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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
16/19

焦点

北見に到達したレイ、函館を出た岩永、滝川を通過したカイ。全ての焦点が旭川に向かっている。そんな中、リョウヘイは旭川に潜んでいると言う反政府勢力を利用するべく慎重に機を見極めていた。

16 焦点


 美幌駐屯地を出た部隊は北見に入ったところで動きを止めた。北見の居住区はさほど大きなものではないが、旭川までの道中、公営の居住区として機能している場所はここだけだ。そして、レイにはここ北見に立ち寄りたい理由が別にあった。

 車両から降りると、夏とは思えない涼しい風を受ける。霧のせいで日光が遮られ、今や北海道は、夏は涼しく冬は極寒の地と化している。目を喜ばせるはずの鮮やかな緑も、眩しい日差しに映える青空も、何もかもが霧の黒に霞んでいる。そんな見慣れた景色を眺めていたレイだったが、ふと同じ車両に乗っていた自衛官を呼ぶ。

「おい、三井」

 三井と呼ばれた若い男は、降ろしかけていた荷物をいったん置いてレイの隣へ来た。

「まず二個分隊で北見の居住区を見てこい。防護服の数や不審物、不審者の有無、防護服に政府の保証タグがあるか要注意だ。それと、ランド・ウォーカーにここ数日の人流や物流について聞き込みしろ。代表の身柄も抑えとけ」

「はい」

 三井は歯切れの良い返事を残して去って行く。その場に残ったレイは、車両を背に再び周囲を見回した。北方領土から部隊の一部を連れて戻ったのは、ちょうど一週間前に受けた一つの報せがあったからだ。最も恨むべき相手が旭川に居る。それを聞いた瞬間、レイは旭川へ向かう事を決めた。サハリンを取り返した事によって手に入れた港、ホルムスクの様子も見ておきたかったので、全てが私情と言う訳ではない。だが、今もこれまでも、レイを突き動かす動機の殆どは恨みを晴らすと言う固い意志だった。

 レイは居住区から少し離れた、かつてゴルフ場だった開けた場所に足を止めていた。部隊を引き連れていながら、ただの小規模な居住区にここまで警戒するのには訳があった。昔、公営の居住区への居住権が買えなかった人々に端を発する反政府勢力が今も生き残っていて、ロシアとの戦争で人々を疲弊させる公務員である自衛隊を標的に動いているからだ。レイはこれまで何度となく彼らによる襲撃の報告を受けている。中でも最も恨まれているのは間違いなく自分なので、より一層警戒も強まった。

 この開けた場所に一時留まっているのもそのためだった。戦争が始まってからと言うもの、北海道は霧が多くて視界が良くない日が多い。そのせいで遠距離からの狙撃がしづらいのだ。それに、これまで襲撃してきた反政府勢力のやり方はいずれも森林や廃墟などの身を隠せる場所での近接戦が多く、遠距離狙撃をされた事がなかった。摘発した拠点からも狙撃用ライフルなどは見付かっていない。恐らく時間をかけて好機を捉える必要がある狙撃は、防護服のフィルターに行動制限されている彼らの生態では難しいのだろうとレイは思っている。

「……面倒臭え奴らだ」

 霧に追われて南下して来たロシア人を追い返し、日本の国土を守っているにもかかわらず、何故同じ日本人から攻撃されなければならないのか。レイは常々抱えている不満に眉を寄せる。本来であれば自分達はどこの居住区へ行っても歓迎されるべきだ。それなのに地底人からは目の敵にされている。

 広々とした緑の平野を眺めていたレイに、三井の声が飛んできた。

「橘一佐」

「済んだか?」

「はい。居住区内に不審物及び非公認防護服などは見当たりませんでした。不審人物やその目撃情報も無く、現時点で北見居住区に脅威はありません」

「聞き込みは?」

「代表は特に変わった事はないと。屋外で作業中のランド・ウォーカーは、数日前に数台の小型トラックが西へ向かったのを見たと言っています」

 三井の報告を聞きながら、レイは機関拳銃を手に取る。

「北見の代表に会うぞ」

「はい」


 函館居住区を出た岩永は、バイクを走らせて海上自衛隊の基地を後にしたところだった。今から陸路で旭川へ向かったのでは時間がかかり過ぎる。そう思って内浦湾を船で横断し、室蘭や洞爺湖の辺りへ行ければかなり時間を短縮できると踏んで交渉へ行ったのだ。だが、たった一人のために船は出せないと、あっさり断られてしまった。

