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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
14/19

羊飼い

札幌に到着したカイ達は、かろうじてかつての姿を保っている札幌駅に来た。そこは今や駅を改装した居住区となっていた。カイはそこで羊乳酒を売る少年と老人に出会う。少年から羊乳酒を買うのだが、ひょんな事からカイ達は夕飯に招かれた。その道中、リョウヘイは老人から旭川から来た竹内と言う名の人物について聞き出すのだが……。

14 羊飼い


 竹内が大松の執務室へ入ると、そこには既に数人の関係者が集まっていた。皆緊張の面持ちでソファーに腰を下ろしている。決して広くない部屋に男ばかり集まればそれだけでも息苦しいが、これから告げられるであろう大松の言葉を待つ時間が、それを助長した。

「菊池は?」

 一人でやって来た竹内に、目を伏せていた大松が視線を上げて言った。

「明日は自分がゲート番だから、不在を伝えてから行くと言っていた。すぐに来るんじゃないか?」

「そうか」

 すると、大松は竹内に座るよう手で示し、菊池を待たずに話し出した。

「菊池から聞いたかもしれないが、皆に頼みがあって呼び出したんだ」

 来客用のソファーに腰を下ろした面々は、それぞれに大松の方を見る。大松は疲れ切った表情を更に硬くしていた。

「知っての通りの状況で、俺とリョウヘイの間柄を知る人間と外界との接点をなくさなければならなくなった。これまでは居住区全体で人流を抑えていたが、人々の生活に影響が大き過ぎるので、大変申し訳ないが、事情を知る者達を隔離する事とした」

 ここで何ら反発の声が上がらない事が、何よりこの大松と言う男の人望の厚さを表している。

「俺は異論ないぜ。正直、リョウヘイが大仕事を成し遂げるのを期待してるんだ」

 地下の刑務施設で看守をしている男が言った。

「俺もだ、大松さん。奥さんを殺されて、黙って地下に潜ってるだけなんて、できっこねえよ」

 かつてリョウヘイを逮捕した警察官の一人が言う。他の男達も互いに頷き合い、一人も異論はなかった。そんな中、大松は竹内を見る。竹内はいつものように意志の強い目でその視線を見返した。

「竹内、悪いが協力してくれるか」

 竹内はすぐに頷いた。

「勿論だ。ただ、一日中部屋の中に閉じ込められるのは勘弁して欲しい。人と接触しないようにして運動くらいさせてもらえねえと、旭川を見に行こうにも歩けなくなっちまう」

 冗談交じりに言う竹内に、大松は憔悴した表情に漸く笑みを取り戻した。

「当然だろ。お前に介護は早過ぎる」

 その時、執務室の扉が開いて菊池が入って来た。駆けて来たのか、少し息を荒げている。

「すみません、遅くなりました」

「今皆に話したところだ。全員快く承諾してくれた」

「そうですか、良かった」

 菊池は息を整えながら竹内の隣に座る。全員そろったところで大松が改めて今回の協力要請について説明した。

「皆を隔離するのは単に情報漏洩を防ぐためだけではなく、皆の身の安全を確保するためでもある。奴らは情報を得るために何をしてくるか分からない。警護を付けて安全な場所に居てくれる方が俺も安心できる」

 そして数人の顔を見て更に付け加える。

「家庭がある人も心配しないで欲しい。生活の保障は俺が責任を持ってしよう」

 それから大松は机の上に置いていた鍵を手に取り、一人一つずつ渡していく。鍵には集合住宅の棟を表す記号と、部屋番号が彫られた小さな木製の札が付いていた。

「一人一部屋用意してある。衣食住は保証するし、さっき竹内が言ったように警護付きで外へ出る事も可能だ。何か不便な事があったらいつでも言ってくれ」

 竹内は渡された鍵にぶら下がっている札を見た。部屋番号からして高層階だ。もしかすると今の部屋より気に入るかもしれない、そんな事を考えていた。すると隣から菊池がそれを覗き込んで笑う。

「あ、俺と竹内さん隣同士だ」

 菊池が見せる札には確かに隣の部屋番号が彫られている。

「そのようだな。宜しく」

 竹内は控えめな笑みを返した。そんな中に大松の声が重く流れる。

「皆には迷惑をかけてしまって本当にすまないと思っている。この体制もいつまで続くか、正直に言って先が見えないのが現状だ。だが、だからと言ってずっと皆の行動を制限するつもりはない。一か月だ。一か月待ってリョウヘイから何も連絡が無ければ、全員元の生活に戻ってくれて構わない」

「一か月で良いのか? レイに会うだけでもかなり難しいと思うぞ」

 困惑の表情を浮かべる竹内に、大松はそれでも力強く頷いた。

「リョウヘイなら、一か月あれば何らかの結果を出すはずだ。何も無ければ逃げたか、リョウヘイ自身に何かあった可能性の方が高い」

「一か月で良いなら、長い休暇みたいなものですね」

 そう言って鍵の札を眺める菊池の隣で、竹内は何も言わずに視線を落としていた。


 カイとタケルはリョウヘイの運転で札幌に来ていた。前を行く陸自の車両に続いて市内に入るが、やはりここも他の都市と同様に街の体を成していない。地上の建造物は百年近い間人の手が入らず野晒しにされていて、窓ガラスは板のように曇り、大部分が割れている。コンクリートは薄汚れ、至る所にひびが入っていた。主要な道路は整備されているが側道は荒れ放題で、アスファルトのひび割れから植物が旺盛に茂っている。

「どこもここも同じような景色だよな。大自然か大自然の中の廃墟かの二択だ」

 助手席で窓の外を眺めながらタケルがぼんやりと言った。リョウヘイの運転は申し分ないものだったが、景色は退屈極まりなかった。廃墟が残っていない場所は本島とは違う見渡す限りの雄大な自然があるのだが、ひとたび廃墟に囲まれれば、無味乾燥な人工物の死骸を眺めなければならない。

