに眉を寄せるカイ。そんなカイに入江も肩をすくめる。

「さあね。聞いても何も話しゃしない。だからレイに来るよう言ったんだ」

「気になるな。一度会わせてくれ」

 珍しく他人に興味を示したカイだったが、その依頼はあっさりと断られた。

「悪いけど、レイの前に会わせる訳にはいかないよ。だから言ったろ、またおいでって」

 入江の目はさりげなくリョウヘイを見る。リョウヘイもその目をしっかりと見返した。

「また来るかは分からねえ。気が向いたら来る」

 例の如く淡々と言うカイに、入江は笑顔で頷いた。

「ああ、そうしな」


 旭川居住区を出た三人は、カエデに言われた通り駐屯地へ戻る。地底人を良く思っていない場所だと聞いていたが、思いがけず入江に案内されたおかげでまだ日が高い内に問題なく戻って来る事ができた。駐屯地の入口で身分証を見せると、三人は鉄筋コンクリートの建物内にある一室に通された。そこは函館でも見たような二段ベッドが四台ほど置かれた部屋だ。

「おかえりなさい、カイ」

 カイがアタッシュケースをベッドの上に置いた時、入り口でカエデの声がした。

「旭川居住区は問題ありませんでしたか?」

 カイのベッドにやって来たカエデは、至極自然なしぐさで腰を下ろす。それを見てカイはベッドの横に立ったまま返した。

「何も問題ない。ちゃんと飯も食ったし」

「そうですか。それなら良かったです」

「レイはいつ来るんだ?」

「今日中には着くと思います。着きましたらお声がけしますね。レイに用があるのでしょう」

「ああ」

 カイはベッドに置いたアタッシュケースを見る。レイを勧誘したいだけではなく、この中に入っている大松一平の手紙をレイに渡さなければならない。カイの心中を読んだかのように、カエデも銀色のアタッシュケースに視線を落としていた。

「大松の手紙ですね。トンネルが解放され、依頼人が死んだ今、それをレイに渡す意味があるのでしょうか」

「意味なんか最初からねえだろ。俺はあの女との取引を終わらせるだけだ」

「責任感が強いのですね、カイ」

 カエデの控えめな微笑みに、カイは背を向けて窓の外を眺める。

「終わらせたいんだ」

 眼鏡の奥でその後ろ姿を眺めるカエデは、一瞬目を細めて立ち上がった。

「カイ、それは……いったいどう言う感情ですか?」

 カイは振り返ってカエデの黒い瞳を見た。そこにはこの女にしては珍しいほどの純粋な好奇心があった。

「さあな、知るわけねえだろ」

「そう、ですか」

 カエデはどこか残念そうに言って、三人の部屋を出て行った。

 緑の迷彩が部屋を出て行くと、カイは再び窓の外に目を向ける。うっすらと黒い色が滲む空気。その向こうに生い茂る緑が霞んで見えた。

 福島でも、函館でも、ここ旭川でも、あの黒い霧は変わらない。

「お前がそう言う顔してぼんやりしてる時は、決まってあの子の事を思い出してる時だ」

 いつの間にか隣にやって来たタケルが、にやりと笑ってカイを見下ろしている。それを睨み返してカイはベッドに腰を下ろした。そこにリョウヘイがやって来て隣のベッドに上がるなり胡坐をかく。

「あの子って何? カイにもそう言う相手が居たの? 意外だな」

 カイはいつも以上に鋭い目でリョウヘイを睨んだ。

「そんな訳ねえだろ。タケルの妄想だ」

「ふうん。でも、君にとって忘れられない人なんだろ? そういう人が居るって、どんな気分?」

「お前まで変なもん見るような目で……。どんな気分も何も、早く忘れたい、それだけだ」

 リョウヘイは分からんと言った顔で首を傾げる。

「忘れたい? 何で?」

「……死んだんだよ。自殺したんだ。別に死んだ事が悲しいとか、つらいとかじゃないんだ。ただ、あいつや大松の女みてえな奴らが死ぬ度に……何かを託されていくような気がして……面倒なんだよ」

「……大松の女」

 リョウヘイの呟きを拾ったのは窓に背を預けて立つタケルだった。

「函館で会ったんだよ。海自の基地に居た時、大松の女房が死ぬのを見たんだ。それで勝手に責任感じてんだよ、こいつ」

「責任じゃねえよ! お前も見ただろ、あいつが死ぬ時の顔。あれが忘れられねえんだよ」

 まるで世界を変えてくれとでも言われているような、そんな縋り付く眼を。

「繊細な奴なんだよ」

「うるせえ、もう黙ってろ」

 そう言ってベッドに仰向けになるカイ。ぼんやりと上段のベッドを見上げているだけの姿に、リョウヘイはいつもの愛想の良さを切り捨てた目で言った。

「自分で死ぬ奴が、いったい何を託すんだ? 自分が諦めた事を他人に任せるのか? そんなにやりたい事なら、諦めずに自分でやれば良いだろ」

「それができねえから死んだんだろ」

 飄々と答えるタケルに、リョウヘイはいつもの調子に戻って笑った。

「そっか。まあ、そうだな」

「そんな事よりさ、もしもレイが俺達とロシアに行くって言ったら、お前この後どうすんの?」

 よほどこれまでの話題が退屈だったのか、タケルがあくび半分に言う。そんなタケルに苦笑しつつ、リョウヘイは窓の外に広がる薄灰色の空気を眺めた。

「そうだな……、今度こそ自衛隊に入るか、その辺でてきとうに生活するかな」

「ふうん……。何かやりたい事とかねえの?」

「やりたい事ねえ……、別にそれと言って無いな」

「そう言うもん?」

「じゃあタケルは何かあるのか?」

 逆に問い返され、タケルは窓に背を向けたまま自信に満ちた笑顔で答える。

「俺は中央都市に行くんだ」

「中央都市って、皇族や政治家みたいなお偉いさんが住んでるって言う?」

「そう。中央都市に行ったら、そこに住んでる奴らを片っ端からぶっ殺してやる。俺はフェアじゃねえのが嫌いだから」

 タケルの願望を聞き、リョウヘイは腹を抱えて笑った。

「はははは! すげえ目標だな! まだ俺の方がマシじゃねえか!」

「え? 何も無いより張り合いがあるだろ」

「はは、そうかもな。けど、殺される方はたまったもんじゃねえぞ、きっと」

 そう言ってなおも笑うリョウヘイを、タケルは不思議そうに眺めていた。


 北見を出て旭川に着いたレイ。太陽が西の空へ傾き始めていたが、まだ夕方と言うには早い時間だった。日が暮れる前には到着したかったので、ここまでは順調と言える。北見でも貴重な情報を得る事ができた。その上でどのように旭川居住区へ足を踏み入れるかが問題だ。

