二人
函館にある海上自衛隊の基地に滞在していたカイとタケルだが、漸く自分達の車が到着し、基地を後にする時が来た。その頃、青函トンネルには函館で死んだ叶の死体が運び込まれる。叶の死を知った大松は、大きな決断を下す事となった。
11 二人
その知らせが青函トンネルへもたらされたのは、その日の夕方だった。東の空が薄暗くなり始め、いくつもの星が心許ない光を見せ始めた頃、一つの死体袋が運び込まれた。
緑色の迷彩柄に身を包んだ屈強なランド・ウォーカー達が、無感情に置いて行った黒く長細い袋。それを、防護服を着た男がトンネル内に引きずり込む。重さと言い、袋越しに感じる形と言い、これは見た目通りの死体袋なのだとすぐに分かった。
男は黒い死体袋を引きずって、居住エリアの手前にあるエアシャワーを潜った。そして地下深く続く廊下を進む前に立ち止まる。防護服のジッパーを下げ、改めて自分の足下に横たわっている死体袋を見下ろした。
「…………」
トンネルの前に陸自のランド・ウォーカー達がやって来て自分を名指ししてきた時点で、最悪の結果は想像している。この袋の中でこと切れているのは、きっと自分の妻子に違いない。
大松は震える手で死体袋のジッパーを降ろしていく。徐々に死体の頭部が見えて来た。黒く艶やかな長い髪。そして白い肌がその下に覗く。現れた青白い顔は、やはり妻の叶だった。
「……叶」
そっと撫でる頬は、まだ柔らかくはあるが石のように冷たい。死んでいる。
「くそ……どうして……」
袋を全て開けて叶の防護服を脱がせる。叶に外傷は無かった。どうやら霧に当たって死んだようだ。苦しまずに死んだ事が唯一の慰めだった。
「ごめんな、叶……子供まで……こんな目に遭わせて……」
叶にはこれまでも散々説得されてきた。青函トンネルの占拠など無謀だと。だが自分はその度に反発し、受け入れなかった。そのせいで叶を危険な道に追い込んでしまったのだ。
「大松!」
白い照明の下でうずくまっている大松の下へ、若い男が駆けて来た。男は床に膝をついてしゃがみ込み、大松が抱えている黒い塊を覗く。ジッパーの間から見える青白い叶の顔に、男は固い表情で大松を見た。
「まさか……」
「間違いない。叶と子供だ」
男は目を見開いて再び叶を見下ろす。
「子供が居たのか……。でも、いったいどうして身内の情報が奴等に知られたんだ? ここの占拠を決めた時、家族は皆本島へ隠れさせたはずだろ?」
魂の抜けた目で妻を抱きかかえる大松は、一点を見つめながら独り言のようにこぼした。
「……俺は確かに叶に手紙を出した。叶が身を潜めていたはずの秋田の居住区に。もしかすると、その手紙のせいで北海道へ戻って来てしまったのかもしれない」
「それで奴等に見付かったと?」
若い男はふと、下げられたジッパーの下に何やら白い紙のような物がある事に気が付いた。そっとそれを摘まみ上げると、それは一枚の紙だった。
「おい、これ……」
大松は漸く我に返って男を見る。そしてその白い紙を受け取った。白い紙には黒い印字が端的に並んでいる。目を通すと、叶は夫が反乱を扇動して青函トンネルを占拠し、北海道への物資供給を妨げている事に思い詰め、自殺したのだと書かれていた。
「……何だって?」
白い紙を持つ手に力が入って行くのを見ながら、男は大松に声を掛ける。大松は重たい唇をゆっくり開いて言った。
「叶は自殺したそうだ。俺が青函トンネルを占拠したのを苦にして」
「自殺? ふざけてやがる……そんな事信じると思ってんのか!」
「……信じるか信じないかは問題じゃないんだよ、竹内。これは脅しだ。俺がトンネルを解放しなければ、また次の死体袋が送られてくると言う」
竹内と呼ばれた男は立ち上がって頭を抱える。
「くそ、やっぱり奴等は人間じゃないんだ! 人間の形をした怪物なんだよ!」
大松はそんな竹内を見上げて淡々と言った。その声は生気をすっかり抜き取られていた。
「いいや、奴等も俺達も人間だ」
「どうするんだ。もう、トンネルは諦めるのか」
「……皆で決めてくれ。悪いが、俺は降りる」
