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ランド・ウォーカー  作者: 紀一
日本
13/19

地上の魚

二股温泉を出た一行は、札幌へ向かう道中で謎の廃墟に立ち寄った。カエデはそこで所用があると言い、どうやら青函トンネルに潜入させていた部下達の報告を受けているようだった。カイとタケルは廃墟で出会ったアイヌの少女に導かれ、世界三大珍味に手を伸ばす。

13 地上の魚


 二股温泉の大広間で、カイは目の前に鎮座する塩茹でされた毛ガニと向き合っていた。

 この大広間はテーブルと座布団が整然と並ぶ座敷で、先に風呂から上がった自衛官達は、女性隊員が出てくるまでの間はそこで休憩していた。そんな大広間の隅で、カイ、タケル、リョウヘイは三人そろって一つのテーブルを囲んでいる。

 カイが手を出せずにじっとカニと睨み合っていると、それをリョウヘイが取ってハサミで解体し始めた。

「女性陣が出るまでに食わなきゃいけねえんだろ? さっさと剥いちまおう」

 手際よくカニの殻を取り去っていくリョウヘイ。その鮮やかな手さばきにタケルは目を輝かせながら見入っていた。

「へえ、カニってそうやって食うのか!」

「カニ食った事ねえの?」

「ない。と言うか、実物を見るのは今が生まれて初めてだ」

「そうなの?」

 リョウヘイは目を丸くしてタケルを見る。だが、その間もハサミを動かす手は止まらなかった。

「沢蟹しか見た事ねえな」

 生まれて初めて見る毛ガニが解体されていくのを興味深そうに眺めながら、カイがぼそりと言う。その目はどこか期待に満ちていた。

「マジかよ。人生損してんな」

 驚きを隠せないリョウヘイに、カイはうっすらと笑った。

「カニにかかわらず、損してるよ」

 リョウヘイは手際よくカニを解体しながら、何も言わずに笑い返す。それからハサミを置くと、きれいに捌かれた毛ガニを二人の方へ寄越した。

「ほら、食ってみろよ」

 カイは皿の上のカニに、そっと手を伸ばす。細く尖った足の先は殻が残っていて、そこを持ってふっくらとした足を口へ運ぶ。まだほのかに温かい身は、思っていた以上に柔らかい。口の中でよく味わうほど、これまで食べた魚介とは全く違う甘味が広がった。そして海の臭みが無く、逆に香ばしいような独特の香りに気が付く。

「どう?」

 頬杖をついて二人を眺めるリョウヘイ。その問いにカイは目を輝かせて小さく頷いた。

「美味い」

 その隣ではタケルがカイの倍速でカニを流し込んでいる。カイも決して小柄ではないが、タケルの体格が良すぎて実物以上に華奢に見える。それだけの体を保つのだから、タケルの食欲が旺盛なのは頷けた。

 リョウヘイはみるみるカニを平らげていくタケルに、一つ提案をする。

「俺はね、酢をつけて食うのも好きだよ」

「酢? これに酢をつけて食うの?」

 カニを頬張りながら漸く手を止めたタケルに、リョウヘイは酢を入れた小皿を差し出した。

「やってみな」

 カイとタケルは殆ど同時に小皿の酢へカニをつけた。そして酢が垂れないよう、素早く口に含む。何もつけずに食べても充分美味しいが、酢をつける事によってカニの甘味に切れが加わり、旨味が更に引き立った。

「本当だ、すげえ美味い!」

「だろ?」

 満面に笑みを広げて豪快にカニにかぶり付くタケル。そんな姿を楽しそうに眺めるリョウヘイだったが、タケルの隣で黙々と食べ続けているカイを見てしみじみと息を吐く。

「カイは? 美味い?」

「ああ、美味い」

「そっか。良かったよ。なんかさ、カイを見てると自分のガキの頃を思い出すな」

 ガキと言う言葉にカイは手を止めてリョウヘイを睨む。

「俺はガキじゃねえぞ。十八だ」

「あ、ごめん、ごめん。そう言う意味じゃないから」

「こいつすぐにいじけて面倒だから、下手な事言わない方が良いぞ」

 カニの合間にそう言うタケルを肘で小突き、カイは再びカニに手を伸ばす。

「お前が言動に気を遣ってたのには気付かなかったよ」

「ほら、こう言う感じ」

「なるほどね」

「そんな事はどうでも良い」

 カイは空になった皿の前に手拭きを置いて鋭い目をリョウヘイに向ける。当のリョウヘイは相変わらず頬杖をついて、タケルの背後に立てかけてある鉄パイプを見ていた。

「あんたを俺の車に乗せるのは面倒だが断れない。俺の車に乗るからには質問に正直に答えてもらう。良いな?」

「別に良いよ」

 リョウヘイは人好きのする笑顔を向けてくるが、カイの目はそれを冷たく受け流す。

「あんた、どこの居住区から来た?」

「函館」

「函館では何の仕事をしてた?」

「土木って言うのか? 居住区の拡張工事のために何年も地下で穴掘ってた」

「逮捕歴は?」

「ない」

「…………」

 カイの黒い瞳がじっとリョウヘイを見据えている。リョウヘイはただ平然とそれを見返していた。その時、広間にカエデの声が響く。

「出発準備!」

「あ、出たみたいだ。まだ何か質問は?」

 そう言って立ち上がるリョウヘイ。カイとタケルもそれに続いて腰を上げる。隊員達が次々に出て行く中、カイの声がそのざわめきを縫った。

「嘘を吐いた事はあるか」

 するとリョウヘイは楽し気に声をあげて笑う。

「ははは! 面白え質問だ! もちろん、あるよ。ランド・ウォーカーってのはそう言う生き物だ。君もそうだろ、カイ?」

「ああ、そうだ」

「それとも、俺が全て正直に話すと信じてくれてんのか? そうだったら嬉しいね」

「いや、俺にとっては質問する事に意味がある」

「ふうん、そっか。じゃあ、続きは車でしようぜ」

 隊員達に続いて広間を出て行くリョウヘイ。その背中を眺めながらカイは鉄パイプを握るタケルに言った。

「あいつ、そうとう殺してるな」

「でもよ、美味いもん食わせてくれるから良い奴なんじゃねえの?」

「お前は家畜か?」

「俺は人間だ! そんなに疑心暗鬼になっても仕方ねえだろ。とにかく、あいつに運転させて俺が助手席に乗る。お前は後部座席でそのケースを後生大事に持ってりゃ良いじゃねえか」