「困ったな……」

 岩永は適当な漁船を探しながら内浦湾沿いの道を走って行く。船が見付かるか否かに関わらず、ここを走らなければならない事に変わりはない。だが珍しく気持ちが急いていた。レイが死のうと別に構わないが、正式に自分を引き立ててもらわなければ困るのだ。せめてそれまではレイには生きていてもらわなければ。

 そんな事を考えていた時、ふと湾の淵にある小さな船着き場が目に留まった。ヘルメットの中から目を凝らすと、漁船が一隻泊っている。しかもこのバイクを載せても問題ない大きさだ。岩永は迷わずその船着き場へ向かった。

 船着き場にバイクのエンジン音が届くと、その漁船の陰から人が顔を出した。やや年季の入った漁船には似つかわしくない、背の高い若者だ。

「バイクか、珍しいな。この辺で道を走ってんのは野生動物と陸自の車くらいだ」

 岩永はバイクを止めてヘルメットを取り、爽やかな笑みを浮かべるその男に言う。

「これは君の船か?」

「ああ、まあね。少し前にそうなったとこだ」

 男はそう言って湾の方を視線で示す。岩永がその先を見ると、そこにはうつ伏せで水面を漂う死体があった。見たところ中年の男のようだ。

「さっきもらった」

 爽やかな笑みと共に船の鍵を見せる男。岩永は表情一つ変えずに男を真っ直ぐ見た。

「君に頼みがある」

「乗せて欲しいのか?」

「ああ。内浦湾の向こう側まで。室蘭とかその辺で降ろしてもらえないか」

 男は楽しそうに笑って頷く。

「あんたタイミングが良いな! 俺も今まさにそっちへ行こうと思ってたんだ。登別でも行って温泉に入ろうと思ってな。陸路でも行けるが面倒だし、元々船に乗ってたからどうも海が名残惜しくてね」

 岩永は安堵してヘルメットをバイクのハンドルにかけた。

「船に? 漁師なのか?」

 すると男は首を振って死体を示す。

「違うよ。漁師だったら自分の船があるだろ? 海自だよ。少し前まで海上自衛隊に居たんだ。もう辞めたけどな」

「海自か。俺は陸上自衛官なんだ。岩永アラタだ」

 男は岩永に微笑むと、船着き場のコンクリートから船に乗り込んだ。

「俺はモトイだ。前は藤木一尉って呼ばれてた」

 モトイは船に置いてあった板を持ち出し、船とコンクリートの間に架ける。

「バイクはこの上を転がして載せれば良い」

「ありがとう。報酬はどうする?」

 モトイは少し考えたが、船に乗り込んだ岩永を見て考えを改めた。バイクを見た瞬間、この男を海に突き落として陸での足も手に入れようと思ったのだが、相手が現役の陸上自衛官で、しかもかなり腕が立ちそうなので、その計画はやめる事にしたのだ。

「報酬……そうだな。あのおっさんを殺した事を黙っててくれれば良いさ」

「……そんな事で良いのか」

 岩永は逆に訝しんでいるが、モトイは構わず頷いた。

「ああ、良いよ。ここでもし、そのバイクをくれって言ったら、あんたは笑顔で頷いて登別に着いた途端に俺の喉元を掻き切って殺すんだろ? 俺だって相手を見てうまく生きて来たから、そのくらい分かるさ」

 そう言って着々とエンジンをかけるモトイ。その背後で岩永は小さく口角を上げた。

「そうか、お互い様だな」

「それに今は海の機嫌が良い。霧も比較的少ないし。ここでごたつくと今日は出られなくなっちまう。行ける内にさっさと行こうぜ」

「ああ、頼む」


 滝川を通過した一行は、その後襲撃に遭う事なく一時間ほどで旭川に着いた。暗い緑色の車列は旭川の居住区ではなく、その少し離れた場所にある地上の駐屯地に入って行く。カイ達もその列に続いて駐屯地内の駐車スペースに車を停めた。その途端、助手席のタケルが思い出したように声を上げる。