叶を抱き上げて立ち上がった大松。その背中に、竹内が声を張った。
「おい! どうする気だ?」
歩き出した大松は、振り返らないまま立ち止まってぼそりと言う。
「弟に会いに行く」
「弟……まさか、リョウヘイに?」
「そうだ」
そうとだけ言って大松は再び歩き出した。
叶が死んだ日の夜、カイとタケルが食堂で夕飯を食べていると、食堂の奥の席にカエデとその部下達が入って来た。カイは食事を口へ運びながら、視界の隅に緑の迷彩を捉えていた。
陸自の連中が叶の死体を運んで行った後、カエデとモトイは何やら内々の話をしていたようだった。勿論カイがその内容を知るはずもないし、知りたいとも思わなかった。カエデが自分の制止を聞かずに叶を殺した時点で、カイにとってはこのカエデと言う女が面倒な存在以外の何者でもなくなったのだ。
「カイ、あまり睨むと突っかかって来るかもしれねえぞ」
向かいに座るタケルに小声で言われ、カイは自分がカエデを睨んでいた事に初めて気が付いた。すぐに目を逸らし、食事に集中する。だが、カイの視線に気付いたカエデが既に立ち上がってこちらへ向かって来ていた。
「あなたがカイですね。苗字は何と?」
やって来たカエデはカイの横で立ち止まり、鈴のような声を降らせる。カイは立ち上がる事なく警戒の眼差しを向けた。するとカエデは僅かに口角を緩める。
「そんなに怯えなくても、突然あなたを殺してしまうなんて事ありませんので、ご安心を」
「怯えてない」
「そうですか」
そう言うと、カエデはカイの隣の空席に腰を下ろす。
「私達はこれから北方領土まで一緒に行動する事になります。そんな中で敵意を持たれていては、部隊にとっても悪影響です」
カイはじっとりとカエデを見返した。そこに向かいからタケルが割って入る。
「こいつはさ、いつもこうなんだよ。とにかく色んな事が気に入らないんだ」
「おい」
「そうですか。いつもそう言う不服そうな顔をしているのですね」
「……おい」
カイは遂に箸を置いて深く溜息を吐いた。
「確かに俺達はこれから長い間、一緒に行動する事になる。陸自が俺達を北まで護送してくれるのは有難い話だ」
「ええ、そうだと思います」
深々と頷くカエデに、カイは一瞬目を細める。だが気を取り直して続けた。
「だが、俺達はあくまで政府の依頼で動いている身であって、政府はランド・ウォーカーだけのものではない。地底人とのいざこざは最低限にとどめたいんだ。あんた達にとっては軍紀だか何だか、ルールがあんだろうが、俺達はなるべく表立って人を殺したりしたくない」
「なるほど、分かりました。表立っていなければ良いと言う事ですね」
「そうだ」
カエデは頷いて淡々と言う。
「では、貴方がたが関与する場合、極力人命優先の行動を取りましょう。ですが、先の大松の一件は我々の作戦に大きく影響するものであって、貴方がたの立場を考慮した判断はできませんでした。今後も場合によってはそうした事が起きるでしょう。その点はご了承下さい」
「分かった」
カイが納得して頷くと、カエデはふとあの手紙の事を口にした。
「大松の妻が持っていたあの手紙、まだ持っていますか」
「ああ、持ってる」
「まさか、本気でレイに渡すつもりですか」
「青函トンネルが開放されれば、あんたがあの女の代わりに報酬を支払ってくれた事になる。あんたもあの時自分が代わりに払うと言ったよな。だからトンネルの成り行き次第だ。でも、あんたは絶対にあのトンネルを開かせる。そのために女を殺したんだから」
「……レイに渡すと言う事ですね」
「そうだ。何か不都合でもあるのか?」
するとカエデは首を振って小さく口角を上げる。
「いいえ、不都合はありません。ただ、個人的な興味です。どんな内容の物を読んで、レイがどんな表情を見せるのか」
カエデの意外な発言に、カイとタケルは不可解そうに彼女を見た。当のカエデは眼鏡の向こうで遠くを見つめるように視線を泳がせる。その表情にはどこか幸福の類が見て取れた。
「……何それ」
漸く見付けた言葉をこぼしたのはタケルだ。目を丸くする二人に、カエデは大真面目に言った。