 そう言って出て行くタケルに続くカイ。あのリョウヘイと言う男はどうにも信用できない。カイには、あの笑顔で何かを隠しているように見えた。


 陸自の隊列は二股温泉を出て羊蹄山を望む道を東へ向かっていた。このまま進めば今日の夕方前には札幌に着くだろう。函館から出た時もカイは驚いたが、北海道は道が非常によく整備されていて、本島での苦労が嘘のようだった。

 そしてもう一つカイの関心を引いているのがリョウヘイの運転だ。一言で言えば、彼は運転が上手かった。アクセルもブレーキもとにかく穏やかで、ハンドルさばきも無理がない。それだけではなく、ブレーキを極力踏まずに惰性を利用して車間を調節するなど、燃料の消費を抑える工夫までしている。

「なあ、カイ」

 助手席ですっかりくつろいでいるタケルが不意に後部座席を振り返った。

「こんな話聞いた事あるぜ。女が好きな男の本性を知るのに一番良い方法は運転だってよ。性格が出るらしい。こうして比べてみると、確かにお前の運転も性格出てたな」

「俺も比べてみたぞ。お前の運転が最悪だ」

「二人とも運転好きじゃねえんだ?」

「せざるを得ないからしてるだけだ」

 リョウヘイはバックミラー越しに後部座席のカイを見る。カイはいつもの淡白な表情で外の景色を眺めていた。

「なあ、今度は俺が質問して良い?」

 そんなカイに声を投げると、少しして浮かない声が返って来る。

「何だよ」

「二人はどう見ても自衛官じゃねえよな。何で陸自と一緒に行動してんの?」

「俺達はこれからアメリカに行かなきゃなんねえんだよ。そのためにはまずロシアだ。何しろ船も飛行機も使えねえから」

「は? アメリカ? すげえな、それ。何でまたアメリカに?」

「原発がそろそろ限界で、それに代わるエネルギー源を得るためだ。政府からの依頼なんだよ」

「なるほど、実はお偉いさんだった訳か。じゃあ、レイにも会うんだろ? 陸自を前線で指揮してる野郎だよ。北海道じゃレイを知らない奴は居ない」

「俺は会う予定でいる。この先の援助も欲しいし」

 前の車列が速度を落とすのに合わせてリョウヘイもアクセルを離した。

「実は俺もレイに会いたいと思ってたんだ」

 ゆっくり流れる景色を見ていたカイが、シートの向こうに居るリョウヘイへ視線を向ける。

「どうして?」

「好奇心。樺太を取った野郎がどんな奴か、知りたくなったんだ」

「レイは樺太を奪還したのか?」

「政府の奴等はそう言う事教えてくれねえの? もう何か月も前の話だぞ。おかげで旭川の居住区はひでえ有り様だったらしいけどな」

「あいつらは役に立つ事は何も教えてくんねえからな! あ、皆あそこに入るぞ」

 そう言ってタケルは前の車両が入って行く建物を指さした。コンクリート製の四角い建物だ。一階建てで、さほど大きくない廃墟のように見える。建物の表には広々とした空き地があり、皆そこに車を停めていく。

「こんな廃墟に何の用だろうな」

 流れるようなハンドルさばきで正確に停車し、リョウヘイはフロントガラスの向こうにある四角い廃墟を見た。どうやらかつては店だったようで、入り口の上に殆ど読み取れなくなった看板の残骸が張り付いている。

「……ドライブイン」

「ドライブイン?」

 カイも車から降りてその看板を見上げる。かろうじて読める文字は、確かにそう書かれていた。

「ドライブインって何?」

 助手席から下りたタケルも首を傾げる。そこへ先に停まった車両からカエデがやって来た。

「我々はここで所用がありますので、あなた方は少々お待ち下さい」

「分かった」

 カイが去っていくカエデの背中を見送っていると、タケルが早速店に向かって歩き出した。カイは大きく溜息を吐いてからタケルを呼び止める。

「おい、タケル。どこ行くんだよ」

「あの店。何かあるのかと思って。暇だし、車の中に居ろとは言われてねえんだ、別に良いだろ」

「勝手に行動するなよ」

 カイの静止に応じる事なくタケルは廃墟に向かって歩いて行く。するとその後にリョウヘイも続いた。

「俺もトイレ借りようかな」

「……おい」

「カイも来いよ」

 店の手前でタケルが声を上げる。カイは仕方なくその呼び声に応えて歩き出した。

 ドライブインとは、そもそも飲食店だったようだ。廃墟の中に入ると、当時使われていたであろう机と椅子が部屋の隅に山積みになっている。その部屋の奥にはもう一つ部屋があり、そこが厨房になっていた。カイがシンクの蛇口をひねると、外観からは想像もつかないほどしっかりとした水圧で水が出て来た。

「水が通ってる」

「マジ? じゃあトイレも使えるかな」

 そう言ってホールの奥から顔を出したのはリョウヘイだ。どうやらそこにトイレがあるのだろう。

「さあ、どうだかな。よく見れば中はそれなりに掃除されてるし、まだ誰か住んでるんじゃねえか」

「カイ、こっち来てみろよ」

 タケルに呼ばれて行ってみると、大きな足の下には地下へ続く厳重な入口があった。ロックのかかった金属製の蓋が、固く閉じられている。その蓋を足で軽く叩きながらタケルが言った。

「下に居住区でもあんのかな」

「地図にはここに居住区のマークなんか無かったぞ」

「陸自の秘密基地とか?」

「秘密なのに俺達を連れて来て良いのかよ」

「じゃあ何だよ?」

 カイは頑丈な扉をよく観察する。最新の地図にないと言う事は最近できた場所ではないし、自治体が運営する居住区でもない。それに、この扉には今時珍しい鍵穴が空いている。明らかに個人用のシェルターだ。