「信じらんねえ!」

 驚いたカイが後部座席から助手席のシートを一発蹴った。

「急にでけえ声出すんじゃねえよ!」

「だってよ、今朝から何も食ってねえんだぞ! 信じられるか?」

「信じるも信じねえも、ただ食ってねえってだけだ」

 そう言ってカイはぶっきらぼうに保存食を放る。それを受け取ったタケルだが、どうにも気が乗らないようで、味気ないアルミの袋を眺めたまま開けようとしない。

「ここまで来て保存食かよ……。なあ、ロシアに行ったらこいつの真の出番だろうし、日本に居る間くらい美味いもん食おうぜ」

 そんなタケルの訴えを察知したかのように後部座席のドアがノックされた。カイが窓を開けると、カエデがどことなく嬉しそうな顔で立っている。

「我々はここでレイを待ちます。皆さんはどうしますか。勿論この駐屯地に居て頂いて構いませんし、ご希望であれば居住区へ行くのも良いと思います。ただ、居住区ではランド・ウォーカーはあまり歓迎されませんので、それだけは念頭に置いて下さいね」

「歓迎されないのはどこも同じだ。わざわざ移動するのも面倒だし、ここでレイを待つ」

 カイがそう答えると、助手席の窓が開いてタケルが顔を出した。

「なあ、この辺で何か美味いもの食える? この駐屯地の食堂は?」

「美味しいものですか……。勿論、ここの食堂も美味しいですよ。ですが、旭川の居住区では魚を陸上養殖していて、同時に野菜を育てる装置が導入されていると聞いた事があります。新鮮な魚介が食べられるかもしれませんね」

 カエデの返答と同時にカイは深々と溜息を吐き、タケルは素早く助手席から飛び出した。

「よし、居住区に行くぞ!」

「……余計な事言いやがって」

 渋々車を降りるカイがぼそりと呟いた。リョウヘイは異論なくタケルの決定に従う。四面楚歌の現状でレイを殺すとなれば、彼を恨んでいる地底人達を利用するほかない。そしてここ旭川はレイを憎む人々が最も多い場所だ。この機を逃せば後はないだろう。

「カイ」

 さっさと駐屯地を出て行くタケルを追っていたカイだが、カエデの声に足を止めて振り返った。

「何だよ」

「私はここでレイを待ちます。くれぐれもお気を付けて」

「別に、付いて来てくれなんて言ってねえし」

「我々を襲撃した反逆者達が旭川にも巣食っていると聞きます。貴方が持つ政府の身分証、出す場面を間違えないようにして下さいね。貴方を人質に取られては困りますから」

「ああ」

「では、夜までには帰って来て下さいね」

「分かったよ」

 カエデに見送られながら、カイは先を行くタケルとリョウヘイを追う。タケルは分かるが、リョウヘイまで付いて来る義務はないので、カイは先を歩くリョウヘイに言った。

「お前まで来なくても良いんだぞ。旭川じゃランド・ウォーカーは良く思われてねえって」

 リョウヘイは何か考えているようだったが、すぐにいつもの笑みを向ける。

「いや、俺も見てみたいんだ、旭川の居住区。サハリンが樺太に戻ったって事は、前よりは状況が落ち着いてるはずだろ? 少しは復興してるのか、ここに来る道中みたく死体が転がってるのか」

「……お前も物好きだな。無駄な好奇心は自分の首を絞めるぞ」

「好奇心も無いと、人生つまんねえだろ?」

 そう言いながらもリョウヘイの思考回路はレイを殺す場合の段取りに追われていた。カイとレイが会い、すんなりと国外行きが決まってくれれば、その報告だけでも大松から多少の報酬は搾り取れるはずだ。自分もリスクを冒さずに済む。だが、レイがロシア語を話せなかったり、素直にカイに従わなかったりすれば、その時は当初の計画通り殺す事になる。そうなれば大掛かりな作戦が必要だ。


 北見の居住区は異常な緊張状態の中、張り詰めた空気が満たしていた。突然やって来た陸自の隊員達が居住区中を根掘り葉掘りひっくり返し、そこかしこで何やら聞き込みをしていた。この物々しい儀式の次に何が起こるか、全ての住民が知っている。

 レイが来る。

「代表」

 北見市営居住区の代表である高木は、執務室にやって来た男の表情を見て息を吐いた。避けようのない脅威に喉元を掴まれているかのような、半ば怯えた表情。その顔を見れば、次に出る言葉が何か容易に想像できた。