 駐屯地に着くなり、建物の前にカエデと数人の部下が出迎えに来ているのが見えた。遠目に見ても分かるほど、カエデにしては滅多にない笑みを浮かべている。

「橘一佐、ご無事で何よりです」

「ああ」

「政府が派遣したランド・ウォーカーが来ているのですが、後で執務室へお連れします」

 レイは足早に廊下を進みながらカエデの話を聞いていたが、不意に冷たい緑の瞳をカエデに向けた。

「政府から……? また文句を言うためにクズ共を送り込んで来やがったのか」

「いいえ、別件です」

「……分かった」

「それと、こちらの状況報告を」

 執務室に入り、レイはホルスターを外して机に半分腰かける。拳銃や弾倉が詰まったホルスターは重い音と共に机に置かれた。

「で?」

「青函トンネルが解放された事は報告されていますでしょうか」

「ああ、それは聞いた。大松の野郎、やっと諦めたってな」

「はい。その後、大松は岩永と共に函館居住区へ戻っています」

「岩永はどうした」

「それが、大松と戻った後、函館居住区は厳戒態勢を敷いて人流を止めているとの事です。そのため、岩永はまだ戻っていません」

 レイは半分だけ乗っていた机にすっかり腰を下ろし、カエデの向こうを見たまま不敵な笑みを浮かべる。

「岩永の奴、どうやって戻るか楽しみじゃねえか」

「……そうですか」

「あいつの事だ、ただで戻るって事はねえだろ」

 カエデはやや目を細めて視線の合わないレイを見た。

「レイは、岩永を信頼しているのですね」

「ああ言う野心家は好きだ。それより、仕事中は苗字で呼べ。ここはそう言うルールだ」

「……すみません」

「それにしても……」

 視線を落とすカエデを気にもかけず、レイは考えを巡らせる。

「あの単細胞の大松が人流を止めるってのが意外だ。あの中にネズミが居るって考えなきゃそんな事はしねえ。あいつが仲間を疑うとはな。誰かの入れ知恵か……」

 カエデは気を取り直して淡々と応える。

「知られたくない事があるのでしょうか」

 少し考えた後、レイは楽しそうに笑って机から降りた。

「あいつ、遂に俺を殺しに来るか」

「え?」

「大松の女、トンネルの件で死んだんだろ。敵討ちでもしたいんじゃねえか?」

「ですが、それなら私を殺したいのでは?」

「お前は俺の部下だ。俺の命令で動く。だったら奴が恨むのは俺だろ」

「ご安心を。誰であろうと、あなたに手出しさせません」

「そんな事は気にすんな。お前はお前の仕事をしろ。政府の犬を連れて来るとか」

「……はい」

 カエデは執務室を出て行くが、扉を開ける前にもう一度レイを振り返る。レイは部屋の隅に準備されていた水を飲んでいた。その白い首筋を見ながら、カエデはそっと口を開く。

「レイ……今夜は……」

 ボトルを置いたレイは、無表情のままぼそりと吐き捨てた。

「……報酬か。仕事が終わったら来い」

 その返答を聞いたカエデは頬を赤く染めて頷き、足早に部屋を出て行った。

 彼女が居なくなった執務室で、レイは閉まった扉を見ながらこぼす。

「安上がりな女だ。俺と寝るのが報酬だなんて……」


 カエデはその足でカイ達の部屋を訪れていた。扉を開けた途端、部屋に居た三人は驚きの眼差しで彼女を振り返った。これまで見てきた中で一番明るい表情をしていたからだ。

「……何だよ、何かあったのか」

 目を丸くするカイに、カエデはいつも以上に弾む声で返す。

「レイが戻りました。カイ、ご案内します」

 それを聞いたタケルが、足がはみ出すベッドから咄嗟に起き上がった。

「カイを一人で行かせる事はできねえ!」

「ご心配なく。何もしませんよ」

 タケルは大股でカエデに詰め寄り、眼鏡の下の涼しい目を見下ろす。カエデも目の前の大男を冷たく見上げた。

「これは俺の仕事だ。やるかやらねえかは俺が決める」

「どうぞご勝手に」

 そう言ってカエデはタケルの横から顔を出し、リョウヘイに声をかける。

「あなたも来ますか」

「行っても良いの? 良いなら行きてえな」

「……どうぞ」

 結局カエデは三人を引き連れてレイの執務室へ戻る事となった。

 扉をノックすると、中からレイの声が返って来る。

「入れ」

「失礼します」

 レイは机に向かい、北見で手に入れた書類に目を通していた。四人が部屋に入ると書類から顔を上げる。

 栗色に近い金髪に白い肌。日本人ではまず見ない緑の瞳。聞いていた通りの外見特徴に、カイは机を挟んで真っ直ぐ向き合う。

「橘だ。お前らが政府のお使いってやつか。まずは身分証を出せ」

 高圧的なレイに臆するでもなく、カイは黙ってアタッシュケースを机に置いた。レイが読んでいた書類を下敷きに、アタッシュケースを開いて自分とタケルの身分証、政府からの依頼文を取り出して渡す。

 差し出された書類を受け取ったレイは素早く目を通し、紙の束をさっさとアタッシュケースに戻した。

「そっちの野郎は?」

 リョウヘイを指さすレイに、カエデが口を開く前にカイが答える。

「北海道に来て拾った運転手だ」

「運転手……たいそうなご身分だな。で、アメリカに向かうお前らが俺に何の用だ」

 カイはアタッシュケースから大松一平の手紙を取り出した。

「まず、これをお前に渡す。函館で大松一平の妻から預かった手紙だ。これをお前に渡す報酬として青函トンネルの開放を約束した」

 しわだらけの白い封筒を受け取ったレイは、目を丸くして中から薄汚い便箋を取り出した。

「その女は、こんな事のために子ども諸共死んだのか?」

「最初は死ぬ予定じゃなかった。カエデが殺したんだ」

「なるほど」

 数秒で手紙を読み終えたレイは、それを机の傍に置いてあるゴミ箱に入れて再びカイを見る。

「で、他にも用があんだろ? まさかこのために俺に会いに来たのか?」

 カイは緑の瞳を見返してゴミ箱を示した。

「あの手紙を読んで何か言う事は無いのか」

 怪訝そうにカイを眺めるレイ。ため息混じりに頬杖をついて一言こぼした。

「ふうん」

 その瞬間、タケルはカエデを振り返る。函館で彼女がレイの反応を予測していたが、まさにその通りの返答だったからだ。当のカエデはどこか嬉しそうにレイを眺めている。

「逆に訊くが、お前は何か感想があんのか?」

「特にねえよ。カエデがお前の反応を言い当てられたのか確認しただけだ」

 レイはちらとカエデに視線を投げた。

「それを知ってどうする? 本題に入らねえならさっさと出て行け」

「本題は、俺達はこれからロシアを通過してアラスカに入る。それにあたって必要物資の補給をしたい」

「分かった。俺達も公務員だからな、政府の要請なら簡単には断れねえ」

 そう言うとレイは紙とペンを寄越した。

「欲しい物を書け。極力用意してやる」

 レイが思いのほか話の通じる男で、どこか拍子抜けした部分もあったが、とにかくカイは渡された紙に必要なものを書いていく。その間にレイはカイの後ろに居るタケルを見上げた。自分が椅子に座っているせいで余計に大きく見える。

「お前、東京で訓練されたのか」

「ああ」

「お前みたいな奴がこれまでも何度か送り込まれてきた。どいつもこいつも何食って育ったんだか知りたくなるほど馬鹿でかい奴らだったな」

「そいつらさ、どうなったの」

 レイは椅子に深くもたれ、一度大きく息を吐いた。

「居なくなった」

「は? 居なくなった? 脱走したのか?」

「そもそも奴らは俺の管理下じゃねえからな。詳しくは知らねえが、よく働く奴らだったよ。すげえ頑丈で強かったしな。けど、いつの間にか居なくなってやがった」

「……そうか」

「中央都市ってやつなんじゃねえか? あいつらそろって中央都市に行くんだって言ってたからな」

 タケルはカイの向こうから、自分を見上げる緑の目に食い入る。

「中央都市って、本当に北海道にあんのか?」

 レイは肩をすくめて首を傾げた。

「さあな、知らねえよ。興味ねえし」

「地元民も知らねえのかよ」

「興味ねえ事は知らねえ」

 それを聞いたタケルは楽しそうにカイの肩を叩く。

「お前ら仲良くなれそうだぜ? そっくりじゃねえかよ。初めて友達ができるかもな、カイ!」

 カイはその大きな手をうっとうしそうに振り払い、ペンを持ち直す。

「触んじゃねえよ! 字が書けねえだろ!」

 そしていくつか品目を書いた後、顔を上げて退屈そうに待つレイを見た。

「あんた、ロシア語話せるのか?」

 その問いにレイはやや怒りのこもった眼を向ける。

「だったら何だ」

「どの程度話せる? 日常会話はできるのか?」

「そんな事を訊いてどうする?」

「それによって頼みたい事が変わる」

 レイは訝し気な表情でぼそりと答えた。

「話せる。ロシア人のクソ野郎に訊きてえ事が山ほどあるからな」

 カイは小さく口角を上げてリストの最後に一つ付け加えた。

 必要物資が書き連ねられた紙を受け取り、レイは目を細めてカイに紙を突き返す。

「最後のレイってのは、まさか俺か?」

「そうだ」

 二人のやり取りに真っ先に反応したのはカエデだった。カエデは慌ててレイの手から紙を引き取り、最後の項目を確認した。確かにきれいな字で「レイ」と書かれている。

「カイ、いったいどう言うつもりですか!? レイは指揮官ですよ。あなた方に同行できる訳がありません!」

「戦争はもう落ち着いてるんだろ? だったら他の奴に任せても良いんじゃねえのか?」

「そのように簡単な話ではありません!」

 カイは自分に食って掛かるカエデをかわし、机の向こうでじっとアタッシュケ―スに視線を落としているレイに言った。

「あんた、さっきロシア人に訊きたい事があるって言ったよな? 俺達はこれからロシアに行くんだ。いくらでも訊けるぞ」

 するとレイはカイを睨んでカエデの手から紙を奪い、最後の項目に線を引いて消す。

「俺はやる事があんだよ。原発だか何だか知らねえが、アメリカでもどこでも勝手に行け。仕方ねえから物だけは用意してやる」

「やる事ってのは父親に会う事か?」

 カイの一言に、レイの怒りの目が更に濃くなった。

「お前に関係ねえだろ」

「旭川居住区で聞いたぞ。ロシアに逃げ帰った父親を恨んでるって」

「カイ、止めて下さい。今は仕事の話をしているのですよ」

 たまらず口を挟んだカエデを、レイは一蹴した。

「伊山、黙ってろ」

「ですが……」

「良いから、黙ってろ」

「……はい」

「お前ら旭川居住区に行ったのか」

「ああ。居住区の代表にも会った。入江って言う女だ」

「じゃあ、今あそこに俺が探すクソ野郎が居るってのも聞いたんだろ」

 カイは、まだ怒りがちらつく緑の目を見て頷く。

「ああ。会わせて欲しいと言ったが、レイが来なければ誰にも会わせられないと言われた」

「ふん、あのばばあ。じゃあ、姿は見てねえんだな」

「考えてもみろよ。旭川居住区に本当にお前の父親が居たら、そこで用を済ませればお前のやりたい事は終わる。もしも入江がお前をおびき寄せるために嘘を吐いていたとしたら、どのみち父親を探すにはロシアに行くのが一番だ。俺の提案はお前にも得なはずだぞ」