「個人の家だろ。上の設備も掃除されてるし、水も通ってるから、ランド・ウォーカーも一緒に住んでるはずだ」

「しかもそのランド・ウォーカーは女だ」

 トイレから出て来たリョウヘイが付け加えた。

「ちゃんと流したのか」

 怪訝そうに見るカイに、リョウヘイはにこやかに返す。

「ああ、そりゃもう完璧に」

「女が居るの?」

 リョウヘイは女と聞いて目を輝かせるタケルに微笑んだ。そして深々と頷く。

「トイレに生理用品があった」

「お前さ、気色悪いな。漁ったのかよ」

「カイさ、そう言うのは本人に直接言わない方が良いよ? と言うか、漁ってねえよ。紙が無くなりそうだったから予備を出しておこうと思って棚を開けたら入ってたんだ」

「……ふうん」

「信じてないよね」

「うん」

 三人がそんな話をしていると、廃墟に一つの足音が入って来た。三人は殆ど同時に入り口を振り返る。そこには長い黒髪を背中まで垂らし、鉢巻きのようなものを頭に巻いた少女が居た。鉢巻には不思議な模様が刺繍されている。そして、少女が着ている服にも同じような模様が刺繍されていた。

「何か用?」

 少女はぶっきらぼうにそう言った。大きな目が三人の若者に警戒の眼差しを向けている。

「いや、たまたまここに立ち寄っただけだ」

「トイレ借りたよ」

 少女はカイとリョウヘイの言葉に何ら反応する事なく、三人が取り囲む地下への扉に鍵を差し込む。ちょうど船のハッチのようになっている扉は、開くと梯子を使って垂直に下りていく形なっていた。

「用が無いのなら私は仕事があるので」

「あ、ちょっと待って」

 少女は梯子を下りようとしたが、黙ってタケルを見上げた。

「この辺で何か美味いもの食える?」

「おい、まだ食うのかよ」

 カイの突っ込みなど全く気に懸けず、タケルは少女を見下ろしている。少女は少し考えていたが、小さく頷いた。

「北海道はどこへ行っても美味しいものがたくさんある。でも、ここには少し珍しいものがあるよ」

「珍しいもの? すげえ気になる。食わせてくれる?」

「……チョウに訊かないと分からない。私の物ではないから」

「チョウ?」

「ここに住んでる人」

「その人に訊いてくれる?」

「別に良いけど、変わった人だから断るかも」

「良いよ、その時は諦める」

「来て」

 少女は狭い入口から地下へ降りて行く。どうやらそのチョウと言う人物は地底人のようだ。

「タケル、ここにどれだけ居るかも分からねえんだぞ。上に出て来た時には誰も居なかったらどうすんだよ」

「じゃあいつ出発するのかカエデに訊いて来てくれよ」

「何で俺が……」

「俺、訊いて来るよ」

 そう言って歩き出したのはリョウヘイだった。廃墟を出て行くリョウヘイの背中にカイは声を投げる。

「俺達が車に居なかったら下に居るからな!」

「はいよ」


 カエデは三人にここで暫く停まる旨を伝えるなり、隊列の半分を先に札幌へ向かわせた。そして自分は部下と共に廃墟の裏手へ回る。そこには一人の若い男が待っていた。

「村井、一人ですか」

「はい」

「大松に関する報告は?」

「妻の死体を持って函館居住区へ戻ったところまでしか確認できていません」

「それ以降の動向は岩永が戻らなければ分かりませんね」

 カエデは村井の様子をじっと眺めながら考えを巡らせていた。村井はいかにも居心地が悪そうにじっと固まっている。

「函館は今どうなっていますか。外に居た隊員からの報告は?」

「はい、函館は人の出入りを厳しく制限している様子です。外部の者は中に入れず、物資だけを置いて立ち去っています。内部の者も外出制限がかかっているとの事です。大松は竹内と共に居住区へ到着したところまで確認されていますので、間違いなく中には居ると思われます」

「そうですか」

 その時、建物の陰から隊員の声が聞こえて来た。

「おい、この先は立ち入り禁止だ」

「眼鏡の姐さん居る?」

 何事かと向かってみれば、二股温泉で拾った入隊希望者が見張りの隊員に抑えられていた。

「どうしましたか」

「あ、姐さん! カイとタケルがこの建物の地下に住んでる奴から珍しい食い物をもらいたいみたいでさ、あとどのくらいここに居る?」

「珍しいもの……はあ、そうですか。十六時まではここに留まります」

「分かった、ありがとう!」

 それだけ聞くとリョウヘイはあっさり踵を返して去っていく。そこへカエデは村井を呼び寄せた。

「村井、あの男に見覚えは?」

 村井は建物の陰からリョウヘイをじっと見つめた。リョウヘイが入口へ向かって方向を変えると、その横顔がよく見える。だが村井は眉を寄せて考え込むだけだった。

「ああ言う男は……自分の知る限りでは大松の周囲には居ませんでした」

「リョウヘイと言って、二股温泉で働いていたのですが、入隊希望だと言ってきたので旭川まで届ける途中なのです」

「リョウヘイ……。聞き覚えの無い名前です。ただ、大松が函館へ戻ると言った時、竹内と何か話していました。もしかしたらそこで名前が出ていた可能性もあります」

 カエデは一度頷いて再び建物の陰へ戻る。廃墟が太陽を遮り、そこは黒色の四角い空間になっていた。

「身分証を提示させたところで意味はない……。地方へ行けば、我々ランド・ウォーカーは出生届すら出されず、話す言葉さえろくに知らない野生児も珍しくないですから。あのリョウヘイと言う男も、まともに会話ができるだけ育ちが良いと言うものですね」

「……はあ」

「大松が肉親の話をした事は?」

「妻の話だけです。両親の話は、数年前に他界したとだけ」

「そうですか。兄弟も居ないのかしら」

「そう言った事も聞きませんでした。岩永と言う隊員が知っているのでは?」

「……ええ。岩永は絶対に知っています。ですが大松が人流を遮断したせいで報告が上げられない」

 カエデは腕時計を見てちいさく息を吐く。まだここを出るまでに時間はある。今日の十六時までにここへ来るよう指示は出してあるので、まだ希望を捨てるべきではない。気持ちを切り替え、カエデは一枚の書類にサインして村井に渡した。

「ご苦労様でした。これを旭川まで持って行って報酬を受け取りなさい」

「ありがとうございます」

 村井はそれを受け取るなり、裏に停めていた自分の車に乗り込んだ。

 カエデは四角く切り抜かれた影の下、廃墟の壁にもたれて夏にしては涼しい風を受けていた。だがその思考は北海道の雄大な自然でもなく、足元の珍しい食べ物でもなく、函館居住区の事で占められている。

 大松は間違いなく函館に居る。そして居住区の人流を断ったと言う事は何かしら企てがあるのだ。人流を断つとは即ち情報を断つ事。電子的に情報をやり取りできない環境ではそこへ直結する。大松は知られたくない何かがあるのだ。