「タケル、右の方見てみな」

 リョウヘイに言われ、タケルは助手席の窓から視線を剝がしてフロントガラスの向こうを見た。先に延びる道を暫く行った所に、巨大な四角い建造物が現れた。

「何だ、あれ」

 タケルが呟くと、後部座席で荷物に埋もれながら横になっていたカイも身を乗り出し、その建物を見る。鉄筋コンクリート製で、高いビルと連結した背の低い建物がある。背の低いと言っても横に連結しているビルと比べればと言う話で、この直方体の建物も決して小さくはない。さすがに手入れが万全とは言えないが、街の建物と比べると植物に浸食されていないし、コンクリートの劣化も補修されているようだった。

 カイは地図を取り出して現在地を確認する。するとあの建物の名前がすぐ明らかになった。

「札幌駅だ」

「駅って事は電車が走ってるのか?」

 タケルの問いにカイは地図を念入りに眺めて首を振る。

「いや、居住区の記号が付いてるから、たぶん今は走ってねえだろ」

「よくある奴だな。既存の建造物を居住区に改装するパターン。霧が出た当時、よほど金も時間も無かったんだろ」

 ハンドルを握るリョウヘイはそう言って前の隊列に続き、駅の方に進んで行く。駅の前には先に到着していた自衛隊の車両がきれいに並んで駐車されていた。その列にそろえてリョウヘイも車を停める。

 車から降りると目の前の建物が如何に大きいかが身に浸みて分かった。修復と荒廃が入り混じる巨大な鉄筋コンクリートの建物を、カイはただ黙って見上げる。すると、背後から声を掛けられた。

「旧札幌駅です。ここにはかつて地下鉄が走っていました。今はその地下空間を活用した居住区があるのです。今日はここに泊まり、明日の朝七時に出発します。くれぐれも遅れないよう宜しくお願いします」

「泊まる所とかどうすんの?」

「そのケースがあれば、まず困らないでしょう」

 リョウヘイが言うと、カエデはカイが持つアタッシュケースを指さした。

「明日の朝七時まではあなた方は自由にお過ごし下さい。ただ、我々はあなた方を護送する任を負っていますので、私はカイに同行します」

「こいつが居るから別に……」

 タケルを示してカイが言い欠けるが、当のタケルが笑顔で遮った。

「女が居る方が良いじゃん! 居てくれるって言うんだから居てもらおうぜ」

「…………」

 眉を寄せて黙り込むカイ。その隣でリョウヘイが苦笑する。

「何か、君達ってすげえストレートだよな」

 そこでカエデが一度咳払いし、眼鏡の下で冷たい目を光らせた。その目はじっとカイを見つめている。

「歓迎して頂けるのでしたら、私としても有難いですね。私もカイを危険な目に遭わせる訳に行きませんから」

 カイは背筋に寒気を感じて肩をすくませた。

「……何でも良い。さっさと中に入るぞ」


 空が徐々に暗くなり始める時間と言う事もあり、駅の構内は外の仕事から戻ったランド・ウォーカー達の姿が多く見られた。建物自体はかなり老朽化しているが、所々に出店のような簡易テントが張られている。そこには仕事帰りのランド・ウォーカー達が集まり、食事したり、中には酒を飲んだりする姿もあった。

「屋根があるとは言え、外に店があるってのも珍しいな。大抵ああ言う仕事をすんのは地底人が多いだろ」

 珍しそうに構内の広い通路を眺めるカイ。この光景を見慣れているカエデは、逆にそんなカイを眺めながら答える。

「この居住区は駅の再利用ですので、人口に比し居住スペースが狭いのです。なので、こうしたランド・ウォーカー向けの店が外に設けられているのですよ」

 更にカイが目を見張る。その視線の先には店先で商品と交換されている物があった。多くのランド・ウォーカー達が手にしているそれは、金だった。

「……金だ」

 霧が出てから、この世界は通信や経済が大幅に減退した。日本銀行券などただの紙屑と化し、物々交換が当たり前になっていた。労働への対価も当然のように現品支給だ。だが、ここ札幌には金が存在している。

「今時珍しいですよね。札幌には貨幣があるのです」

 カエデは巨大な鉄筋コンクリートの屋根に守られた、さながら市場のような駅の通路を見やる。ここにはランド・ウォーカー達の社会が存在していた。

「何で札幌だけ? 東京だって無かったぞ」

 タケルも店先で行われている取引を珍しそうに見る。昔はこの金と言うものが大きな力を持っていたと聞くが、紙切れや金属片にそんな力があるとは到底思えなかった。

「これは、ある種偶然の産物です。この居住区は駅を改装して作られたと言いましたよね。改装には当然、大量の資材が必要になります。特に霧の侵入を防ぐために頑丈で密閉性の高い金属が。ですが、全国的に需要が高まる中、外注していては市民が全滅しかねない。そのため、当時の札幌市は市内の製鉄業者から機材を買い取り、この駅を一つの製鉄工場にしたそうです」

「それがどうして貨幣経済になるの?」

 リョウヘイも興味津々な様子で聞き入る。

「そこに軍需景気が舞い込みます。戦争で重要な資源は主に燃料と鉄です。ロシアとの戦争により、ここ札幌は軍需工場として潤うようになったのです。製品の対価として札幌市が主に要求した物は食料でした。そうして得た豊富な食料を換金材料に、最初の硬貨が発行されたそうです。紙幣が望まれるようになる過程は、歴史に見る通りですね」

 カエデの説明を一通り聞いたタケルは、難しい顔をして疑問をひねり出した。

「え、じゃあさ、金が無いとここで何もできねえの?」

「いいえ。ご安心下さい。物々交換や労働での支払いも可能です。ただ、他の居住区より高くつく可能性はありますが」

「ふうん。まあ、気にする事ねえか。あの書類があれば地底人からは何でももらえるもんな」

 タケルの視線はカイが持つアタッシュケースに注がれる。だが、カイはそんな事を全く気にもせず、ランド・ウォーカー達が使う硬貨を見ていた。

「……金属か。こんな街中で鉄を掘り出したとは思えない。まさか、電車が走ってないのはそう言う事なのか」

 カイの独り言に、カエデは満足げに微笑んで頷いた。

「その通りです、カイ。ここは駅ですが、電車はありません。電車どころか線路すら場所によっては無いのです。今、彼らが使っている硬貨、そしてロシアに撃ち込まれた砲弾に姿を変えました」