 そう言ってカイはリストの最後にもう一度「レイ」と書いた。

 だが、レイはまたもその一行を消し去る。

「分かったような口利くんじゃねえよ。俺は奴をぶっ殺したいだけじゃねえ、ロシア人のクソどもをとにかくぶちのめしてやりてえんだよ! 物だけ渡してやる。準備ができたらとっとと出て行け!」

 怒号を受け、カイは一度溜息を吐いて部屋を出て行く。タケルとリョウヘイもそれに続いた。

 執務室に残ったカエデは珍しく声を荒げたレイを心配そうに見ていたが、恐る恐る声をかける。

「橘一佐、お気になさらず。きっと旭川居住区の地底人に吹き込まれたのでしょう」

「……入江の奴、どう言うつもりだ。許さねえ……」

「居住区へはいつ?」

「奴らは武器を調達してやがる。俺達も準備が必要だ。明日の朝、行くぞ」

「はい」


 部屋に戻った三人は多すぎるベッドに点々と腰を下ろした。最初に沈黙を破ったのはリョウヘイだ。

「レイって琴線に触れなきゃ案外話の通じる奴かもな」

「確かに。もっとガキみてえな奴だと思ってた。全く自制が効かないほど好戦的と言う訳でもなさそうだ」

 カイの言い分に、ついリョウヘイは小さく噴き出した。それを見てカイは眉を寄せる。

「何だよ」

「いや、ガキって……レイの方が君達より年上だろ」

「年が上でもガキみてえな奴は居るだろ」

「はは、まあな。レイは一緒にロシアに行くと言うかな?」

「……分からねえが、俺が言った事を気にはしてる様子だったな」

 不意にタケルが窓際へ行き、旭川居住区の入口がある方をぼんやりと眺めた。

「あそこにレイの親父が居なければ、一緒に来るかもしれねえな」

「ああ。親父が居たとしても、そこで始末できれば、奴が自衛隊に残る理由はほぼ無くなるはずだ。そこでまた押してみれば良い。ところで……」

 カイは隣のベッドで横になっているリョウヘイを見やる。

「お前、レイに会ってみたいと言ってた割にただ眺めてるだけだったじゃねえか。良いのかよ」

「え? 別に話したい事があった訳じゃないし。案外話が通じる奴だって分かって良かったよ」

「それを知ってお前にとって何の得があるんだ?」

 窓際に立つタケルが溜め息交じりに笑ってこぼした。

「出たよ、カイの疑い癖。何を見ても怪しく見えんだよ」

 リョウヘイは体を起こしてカイの黒い瞳をじっと見据える。リョウヘイの目は、いつになく冷たい光を宿していた。

「俺が何か企んでいると?」

「お前、レイに会って言いたい事かやりたい事があったんじゃねえのか? あいつに会う事自体普通はできねえ。でも俺達に付いて来る事でそれが可能になった。それなのにただ遠巻きに見てただけだ。そんな事のためにわざわざ縁もゆかりもねえ旭川まで来たのかよ」

「おいおい、まるで俺が君達の目的を知ってて近付いたみたいじゃねえか。そもそも俺は自衛隊に入ろうとしてあの姐さんに声を掛けたら、偶然空席があった君達の車に同乗しろと言われただけだ。そこで自衛隊に入るより面白そうな話を聞いたから、行けるならアメリカまで行ってみてえと思っただけだ」

「レイに会いたかった理由は?」

「興味本位だよ。滅多に会えない噂の人物に会えるかもって聞いたら、一目見てみたいと思うのが普通だろ? 俺ってそんなに怪しい?」

 カイは不服そうだったが、何も言わずにベッドに寝転がった。そこにタケルがやって来てカイが居る上の段に乗って笑う。

「気にすんなよ。カイはいつでもこうなんだ。特にお前みたく経歴不詳で函館から来たって奴は疑っちまうんだよ」

「函館がそんなに怪しいか? あれだけでかい居住区なら、出身者はいくらでも居るぞ」

「まあ、そうなんだけどよ。ほら、函館は大松の拠点だろ? 大松が雇ったランド・ウォーカーがレイに近付こうとしてても不思議じゃねえから」

「なるほど」

 そう言うと不意にリョウヘイはベッドから立ち上がってカイとタケルを振り返った。

「俺がレイの近くに居てそんなに不安なら、ここでお別れしようぜ、カイ」

 カイは黙って寝返りを打ち、薄暗くなった室内でリョウヘイを見返す。

「レイは大事な人材だもんな。俺も別に最初から明確な目的があった訳じゃねえから、この辺で適当に職探ししても良いんだ。その辺ぶらぶらして、君達がロシアに行ったら自衛隊に入隊するのでも良い」

「好きにしろよ」

 カイの返答はその一言だった。リョウヘイは小さく微笑んで部屋を出て行く。

「良いのかよ」

 上の段から覗き込んでくるタケルを見上げながら、カイはアタッシュケースを自分の方へ引き寄せた。そして扉の向こうを行く足音が遠ざかるのを聞いてぼそりとこぼす。

「これで良い」

「は? 良いって?」

「万が一あいつがレイの命を狙っていたとして、俺達まで仲間と思われたら不都合だ」

「お前って本当に性格悪いな」


 翌朝、レイは日が昇る前に目を覚ました。カーテンの向こうはまだ暗く、部屋には星の光も入らない。ベッドの中で上体だけ起こすと、隣がまだ温かい事に気が付いた。見ればカエデが静かな寝息を立てている。

「まだ居たのか……。起きろ」

「ん……もう、朝……?」

 ベッドから降りたレイは素早く服を着て時間を確認した。深夜三時だった。

「さっさと服を着て自室に戻れ」

「……はい」

 起き上がったカエデは床に散らばっている自分の服を手繰り寄せる。だが、思い直して時計を確認するレイを振り返った。

「レイ」

「何だ」

「こっちに来て」

「良いからさっさと……」

「来てくれたら、すぐに帰ります」

 レイは仕方なく再びベッドに戻ってカエデの方へ身を寄せる。カエデは暗い部屋の中、レイの髪に指を通してそのまま頬に触れた。

「本当にきれい……こんなに暗くても、あなただけはしっかり見えます」

「……これで満足か」

 カエデはにこりと微笑んで頷いた。

「ええ」

 カエデが出て行った後、レイはソファに腰かけてさっきまで自分達が寝ていたベッドを眺めてぼんやりと考えていた。今日は旭川居住区へ行き、入江が寄越した情報が真実なのか確認する。真実であれば、今日こそが積年の恨みを晴らすまさにその日となるのだ。

 まず、正面の入口と裏手にある大型車用の搬入口との二手に分かれる。自分は正面から行き、インターホンで入江を呼び出さなければならない。恐らく自分が直接顔を出さなければ入江は入口のロックを解除しないだろう。裏手の搬入口も用が無ければ常時ロックされているので、そちらも解除させなければならない。

 旭川居住区は入口にエアシャワーがある。今、彼らの手元にはガス弾があるはずなので、エアシャワーは要注意だ。正面に回る隊員には念のために防護服を着せるべきだろうが、生憎普段から防護服の必要性のない自分達は、駐屯地には要人用にしか防護服を用意していない。ガスマスクであれば人数分用意できるだろうが、皮膚からも吸収される神経毒であれば意味はない。

「あいつらを連れて行くか」

 レイの頭に浮かんだのはカイとタケルだ。政府の公式な使者となれば入江も無下にはできないだろう。彼らのように特殊な教育を施されて来た人材を確保するのは簡単ではない。そんな二人を殺したとなれば、旭川居住区もただでは済まされない。

 考えをまとめ、レイは窓辺へ行って厚手のカーテンを開けた。外はまだ暗い。窓ガラスに映る自分は、髪の色も目の色も、外の暗がりと同じだった。

 カエデはこの姿を美しいと言うが、いったい何が美しいのか少しも理解できない。この外見のせいで昔から白い目で見られ、疎まれてきた。全てはあの男のせいだ。商人のふりをして、ロシアから流れて来たあの男。