「レイが来ました」

「……そうか。通してくれ」

「はい」

 男は高木に頷き、部屋を出て行く。高木は徐に椅子から立ち上がり、逸る鼓動を何とか静めようと深呼吸をした。高木は中年の男だが、この年になってもたかが二十歳そこそこの若造に恐れおののかなければならない現実にうんざりしていた。

 そんな中、部屋の外からいくつかの足音が聞こえて来て、扉が叩かれた。

「どうぞ」

 最初に入って来たのは先ほどの案内役の男で、その後から忌々しい金髪が現れる。黙って立っているだけなら目を見張る美男だが、このレイと言う男は破滅的に人格が崩壊しているのだ。

「久し振り、高木さん。前に会ったのは千島に行く前だったな」

「ええ、確か」

 レイは緑の瞳を細めて高木を見た。

「俺の事が嫌いなのは解るが、あからさまに嫌な顔しなくても良いだろ? そんな顔をされると、何か知られたくねえ事があんのかと勘繰っちまう……」

 高木は石のような顔色でレイを見返す。

「すみませんね。私はいつもこんな顔で」

「なるほど。確かに、前会った時もそんな顔だったな」

 高木に勧められるでもなく、レイは来客用のソファーに腰を下ろした。その様子に、高木も向かいのソファーに座る。このレイと言う男と相対する時は何より緊張する。それはレイが機関拳銃を持っているからではない。例えこの男が丸腰であっても、この緊張感は変わらないだろう。

「今日は何の御用で? 物資の供給ですか?」

「いや、物資は当面問題ない。今日はあんたに訊きたい事があって来たんだ」

「訊きたい事?」

「最近、例の反政府組織の奴らが活発に動いててな。何か動きがなかったかと思ってさ」

 高木は青白い顔のまま、だが表情は一切変えずに断言した。

「少し前にあなたの部下にも答えましたが、特に何も聞いていませんね」

 レイはそんな高木をじっと見つめていたが、無表情のままソファーに深く背をうずめ、部屋の外へ向かって声を張る。

「おい!」

 すると狭い執務室に数人の男女を連れた隊員が入って来た。隊員に連れて来られた面々を見た高木は、ますます血の気が引いて行く。連れて来られたのは全て高木の家族だった。

「高木さん、あんた俺が来ると知って家族を隠してただろ? でもよ、あんたが大事なもんをどこに隠すかなんて事は、すぐに分かっちまうんだよな」

「……何をする気だ」

 レイはソファーから立ち上がり、機関拳銃を手に取る。そして怯えて立ち尽くす高木の家族に近付いた。

「言っただろ? あんたに訊きたい事があるだけだって」

「私は答えたはずだ」

「確かにあんたは答えた。だが、正直な答えじゃねえよな。 俺は正直に答えて欲しかったんだよ」

 機関拳銃の銃口が高木の息子の後頭部に当てられる。レイはその背後から高木をじっと見据えていた。

「もう一度訊く。最近、反政府組織に関する動きは何か無かったか? 関係がありそうな情報でも何でも良い」

「さっきも言っただろ。私は何も聞いていない」

 レイは銃口を更に強く押し当てた。息子は歯を食いしばって恐怖に耐えている。すると、たまらなくなった妻が声を上げた。

「あなた、お願い! 何か知っているなら正直に話してちょうだい!」

「……本当に何も知らないんだ」

「俺の部下によると、屋外作業をしていたランド・ウォーカーが、数台のトラックが西へ向かうのを見たと言ってたそうだ。このトラックに関する情報は?」

「それは、旭川への食糧供給だと聞いている」

「そうか」

 次の瞬間、執務室に鋭い銃声が響いた。応接用のソファーに赤い血しぶきが鮮やかに飛び散り、高木の息子はただ重いだけの肉の塊となって顔面からテーブルに突っ伏した。頭部から流れ出る血液が水っぽい音を立て、突っ伏した反動で死体が血に染まる床に落下する。

 高木の妻と娘はこの世のものとは思えない悲鳴を上げ、高木は自分の顔に飛び散った血液と肉の欠片を手で拭い、改めて血に染まった自分の手を見た。

「もう一度訊くぞ。そのトラックは、いったい何を積んでどこへ行ったんだ? あんた、知ってるだろ」

「もう止めて! 止めて下さい!」

 高木の妻は一瞬にして奪われた息子の亡骸に縋り付き、血だまりの中で泣き叫ぶ。

「早く答えろ」

 レイの銃口は息子に縋り付く妻の頭部に向けられた。高木は生気を奪われ、焦点の合わない目でレイを見る。緑の瞳は平静そのもので、悔しいほどにレイの表情は何の変化も無かった。