「なるほど。合理的だな」

 四人が地下へ続く階段へ向かっていると、突然タケルが足を止めた。あまりに前触れが無かったので、カイは見事にその背中へ激突する羽目になった。

「おい! 急に止まるんじゃねえよ!」

「あれ、何?」

 カイの怒号など気にもかけず、タケルはあるテントを指さした。なかなか繁盛しているようで、人だかりができている。テントから離れた客を見ると、何やらカップを持っているようだった。タケルの視点ではカップの中まで見えるのだろうが、カイにはそこまで見る事はできない。

「あれは羊乳酒の店だった記憶があります」

 すかさず答えるカエデを、タケルは目を輝かせて振り返った。

「羊乳酒? 酒なの?」

「ええ、お酒ですね。アルコール度数はあまり高くなく、栄養が豊富で体に良いそうですよ」

 カエデがそう言うなり、タケルはカイの肩を両手で掴んで力強く言う。

「カイ、酒飲もう」

「酒? お前酒飲めねえだろ、酒は二十歳からだ」

「お前さ、平気で人騙したり殺したりできるくせに十八だからって酒飲まねえの? 真面目な部分間違ってんだろ」

「うるせえよ。だいたい、お前酒飲んだ事あんのかよ。勝手に飲んで暴れ回ったりされちゃ迷惑だ」

「心配すんな、飲んだ事はある。東京に居た頃、大抵のものは飲んだぞ」

「それでこうなっちまった訳か」

「大きく健康になれたって訳だ」

 そう言ってタケルはカイの腕を掴み、有無を言わさず引っ張って行く。リョウヘイとカエデもそれに付いて行った。

 酒を売るテントは大盛況で、人が捌けて店主の顔が見えるまでに数分かかる程だった。そうして去っていく客の肩合いから、漸く店主が背伸びをして顔を出した。

「そこの後ろに居るデカい人は? お客さん?」

 顔を出したのはまだあどけなさの残る少年だった。くるくるとカールした短髪にそばかすをちりばめた顔。そこには如何にも商売人と言った風な笑顔が張り付いている。

「それ酒なの?」

 少年の後ろには白い液体が入ったボトルが何本も置いてあり、タケルはそれを指さしてぶっきらぼうに言った。

「ああ、もちろん酒だよ! 羊の乳から作った酒で、優しい甘味にほのかな炭酸、栄養豊富でアルコール低め! 要するに、めちゃくちゃ体に良んだ!」

「金なくても買えるの?」

「大丈夫! 外から来る人は皆持ってないからね! あ、でもね……」

 少年はそれまで広げていた大げさな笑顔を一瞬にして仕舞い込み、タケルをまじまじと見上げる。テントの中から確認できるあらゆる方向から観察した後で、また笑顔を爆発させた。

「お兄さん、十八歳だね? じゃあ駄目!」

「え、顔だけでそんな事分かんのかよ!」

「分かるよー! 法律違反するとここで商売できなくなるから、売れないんだ。そっちのお兄さんかお姉さんに買ってもらって、ちょびっと舐めさせてもらってよ。って事で、お兄さん、お姉さん、飲んでみる?」

 少年はリョウヘイとカエデにカップを差し出す。二人は複雑な面持ちでそれを受け取った。

「顔だけで二十歳以上か分かるの? 俺達そんなに老けて見える?」

「……正直、些か不快です」

 少年は二人に料金表を見せながら笑う。料金表には一杯百円、または放牧の手伝いと書かれている。

「老けてなんかないよ! 老けてるって言うのは三十路以上! お兄さんは……二十五! お姉さんは……」

「そこまでで結構」

 カエデは少年の言葉を鋭く断ち切り、テントのカウンターに硬貨を数枚置いた。鈍い色の硬貨を見て、リョウヘイは料金表の放牧の手伝いと言う部分を示す。

「俺、ここの金持ってねえんだけど。放牧の手伝いって何?」

「読んで字の如く、放牧の手伝いさ! この近くで羊を飼ってるんだ。この酒も俺の羊から搾った乳で作ってるんだ」

「まだてめえの羊じゃあねえだろが!」

 そこに、テントの奥に沈む暗がりからしわがれた老人の声が飛び込んだ。少年はまたも一瞬にして笑顔を消し去り、背後を振り返る。

「細けえ事いちいち突っかかるんじゃねえよ、じいさん!」

 それまで客に向けていた明るい声とは一変し、少年はどすのきいた声で言った。

「細かくねえ! 大事な権利問題だって言ってんだろ!」

「うるせえよ! 今接客してんだろ!」

 商売に戻った少年はまた笑顔を広げた。

「すみませんね! 俺のじいさんなの! 俺が飼ってるじいさんじゃなくて、俺の本当のじいさん! すげえ長生きでしょ! じいさんが長生きしてんのも、この酒のおかげだよ!」

「そ、そうなんだ……」

 リョウヘイはどこか気まずさを感じながらも羊乳酒を口に運ぶ。

「どう? 美味いでしょ?」

 少年はカウンターに身を乗り出す勢いでリョウヘイの反応を待っていた。

「うん。初めて飲んだけど美味いよ。ちょっと酸味があるけど、甘味があるからちょうど良い気がする。この微炭酸なのも面白いな」

「そうでしょ! お姉さんは?」

「はい。とてもまろやかでアルコールも優しいですし、飲み易いです」

「でしょ? じゃあ二人は舐めさせもらってね。二十歳過ぎたらまた買いに来てよ」

 リョウヘイはカップに一口分残った酒をタケルに差し出した。

「はい、あげる」

「どうも」

 まだ納得がいかない様子のタケルだが、リョウヘイが残した一口を渋々口に垂らした。それを見たカエデがカイを振り返るが、カイはカップが差し出される前に手でそれを制す。

「俺は要らない」

「せっかくなので飲んでみては? 美味しいですよ、カイ」

「乳と名の付くものは好きじゃないんだ。白い飲み物は基本的に飲まない」

「そうですか、残念ですね」

 カエデは最後の一口を飲み干した。

「どうだ、美味いだろ? ここの地下で作ってんだ。今日こいつに作り方の最後の工程を教えたところさ。だから明日の朝には、俺は冷たくなってそこら辺の道端に転がってんだろうよ」