 だが、一つ不思議でもあった。妻を本島へ逃がした時はここまでの厳戒態勢を敷かなかった。仲間に唯一話す肉親であった最愛の妻だ。それなのに今はあれだけの規模の居住区では考えられないような厳戒態勢に入っている。よほど知られたくない何かがあるのか、あるいは誰かの入れ知恵か。

 これまで部下から聞いている報告では、大松一平と言う人物はよく言えば非常に人が良く、悪く言えばお人好しの塊だ。自分の仲間にスパイが居るなどと疑う事はまず無い。その大松がここまでするとなれば、やはり誰かの指図かもしれない。

(大松が考える事……)

 まっさきに浮かぶのが復讐。妻と子供を殺されたのだから当然だ。復讐の相手はカエデ自身かレイだろう。そうなればランド・ウォーカーを雇わなければならない。

(やはり動き出しましたね、大松)

 カエデは再び腕時計を見る。まだ数時間はここで岩永を待つ事になる。


 カイとタケルは少女に続いて鉄製の梯子を下り、薄暗い廊下に辿り着いた。その狭い廊下の先に更に扉があり、少女はその分厚い鉄を押し開ける。

 扉の先には地上の廃墟からは想像もできないような近代的な部屋が広がっていた。天井には明るい照明がずらりと並び、広い空間にはいくつもの大きな水槽が規則正しく並んでいる。その水槽にはどれも魚が生き生きと泳いでおり、水槽の上には植物が生い茂っていた。

「ここで待ってて」

 二人にそう言い残し、少女は荷物を抱えて部屋の奥へ進んで行った。

「何だ、ここ。水族館?」

 水槽の魚をまじまじと覗き込むタケル。カイもあまりに珍しい光景に興味をそそられた。

「いや、どう見ても養殖場だろ。しかも水耕栽培とのハイブリッドだ」

「魚食いたい放題だな」

「間違っても勝手に取って食うなよ。それにしても……」

 カイは水槽の中を悠々と泳ぐ魚を見た。これまで一度も見た事のない魚だ。体は長細く、ヒレを広げて泳ぐ姿はどこか優雅な印象さえ受ける。だが、色や模様は至って地味で、茶色っぽい体に大きな口があった。

「何なんだ、この魚……」

「それはチョウザメだ」

 カイの呟きに答えたのは部屋の奥からやって来た男だった。無精ひげを生やし、丸眼鏡をかけた中年の男だ。その男の後ろにあの少女が居るので、どうやらこの人物が少女の言っていたチョウなのだろう。

「チョウザメ? サメなの?」

 男はいかにも億劫そうな顔つきで首を振った。

「いいや、サメじゃない。見た目が似てるだけだ。ところで、君達は何か珍しい食べ物があると聞いてここに来たんだって? アペカに聞いたぞ」

「……アペカ?」

 首を傾げるカイに、男は自分の後ろに立つ少女を示した。

「この子の名前だ。で、俺の質問に答えてもらおうか」

 するとタケルが大いに頷いて言うが、すぐさまカイが修正する。

「その通りだ」

「いや、その通りじゃない。俺達は訳あって陸自と行動してるんだ。それでここに立ち寄ったら偶然地下室を見付けた。それでこのデカいのが彼女に美味い食べ物は無いか訊いたら、珍しいものならあると言われてここへ来たんだよ」

「なるほど。君達はランド・ウォーカーだろ? だったら何かを得るには何かを払わなければならないと分かってるよな?」

「ああ、もちろんだ」

 食べ物への執念がありありと感じられる力強い返答をしたのはタケルだった。カイはその隣で溜息と共に視線を水槽の中に落とす。そこでは長細い魚が水の中を悠々と泳いでいた。

「じゃあ、力仕事をしてもらおう。サハリンが樺太に戻ってから、ロシア人達が我が物顔で売り付けていた天然ガスが手に入るようになった。ここも昔のようにガスを引きたい。ガス管の修理を頼む」

 至って真面目な顔で難題を突き付けて来たチョウ。またもタケルが堂々と答えた。

「無理だ。たぶん長居できねえから」

 チョウは眉を寄せて目を細めた。そして先ほどより声を落として新たな条件を持ち出す。

「それなら、アペカと一緒にこいつらの餌を取って来てくれ。羊蹄山を流れる川まで行くんだ」

「どのくらいかかる?」

 タケルの問いにチョウの後ろからアペカが顔を出した。

「何時間もかかる」

「じゃあ駄目だ」

 するとチョウは盛大な溜息と共に数回地団太を踏んでから顔を上げた。丸眼鏡に蛍光灯の明かりが反射する。

「おい、珍しいものが食いたいって言ってここに来たんだよな? 食いたいんじゃないのか?」

 タケルは当然とばかりに頷いた。

「ああ、そうだ」

「じゃあ、こっちの条件を何かのめよ。何もしねえのに貴重な食い物をやれるわけねえだろ?」

「そうだけど、実際無理なんだからしょうがねえだろ」

 タケルの端的過ぎる回答を聞くなり、チョウは髪をかき上げて眼鏡を掛け直した。

「しけた奴らだな!」

「チョウ、やめて」

 アペカに制止され、チョウは何度目かの大きな溜息を吐き終えると改めてタケルを見る。鉄パイプを握る大柄な少年を前にしているとは思えないほど、チョウの目は据わっていた。