 窓に映る自分の姿に、レイは怒りの眼差しを向けた。


 カイとタケルは駐屯地内の食堂で朝食を済ませ、部屋に戻ろうと席を立った。その時、鈴の音のような声が二人を呼び止める。

「カイ、タケル」

 声の主はすぐに分かった。カイが振り返ると、そこにはやはりカエデが居た。

「物資が用意できたのか?」

 カエデは二人に歩み寄りながら首を振る。

「いえ、それはまだです。この後、レイの部屋へ来るようにと」

「お、ロシアに行く気になったかな」

 能天気に言うタケルに、カエデは眼鏡の向こうから厳しい目を向けた。

「違います。今日の事でお二人にも協力して頂きたいと言っていました」

「協力か。分かった」

 意外にも素直に頷くカイ。その様子にタケルは不可解そうに眉を寄せるが、カエデは優しく微笑んだ。

「では、行きましょう」

 レイの部屋へ向かう道中、タケルはカエデに聞こえないよう声を潜めてカイに耳打ちする。

「おい、やけに素直じゃねえか」

「頼まれるって事は俺達には報酬を要求する権利がある」

「ああ、なるほどね。それで納得」

「当たり前だろ。そうじゃなきゃ、あの野郎に協力してやる義理はない」

「物資くれるじゃん」

「あれは奴にとっては義務だ」

「そっか、そっか。うん、いつも通りのお前だよ」

「…………」

 レイの執務室に入るなり、二人を待ち構えていたレイが椅子から立ち上がった。

「おはよう」

「おう」

 カイの不愛想な返答など気にもかけず、レイはさっさと本題を切り出す。

「お前らに頼まれた物資だが、悪いがまだ準備できてないんだ。準備が終わるまで時間があるから、今日は俺達に付き合ってくれねえか」

「それは依頼してるって事か?」

 レイの緑の瞳が細められ、口角がゆっくり上がる。

「俺に報酬を要求する気か?」

「当たり前だ。俺達はただ働きなんかしねえ」

「どうせ俺が欲しいとか言うんだろ」

「そうだ」

「気持ち悪い野郎だな」

「そういう意味じゃ……」

 カイの反論はカエデの咳払いで遮られた。その空白に滑り込み、レイが先を続ける。

「これは依頼じゃねえ。この駐屯地で俺の世話になっている以上、俺の命令を聞いてもらう」

「はは、命令だってよ」

 楽しそうに笑うタケルを肘で小突き、カイは目の前のレイを睨んだ。

「俺達は自衛官じゃねえ。お前の命令に従う義務なんかねえんだよ」

「そうか……」

 そうこぼした瞬間、レイはホルスターに手を伸ばす。それと殆ど同時にタケルがカイを抱え込んで机の陰に押し込み、鉄パイプで机の上に置いてあるライトやらペン立てやらをレイに向けて打ち飛ばした。レイは拳銃を抜いて狙いを定めるが、障害物が顔面に降りかかる。

 レイが立て直す前に、タケルは素早くカエデの腕を掴んで捻り上げた。カエデは短い悲鳴と共に手に取ったばかりの拳銃を床に落とす。腕を掴まれただけなのに骨まで砕かれそうな怪力だ。

 カエデの動きを封じたタケルは、持っていた鉄パイプをレイに向かって投げた。レイは机の陰に隠れているカイに銃口を向けようとしていたが、咄嗟にそれを避ける。鉄パイプは背後の壁に当たり、コンクリート製の壁を抉って落ちた。

「はは、やっぱすげえな、お前! 当たってたら骨が折れてた」

 そう言いながら、レイは銃口をカイに向ける。

「だがお前の負けだ。カイを殺されればお前の存在価値はなくなる。そうだろ、タケル?」

 タケルはカエデの首に腕を回した。

「女の首をへし折るぞ」

 だがレイは引き金にかける指を離そうとしない。そんな中、タケルの腕の中でカエデが苦痛の声を漏らした。

「そんな脅しは……レイには通用しません。私が死んでも……何の意味も、ありませんよ」

「……クソ野郎だな」

「分かったよ」

 そう言って立ち上がったのはカイだった。タケルに止めるよう手で示し、真っ直ぐレイの銃口を見返す。

「お前のイカレ具合に免じて協力してやる」

「そのイカレ野郎を仲間にしてえのは、どこの誰だ?」

 タケルがカエデから離れると、レイも拳銃をホルスターに戻した。

「で、いったい何をして欲しい?」

「これから俺達は旭川居住区へ向かう。そこで、お前達に入口のエアシャワーを通って欲しい」

「……まさか、毒でも撒かれると思ってんのか?」

「ああ、その通りだ。奴らは反政府組織から防護服と武器弾薬以外にガス弾を受け取ってやがる。エアシャワーは保険なしには通れない」

「防護服があんだろ」

「そんなもん、全部前線に持ってってるに決まってんだろ。ここには要人用の三着しかねえ。あとはガスマスクだけだ。万が一サリンのような皮膚からも吸収されるものなら、ガスマスクじゃ意味がねえ」

「それで俺達に毒が撒かれてねえか確かめて来いってのか」

「そうだ。お前らは政府の使いだし、入江もむざむざ殺せねえだろ。そんな事をすれば旭川居住区の存続に関わる大事件だ。俺を殺すより遥かに危険な事になる」

「俺達は殺されねえだろうって思ってんのか」

「ああ。入江ならそこまではしない。あの女は何よりあの居住区の存続を第一とする奴だ」

「……分かった。で、いつ行くんだ?」

 レイは満足そうに頷いて扉へ向かう。そのすれ違いざま、カイの肩に手を置いて言った。

「今からだ」


 モトイの漁船に乗せてもらい、内浦湾を直線距離で横断した岩永。室蘭で船を降り、急ぎ北上して札幌居住区で燃料を補給した。その間に素早く食事を済ませて夜の内に札幌を出ようと思っていたのだが、最近旭川までの道中で銃撃戦があったと聞き、日が昇ってから移動する事にしたのだ。もしもレイが旭川に来ていたとしても、夜間に動き出すほど特殊な状況にはなっていないだろうと踏んで。

 そして札幌を出発したのだが、途中の森で反政府組織と見られる人影を確認し、慎重に進んだせいで予想以上に旭川到着が遅くなってしまった。

 旭川駐屯地に着いた岩永は、すぐさまバイクを置いてレイの執務室へ向かって足早に進む。その姿を見かけた三井が急ぐ背中に声をかけた。

「岩永一尉」

「ああ、三井。橘一佐と伊山三佐は?」

「二十分ほど前に旭川居住区へ向かいましたよ。旭川居住区の入江からロシアの密偵を捕まえたと言う情報が入りまして、橘一佐は急遽千島から引き返して昨日戻られました。今日はその密偵の身柄を確認しに行くと」

「リョウヘイと言う名に聞き覚えは?」

 三井は記憶を遡るが、そのような名前に聞き覚えは無かった。

「いえ。ですが、東京から来たと言う政府の使者も連れていました」

「東京から……随分と用意が良いな」

 岩永は来た道を引き返して外へ向かう。

「岩永一尉、どちらへ?」

「旭川居住区だ!」

「気を付けて下さい! 地底人が武器と化学兵器を隠し持ってます!」

「分かった!」

 岩永はさっき降りたばかりのバイクに再び跨って、駐屯地を飛び出した。リョウヘイの事だ。偽名を名乗っていても全くおかしくない。政府からの使いだと言う嘘はさすがにレイには通じないだろうが、何かしらの形で接触しているかもしれない。

 今この時に旭川居住区に足を踏み入れるのはレイにとって何よりも危険だ。ここでレイに死なれては、自分は正式に彼の後任になれない。生きて、彼自身にそれを明言してもらわなければならないのだ。


 旭川居住区に着いた一行は、正面と裏手に別れた。正面は入口が狭いため外で車両を降り、徒歩で入口まで向かう。念のために防護服は三着ともこちらに回した。裏手は大型車両も入れる搬入口なので、車両を数台向かわせ、ロックが解除されるまで待機させている。ロックを解除し次第、中に入るようカエデに伝えてあった。

 レイはかつて自分も何度行き来したか分からない居住区への地下道を進む。何度通ってもこの道は陰鬱な気持ちになる。地下の人間達はロシアと戦争をする前から外人への警戒心が強かった。長年一つの空間で生き延びて来た人々は、外から来る未知の人間を恐れ、時に嫌悪する。

 なぜ母親はロシア人の男などと関係を持ったのか、レイには理解できなかった。商人で生活の糧になる物を持っていたからだろうか。富のために男と関係を持ったのか。だが、写真に写る母はそのような浅ましさなど少しも感じられないし、現にあの男が消えた後、裏切られた衝撃で心まで病んだ。

「……おい、聞いてんのかよ」

 不意に意識に流れ込んだカイの声に、レイは我に返って隣を歩くカイを見た。

「何だよ」

「出入り口はここしかねえのかって訊いてんだよ」

「ああ、裏に車両用の搬入口がある。伊山達はそっちに向かった」

「俺が奴らに人質に取られたらどうする気だ?」

「タケルが何とかするだろ」

「……無責任な野郎だな」

 そうする内に一行は居住区の正面玄関に到着した。昨日見たばかりの船のような密閉扉が現れる。この先に例のエアシャワーがあるのだ。

 レイは横の壁に取り付けられているインターホンを押した。すると、すぐに応答がある。

「はい、旭川居住区」

 カイはこれが昨日聞いた入江の声だと気付いた。向こうにも自分とタケルの姿が見えているだろう。

「橘だ。例の密偵を確認しに来た」

「待ってましたよ。どうぞ」

 扉のロックが外れる音がする。

「男を連れて行くのにすぐに車両に乗せたい。裏の搬入口も開けろ」

「はいよ」

「それと、密偵が捕まったって聞いて、政府が寄越したランド・ウォーカーも同行する。こいつらの身分証だ」

 レイはカメラのレンズに向けてカイとタケルの身分証を見せる。すると少ししてスピーカーの向こうから入江の声が返って来た。

「分かった。どうぞ」

 その返答を確認するなり、レイはカイとタケルに密閉扉を示した。

「行け」

「ムカつくな、お前」

 悪態をつきながらも、タケルは扉のノブを回す。現れた真っ白な空間は、昨日と同じように天井から強烈な白い光を放っていた。その真っ白な通路の先に、タケルはリョウヘイの姿を見た。