「……止めてくれ」

「そうして欲しいならさっさと答えろ」

「あれは……」

「あれは?」

 いったいどうしてこんな事になってしまったのか。洞爺湖から来た防護服の集団に協力し、武器弾薬を旭川へ送った。だがあのトラックはランド・ウォーカー達が外へ出ていない深夜に送り出したのだ。それなのに何故。高木の思考はただただこの一連の流れを繰り返すばかりだった。

「あれは……銃や弾薬だ。神経に作用するガス弾もあると聞いた。行先は、旭川」

 その答えを聞いたレイは銃を構えたまま力なく笑う。

「やっぱりな。ったく、困った人達だよ、あんたらは。俺達に守られなければロシア人の餌食になり、守られたら守られたで俺達の事が気に入らねえ。その銃やガス弾は、いったい誰を殺すために旭川へ送った?」

 高木は自分でも驚くほどの憎悪の眼を、レイに向けた。

「お前達だ」

「どうして俺達の事がそんなに憎いんだ? 俺達が居なければあんたらはロシア人の奴隷なんだぞ?」

「確かに、私達はあまりに非力だ。ランド・ウォーカーが居なければ戦う事も難しい。だが、だからと言ってお前達に虫けらのように搾り取られ、殺されていく運命を負わなければならない謂れはない!」

 レイは小さな溜息と共に肩を落とす。

「じゃあ、俺達にどうして欲しいんだ? 居なくなって欲しいのか? そうやってロシア人の奴隷になるのが望む運命なのか?」

「私達も命ある人間だ。その尊厳を理解して欲しい」

 そう言って高木は妻が抱き上げている息子の死体の前に跪いた。

「もう十分だ。十分大勢の人が死んだ……」

 レイはその様子をただ眺めていたが、時計を確認するなり口を開く。

「息子が死んでつらいか?」

 高木は未知の生物でも見るかのように、立ったままのレイを見上げた。妻と娘も信じられないと言わんばかりの憎悪の眼を向ける。

「つらいか、だと?」

「ああ」

「つらいなんてもんじゃない。お前を殺してやりたいよ!」

 そう叫んで立ち上がった高木を、数発の銃弾が通り抜けて行った。広がる血しぶきに妻と娘が悲鳴を上げる間もなく、その喉元にいくつも穴が空く。

 一切が沈黙し、血に染まった執務室。外からはざわめきや高木を呼ぶ声が聞こえるが、隊員が出入りを制限しているためこの部屋にはレイと四体の死体のみとなった。今まさに広がり続ける血の海に、レイは靴が汚れないよう後ずさる。そして機関拳銃を下ろし、血だまりを避けて高木の机に向かった。引き出しを全て開けて中を一通り漁る。すると旭川の居住区から届いたであろう書類の束が出て来た。レイはそれをズボンと腹の間に挟み、隊服で隠す。それから自分が持っていた手榴弾を高木の手に一度握らせ、血だまりに転がした。

 部屋の外が騒がしい。それとは対照的に不気味な静けさが満たしているこの部屋を振り返り、レイは扉の前で一言漏らした。

「そんなにつらいなら、一緒に死んじまった方が幸せだろ?」

 扉を開けるなり、駆け付けた住民が隊員を押し退けて執務室へなだれ込んだ。レイは何とかその波を抜けて廊下へ出る。

「高木さん! いったい何が……」

 レイをここまで案内した若い男が執務室を飛び出し、さっさと出て行こうとするレイを呼び止めた。

「レイ!」

 怒りに張り裂けそうなその声に、レイは黙って立ち止まる。

「お前、いったい何をした! 何で高木さん一家を……皆殺しにする必要があるんだよ!」

 レイは男を振り返り、何食わぬ顔で言った。

「高木が隙を見て俺の手榴弾を盗りやがった。それで奴を撃ったが、今度は息子がそれを拾おうとしたから撃つしかなかった。妻と娘は止めに入った時に巻き込んじまった」

「そんな話を信じると思うのか!?」

 その悲痛な叫びには何も返さず、レイは傍に居る三井に言う。

「三井、すぐに旭川へ向かうぞ」

「やはり例のトラックは武器でしたか」

「それだけじゃねえ、奴らガス弾まで作りやがった。ったく、他にする事があんだろ……」

「……敵が違いますね」

「全くだ」


 内浦湾を東へ進む一艘の漁船。その甲板で岩永は薄灰色の空気の向こうに浮かぶ対岸を見ていた。モトイとはこの漁船の持ち主を殺した事を誰にも言わないと言う条件で取引をしているが、まだ彼を完全に信用した訳ではない。そのため、操縦席を視界に入れておける後部に陣取っていた。