「じゃあ、これからアペカが荷物を地上に運び出すから、その手伝いをしてやってくれ。地上に運んで、馬車の荷台に載せてくれりゃあ、それで良い。それならできるだろ?」

 漸く実行可能な条件が出て、タケルは大いに頷いた。

「良いよ、それならできそうだ!」

 だがそこにチョウが念を押す。

「ただし、報酬はこの条件に見合った分だぞ。要するに少しだ」

 タケルは暫く考えていたが、その横から水槽を眺めていたカイが言った。

「それで良い。これ以上面倒な話をするのはご免だ。やるぞ、タケル」

「いや、ここは俺に任せとけ、カイ。お前はそもそも力仕事に向いてない」

「……報酬を独り占めしたいだけだろ」

「…………」

「そもそも女が運んでた荷物くらい、俺でも運べるに決まってんだろ。心にもねえ事言うな」

「決まりだな。アペカ、終わったら言いに来てくれ」

「分かった」

 話が済んだところでチョウはさっさと水槽だらけのフロアを奥へと消えていく。残されたアペカがカイとタケルに手招きした。

「こっちに来て」

 二人はアペカに続いて水槽のフロアと扉一枚で繋がっている、冷蔵庫が数台並ぶ部屋に来た。見たところどこにでもあるような普通の冷蔵庫だ。

「荷物はこの中」

 そう言って冷蔵庫を示すアペカを、タケルはまじまじと見下ろしていた。タケルと並ぶとこの少女は子供のように見えたが、実際は二人と大して変わらない年齢だろう。

「どうかした?」

「あんたさ、あのおっさんに雇われてんの?」

「そう。私は魚の餌を準備したり、魚や卵を居住区に持って行って他の物と交換する役割。その代わりにここで採れる野菜とか大豆をもらってる」

「へえ。ランド・ウォーカーはあんた一人?」

 アペカは冷蔵庫の中から何かの瓶詰を取り出してはクーラーボックスに入れながら答える。

「私以外にも居るよ。でも殆ど私がやってる。私が来れない時には村の人が来るの」

 カイはアペカの言葉に驚いた。今、彼女は村と言わなかったか。しかも地底人であるチョウの手伝いに来られる村人とは、間違いなくランド・ウォーカーだ。だが、ランド・ウォーカーが村のような集団を形成して生活しているなど、聞いた事が無かった。

「その村って、ランド・ウォーカーだけじゃなくて地底人も居るんだろ?」

 カイの疑問に、アペカは瓶を持ったまま首を傾げる。

「地底人? 霧で死ぬ人の事?」

「そうだ」

「居ないよ。だって、私達は地上に出られるのに、わざわざ地下に住まないから」

「じゃあ、村人は全員ランド・ウォーカーって事だよな」

 目を丸くするカイに、アペカの方が困惑しているようだった。

「そうだけど、何かおかしい?」

「ランド・ウォーカーが集団を作って生活してるなんて、初めて聞いた。よく他人と一緒に居られるな」

「アイヌは皆そうしてる。何もおかしな事じゃないよ」

 そこでいっぱいになったクーラーボックスを担ぎながらタケルが言った。

「アイヌって何?」

 その質問にはさすがのアペカも困惑を極めたようで、ぽかんと口を開けたまま、暫くタケルを見上げていた。そんな様子を見かねてカイが口を出す。

「北海道の先住民だ」

「え、じゃあ日本人じゃないの? でも北海道って日本だよな?」

「お前、歴史とか教わってねえのかよ……。元々東北北部や北海道、更には樺太や千島列島にはアイヌ民族って言う先住民が居たんだよ。それが本土の日本人が北上して来て数が減っちまったんだ」

「へえ、そうなんだ」

 漸く現状を飲み込んだタケルに、アペカが静かに言った。

「私達も日本人だよ」

「そっか、初めて知ったわ」

 そんなタケルに二つ目のクーラーボックスを差し出し、アペカは更にもう一つボックスを持って来た。そしてそこに別の冷蔵庫からプラスチックケースに入った魚の切り身を取り出して入れていく。

「私はアイヌを知らない人に初めて会った」

「俺も」

「カイ、お前そう言うとこだけ人と同調すんの止めろよな」

「はい、これはあなたの分」

 タケルが文句を垂れるのを気にもせず、アペカは魚の切り身を入れたクーラーボックスをカイに差し出す。カイはそれを受け取って肩紐をかけた。両腕で抱えるほどの大きさのクーラーボックスで、持ってみると思いのほか重量がある。これを今までこの少女一人で地上まで運び出していたのかと思うと、この小柄な少女も案外頑丈なのだと思った。

「そう言えば、あなた達の名前は?」

 冷蔵庫しかない部屋から出て行くアペカが、思い出したように振り返る。東京を出てから何度目かになるか分からない、いつも通りの自己紹介にうんざりしながら、カイは言った。

「俺はカイ。このデカいのがタケル」

「私はアペカ」

「アペカって変わった名前だよな」

 水槽のフロアを進みながらタケルがしみじみと言う。先頭を行くアペカは振り返ることなく淡々と話した。

「アイヌの名前。火の糸と言う意味。糸は何かを繋ぐもので、火は闇の中でも明るいから、暗闇をさまよっても必ず明るい場所へ行き着くようにと言う願いがこめられているの」

「名前に願いがあるのか」

 カイの驚きを含んだ声に、初めてアペカは足を止めた。そして大きな瞳を丸くして振り返る。

「カイやタケルにも意味があるでしょ?」

「……たぶん」

「漢字は? あなた達の名前は漢字に意味があるって聞いたよ」

 カイとタケルは珍しく同時に顔を見合わせた。お互いに難しい顔をしていた。そして二人同時に同じ言葉をひねり出す。

「覚えてない」

 アペカは眉をハの字に下げて首を傾げる。

「自分の名前を覚えてないの?」

「大体のランド・ウォーカーがこんなもんだろ。親からまともに育てられた奴の方が少ないんだ。別に名前にこめられた願いなんて気にした事ねえよ」

 カイがそう言うと、アペカは何も言わずに再び歩き出す。そして水槽のフロアを出る扉のロックを外しながら、独り言のように呟いた。

「親の気持ちと言うより、自分がどう生きたいかだと思う」


 函館の居住区はかつてない異様な空気に沈んでいた。これまで活発に地上へ出ていたランド・ウォーカー達の動きが極端に制限され、外から来る者も入り口で荷物だけ置いて追い返される。この異常事態を、大松は自身の執務室で苦々しく眺めていた。青函トンネルの占拠も北海道中の居住区に少なからず影響があっただろうが、それでも道内の人流を遮断するような事は無かった。だが、今の函館居住区は陸の孤島になってしまっている。自分がリョウヘイにレイの殺害を依頼したばかりに。

 少しでもこの閉塞状態を軽減したい。そう考えを巡らせていたところに扉をノックする音が飛び込んだ。

「誰だ?」

「菊池です。ちょっと良いですか、大松さん」

「入ってくれ」

 菊池が執務室に入ると、大松は机の向こうの壁際を行ったり来たりしていた。青函トンネルへ行く前の大松は、もっと生気に満ちた力強い男だった。だが、今は巨大な手に喉元を掴まれたかのように活力が無い。