「お前、リョウヘイ! ここに居たのかよ」

「君達が来るって聞いて、見に来たんだ。何してんだよ、早く入れよ」

 タケルは慎重に一歩踏み込んだ。それと同時にエアシャワーから強烈な風が吹き出す。何かしらの刺激を覚悟したが、タケルは拍子抜けしたようにカイを振り返る。

「何も無いけど?」

 続いてカイも中に入るが、やはり何も無い。

 その様子を、防護服を着た部下の背後で見ていたレイ。自分が防護服を着ていたのでは入江は警戒して扉を開けないと思い、インターホンの死角に部下を待機させていた。

 カイがタケルに続いてエアシャワーを出ると、続いて防護服を着た自衛官が白い空間に足を踏み入れた。それに続いてレイが扉を潜ろうと歩き始めた時、リョウヘイがエアシャワーと居住区とを隔てる扉を閉める。

「何してんだ!?」

 タケルが止めに入るが、電子ロックで既に施錠されてしまった。

「今、エアシャワーから毒ガスが出てるんだよ」

 そこにやって来たのは入江だった。隔てられた扉からは向こう側から叩く音が聞こえてくる。

「レイはまだ入っていなかったけど、ここのエアシャワーは外へ吹き戻す形になっているから、あの距離なら死ぬはずさ」

「なん、だって……」

 カイは慌てて扉を振り返る。

「今すぐ止めろ!」

「もう遅いんだよ、カイ。あんた達を巻き込まなかったのは、リョウヘイから政府の使いだと聞いていたからさ。レイに言われても信用できないからね。そうでなければあそこで死んでいたかもしれない」

「リョウヘイから……」

 カイとタケルはリョウヘイの姿を探すが、いつの間にか居なくなっていた。

「リョウヘイには別の場所へ向かってもらったよ。悪いけどね、今日の私達は鬼だ。ランド・ウォーカーを狩る鬼なんだよ」

「おばさん、こんな事したらここの居住区は終わりだぞ」

 入江はそう言うタケルを見て悲しい笑みを浮かべる。

「でもね、これが私達の総意さ。私は何があってもレイだけは許せない。私の息子はね、ランド・ウォーカーだったんだ。生まれてから一度だって親の言う事を聞いたためしがない、出来の悪い奴でね。でも、そんな子供でも私にとってはたった一人の息子だよ。その息子が、報酬目当てに戦場へ駆り出され、どこでどんな風に死んだかも分からない。戻ってきたのは骨の欠片だけさ」

 入江は胸ポケットから小さな白い欠片を取り出した。

「馬鹿息子だったけど、レイの父親を殺すと言う勝手な理由で続けられる戦争のせいで死んだんだ」

 涙を浮かべる入江に詰め寄って、カイはその手から白い欠片を叩き落とした。

「知るか! さっさとガスを止めろ! あんたの息子は好きで戦場に行ったんだろ!? 死のうが消えようが、そいつの勝手だ! だがな、今レイが死ねば、俺達はロシアを通過できなくなるかもしれねえんだ! そうなれば日本中の電力供給が途絶えて、日本人は絶滅するぞ! それでも良いのか!」

 入江は目を大きく見開いてカイを見た。

「旭川で起きた事以上の惨事が日本中で起きる! あんたがやってる事は、親父を殺すために大勢を犠牲にしたレイと変わらないんだよ! 息子が死んだ憂さを晴らすために、全ての日本人を犠牲にする気か!?」

 見開かれた目から涙が一筋伝い、その雫が無線機を握る手に落ちた。入江は茫然としたまま無線機を口元に持って行き、一言告げた。

「もう止めな。きっと死んだよ」


 岩永はスピードを上げて旭川居住区の正面入口へ向かう。レイはロックを解除させるために正面のインターホンを自分で押すはずだ。その先にはエアシャワーがある。三井から化学兵器と聞いて真っ先に岩永の頭に浮かんだのはガスだ。あのエアシャワーは恰好の罠になる。

 故郷であるここの構造は良く知っている。エアシャワーまでの通路はバイクでも通れる幅が十分確保されているので、岩永はコンクリート製の小屋から続く地下道を猛スピードで下って行く。

 そしてエアシャワーのある部屋に着いた時、レイがよろめく姿が目に入った。すぐさまバイクで接近し、レイを引き起こす。

「橘一佐!」

「……岩永」

「早く乗って!」

 レイを後ろに乗せて腕をしっかり自分に回させるなり、岩永は急発進して地下道を駆け上って行く。バイクのエンジン音が地下空間にこだまし、地上に近付くにつれて空気が新鮮になっていくのを感じた。

 地上の光が見え、コンクリート製の小屋から飛び出すと、すぐにバイクを止めて後部のレイを確認する。

「橘一佐、大丈夫ですか!?」

「いや、少し浴びたみてえだ。若干甘い臭いがした……」

「失礼します」

 岩永はレイを担ぎ上げ、止まっていた自衛隊の車両の傍に座らせた。そして中から飲料や傷の手当のために使う水を持って来る。

「服を脱いで下さい。ガスが付着しているかもしれません。その後水でよく洗って」

 レイは着ていた緑の迷彩を脱ぎ、頭から水を被る。幸い、元々露出部分が少ないので頭部を重点的に洗い、岩永に差し出されたタオルで拭いた。

「くそ、入江のばばあ……」

「間に合って良かったです。あと少し遅ければ、最悪の事態になっていましたよ」

「ああ、助かった。ありがとな」

 レイは汚染された隊服の代わりに、車両に積んであった予備の物を着る。

「他の奴らは防護服を着てるから、その内出て来るだろ。霧を防げれば大抵のガスは問題ねえ」

 レイの様子も落ち着いたところで、岩永は自分が持ち帰った情報を報告する。

「橘一佐、函館の状況を報告します。大松は居住区へ戻り、ランド・ウォーカーである弟に橘一佐の殺害を依頼しました。その情報を漏らさないために出入りを徹底的に制限し、自分もここへ来るのに手こずってしまいました」

「弟? 大松に弟が居たのか?」

「はい。過去に複数の殺人事件を起こしたため死刑になるはずでしたが、大松が減刑を求めて無期限の拘禁になっていたそうです。一族につまはじきにされていたため、戸籍にも載っていませんでした」

「そいつの特徴は?」

「名前は大松リョウヘイ、年齢二十五歳。自分が最後に確認した時の容姿は、身長約一八〇センチメートル、筋肉質ですが色白で、頭髪は黒。肩ほどまで伸びていました」

 レイはその特徴を聞き、すぐにカイとタケルが北海道に来てから拾ったと言っていた運転手の男を思い出した。頭がぼんやりしていたが、確かにさっきタケルがエアシャワーの向こうにその男を見た時、リョウヘイと言っていたではないか。

「あの野郎……大松の弟だったのか」

「既に接触していましたか」

「さっき居住区の中に居やがった。あいつ……入江と組んだな……」

 そう言うなり、レイは目の前の車両に乗り込んだ。エンジンが低く唸ると運転席の窓が開き、岩永に命令が飛ぶ。

「岩永、この袋にその服を入れて駐屯地に持って行け。何の毒か分析して解毒剤を裏口に持って来い。それと、駐屯地に居る奴らを正面に回せ。入口を封鎖して一人も通すんじゃねえ」

「はい」

 運転席から黒いビニール袋が放り出された。岩永がそれを拾う頃にはレイを乗せた車両は旭川居住区の裏口に向かって走り出していた。


 旭川居住区の中では、エアシャワーの扉を開けるようカイが入江に食って掛かっていたが、洗浄しなくては開けられないと断られたところだった。

 入江は床に落とした白い欠片を拾い上げると、力ない表情で二人を振り返る。

「カイ、タケル。こっちにおいで。ゲートの管理室ならインターホンがある部屋の映像が見られる」

「そうだ、それがあった」

 そう言って先を歩く入江に続くタケル。その後ろにカイも落ち着かない様子で続いた。

「ここだ」

 小部屋の前で足を止めた入江。それを押し退けてカイは部屋に飛び込んだ。そこにはいくつかモニターがあり、その中の一つにあの入口の景色があった。防護服を着た三人の隊員が急ぎ出口へ向かって行くのが見えたが、そこにレイの姿はない。