「やはり小さい船の方が楽か?」

 岩永の問いに、モトイは前を見たまま声を張る。

「まあな。けど、岸に近付いたら小舟だって気を遣う。幸い、ソナーが生きてるから、こいつは扱い易い」

「ソナーは霧の影響を受けないのか」

「黒い霧は水に馴染まないし、水からは発生しないから、ソナーや魚類探知機には大抵の場合影響しない。だが、あまり霧が濃いと、何故か反響をうまく拾えない時もあるんだ。だからまるっきり鵜呑みにはできない」

「なるほど」

 漁船が波を立てる中、モトイは振り返らずに言った。

「アラタはこれから戦場に行くのか?」

「いや、その逆だ」

「……逆? 戦場から帰って来たって事か」

「ああ」

「もしかして、青函トンネルから?」

 エンジン音の合間から何も返ってこないので、モトイは構わず続ける。

「俺はつい最近まで函館に居たんだ。そこで大松一平の妻が死ぬのを見た。そのおかげで青函トンネルが解放されたって聞いたもんでね。ついそこからの帰りかと」

 岩永は操舵するモトイの背中をじっと見据えていたが、その内重たい声で言った。

「大松の妻はどんなふうに死んだ? 俺達には自殺だと連絡があった」

「その通り、自殺だ。本当は、彼女が妊婦だと知った伊山三佐が腹を裂いて殺した上でトンネルへ送りつけようとしたんだが、それだけは止めてくれと言って防護服を自分から脱いだんだよ」

「そうか」

「まあ、結果としては良かったんじゃねえかな。妻の惨殺死体が送られてきたら、さすがの大松も戦意消失どころの騒ぎじゃねえだろうし。穏便に済んで何よりだ」

「そうだな。一つ気になる事がある。大松の妻は自分から函館へ帰ったと聞いたが、その後身柄が陸自へ渡ったのはどう言う経緯だったんだ」

「……もう辞めた事だから言うが、俺が引き渡したんだ。彼女が函館の基地に嘆願書を持って来てたところに接触する機会があってな。大松の妻を陸自に引き渡し、俺は自由を得た」

「……なるほど」

 岩永は漁船の横を広がって行く白波をぼんやり眺めながら、つくづく思った。大松はランド・ウォーカーにも地底人のふりくらいできるだろうと言ったが、そんなふりをする事にどれだけの意味があるのだろう。

 二年間、一日も欠かさず地底人のふりをしてきたが、今こうして大松叶の悲惨な最期を聞いても、全く何も感じない。自分が自由になるために二人の人間の命を代償にした男を目の前にしているのに。二年と言う時間を共に過ごし、共に笑い、怒りや悲しみも共にしてきた大松の事なのに。せめて悔しさくらいは無いものかと思ったが、やはりそれも感じなかった。もし自分が正真正銘の地底人なら、ここで激高し、モトイを惨殺するだろう。だが、今の自分にそんな選択肢は全くあり得ないと岩永は確信していた。今モトイを殺せば、船を操縦する人間が居なくなる。その方が自分にとっては重大なのだ。

「……大松に悪い事をしたな」

 岩永の呟きは漁船が立てる波の音にかき消されていった。


 旭川居住区は、薄暗い空気のなかにぽつんと佇む鉄筋コンクリート製の小屋の下にあった。小屋は無制限に生い茂る緑に浸食され、まるで今は無い空爆から身を隠しているかのようだ。