「大松さん、きっと思い詰めてるだろうと思って」

 振り向いた大松は目の下にくまを蓄えていた。

「大松さんは優しいから自分から言い出せないだろうと思って、提案しに来ました」

「提案?」

 菊池は深々と頷いた。

「俺や竹内さんは今回の事を細部まで知っているし、他にもリョウヘイの事を知っている人間は何人か居る。そうした関係者だけを完全隔離すれば、居住区全体を巻き込まなくて良いんじゃないかな」

 この菊池と言う男は七年ほど前にこの函館にやって来た男だった。彼が居た居住区は洞爺湖の近くにあったが、人口減少で存続できなくなり、防護服をかき集めて離散したのだと言う。大松はこの良識ある男をとても信頼しており、リョウヘイを投獄する際も意見を求めた事があった。

「だが、それではまるで仲間を囚人扱いするようじゃないか」

「居住区の全員を囚人扱いするよりマシだと思います」

「……それはそうだが」

「それに、ここまで大松さんに付いて来た人なら文句は言わないはずだ。俺だって何とかして戦争を停められるならそうしたいし」

 菊池の目には強い意志がこもっていた。大松はそれを見て深く頷く。

「分かった。ありがとう、菊池。今から関係者全員に協力を求めて、居住区内の空き室に移ってもらう。当分行動制限や監視が付いてしまうが……」

 その言葉に、菊池も力強い頷きを返した。

「仕方ないですよ。もしもスパイが居て情報が洩れれば、計画は絶対に失敗するんだ。俺達が外へ出られない以上、彼に懸けるしかないんだから」

「俺はこれから部屋を用意する。悪いが、関係者をここへ集めてくれないか」

「分かりました」

 菊池は早足で大松の執務室を出た。関係者と言ってもかなり限定されている。自分を含む数人の仲間と、看守や警察関係者だ。元々リョウヘイは一族の汚点と言う立場だったため、表には出されなかった事が幸いした。

 執務室を出て居所がすぐに分かる看守や警察関係者から先に声をかけ、菊池は他の仲間を順次当たっていた。そして最後に居住区のゲート管理室に来る。

「竹内さん」

 扉を開けながら声を掛けると、モニターが並ぶカウンターの前に竹内が居た。今日は竹内がゲートを管理する日だった。管理と言っても、行動規制をかけているので普段より仕事は大幅に少ない。竹内も暇を持て余していたようで、ゲート前のライトを点灯させるボタンから手を放して眠たそうに振り向いた。

「どうした」

「大松さんが呼んでます。居住区は通常通り開放して、今回の一件に関わる人間だけを隔離するって」

 竹内は椅子から立ち上がり、僅かに口角を上げて頷いた。

「やっと決断したのか」

「差し出がましいですが、自分から提案しました」

「やっぱりな。大松からは出ないだろうと思っていた。分かった、行こう」


 カイとタケルはクーラーボックスを担いであの垂直に伸びる梯子を上っていた。先頭を行くアペカは何も持っていないため身軽に上っていく。その後にタケル、カイの順で続くのだが、タケルはいつも通りまるで何も持っていないかのようにすいすいと上り、アペカを急かす勢いだ。カイはと言うと、クーラーボックスをたすき掛けに担ぎ、一歩一歩慎重に上っていた。

「もうすぐだから頑張って」

「俺は別に何ともねえけどカイが落ちるかも」

「俺も平気だ!」

 そうは言っても頭上から重たい扉を押し開ける音が聞こえた時には、カイは内心安堵した。

 アペカはいつも潜っている扉を押し上げるが、それは思っていた以上に軽く開いた。何故かと思い顔を上げると、目の前に大きな手が飛び込む。

「もう上がって来たの?」

 手を差し出してきたのはカイとタケルと一緒に居た男だった。差し出された手を取り、アペカは地上に出る。

「この荷物を運ぶ代わりに、チョウが少し食べさせてやるって」

 アペカがそう言うと、リョウヘイは当然とばかりに頷いた。

「まあ、そうなるよな」

 地下へ続く穴を見下ろすリョウヘイに、タケルが梯子を片手で掴みながらクーラーボックスを示す。

「リョウヘイ、これ取ってくれ」

 だがリョウヘイは何もせずに突っ立っていた。

「俺が手伝うと分け前減るんじゃないの?」

 その言葉にハッとし、タケルは狭い出入り口からまずはクーラーボックスだけを地上に出した。

「そうだった」

 そして自分が地上へ出ると、後から続くカイのクーラーボックスの肩紐に手をかけ、すんなり持ち上げて引っ張り出した。カイは慌てて肩紐から腕を抜く羽目になったが、何ら苦労せず地上に出る。そしてクーラーボックスを三つ担ぐタケルに目もくれず、早速リョウヘイに訊いた。