「そうそう。じいさんは遂に死期を悟って俺に酒の作り方を全部教えたって訳だ。そんな事はどうでも良いとして、お兄さん、手伝いしてくれる?」

 老人の話をあっさり切り上げた少年はリョウヘイを見た。

「ああ、やるぜ。ただ、明日の朝七時にはここを出ないといけないから、それまでにできる事で頼むよ」

「そっか、分かった。じゃあ、ちょうど店じまいの時間だから荷物の片付けと運ぶのを手伝ってよ。あと、羊を小屋に入れるのもね」

「分かった」

「他の人達は居住区に泊まるの? 風呂とか泊まるのはこっちで良いけど、良かったら夕飯食べない? 昨日死んだ羊が居て、そいつの肉がまだ残ってるんだ。冷凍しとこうとも思ったんだけど、新鮮な内に食べた方が美味いから。お代はもらうけど、どうする?」

「行く!」

「お代による」

 タケルとカイが殆ど同時に返答した。少年はタケルに微笑み、カイにも営業用の笑顔を向けて説明する。

「お代はね、どうしようかなー。そうだな、熊よけ置くの手伝ってよ。昨日死んだ羊ってのも、熊に襲われちゃったんだ。ここは一応市街地っちゃあ市街地だけど、実際のところ自然の中だろ? それが良いところでもあるんだけど、たまに熊が出るんだよね」

「北海道の熊ってデカくて凶暴な奴だろ?」

 少年はタケルに頷いて天井に向かって手を伸ばす。

「すげえデカいよ。そのくせ物凄く速く走れるんだ。昨日は猟銃も使ってなんとか追っ払ったけど、そろそろ熊よけを新しくしないといけないかも。明日の朝早くやろうと思うけど、良い?」

「良いぜ。羊の肉を食ってみたいし」

 カイは少年の出す条件に納得して頷いた。熊よけと言う物がどう言う物か想像もできなかったが、元々この少年が設置していたのなら運ぶのも難しいような巨大なものではないのだろう。

「お姉さんも手伝ってくれる? と言うか、お姉さん自衛隊の人だよね?」

「はい。カイがやるのでしたら、私も同行します」

「じゃあ決まりね! さっそく店じまいだ!」

 すると少年は店の裏側に向かって声を張った。先ほどの老人が入って行った方だ。

「じいさん! 帰るぞ!」

 返事はないが、少年はさっさと金庫を片付け始めた。そこに暗がりから老人が現れる。枯れ枝のような手には大きな鍵が握られていた。

「カズキ、鍵持っとけ」

 老人は乱暴に言って少年の手に大きな鍵を押し付ける。カズキと呼ばれた少年はそれをポシェットに仕舞って片付けを続けた。

 テントの下に広げられていたボトルやカップがすっかり片付き、全てリヤカーの荷台に収まった。テント自体は店の位置取りのため、常設しているようだった。

「じゃあ、お兄さん、これ引いてくれる?」

 リョウヘイはリヤカーの持ち手を取って引く態勢に入るが、一つ疑問があった。

「近くって言ってたけど、これでどこまで行くの?」

「すぐそこだよ。昔、この近くに大学の植物園があったんだ。今はそこで俺が羊を育ててんの」

「まだおめえの羊じゃねえぞ!」

 そう叫んだのはリヤカーの荷台に乗り込んだ老人だった。

「……じいさん乗ってるぞ」

 荷台を示すリョウヘイに、カズキは溜息混じりに頷く。

「いつもこうなんだ。歩くのも億劫なんだよ。悪いけど、一緒に乗せてやって。そうじゃなきゃうるさいから」

「そ、そうなんだ」

 リョウヘイがリヤカーを引き、先を行く少年の後に続いた。その後ろから三人が付いて行く。

 駅の外はうっすら暗くなり始めていた。少し前から出始めた霧のせいもあり、余計に暗く感じる。カイはふと空を見上げた、薄暗くなり始めた東の空に、一点の星が見えた。だがその光も、黒い霧が薄く幕を張って濁らせている。北海道に来てからと言うもの、本島では見られない雄大な自然や広々とした風景が印象的な反面、必ずと言って良いほど付きまとう霧が気になっていた。特に居住区のように地底人が多く居る場所に来るとそれが一層目立つのだ。

「こんなに広い場所なのに、どこに行っても霧があるな」

 カイが独り言のようにぼやくと、リヤカーの荷台に乗っている老人が振り返った。

「昔と比べたら驚くぞ、兄ちゃん。昔は見渡す限りの美しい大自然でな、霧なんてのは風に乗ってどこへやらって程度だったんだ。だが徐々に増え始め、戦争が始まってからは前が見えなくなるような日も増えた。まったく、どうなってんだか」

 見るからにしぼんだ風船のような老人に、カイはかねてから抱いていた疑問をぶつける。

「じいさん、あんたいくつなんだ」

「そうさな、確か今年で八十だ!」

「八十!? よく生きてんな!」

 声を上げて驚くタケル。今時八十まで生きる人間など滅多に居ない。まさしく天然記念物だ。その驚きをすかさず拾い上げたカズキが先頭から元気な声を投げて来た。

「さっき言ったでしょ? あの酒を飲んでるおかげだって!」

「ああ、そうだ。俺はガキの頃からあの酒を朝と夕に一杯ずつ飲んでんだ。勿論、好きな時にも飲むがな」

 カズキと老人の意見が初めて合致したようだ。

「ガキの頃から飲んでんじゃん!」

 タケルは隣を歩くカイを覗き込む。カイはそれを無視して歩き続けた。

 駅の周辺は広い道が多く、大抵は整備されている。だが一度側道に入れば草木が生い茂り、アスファルトは割れて役に立たなくなっていた。そんな街を進んで行くと、少年が進む先に一段と自然が深い場所が見えて来た。

 そこは周辺の野性的な自然ではなく、どことなく手入れされた公園のようだった。遊歩道があり、その周囲の木々も伸び放題と言う訳ではない。雑草も生えてはいるが、その辺の道のように伸びきったものはない。花も植わっていて池などもあり、言うなれば廃墟に囲まれた庭園だった。