 カイは前を行くタケルがその小屋の前で足を止め、怪訝そうに振り返るのを眺めていた。カイとリョウヘイが追いつくなり、タケルはちんけな小屋を示して首を傾げる。

「ここだよな?」

 念のためにアタッシュケースから地図を取り出して位置を確認するカイ。地図に記された旭川居住区は間違いなくこの地下だった。

「ああ。ここが入口だ」

 タケルは草に覆われた小屋を振り返って難しい顔をする。

「本当に入って平気かな。中で全員死んで腐ってたりしねえよな」

「嫌なら駐屯地に帰るぞ」

「いや、行こう。ここで帰ったら一生後悔する!」

「……大袈裟な」

「あのな、カイ。この先ロシアに行ったら人間らしい生活ができるかどうか怪しいんだぞ? ここで文明に触れておかないと、絶対後悔するからな」

「お前さ、ロシアにも人間が居るって知ってるか? 未開の地じゃねえんだぞ」

「俺はロシア人を信じてない。だからここで引き返す訳にはいかねえんだ」

 タケルはそう宣言し、鉄筋コンクリート製の小屋に取り付けられた金属製の扉を開けた。小屋に窓はなく、小さな照明が一つ、心細く点灯しているだけだ。

「函館とは大違いだな……」

 北海道育ちのリョウヘイすらそんな言葉が洩れるほど、小屋の中は侘しいものだった。

「周辺に廃墟が多いし、この上にも何かしら建造物があったんだろうが、維持できなかったのかもな」

 そう言ってカイは小屋の壁に手を触れる。コンクリートにはヒビも無く、表面も汚れていない。この小屋自体は比較的新しい建造物だ。旭川居住区は、少なくともこの程度の小屋を建てられるほどには回復しているようだ。

 小屋に入って突き当りの壁に、観音開きの扉があった。大人が五、六人は並んで通れる幅があり、重たい金属製だ。タケルが軽々とその扉を開くと、奥に薄暗い通路が伸びていた。通路の天井で等間隔に点灯している照明も、闇に吸い込まれて心細い。

「よし、行くか」

 鉄パイプ片手に大きな一歩を踏み出したタケルを、ふとカイが呼び止める。この単細胞に言っておかなければならない事を思い出したのだ。

「タケル」

「うん?」

「この居住区には反政府勢力が潜伏しているらしい。俺達が政府の仕事をしてると言うのは住民には黙っとけ。面倒はご免だ」

「良いけどよ、じゃあ、訊かれた時は何でここに立ち寄った事にする? 男三人で旅行か?」

「俺に考えがある」

 そう言ったのはリョウヘイだった。

「函館に居た時、旭川から来た地底人の竹内って奴が居た。北海道の窮状を政府に知らせようとした奴で、どうやら地底人の間では有名らしい。そいつに伝言を頼まれたと言えば良い」

 カイはその提案に眉をひそめた。

「確かにそう言えば居住区の代表とも会えるかもしれない。だが伝言の内容はどうする気だ? もしも竹内って奴とここの奴らが普段から情報をやり取りしていたら? そんな嘘は見抜かれるぞ」

「いや、絶対に重宝される情報がある」

 カイはリョウヘイの言わんとする事を察して目を細めた。

「まさか、レイの情報じゃねえだろうな」

「ご名答だ、カイ。ここの地底人ならレイの情報は喉から手が出るほど欲しいはず。竹内からの伝言だと言えば信用するだろ」

「それは俺が許さねえ。レイは俺達にとって必要になる人間かもしれねえんだ。地底人共に安売りする訳にはいかない」

「おい、おい、まさか本当の事を言うとでも?」

 おかしそうに笑うリョウヘイに、カイは不満な目を向ける。

「てきとうな事を言っとけば良いだろ? ここへはまだ来ないで北見に暫く留まる事になったとか何とか。カイって案外お人好し?」

「……うるせえ。とにかく、レイの事を口に出すのは駄目だ。俺達が陸自の仲間だと思われる可能性もある。もし事情を訊かれたら、物資運搬で雇われて駐屯地に荷物を置いたついでに来たと言えば良い」

 カイの提案を聞き、リョウヘイは思いのほか素直に引き下がった。

「なるほどね。じゃあ、カイの言う通りにしよう。俺達のリーダーはカイだもんな」

「……リーダーかどうかは知らねえが、とにかく飯を食ったらさっさと戻るからな」

 三人の方向性が固まったところで再び薄暗い通路を進んで行く。通路は緩やかな下り坂になっていて、地下に下がって行っているのが分かった。旭川の窮状を知らない者でも、この通路を進んでいると一歩ごとに気持ちが重くなる、独特な空気がある。