「居ねえぞ……」

 カイの呟きを聞き、入江はタケルより先にそのモニターに飛びついた。

「何だって……!?」

 映像を巻き戻すと、バイクに乗った男がレイを連れ出すのが映った。画面に顔を近づけ、その男をよく見る入江。

「知ってんのか?」

 タケルの問いに、入江は小さく頷く。

「知ってるよ。旭川出身のランド・ウォーカーだ。名前は確か、岩永アラタ。この子も自衛官だ。全く……レイって奴は、しぶといね……」

「そんな事より、リョウヘイは何であんたらに協力したんだ? レイに恨みでもあんのか?」

 カイの疑問を聞き、入江は不思議そうに目を丸くして言った。

「知らないのかい」

「何をだよ」

「リョウヘイは函館の大松一平の弟だって。大松にレイを殺すよう頼まれて来たそうだよ」

 カイは深い溜め息と共に頭を抱えた。リョウヘイに抱いていた違和感はそれだったのだ。リョウヘイ自身には旭川を目指す理由も、レイに会う理由も無いはずだ。それを望んでいるのは函館に居る大松一平なのだから。

「くそ……面倒なもん拾っちまった。で、リョウヘイの野郎はどこに行ったんだ? 裏口か?」

「…………」

 何も言わない入江に業を煮やし、カイはタケルを連れて裏口へ向かう。だが二人が廊下に出ようとした時、入江がそれを呼び止めた。

「行かない方が良いよ。あんた達まで命を危険に晒す事はないんだ」

「向こうで何をする気だ? また毒ガスか?」

 カイの鋭い視線を受ける入江は、かつての活気をすっかり失っていた。二回りも小さく見える豪快だった女は、細々と吐き出す。

「あんた達も一度は聞いた事があるだろうけど。中央都市って知ってるかい」

「まさか、ここに中央都市があるのか!?」

 真っ先に食いついたのはタケルだった。

「そう。ここ旭川居住区の裏にある搬入口、それが中央都市さ」

「は? 搬入口が?」

「旭川居住区では、代表だけが代々引き継いだ秘密があるんだ。中央都市と言う、政府が用意した架空の報酬を求めてやって来たランド・ウォーカー達が、本当は無償で働かされていたのだと気が付く前に……殺しちまうのさ」

 タケルはいつになく真剣な面持ちで入江を見下ろす。

「搬入口でどうやって殺すんだよ」

「ガスだよ。あそこは大きなガス室になっていてね、何年かに一回、仕事を終えたランド・ウォーカーを集めて、彼らが暴動を起こす前に殺していたんだ。それが中央都市だよ。それを止めたくて私はここの代表になったのさ。今日を最後に、あの搬入口は作り変える。もう人を殺すための機能なんて全部取っ払うつもりさ」

 目を伏せる入江を怒りの眼差しで見下ろしながら、タケルは重たい声で言った。

「やっぱりな。俺達よりあんたら地底人の方が汚え人間だ。地底人は理由なく人を殺す」

「理由ならある。レイに打撃を与えるためさ。どんな冷血漢も、何十人と言う仲間が目の前で死ねば、自分のした事が間違っていたと気付くだろう」

 そう言って入江は裏の搬入口を映すモニターを示した。ロックが解除され、重たい鉄のシャッターが上がった搬入口。そこへ次々と隊員達が入って行く。

「だから理由がねえって言ってんだ。この自衛官達がお前に何をしたんだ? こいつら一人一人を、あんた知ってんのか? 地底人は昔からそうだ。気に入らねえ事があるとすぐに戦争を起こして見ず知らずの人間を何万人も殺すんだ。正義のためだとか大義のためだとか言ってな!」

 タケルの非難も今の入江には届かなかった。彼女の中に立ちこめる感情は、怒り、悲しみ、絶望、そして諦めだ。

「行くぞ、タケル。こいつと話しても無駄だ」

 ゲート管理室の壁に貼ってある居住区の見取り図を頭に入れ、カイは駆け出した。タケルは部屋を出て行く前に、鉄パイプを入江めがけて振り下ろす。入江は衝撃を覚悟して目を固く閉じた。だが、聞こえたのはモニターが割れる固い音だけだった。

「こんなもんで高みの見物しやがって。俺達はお前らと同じ人間なんだぞ!」

 タケルが飛び出して行った後、薄暗い管理室で入江は床に崩れ落ちた。ただそこに座り込んで、呆然と床に視線を落とす。亡霊のように彷徨う手が、小さくなった息子に触れた。

「……人間もね、しょせんは動物なんだよ。殺さずには居られないのさ。頭だけ進化した、ただの動物さ」

 手のひらに転がる白い欠片。どこの骨なのかも分からない。

「ごめんね」


 レイは居住区の裏手へ向かってアクセルを思い切り踏み込む。裏にあるのはただの搬入口だが、ガスを撒かれる可能性は充分にある。ガスマスクは全員装着させているが、あのガスは皮膚からも吸収されるものの可能性が高い。こんな時に短距離であれば無線を使えるのだが、今日に限って霧が異様に濃く、電波は通らなそうだ。駐屯地を出る時は朝日が見えたのに、今はまるで夜のように暗い。そこら中の地面から黒い霧が立ち昇っている。

 これまでもレイは不思議に思っていた事があった。この霧は、人間が居ない場所では殆ど発生しない。逆に人間が多い居住区の近くや、戦場では圧倒的に霧が濃いのだ。戦いが激しいほど、霧も深くなる。まるで人間達が殺し合うのを見ているかのように。

 ライトをハイビームにしても視界が悪い。目の前に暗幕を張られたようだ。それでもレイは自分の勘を頼りに搬入口を目指した。

 少し走ると、下り坂になる感覚があった。レイはスピードを緩め、よくよく目を凝らす。すると目の前に鉄の壁が現れ、急いでブレーキを踏んだ。搬入口のシャッター横にある壁だ。

「全員入った後か」

 運転席から飛び降り、ライトを持って周囲を調べる。搬入口の外には深緑の車両がいくつも停められていた。それを確認し、レイは搬入口へと駆け込んだ。どこの居住区でもそうだが、搬入口は開口部分が大きいので霧の無い空気を温存するために陽圧での吹き出しはしないものだ。あえて陰圧にして防護フィルターを通し、地下空間にもその空気を還元している。そのために居住区と同じ深度に降りるまでにいくつも部屋が区切られている事が多い。ここ旭川居住区の搬入口も三段階になっている。

 搬入口に入ると、中にはいくつもの木箱が積み上げられている。おそらくこの間北見から送られたものだろう。これがあるせいで車両を中に入れられなかったようだ。

「伊山!」

 レイが声を上げると、奥の方からカエデの声が返って来る。

「橘一佐?」

 駆けて来た彼女は他の隊員と同じくガスマスクを着けていた。

「入口から入ったのでは? まさか、本当に有毒ガスが……」

「そうだ。全員ここに待機させろ。第二ゲートから先へは行かせるな。奴らの毒は皮膚からも吸収されるかもしれない。俺達も防護服が必要だ。それが準備できるまでは深追いせずに奴らを閉じ込めておく」

「はい」

 カエデは急ぎ命令を伝達しに駆けて行く。その間にもレイは山のように積み上げられている木箱を見上げた。ナイフを取り出して木材の隙間に差し込み、てこの原理で木箱を開ける。すると中には銃火器と大量の弾丸が入っていた。

「どうしてこれが……」

 おかしい。戦うために集めた武器が手元に無ければ意味が無いではないか。

 他の箱も同じように開けると、やはり同じように武器弾薬がぎっしりと収められている。そのまま周囲の箱も開けていく。次々に機関銃や弾帯が姿を現す中で、一つ防護服が詰まった箱があった。

 レイがそれを目にした瞬間、突然搬入口の明かりが全て落ち、入口のシャッターが閉まっていく。

「くそ!」

 武器弾薬は罠だったのだ。ここに無い物はガス弾のみ。入江はあえて大量の武器弾薬を発注し、北見でその情報をこちらが得るように足跡を残した。全ては大量の自衛官をおびき寄せるためだ。

「全員ここから出ろ!」


 カイとタケルは居住区内を駆けて裏手の搬入口へ向かう。搬入口自体はガス室として以外にも普段は本来の目的通りに使われているので、隠されている訳ではない。

「こっちだ!」

 カイが見取り図で確認した通りに進むと、搬入口へ続く通路前には複数の男達が封鎖するように待機していた。

「お前達、ここから先は通行禁止だ!」

 男の一人がそう叫ぶが、タケルの拳が枯れ木をへし折るようにその男を弾き飛ばす。

「うるせえ! 退かねえとぶっ殺すぞ!」

 大柄なタケルが鉄パイプを振りかざすと、男達は恐れおののいて散り散りになった。

「ったく、情けねえ」

「タケル、急げ」

 扉を開け、カイは広い通路を駆けていく。タケルもそれに続き、搬入口の最終ゲートまで来た。そこでカイは足を止め、周囲の壁を見回す。

「何してんだよ、ここだろ」

「そっちから入れば俺達もガスで死ぬだろ。さっき見た見取り図に変な空間があった。何も書かれてなかったが、人が一人通るには問題ない広さだった」

 カイはその謎の空白があった周辺を手で触って調べていく。すると一カ所で他の壁から若干浮き出た部分を見付けた。ここの壁は切れ込みの装飾が入ったコンクリート製だが、その切れ込みが他と比べて殆ど分からない程度に高い。

「ここだ」

 カイは溝に指を入れてその壁を引いてみたが、壁はびくともしなかった。そこへタケルがやって来てカイの後ろから腕を伸ばし、壁を強く押した。するとコンクリート製の壁は音もなく浮き出す。