「ここが羊を飼ってる場所。きれいでしょ? 昔はもっときれいだったらしいよ。これでも俺が手入れしてるから周りに比べれば良いと思うけど」

「俺もやってんだろが!」

「はいはい、分かってるよ!」

 後ろから飛んでくる怒号を受け流し、カズキは遊歩道を奥へと進んで行く。この旧植物園は周囲を金網付きの柵で囲まれていた。羊が外へ出ないようにしているようだ。

 木々が風にそよぐ音を聞きながら遊歩道を進んで行くと、薄暗い中に白っぽい動物が群れで草を食んでいるのが見えて来た。カイにとっては生まれて初めて見る羊だった。

「じゃあ、お兄さん、このリヤカーをあの建物の隣にあるガレージに置いてきてよ。置いたらまたこっちに戻って来て。羊を小屋に戻すからさ」

 カズキは遊歩道の先にある木造の洋館を示した。かなり古い建物だが、木造建築としては驚くべき事に現存している。鉄筋コンクリートやレンガ、石などと違い、木造建築はより高頻度で補修や改築を要するため、霧が出る以前の建物は殆どが残っていない。だが、この旧植物園には洋館が一つだけ残されていたのだ。どうやらカズキと老人の住居のようだった。

 リョウヘイは言われた通り、洋館の隣にある木造の大きなガレージの扉を開き、中にリヤカーを置いた。

「じいさん、大丈夫?」

 老人が降りるのに手を差し出すと、老人は目を丸くしてリョウヘイを見る。

「兄ちゃん、あんた本当に地上で生きられる人間なのか? 大丈夫かなんざ生まれて初めて訊かれたぞ。実の孫でさえあの有り様だ!」

「ランド・ウォーカーの事か? そうだけど。見ての通り死んでねえじゃん」

 老人はリョウヘイの手を取ってリヤカーの荷台から降りる。その手は枯れ枝のように見えたが、握ってみると外見より頑丈そうだった。

「ったく、どっから間違えたんだかな! うちの馬鹿息子も兄ちゃんみたいに育てられりゃあ良かったよ!」

「そう言えば、あの子の両親は?」

「さあな。母親は知らねえ。馬鹿息子がどっかの女に産ませたガキだ。息子は、羊は退屈だとか言って戦争に行ったよ。それきり帰って来ねえ。どっかで死んだんだろ」

「じゃあ、じいさんがあの子を育てたのか?」

 老人はガレージの外を見やって深々と頷いた。

「そうとも! あの可愛くねえガキをここまで育てた! 羊の飼い方、毛の刈り方、肉の取り方、乳の搾り方、酒の作り方、全部教えた!」

「へえ、すげえな。じゃあ、じいさんもやっと楽して暮らせる訳だ」

「そんな訳ねえだろ!」

「え、何で?」

 何を話すにも圧が強い老人。リョウヘイは無意識に数歩距離を取っていた。

「俺が知る事は全部カズキに教えた。それは俺がこれまでやって来た事を無かった事にしたくねえからだ! だがな、あのガキは俺の事をお荷物と思ってやがる。知る事だけ知ったらいつ殺されるか分からねえ」

「さすがにそれはねえだろ? 酒だって二十歳以上にしか売らない子だ。刑法を破るとは思えねえよ」

「そうだと良いけどな! ここは旭川から逃げて来た奴らがそこらじゅうで野垂れ死んでんだ。その中に転がってりゃあ、誰も気付かねえからよ!」

 旭川と言う地名に、リョウヘイは自然と声を落とす。

「なあ、じいさん。旭川から来る奴に会う事多いの?」

「まあな! あそこで商売してっとしょっちゅう会うぜ。戦争が始まってからはなおさらだ! あそこはでっけえ地下墓地みてえになっちまったらしいからな!」

「……じいさんさ、二年くらい前に旭川から竹内って奴が来なかった?」

 老人はどうにか記憶を手繰っているようで、ただでさえしわだらけの顔を更にしぼませて唸っていた。だが、暫くしてぱっと目を開く。

「そう言やあ、そんな名前の奴が居たな。使用期限ぎりぎりの防護服着て転がり込んできた。フィルターが殆どおしゃかになってやがった。ありゃあ、あと一歩遅ければ死んでたな!」

「どんな奴だった?」

「男だったよ。背が高くて、頑丈そうだったな。旭川じゃあ、それなりに有名な奴らしかったぞ。東京に行くなんて言ってやがった。地上も歩けねえのに無理だよな? でも、話してみるとさっぱりした良い奴だった気がするぜ。まあ、なんせもう二年も前の話だから、確かじゃねえけどな」

「じいさん、もっと外見の事教えてくれ。何歳くらいだった? 顔は? きりっとした感じだったか?」

「え? うーん、若く……」

「リョウヘイさん」

 その時、ガレージの外から鈴の鳴るような声が舞い込んだ。入口にカエデが立っていた。リョウヘイはいつもの笑顔で振り返る。

「うん?」

「遅いので様子を見に行ってくれと言われまして。大丈夫ですか?」

「ごめん、ちょっとじいさんと話し込んじまった。今行くよ」

 老人を一人家に残し、リョウヘイはカエデと共に羊たちを小屋へ戻す手伝いに出た。


 函館居住区の一角にある集合住宅の空室が、竹内と菊池にそれぞれ提供された。竹内は着替えなど必要最低限の生活用品だけを持ち込み、部屋の隅に置いて窓を開ける。ここは単身者向けの部屋なので寝食はこの一室でするほかない。どのみち今住んでいる部屋も似たようなものなので、特に不満はなかった。

 窓の外には金属製の柵があり、転落防止とちょっとした物を干す役割を果たしている。竹内はその柵にもたれて頬杖をついた。この部屋は最上階の一階下にあり、居住区を一望できる場所だった。大して良い景観でもないが、竹内はただぼんやりと行き交う人やそびえる集合住宅を眺めていた。