「いつまでここに居るって?」

「十六時まで居るってよ。なんかお取込み中だったぜ。まあ、あと二時間くらいはここに居る事になるな」

「なんだよ、そんなにあるならもうちょっと何か引き受ければ良かったな」

「まだ終わってないよ。これを外の馬車に載せるの」

 アペカは廃墟の外を指さすが、すぐ見える範囲に馬車など無かった。

「え、どこ?」

 タケルが目を凝らすと、自分達が駐車場代わりにしている空き地の向こうに見えた。

「いつもあそこまで一人で運んでんの?」

 目を丸くするタケルに、アペカは小さく頷いて歩き出す。

「いつもはもう少し近くに停める。今日はあなた達が居て、馬が怖がったからあそこになったの」

「それは、それは、申し訳ないね」

「うん」

「…………」

 タケルはクーラーボックスを三つ担いだままアペカに付いて廃墟を出て行った。カイはその姿を眺めているだけで、それ以上参加しようとしない。

「あれ、行かなくて良いの?」

「さっき恐らく報酬になる物を見た。見た感じ魚卵だ。ああ言うのは見た目からしてあまり好きじゃない。一口食べれば充分だ」

「へえ、繊細なんだな。ところで、カイ」

 突然リョウヘイの手がしっかりとカイの肩を掴み、自分の方を向かせた。カイは皿のように目を丸くしてリョウヘイを見る。

「俺さ、気が変ったわ。君達がアメリカに行くって聞いたら、そっちの方が絶対に刺激的な面白い仕事だと思った。俺も一緒に連れてってくれよ」

 子供のような笑顔で言うリョウヘイ。そんなリョウヘイにカイは臭いものを見るような目を向けて返す。

「あのな、旅行じゃねえんだよ。連れて行くとか行かないとか……」

「運転ならいつでもやるぜ。なあ、良いだろ?」

「食料はどうすんだよ。あの車に乗ってる保存食は二人分だ」

「まあ、何とかなるだろ!」

「いい加減だな」

「先の事は誰にも分からねえ。俺が邪魔になったらそこで置いて行けば良い。な、悪い話じゃないと思うぞ」

「……お前、なんでそこまでして面倒な事に首を突っ込みたいんだ? 俺だったら自由になったのにわざわざアメリカなんか行かねえぞ」

 するとリョウヘイは楽しそうに笑った。

「ははは! カイって本当に夢も希望もねえな!」

「……そんなもんあんのかよ」

「ものは考えようさ。俺は今までの人生が心底クソだった。だからカイにとって面倒な事も面白え事に見えるんだ、きっと」

「……ふうん」

 この男は明らかに怪しい。カイにとってはこの笑顔が何よりそう思えた。だが、一つの思考がカイの頭に明確に浮かんだ。

 もしもこのリョウヘイと言う男が道中で凶行に及んだとしたら、タケルが対抗するだろう。そうすればその間に自分はさっさとこの面倒な仕事から脱出できるかもしれない。現状、自分ではタケルに到底かなわないし、タケルは自分の監視と言う仕事を放棄する気はなさそうだ。そうなれば、リョウヘイがタケルの足止めをしてくれる可能性もある選択は、単に損とは言えない気がした。

 カイは考えをまとめて顔を上げた。

「分かった。食い扶持を自分で何とかするなら別に構わないぜ。ただ、一緒に来るならこっちのルールに従ってもらう」

 リョウヘイは満面に笑みを広げて喜んだ。

「マジかよ、やったね! 人生損ばかりじゃねえな! で、ルールって何?」

「俺達は政府の仕事で動いてる。あまり目立った場所で法律に反する事はするな」

「目立たなければ良いの?」

「見付からなければ良い」

「はいよ」

「あと、俺に逆らうな。この仕事は俺が居なければ成り立たない。だから勝手な行動は許さねえ」

「うわ、それすげえルールだな。でもそんな事言ってカイは案外優しいだろ」

 優しいと言う言葉にカイは目を細めて怪訝そうな顔をした。リョウヘイは荷物を運び終えて戻って来るタケルとアペカを見やって言う。

「だって、わりとタケルに振り回されてるじゃん? 何だかんだ言って仲良いんだろ?」

「気持ち悪い事言うなよ。あいつに殺されないためだ。で、ルールは分かったか」

「うん、分かった。宜しく!」

 話がまとまったところでタケルとアペカが戻って来た。

「あなた達の仕事は終わり。一緒にチョウの所へ行ってご褒美をもらおう」

「後半さぼったから、カイは俺の半分な」

「はいはい」

 カイとタケルが地下へ戻って行くと、アペカはリョウヘイを振り返る。

「あなたも来る?」

 リョウヘイは何やら周囲を見回しながら優しく言った。

「いいよ、俺は何もしてないし」

「そう……」

「二人に外で待ってるって言っといて」

「分かった」

 そう言うなり、リョウヘイは廃墟の奥へ入って行った。

 奥へ行くと、そこは厨房だった。厨房の壁には壊れた換気扇が付いていて、閉じなくなったシャッター部分から外の声が僅かに聞こえるのだ。

 あのカエデと言う女がこの裏で何を話していたのか気になった。恐らく青函トンネルから戻った部下から報告を受けていたのだろうが、万が一どこからか自分の情報が洩れていたら間違いなく殺される。あの馬鹿正直な大松の事だ、自分との取引を無視する事はないだろうが、甘さが祟って穴からネズミが逃げ出すかもしれない。

 リョウヘイはできるだけ換気扇に近付いて聞き耳を立てる。自分がカイと話している間に、どうやらもう一人別の部下がやって来たようだ。男の声だが、リョウヘイは聞き覚えが無かった。

「函館はどうですか」

「自分が行った時は、相変わらず人流を制限していました」

「中からの情報は得られませんか」

「難しいかと」

 男の報告を聞き、リョウヘイは一旦安堵した。やはり大松は自分の要求にしっかり応えている。

「ですが、荷物の搬入時に気になった事が」

 リョウヘイは足元に注意しながら、今は機能しないガス台に半分乗り上げて聞き入った。

「ゲート前の照明が、不規則に点滅していました。点滅パターンは読解可能で、モールスかと」

「それですね。内容は?」

「レイ危険……そこで切れてしまいました」

 またもリョウヘイは胸を撫で下ろした。場合によっては今この瞬間に逃げ出さなければならなかったが、どうやらあの中の誰かは信号の発信を阻止されたようだ。

「なるほど。やはり大松はただ函館に立てこもっている訳ではないようですね」

「何してるの?」

 身も縮まる思いで神経を集中している時、不意に声を掛けられたので、リョウヘイは危うく声を上げるところだった。それを咄嗟にこらえ、ガス台から離れて声の主を振り返る。それは何かの瓶を持ったアペカだった。

「び、びっくりした……君か」

「これ、さっきのお礼」

 アペカは黒い何かが入った瓶を差し出した。

「さっき? 俺何かしたっけ?」

「私を引っ張ってくれた」

「ああ、そんな事か。気にしなくて良いのに」

「嬉しかったから、お礼がしたいの」

「そう? わざわざありがとう」

 リョウヘイはアペカから瓶を受け取って中身を見た。何やら黒い小さな粒がたくさん入っている。そして塩気のある生臭いにおいがした。

「これってカイが言ってた魚卵?」

「たぶんそう。下で飼ってる魚の卵。チョウが言うには、とても高級品なんだって」

「へえ」

 まじまじと眺めるリョウヘイに、アペカがどこか控えめに言う。

「私はアペカ。あなたの名前は?」

「俺はリョウヘイ」

「カイとタケルは自分の名前の意味を覚えてないって言ってたけど、リョウヘイは覚えてる?」

「名前の意味……」

 子供の頃、確か聞いた事があった気がする。一平から聞いたのだ。別に気にもならなかったが、兄は一方的に話してきた。

「確か……双方を平らかにするって意味だった気がするな」

「双方?」

「そう。漢字で書くと両方の両に平なんだ。なんでも、ランド・ウォーカーも地底人も、どちらも平和に過ごせる時代を作る人間にしたかったんだと。まあ、当てが外れた訳だけど」