「引いて駄目なら押せよ」

「……行くぞ」

 壁の先は人が一人通れる程度の細い通路になっていた。周囲はむき出しの金属製の壁で囲まれ、頭上には心もとない非常灯が点いている。カイはその通路を全速力で駆けた。きっとこの先にリョウヘイが居る。

 暫く走ると、上り坂になりながら真っ直ぐ伸びる通路の横に、小さなスペースがあるのが見えた。そこに人影がある。リョウヘイだ。

「リョウヘイ!」

 振り返ったリョウヘイは通路の横にある何かから手を離したところだった。

「遅かったな」

 リョウヘイを押し退けてカイはそこにある何かのボタンとモニターを見た。大きな丸いボタンが一つ。今は赤いランプが点灯している。モニターはサーモグラフィになっているようで、無数の赤や黄色の人型が右往左往しているのが見えた。

「何しやがった!?」

「レイが来たから、あいつらを中央都市へ案内してやった」

「てめえ! 早く止めてシャッターを開けろ!」

 必死に掴みかかるカイだが、対照的にリョウヘイは薄ら笑いを浮かべている。

「無理だよ。これは一度押したら奴らが全員死ぬまで解除できねえんだ。万が一にも心の迷いで殺し損ねたりしねえようにな。何しろ、これまでこのボタンを押してきたのは全員地底人だって言うじゃねえか。奴らなりの思いやり設計だな」

「下らねえ事言ってんじゃねえぞ! 俺達を騙したな」

「はは、騙す? 俺が大松一平の弟だって事か? 俺はそうだとも言ってねえし、そうじゃねえとも言ってねえだろ」

 そこにタケルが割り込んでリョウヘイの喉元を掴み上げた。

「そんな事はどうでも良い。ここから出る道を教えろ。お前もどのみちそっから逃げるつもりなんだろ」

 タケルに掴まれながらも、リョウヘイは獣のような眼で目の前の大男を睨み上げていた。これまで見て来た温和な表情からは想像もできないほど、今のリョウヘイは殺気に満ちている。

「……ついて来い」

 タケルの大きな手が離れ、リョウヘイは細い通路を奥へと進む。

「早くしろ! こっちは急いでんだ!」

「はいはい」

 鉄パイプに小突かれ、仕方なく走り出すリョウヘイ。その背中を急かすように二人も続く。そうして暫く行った突き当りに鉄の扉があり、それを潜った先のもう一枚の扉が開くと、外の世界に出る事ができた。扉は深く茂る草木にすっかり隠されている。

 飛び出した先の外界は滅多にないほどの濃霧で、手を伸ばすと指先が黒に沈んで見えないほどだ。

「何だこりゃ……」

 朝までの景色と様変わりした世界に、タケルはついぞそんな言葉が洩れる。

「搬入口はこっちだ」

 リョウヘイは事前に入江からあの通路の先がどの位置に繋がっているのか聞いていたので、霧で視界が悪い中でも自分の方向感覚を頼りに歩き出す。そうして少し進んだところで足を止めた。

「ここだ。俺はその辺の車をもらって消えるよ。レイが生きてれば良いな」

 手探りで車両を確認するリョウヘイに、カイはシャッターの方へ駆けながら吐き捨てる。

「心にもねえ事言うんじゃねえよ!」

 その声を背中越しに聞きながら、リョウヘイは漸く見つけた運転席のドアノブを引きながら呟いた。

「別に嘘じゃねえよ。俺にとってはレイが日本から居なくなってくれりゃあ何でも良いんだから……」

 誰も聞き届ける事のないその声が暗闇を流れる時、不意に風が霧を攫った。束の間の光の中、重たい銃声と共に一筋の熱がリョウヘイの脇腹を通り過ぎ、運転席のシートにぶち当たる。

 リョウヘイが振り返ると、そこにはバイクのヘッドライトをこちらに向ける男が居た。急に吹き出した風が霧を引き裂く中、リョウヘイの目に男の顔が映る。

「てめえ、竹内……やっぱりお前が……」

「リョウヘイ、ここで死んでくれ」

 引き金に乗る岩永の指に力がこもる。リョウヘイは咄嗟に車に飛び込み、運転席の扉を閉めたが、僅かな差でもう一発が右足の腿に食い込んだ。

「くそ!」

 急いでエンジンをかけ、搬入口へ続く緩やかな傾斜をバックする。その間も車両の装甲に鉛玉が当たる甲高い音が何度も響いた。その内の一つはガラスに当たり、僅かなヒビを残す。

「死んでたまるか……初めて出た地上なんだ……」

 ハンドルを握る手に、リョウヘイは渾身の力を込めた。


 外の濃霧など生易しいほどの深い暗闇の中で、いくつもの白い光が方々で筋を作っていた。各々がライトを取り出し、周囲の状況を確認している。

「その辺にある木箱を開けろ! 防護服があるかもしれねえ!」

 レイは先ほど見つけた箱から防護服を取り出し、すぐさま着込んだ。この箱がここに残っていたのは入江達のミスに違いない。本当は居住区の中に運ばれるべきものが、武器弾薬と混ざって取り残されたのだ。そうなれば、ここに居る全員が生き残るために必要な数など、あるはずがない。

 防護服を着ながら、レイは怒りを滾らせた。ここに木箱を大量に残し、車両を中へ入れられないようにしたのも入江達の作戦の一つだ。車両があれば空気清浄機能があって大抵の毒ガスも防ぐ事ができる。自家発電もできるので、岩永や駐屯地からの救援が来るまで全員生き残れるのだ。

「あのクソばばあ……」

 その時、誰かがレイの肩を背後から掴んだ。

「レイ、無事ですか」

「伊山か、これを着ろ。おい! こっちにあと五着あるぞ!」

 他の隊員に防護服を渡し、レイはライトを持ってシャッターの方へ向かう。そこかしこで隊員同士の小競り合いが起き、防護服を巡る殺し合いまで始まる始末だ。そんな地獄のような暗闇を、レイは真っ直ぐシャッターに向かう。その時、横から誰かが飛びかかって来たが、銃声と共に防護服を着ていない隊員が床に転がった。

「レイ、気を付けて下さい。防護服を奪われないように」

「ああ」

 カエデは床に転がった死体にライトを当てて視線を落とす。苦しみの表情がありありと残る死体を足で転がすと、その下に何かの傷が見えた。

「レイ……」

「どうした」

 シャッターの周囲を調べていたレイはカエデを振り返る。カエデはしゃがみこんで床を凝視していた。そこに飛びかかろうとする人影を今度はレイが撃ち、再びシャッターに向き直る。