 すると、隣の部屋の窓が開く音がした。そちらに目を向けると、菊池が同じように窓から顔を出す。

「竹内さん、もう荷物片付けたんですか」

「いや、片付けるほどの荷物もない。暇だから居住区を眺めてるんだ」

「暇、か。確かに暇ですね。でも、正直言ってここ数年は緊張する事が多かったから、こうして閉鎖された場所にただ居るだけと言うのも良いな、なんて思ってしまいます」

 菊池は賑やかな居住区の往来を見下ろしていた。

「今でも戦争は続いてる。それでもそう思えるか?」

 竹内の言葉に、菊池は硬い表情で振り向く。竹内は鋭い目でじっと居住区を眺めていた。

「旭川は、どんな場所でしたか」

「戦争が始まる前は良い場所だった。稀に樺太から大陸の物が持ち込まれたりもしてな。あの頃は、少ないながらもまだロシア人が混ざっててな。とても開けた、豊かな居住区だった」

 菊池はそんな竹内の横顔を見ながらかつての旭川を想像した。話に聞く限りでは旭川は樺太へ攻め込む部隊への物資や食料の供給で疲弊し、地底人では餓死者が多く出たと言う。

「俺はロシア人を見た事ないんです。どんな人種なんですか」

「一言にロシア人と言っても色々な人種がある。アジア系に近いのもあれば、ヨーロッパの白人に近いのもある。樺太辺りにはアジア系の少数民族も居たが、彼らは霧が出た当初、逃げ場が提供されずに殆ど死滅したらしい。旭川に来ていたのもだいたい白人だ」

「白人? 白いんですか」

「ああ。肌が白くて鼻が高く、眼窩がくぼんでいて目が大きい。髪の色は俺達のように黒ばかりではなく、金や茶、赤毛も居る。目の色もそうだ。青や緑なんかも居る」

 菊池は初めて聞く白人の姿に目を丸くして聞いていた。

「驚いたな。そんな人間が居るのか。俺は田舎の小さな居住区で育ったので、そうした事にはとことん無知でして……」

「旭川にはロシア人と日本人の間にできた子供も稀に居た。その中の一人がレイだ」

 不意に飛び出した名前に、菊池は息を呑んだ。これまでのどかに感じていた空気が一気に緊張を帯びる。

「レイは旭川出身なんですか」

「そう聞いている。大規模な居住区だから、旭川に居た頃も実際に会った事はないがな。俺はリョウヘイがレイを狙うとすれば、千島列島か旭川だろうと思う」

「旭川? でもレイは……」

 竹内は漸く菊池の方を振り返って言う。

「自衛隊にも休暇があるそうだ。ずっと前線で戦い続けるのは負担が大きいからな。レイが休暇を故郷の旭川で過ごすとしたら、またとない機会かもしれない」

「確かに、そうなれば好機ですね。でも、レイは旭川が窮地に陥っても構わず戦争を続けた男ですよ。休暇だからと言ってそんな故郷に帰りますかね。下手したら命を狙われかねないのに」

「そうだな。少なくとも旭川の人間に、レイを良く思っている奴は居ない。ランド・ウォーカー達がどう思っているかは知らないが」

 再び眼下の往来に視線を落とす竹内。そんな竹内の横顔を、菊池は黙って眺めていた。この竹内と言う男は非常に芯が強く、よく研がれた刃物のような鋭さを持っている。そのせいで敬遠する者も居るが、菊池は逆に興味を持っていた。あの旭川から東京を目指して出て来た人間だ。ランド・ウォーカーでもないのに、命の保障が何もない、先の見えない旅に自ら踏み切った。

「竹内さん」

「うん?」

「竹内さんはどうしてそんなに強く居られるんですか」

 竹内は小さく首を傾げて菊池を見た。

「あ、す、すみません。俺は……洞爺湖の近くにあった小さな居住区から出て来たんですが、別に大きな志があった訳じゃないんです。ただ居住区の存続が難しくなって、どうにか湾を渡って函館まで来たってだけで。でも、竹内さんは旭川の窮状を訴えるために一人で東京を目指して来たんですよね? 俺だったら、そんな事できないと思って」

 竹内は小さく息を吐いて僅かに微笑んだ。

「先の事をあまり考えないってだけだ。やろうと思ったらやる。それだけで、別に凄い事なんか何もねえよ」

「そうですか……」

 竹内の黒い瞳に夕刻を演出する暖色の照明が映る。菊池はやはりその横顔を、ただ何も言わずに見つめていた。


 羊を小屋に収めたカズキとリョウヘイは庭の東屋で待つカイ達に合流する。その道中、カズキは洋館から変わった形をした鉄製の鍋のようなものを持って来ていた。鍋と言っても浅く、フライパンのように丸いが、中央が山になっていてでこぼことした筋が山の中心から下の溝に向かって放射線状に延びている。

「これで羊の肉を焼くよ! そう、これが世に言うジンギスカンだ!」

 東屋の中央にあるテーブルに大きな七輪を置き、その上に持って来た鉄鍋を置く。七輪の中には炭が入っていて、火を点けると茜色が差し込む中に明るい光が灯った。

「肉と野菜持って来るから、火を見ててね」

 そう言い残してカズキは洋館の方へ駆けて行く。

 タケルは七輪の空気孔を開けて火力を強くする。そんな中、カイが向かいに座るリョウヘイに言った。

「羊って毛が取れる動物だよな? 思ってたより細身なんだな」

「俺も想像と違ったからカズキに訊いたんだ。なんでも夏になる前に毛を刈るらしい。今の羊は刈った後だから細身なんだってよ」

「へえ。冬の羊見てみたいな」

「ふわふわで可愛いですよ」

 そう言って微笑むカエデ。この女からこんなにも平穏な返答があると思わず、カイはリョウヘイの隣に座るカエデを不可思議そうに見た。

「どうかしました?」

「いや、別に」

 カエデが逆に首を傾げる中、カズキの元気な声が響いて来た。

「お待たせー!」

 広い木製のテーブルに、きれいに切った野菜がこれでもかと盛られた盆と、鮮やかな赤が美しい肉の乗った盆が置かれた。肉もきれいにスライスされている。東屋の天井には照明が下がっていて、カズキはそのスイッチを押して手元を明るくした。