 するとリョウヘイの予想に反してアペカは目を輝かせている。

「とても良い名前! 両平はきっとそう言う人になると思う」

「え? そうかな。アペカってのはどんな意味なの」

「火の糸と言う意味。暗闇の中でも明るい場所へ向かえるように」

「へえ、君が道しるべって事か」

 アペカはにこりと微笑んで頷いた。

「良い名前だな」

「私もそう思う」


 その頃地下ではカイが恐る恐る黒い魚卵を口に運んでいた。小さなスプーン一杯の量だが、初めて食べる魚卵にかなりの抵抗があった。隣ではタケルが何の躊躇いもなくスプーンごと吸い込む勢いで平らげた。

「あ、普通に美味い。カイも早く食えよ」

「……分かってるよ」

 カイは遂に黒い小さな粒を口に放った。それは見た目以上にしっかりとした食感があり、噛むと塩気と共に濃厚な味が広がる。今まで食べた何とも似ていない、独特の風味だ。

 そんな二人を横目に見ながらチョウは水槽を優雅に泳ぐ魚を示す。

「チョウザメに感謝しろ。まあ、ランド・ウォーカーに感謝しろなんて言ったところで無駄だろうけどな。これはキャビアと言って、高級食材なんだぞ」

「おっさんはどうしてここでキャビア取ってんの?」

 感謝の二文字はいとも簡単に聞き流され、タケルが淡白な質問を寄越した。チョウは一度溜息を吐いてから渋々話し出す。

「俺はこのアクアポニックスと言う技術を確立したかったんだ」

「アクアポニックス?」

 興味を示したのはどうにかキャビアを飲み込んだカイだった。

「見ての通り、魚の養殖で使った水を処理して植物に与え、植物がろ過した水をまた魚に戻すと言う循環型の食糧生産システムだ。これは何十年も前に開発された技術で、本当だったら月に行っていたはずのものなんだ。だが、霧のせいで全てがおじゃんになった」

「それを復活させた訳か。でも居住区ではなく、こんな場所でやってるのは何でなんだ?」

 チョウは優雅に泳ぐチョウザメを眺めながらカイの疑問に答えていく。

「確かに、居住区で行うのが一番効果的だが、まだ再現できるかどうか分からない段階で多くの居住区に断られた。それで途方に暮れていたところにこの廃墟と地下壕を見付けたって訳だ」

「ふうん。おっさんの性格が独特だからじゃねえのか」

「おい、お前どんな教育受けて来たんだ?」

 チョウは丸眼鏡の下からタケルを睨んで続ける。

「初めは一つの水槽からだった。それが上手く循環するようになってスポンサーを募り、今では道内の大型居住区にはこのアクアポニックスの技術が届けられている。俺の偉業に性格は全くもって一片も影を落としていない」

「分かったよ、そうムキになるなって」

 そんなタケルを肘で小突き、カイは暫く抱えていた疑問をチョウにぶつけた。

「なあ、あのアペカって子からアイヌの話を聞いたが、村を作っていると言うのは本当なのか」

「ああ、本当らしいぞ。俺も驚いた。君達二人を見ても、とても集団生活が送れるような人種に見えねえ」

「……そりゃどうも。いったいどうやって集団ができるんだか……」

「俺も気になってアペカに聞いた事があった。なにせ自分で見に行けねえからな。そしたら、彼らにはそれぞれに役割が割り振られていて、それを達成すると報酬があるらしい。その役割は全て最大利益を追求するものなんだ。つまり、利益の最大化とは人間であれば集団を形成し、協力して物事に取り組む先にある。彼らは最大利益のために協力しているんだ」

 カイは興味深そうにチョウの話に聞き入っていた。これまでランド・ウォーカーは協調性が無いために使役される存在だったが、一人では得られないような最大利益のために協力する事もできるのだ。実に意外だった。

 そんなカイの様子を見て、チョウは小さく笑う。

「当の本人が困惑しているなら、間違いなく異質なんだな。これはあくまで俺の個人的な見解だが、彼らが集団を形成できる要因の一つに北海道の環境があると思うんだ。ここの冬は非常に厳しい。単独では間違いなく乗り越えられないだろう」

「生きるために協力するのか」

「そうだ。君達もそうなんじゃないのか? だから一緒に行動してるんだろ。その人数が増えただけなんだろうよ、きっと」


 カイとタケルが地上へ戻ると、いつの間にか出発の時間が近付いていた。地上で待っていると言っていたリョウヘイを探すが、廃墟の中には居ないようだった。

「どこ行ったんだ、あいつ」

「カイ」

 二人が廃墟の外を見回していると、そこにカエデがやって来る。

「そろそろ出発します。入隊希望の方は?」

「俺達も探してる。そう言えば、あいつ入隊辞めたってよ。俺達と一緒にアメリカまで行きたいらしい」

「え、そうなの?」

 カエデより先に驚いて見せたのはタケルだった。その反応とは対照的に、カエデは少しも表情を変えずに淡白にこぼす。

「珍しい事ではありません。そのような方は入ったところで続きませんし、ご自由にどうぞ」

 そうとだけ言ってカエデは自分の車両へ向かって行った。

 二人も車へ戻ろうと歩き出した時、アペカが馬車を停めていた方からリョウヘイがやって来た。

「ああ、出て来た? じゃあそろそろ出発かな」

「お前どこ行ってたんだよ」

 カイのぶっきらぼうな問いにもリョウヘイは笑顔で返す。

「あの子を見送ってたんだよ。これからあの荷物を近くの居住区に届けるんだってさ。護身用に散弾銃まで持ってたぜ。しっかりしてるよな」

「あれ、それってキャビア?」

 タケルはリョウヘイが持っている瓶を見逃さなかった。その中にはやはりあの黒い魚卵が入っている。

「そう。アペカがくれたんだ。生ものだから早めに食った方が良いよな」

「何でお前だけ? 俺達の方が頑張ったよな? と言うか、お前何かしたっけ?」

「いやあ、俺も別に良いよって言ったんだけどな」

「ずるいぞ!」

「うるせえぞ、タケル! 食い物くらいでガタガタ言うな!」

「お前は好きじゃねえからそれで良いんだろ!」

 喚きながらも車へ向かう二人を後ろから眺め、リョウヘイは小さく笑った。

 今日は久し振りに外へ出て、久し振りに自分の名前を思い出した。


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