 一人で進んでいたら妙に背後が気になるような気味の悪い通路にも、ついに突き当りが見えて来た。そこには船に取り付けられているような密閉性の高い金属製の扉がある。タケルがドアノブを捻るが、それはびくともしなかった。

「ロックされてる」

「それで呼ぶんだろ」

 そう言ってリョウヘイが示したのは、横の壁に取り付けられているちっぽけなインターホンだ。この薄暗い中では見落としかねないほど存在感が無い。いかにも来客歓迎せずと言った風だった。

 カイはそのインターホンに手を伸ばし、ボタンを押す。するとベルが鳴るような音がして、スピーカーの向こうから女の声が流れた。

「はい、こちら旭川居住区」

「飯を食いに来たんだ。入れるか」

 カイのぶっきらぼうな要求にもかかわらず、姿の見えない女は声を弾ませる。どうやらカメラ付きのインターホンのようで、向こうからはこちらの様子が見えているのだろう。

「男三人で遠足かい?」

 女の声は中年だが、活気に満ち溢れていた。まるで何十年も無人島に居て、今漸く人と会話できたかのようだ。だが、カイの調子がその声につられる事は決して無い。

「違う。仕事の帰りだ」

「そうかい。まあ、入んな! 食堂の場所はその辺で人に聞いてちょうだい」

「どうも」

 インターホンが切れると同時に扉のロックが解除される音がした。タケルが扉を開くと、その先にはこれまでの陰鬱な通路が嘘のような、明るい空間が広がっている。

「うわ、すげえな」

 さすがのタケルも声を上げるほどの激変だった。壁や天井、床までもが真っ白で、頭上の照明は太陽のように明るい白光を降り注いでいる。その明るさに驚くや否や、強い風が正面から吹き付けた。あの通路の薄闇を追い出すかのように吹く風は、ほんの一筋の霧さえも侵入を拒む。

 強風を抜けると、その先に第三の扉があった。それを潜ればいよいよ旭川居住区だ。

 真っ先に扉を開いたタケル。その向こうに広がる居住区の様子を、カイはタケルの後ろから背伸びして覗いた。

 旭川居住区は函館には及ばないものの、地方の居住区としては中の上には当たるであろう造りだった。第三の扉を出ると広いバルコニーのような空間があり、下層から伸びる集合住宅の群れを一望できる。造りとしては福島第一原発の居住区に似ていた。広いバルコニーは左右に伸びる通路へ続いており、そこを下って行くと生活エリアに入ると言う構造だ。

「下に降りて食堂の場所を訊こう!」

 思いのほかまともな居住区の様子に勢いづいたタケルが、揚々と坂を下って行く。その後にカイとリョウヘイが続くが、タケルの一歩が大きいため二人は小走りだった。

「……あいつが張り切ってるのを見ると嫌な予感しかしねえ」

 カイのそんな呟きを拾ってリョウヘイが笑う。

「はは、その予感って当たるの?」

「だいたい面倒事を拾って来やがる」

 カイの視線の先で、その面倒事の元凶は声をかけるべき住人を探していた。居住区の構造は立派だがその割に人口が少なく、道を尋ねようにも人が見当たらない。そんな時、タケルは通りの奥からやって来る人影を捉えた。

「お、あいつに訊こう!」

「おい、勝手に行くな!」

 駆けて行くタケルを追うカイ。リョウヘイもその後に続く。

「なあ、あんた! 食堂の場所教えてよ!」

「はいよ! ちょうどあんた達を案内しに出て来たとこだからね!」

 鉄パイプ片手に駆け寄って来たタケルにも愛想良く答えたのは、恰幅の良い中年の女だった。カイはその声を聞き、すぐにあのインターホン越しに聞いた声だと気付く。

「あんた、入り口で話したよな」

 女は満面に笑みを浮かべてカイを見やる。そして大いに頷き、豪快に笑った。

「そうだよ! よく気付いたね!」

「いや、気付くだろ」

「あんた達のために、わざわざ出て来たんだよ!」

 突然現れた謎の女をカイが怪訝そうに眺めていると、その視線に答えるように女は笑う。

「こいつ誰だって思ってんだろ? 私はね、ここの代表をやってる入江ってんだよ! さあ、食堂はこっちだ。付いて来な!」

 入江に先導され、三人は旭川居住区の奥へと踏み込んで行った。


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