「鍋は温まった?」

「ああ、たぶん」

 タケルは鍋の上に手をかざしてみた。手のひらに立ち上る熱が伝わってくる。火力を上げたので、だいぶ温まっているようだった。

「じゃあ肉と野菜を焼くよ! 肉はこの山になってる方に置くんだ。野菜は下の溝になってる方ね。肉の油が落ちて野菜も美味く焼けるんだよ!」

 カズキはそれぞれに皿と箸を配り、生肉用のトングまで出した。

「めちゃくちゃ準備が良いな。やっぱ羊けっこう食うの?」

 肉が焼ける音に笑みが隠しきれないタケルだが、同じく楽しそうに鍋を見つめるカズキに訊いた。カズキは鍋に置かれた肉をじっと見たまま返す。

「いや、滅多に食べないよ。俺の羊は食用に育ててないからね。この肉も食用の羊と比べたら淡白だと思うよ。たまたま死んだ時に食べるだけ」

「食用にしねえの? 肉も売れるんだろ?」

「俺、羊が好きなんだよね」

 脂が跳ね始めた肉を裏返しながらカズキは続ける。明るい照明のせいか、その目はきらきらと輝いて見えた。

「あいつら、可愛いんだ。冬なんか特にもこもこで、あったかくて。世話すんの大変な時もあるけど、面倒な事も言わないし、ただ黙って草食べてんの見てると、なんか癒されるんだよね」

 そんなカズキに、カイはふと浮かんだ問いを投げる。

「じゃあ、羊が死んだら悲しいのか?」

 その問いに、カズキはカイの顔を見て少しの間考えていた。漸く口を開くと、自信のない声で細々と言う。

「分かんないよ。悲しいのかな? でも、なんか……大変なものを見ちゃったような気持ちにはなるよ。何て言えば良いのかな……。お兄さんはそう言う時無いの?」

「悲しい……」

 カイの脳裏に福島で死んだ海の顔が浮かんだ。そして函館で死んだ叶の声が蘇った。だが、ただそれだけだった。

「……分からない」

「でしょ? そんな感じ。あ! 肉焼けたよ!」

 カズキは焼けた肉を真っ先に客へ配った。そして塩とタレの瓶をそれぞれ取り出す。

「こいつ、まだ若い羊だけどラムほどじゃないから、匂いが苦手な人はタレの方が良いかも。気にならない人は塩でも充分美味しいよ」

 タケルが真っ先に塩へ手を伸ばした。猪だろうが鹿だろうが構わず食べるこの男には、羊肉の匂いなど無いも同然だった。良くも悪くも、肉は全て肉でしかないのだ。

 鍋の筋に沿ってできた焼き目の上に、滲み出る脂が輝いている。タケルは肉に少し塩を付けて一口で頬張った。

「うん! 美味い!」

 その一言に、カズキは嬉しそうに笑って自分も箸を進める。

 カイも羊の肉と言う物を食べてみる事にした。まずは茶色いとろみのあるタレから行く。タレをつけて、良い焼き加減の肉を一口かじった。まず、タレの甘味が口の中に広がった。醤油ベースでリンゴや玉ねぎの甘みがあるタレは肉の脂によく絡む。肉は少し固めだったが気になるほどではなく、噛めば噛むほど深い味わいが染み出て来た。確かに、独特の風味がする。獣臭さもあるが、それとはまた別の匂いだった。

「どう、お兄さん?」

「……不思議な匂いだ。青臭いと言うか……爽やかと言うか……」

 するとカズキは大いに頷いて満面に笑みを広げる。

「気付いた? 俺の羊はね、ハーブも食べてんの! 昔、ここの植物園に植わってたハーブがそこら中に増殖しちゃっててね、あいつら構わず何でも食べるから、肉からハーブの匂いがすんの!」

「ハーブの香りがする羊肉、おしゃれですね」

 カエデも見かけによらず何でも食べる性質のようで、驚くべきスピードで肉と野菜を平らげていく。自衛隊仕込みなのだろう。

 そんな中、リョウヘイだけがある事に気が付いた。

「なあ、じいさんは?」

「じいさんはね、夜は飯食わないんだ。その代わり酒飲んでんの。向こうにあるぼろ屋で晩酌してるよ」

「へえ。で、寝る時に戻って来んの?」

「来る時もあるし、来ない時もあるよ」

 カズキはそんな事よりジンギスカンを食べるのに必死な様子だった。リョウヘイはカズキが指さした方の暗がりをちらと見て、再び箸を進める。あの老人は竹内の事を知っていた。リョウヘイが陸自の差し金と睨んでいる男の一人だ。

 リョウヘイは食事が済んだらそのぼろ屋を訪ねてみようと思った。

 賑やかな時間があっと言う間に過ぎ、鍋や七輪をすっかり片付けたカズキが四人を居住区まで送ると言ってどこからか猟銃を持って出て来たが、カエデがそれを丁重に断った。

「銃でしたら私も持っていますし、子供を一人で返す訳にいきませんので、送りは結構です」

「そう? じゃあ、気を付けて帰ってね。暗くなると特に熊とか猪とか出るから」

 植物園の一角でカズキが金網を張った門を開き、居住区へ向かおうとカイが一歩踏み出した時、リョウヘイが思い出したように声を上げた。

「やっぱ俺、帰る前にじいさんの顔一回見てくるわ」

 思いがけない発言に、カイはリョウヘイを怪訝そうに振り返る。

「何でだよ」

「いや、酒飲み過ぎてぶっ倒れてねえかと思ってさ」

 するとそれを聞いたカズキが楽しそうに腹を抱えて笑った。

「ははは! 大丈夫だよ、お兄さん! 俺のじいさん、なんだか知らないけど酒にだけはめっぽう強いんだ! きっと子供の頃から飲んでるからだね! 今までどんなに飲んでもぶっ倒れた事なんて一度もないよ! それに、じいさん気難しいから、晩酌中に人が来るとすげえ怒って面倒なんだ。放っといた方が良いよ!」

「……そう? じゃあ、そうするか」

 ここで無理に老人と接触するのも不自然だ。特にカエデが居る今、慎重に行動しなければならない。リョウヘイは大人しく引き下がって居住区へ戻る事にした。


 札幌の居住区は全てにおいて申し分ない場所だった。風呂は温泉ではなかったが、地下にあるとは思えないほど立派な大浴場で、隅々まで清掃されていた。寝床は素泊まりの部屋を借りたが、そこも東京でさえ滅多に見ないような立派な洋室だった。