「ぼうっとすんな」

「すみません。ただ……床に妙な傷が」

「そんなもんが今何の役に立つんだ?」

「え、ええ……ですが、どうやら爪で掻いた痕のようで……」

 レイは改めてカエデを振り返った。彼女のくぐもった声は珍しいほど不安に溺れている。

「まさか、ここは……」

「我々は知らず知らずの内に処刑場に飛び込んでしまったようです」

 レイはシャッターに向き直って乾いた笑いをこぼす。

「入江のばばあ、やりやがったな。いや……、きっとここが中央都市なんだ。地底人共が作った、クソ忌々しい桃源郷だ!」

 怒りに任せた拳が固く冷たいシャッターを打つ。きっとこれまでも何人もの人間がこうしてこのシャッターを叩き、その内力尽きて死んでいったのだろう。

「おい! 誰か居ねえのか! ここを開けろ!」

 銃で撃つが、シャッターには傷一つ付かなかった。そうこうする内に、乱闘で溢れていた暗闇が死の静けさを帯びて来た。

「開けろ!」

 拳が痛むのも忘れるほどにレイは鉄の壁を叩いた。その時、シャッターの向こうから声が聞こえて来た。

「レイ! 生きてやがんのか!」

 この声はタケルだ。レイは藁にも縋る思いで声を張る。

「生きてるに決まってんだろ! 早くここから出せ!」

「威張ってんじゃねえよ! カイ! こっちに居るぞ!」

 続いてカイの声が闇の向こうに聞こえた。

「レイ、このシャッターは簡単には壊せねえ! 端の壁に通用口がある。その扉を何とかぶっ壊すから、そっちに行け!」

「早くしろよ!」

 レイはそう叫ぶと、カエデと共にシャッターの横にある鉄製の壁に向かった。確かにここには人が一人通るための通用口があった。その扉の前まで行くと、レイは突然膝をつく。

「レイ? 大丈夫ですか?」

「……ああ」

 カエデは急いでレイの防護服を確認した。ライトを照らして防護フィルターの表示を見ると、あと一分足らずで使用限界に達する数値だった。

「レイ、防護フィルターが……」

「くそ、あいつら……早く開けやがれ……」

 その時、突然カエデが自分の防護服をまさぐってフィルターに手を伸ばした。

「おい、何してやがる」

「私のフィルターを使って下さい。まだ三分は持ちます」

「……何言ってんだ、お前。自分が死ぬんだぞ……」

 するとカエデは半円形のアクリル板の向こうから、そっと笑みを寄越した。

「この醜い世界で、あなたは何よりも美しい」

「……お前」

「私はこの三分を、あなたの命に託します」

 そう言って自分の防護服からフィルターを外し、すぐにレイのフィルターと交換した。そして立ち上がり、レイに背を向ける。

「さようなら。醜い死を、あなたに見せたくない」

「カエデ!」

 闇に呑まれていくその背中を、レイはただ見ているしかできなかった。さっきよりも呼吸は楽になったが、まだ足に力が入らない。

 カエデの姿が完全に闇に消えた時、真っ黒な世界に一発の銃声が響いた。

「クソ……! クソ、クソ!!」

 レイは通用口の扉を力任せに殴る。すると外から何やら物音がして、カイの声が届いた。

「今、扉にワイヤーを繋いで車で引き破る。だがその前にお前を助けてやる条件を言っとくぞ」

「いったい何が望みなんだ! さっさと開けろ!」

「俺達と一緒に来い。ロシア人のふりをして、俺達がロシアを通過するのを助けるんだ。それができなきゃここで死ね」

 カイの冷たい声が鉄の扉越しに流れ込む。レイはカエデが消えた闇を見ながら、渾身の力で叫んだ。

「行きゃ良いんだろ! ロシアでもどこでも行ってやる! だからさっさとここから出しやがれ! 俺は、生きなきゃなんねえんだよ! ここで死ぬわけにはいかねえんだ!!」

 扉の外でカイは頷き、タケルが乗る車に合図を送る。

 扉と車の牽引フックを結ぶワイヤーがエンジン音と共に張り詰めた。高馬力の軍用車両で思い切りアクセルを踏み込むと、鉄の扉は軋んで嫌な音を立て始める。そして隙間ができたところでカイはその場を離れた。

 次の瞬間、扉は勢いよく壁から外れ、中から一人の男が這い出て来る。カイとタケルはその様子を緩やかな坂を上った先で黙って見ていた。

 漸く外へ出たレイは、何とか体を起こして暗闇の穴から離れる。霧のせいで外も薄暗いが、あの地獄の闇に比べればマシだった。汚染された防護服の外側に触れないように脱ぎ棄て、息を整えて坂を上る。

「……早く開けやがれ」

 合流するなりそんな言葉しか吐かないレイに、カイは目を細めた。

「感謝しろとは言わねえ。だが、ここから先は俺の言う事を聞け。お前は俺の仕事の同行者に過ぎねえんだぞ」

 だが、レイも負けじと緑の瞳でカイを睨んだ。

「俺は誰にも従わねえ。あの男を見付け出すために、お前を利用するだけだ」

 息も詰まるような険悪な空気に耐え兼ね、遂にタケルが割って入る。

「何でも良いけどさ、とにかくお前は俺達がロシアを通過できるように協力しろって事。良いな?」

「……約束は守る」

「お! 約束守るってよ! やっぱお前ら似た者同士なんじゃねえの?」

 楽しそうにカイの肩を叩くタケル。それを煙たく睨んでから、カイは地獄の入口を見下ろした。

「生存者は居ねえのか」

 レイもその視線を追うように、あの忌々しい暗闇を見る。

「ああ」

「カエデは?」

「……死んだ」

「そうか」

 カイはそう言うと傍に置いていた袋を示した。

「さっき岩永って奴がこれを置いて行った。解毒剤だそうだ。けど、皆死んじまったなら使い道ねえな」

「岩永は? どこ行った?」

 森の方を示し、カイは溜息混じりに答える。

「リョウヘイを追って行った。どっかで追いつくんじゃねえか? リョウヘイは二発くらい撃たれてたし」

 レイは怒りの眼差しをバイクのタイヤ痕の先に向けた。

「大松の弟か」

「何だ、知ってたのかよ」

 あっけらかんと言うタケルを睨んで、レイは髪をかき上げる。

「正面で助けられた時、岩永に聞いたんだ。てめえら、とんでもねえ爆弾持ち込みやがって。それで、どこからここに出た? 正面は通れなかったはずだ」

「この先に隠し通路があったんだ。あのガス室の操作盤が隠されてる」

 タケルがそう言うと、レイは傍にある車に乗り込んだ。

「これでそこを塞ぐ。そしたら駐屯地に一時撤退だ」


 リョウヘイは痛む右足と左脇腹に手で触れる。目の前にその手を出すと、真っ赤に染まっていた。どこかで止血をしなければ、長くはもたない。竹内は間違いなく自分を追って来るだろう。自分を殺せば報酬が弾むのだから。バックミラーを見るが、まだバイクの姿は見えなかった。身を潜めるなら今の内だ。

 札幌方面へ走り、深い森に入った所でリョウヘイは車を停めた。車の中を一通り漁り、医療キットを丸ごと持って森に逃げ込む。人の手が届かなくなった森は身を潜めるには最適だった。

 車から離れた所で草木に覆われた深い茂みを見付け、リョウヘイはそこに滑り込んだ。そして医療キットを開けて止血に取り掛かる。その時、遠くでバイクのエンジン音が鳴り響くのが聞こえた。リョウヘイは包帯を巻く手を早める。

 岩永は乗り捨てられた車両のボンネットを触った。まだ熱い。停めたばかりだ。車両の中を確認したが、医療キットがなくなっている以外には持ち出された物は無さそうだ。予備の拳銃は隠して積まれているので、そこまでは漁る時間が無かったのだろう。

 拳銃を片手に下草の倒れ方と血痕を見ながら森を進んで行く。手負いの敵を追うのは岩永にとって容易い事だった。まして出血しているとなればそう遠くへは行けないし、滴る血痕で行先が分かる。

 藪をかき分ける音が徐々に近づく中、リョウヘイは薄れる意識をどうにか保とうと必死に目を開いていた。だが無情にもその足音は自分に近付いて来る。

 自分の人生もここまでかと、リョウヘイは声の無い笑いと共に深い森に隠された空を仰ぐ。いったい何のために生まれて来たのか。疎まれ、嫌われ、蔑まれ、ランド・ウォーカーでありながら自由に外の空気を吸う事も許されなかった。一平が居なければろくに読み書きもできず、自分の名前すらまともに知らないような有様だった自分。

(何だったんだろうな、俺の人生って)

 そんな疑問が思考を駆けたその時、すぐ傍の藪が掻き分けられた。死を覚悟した瞬間、目の前に飛び込んだのは思いもしない人物だった。

「……きみ、は……」

 リョウヘイのか細い声に目を丸くして飛びついたのは、札幌へ行く道中で会ったアイヌの少女、アペカだった。

「両平……? いったいどうしたの」

 アペカはリョウヘイの傍にしゃがみ込むと、その傷を見て閉口した。

「誰がこんな事……」

「逃げ、ろ……アペカ。君も……殺される」

 リョウヘイの頬に触れ、アペカは首を横に振った。

「嫌だ。あなたを置いて行けない」

「追手が……来るんだ……良いから、逃げてくれ……」

「もうすぐ仲間が来るの。今、皆で山菜を採ってたところなの」

「駄目だ、逃げろ」

 その時、もう一つの足音がこちらへ向かって藪を掻き分けて来るのが聞こえた。

「早く行け……」

「待ってて」

 アペカは肩紐で下げていた護身用のショットガンを持って立ち上がる。そして真っ直ぐ足音の方へ向かって行った。

 岩永は倒れた下草と血痕を追って藪を進んで行く。すると、向かいから少女がやって来るのが見えた。服の刺繍と耳に着けたニンカリで、アイヌだと分かった。そして手にショットガンを持っている事も。

「君、この辺で不審な男を見なかった?」

 少女に声をかけると、黒髪の下で少女は首を横に振る。

「いいえ、見てない。今、皆で山菜を採っていたんだけど、熊が出たから何発か撃ったの。その血を追っているんだけど、そっちに熊は居た?」

「いや、見なかった。これ熊の血?」

 アペカは拳銃を持つ男を前に、表情一つ変えずに頷いた。

「そう。獲ったら皆で持ち帰ろうかと」

 岩永はアペカの向こうに広がる藪を見た。この少女が歩いて来たせいで草の倒れ方が分からなくなった。しかも更に奥から何人かが森に分け入る音がする。仲間が来ていると言うのは嘘ではなさそうだ。

「そうか。見付かると良いな」

「あなたは早く森を出た方が良い。熊がうろついているから。そんな銃じゃ、倒せないよ」

 アペカは岩永の持つ拳銃を示した。遠くにアイヌの姿が何人か見えた。さすがにこの中で山狩りをして人を殺すとなれば面倒な事になる。岩永は仕方なく拳銃を仕舞う。

「ああ、そうだな。今日のところは帰ろう」

 藪を引き返していく岩永を、その背中が見えなくなるまでアペカは見据えていた。そしてすぐに引き返し、リョウヘイの傍に膝をつく。

「もう大丈夫、男は森から出て行ったから」

「……え……どうやって……」

「良いから、ちょっと待ってて」

 するとアペカは近くに居る仲間を呼び寄せた。リョウヘイは何人ものアイヌに囲まれ、不思議そうに覗き込まれている景色を最後に、静かに目を閉じた。



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