 カイとタケルは二人用の部屋を借りて、いつも通りタケルはさっさと眠りに就いて幸せな寝息を立てている。一方、カイはベッドサイドテーブルを挟んだ向かいのベッドで暗い天井を見上げていた。

 どうにも眠れない。風呂も部屋も食事も完璧だった。だが、逆にそれが違和感になって落ち着かないのだ。こういう時は少し外に出て気分を変えてから戻ると、案外すぐに眠れる。そこでカイは一人静かに部屋を出て居住区の中を歩く事にした。

 駅を改装したこの札幌居住区は、東京や福島のような地下の巨大空間とは全く違う作りだった。巨大な地下空間に慣れていたカイは、その天井の低さや通路の狭さに多少なりとも窮屈さを覚える。かつて店舗が入っていたであろうスペースは個人用シェルターがびっしり収められていて、そこ自体が一つの集合住宅と化している。

 通路には常夜灯が点いていて、さながら夜の街頭だった。そんな通路を歩いていると、奥に人影が見えた。時間はすっかり夜中だ。こんな時間に出歩く人間もそうそう居ない。

 カイは好奇心に駆られてその人影を早足で追った。相手は逃げるでもなく、ただ規則正しく歩みを進めている。

 通路の突き当り手前で影は角を曲がった。カイもそれに続いて曲がるが、角を折れた途端、何かに顔面からぶつかった。

「こんばんは、カイ」

「……カエデ?」

 常夜灯の心もとない明かりの下、カイは自分がぶつかったのがカエデだと知る。いつものように緑色の迷彩服に身を包んだカエデが楽しそうに微笑んでいた。

「お前、こんな時間に何してんだよ」

「それはこちらの台詞ですよ、カイ。こんな時間に部屋を出ていたら、タケルに怒られるのでは?」

「あの馬鹿にそんな権利はない。で、何してんだよ」

 カエデは眼鏡の奥で目を細め、カイの頬に手を触れた。

「お風呂を借りて、部屋に戻るところです」

 カイは咄嗟に身を引いてカエデの手から離れる。カエデは一瞬口角を上げて、何も言わずに通路の奥へ消えていった。

「……何しやがった」

 風呂と言うのは嘘だ。カエデからは石鹸の匂いもシャンプーの匂いもしなかった。カイの鼻についたのは、あの爽やかなハーブの匂いだった。


 次の日の朝、カイ達四人はカズキとの約束通り朝早くあの旧植物園に来ていた。そこには既に準備を終えたカズキが太陽のような笑顔で待ち構えていた。

「おはよう! 本当に来てくれたんだね! もう準備はしてあるよ!」

 カズキは自分の後ろに置いてあるリヤカーを見せる。その荷台には大きなペットボトルのような容器がいくつも置いてあった。

「これが熊よけだよ! 強烈な唐辛子の臭いがするんだ。熊はこれを嫌がるから、金網の近くに置いて行くんだよ。今回は古いものと交換するから、前のボトルをどかしてそこに置いて行ってね!」

 そう言うカズキは金網と針金、ペンチを持っていた。

「お前は何すんの?」

 カズキが持つ道具一式を見てタケルが言った。カズキは金網を見せながらどこか遠くを指さす。

「前に熊が空けた穴を直すの。昨日食べた羊はその穴のせいで殺されたからね。じゃあ、皆はボトルの交換を宜しくね! 俺は穴を直してくるから。終わったらリヤカーをまたここに持って来といて」

 そう言ってカズキは植物園の奥へ向かった。

 残された四人は早速言われた通りリヤカーを引きながら植物園の外周を回って行く。カイは強烈な刺激臭のするボトルを古いものと置き換えながら、ふと足元の草に爽やかな匂いのするものが混ざっている事に気が付いた。どうやら植物園で増殖したハーブが外まで伸びているようだった。

 ふと、金網の向こうを見ると、昨日カズキが言っていた老人のぼろ屋と思しき建物があった。その裏手までハーブが広がっている。そして、カイは建物の裏手にある薪割り台の異変に気が付いた。よく目を凝らさなければ見落とすところだったが、生い茂るハーブに埋もれそうな薪割り台には、側面に黒っぽい染みができている。カイはその染みが血液だと直感した。しかもかなりの量だ。

「どうかしましたか、カイ」

 突然耳元で聞こえた声に、カイは咄嗟にその場から数歩離れた。やはりカエデだ。眼鏡の下の冷たい目は、叶を見下ろした時のように薪割り台の染みを見ている。

「お前……昨日の夜……」

「カイ、私の仕事については深入りしない事をお勧めします」

「……まさか、じいさんを……」

 カエデはカイを振り返り、そっと微笑んで言った。

「私は貴方が好きなのですよ、カイ。解ってくれますね?」

 カイはそれ以上の言葉を呑み込んでその場を離れた。カエデが何故あの老人を手に懸ける必要があったのか皆目見当がつかなかったが、深入りは自分の命に関わると思った。

 熊よけの設置を終えた四人はリヤカーを植物園の入口に戻した。すると奥からカズキが駆けて来て、息を荒げながらリヤカーを引き取る。

「はあ……、お疲れ様! 七時の出発には間に合うね!」

 相変わらず商売人の笑顔を張り付けた少年に、リョウヘイは昨晩からずっと気になっていた事を訊く。

「じいさん大丈夫だった?」

「ああ、じいさん? 結局昨日は戻って来なかったよ。今朝もまだ見てないなー。いつもべらぼうに早起きなんだけどね! もしかしたら本当にどっかで倒れてるかも!」

「探した方が良いんじゃねえの?」

 心配そうにするリョウヘイに、カズキは眩しいほどの笑顔で言った。

「別に良いじゃん! 遂に羊を全部渡す気になったんだよ! じいさんはお役御免ってこと!」

 リョウヘイは一瞬カエデの横顔を覗き見た。カエデは眉一つ動かさず、氷のように澄んだ瞳で少年を見ている。

 先を越された。そう直感したリョウヘイは、カエデの視線を追うようにして無邪気な笑顔を浮かべる少年を見やった。


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