「私はレイを見ている瞬間が一番幸せなのです。だから、レイがその手紙を読んだ時、どんな顔をしてどんな行動を取るのか、それを全て知っておきたい。そのためには手紙を読まなければならないでしょう?」
「要するに、あんたはレイの事が好きって意味で合ってるよな?」
タケルの思い切った問いに、カエデは首を傾げる。カイは興味の無い話題になり、頬杖をついてそっぽを向いていた。
「好き……さあ、どうなのでしょう。愛着と言うものがこの事なのか、それは私にも解りません。ただ、私は美しい人を見るのが好きなのです。美しさにも様々ありますが、レイには私がこれまで見て来たどんな美しさにも勝るものがあります」
タケルはますます混乱してくる。
「え? 美しい? レイって男だろ?」
「ええ、レイは男性です。美しさとは男女問わずあるものですよ」
「そ、そうなんだ。えっと、例えばどんな感じ? レイってどんな奴なの?」
「そうですね……」
カエデは改めて周囲を見回し、ふとカイに視線を向けた。
「例えば……レイもカイのように白く滑らかな肌をしています。とても陸自の隊員とは思えないほど美しい肌です」
カエデの指が、そっぽを向いたままのカイの頬へ触れる。その瞬間、カイは肩を跳ねさせてカエデを振り返った。
「やめろ!」
「ああ、失礼」
そんなカイを見てタケルは楽しそうに言う。
「それだけ? あとは何か特徴ないの?」
「レイの最大の美しさは、瞳と髪です。レイの瞳は宝石のようで、澄んだ緑色をしています。髪は茶色がかった金色で、絹糸のように艶やかなのです」
漸く話に興味を示したカイは、カエデから少し距離を取ったまま食いつくように言った。
「レイは日本人じゃないのか? いや、国籍は日本だろうけど、民族的には?」
恍惚としていたカエデはふと我に返ってカイを見る。冷たい表情の中にも若干の驚きが見えた。
「ご存知ありませんでしたか。レイは父親がロシア人なのです」
「それでもロシア人を北に追いやってんのか。さすがランド・ウォーカーだな」
「お前もランド・ウォーカーだろ」
感心するタケルに肩を落とし、カイは瞬間的に思考を巡らせた。この先ロシアを通過して行かなければならないのはほぼ確実で、もしもレイを連れて行けたら何か役に立つかもしれないと。レイがロシア語を話せれば、ロシア人達を極力警戒させずに進めるだろう。自分達も行動し易くなるはずだ。
その時、カエデが突然手を差し出した。
「そう言う訳ですので、手紙を読ませて下さい」
「読ませてやるが、ここで読んですぐに返せよ」
「はい」
カイはアタッシュケースから手紙を取り出してカエデに渡す。カエデは封筒から紙を取り出し、僅か数秒目を泳がせるとすぐに封筒に仕舞って寄越した。
「読まねえのかよ」
手紙を受け取りながらカイが眉を寄せると、カエデは無表情のまま言う。
「読みました。読み終わったのでお返ししたのです。貴方がそうしろと言ったでしょう」
「読むの速っ!」
驚きに目を丸くするタケル。カイはただ平然と手紙をアタッシュケースに戻していた。そんな二人を残してカエデは席を立つ。
「かなり意気込んで書かれたもののようですが、それを読んだレイがどんな反応をするか、手に取るように分かる気がします」
「レイなら何て言う?」
興味津々なタケルに、カエデは眉一つ動かさずに言った。
「ふうん。ただそれだけかと。それでは、お邪魔しました。明日にはここを出ますので、今日は早めに休んで下さい」
そう言って去って行くカエデの背中を見ながら、タケルはぽつりとこぼす。
「あれって、恋する乙女ってやつなの?」
カイは大きな溜息と共に吐き捨てた。
「乙女じゃないのは確かだ」
陸自の連中に呼び出された大松が戻り、青函トンネル内のシェルターは不気味な静けさに飲み込まれていた。シェルターに居る全員が、大松が生きて戻ってくるとは思っていなかったのだ。だが、大松は女の死体を抱いて戻って来た。狭い通路の扉を潜り、シェルターの天井から降り注ぐ白色の光に照らされた大松。その腕の中に眠る女が、彼が手紙を出したという妻だと全員が悟る。
そこへ竹内がやって来て、妻をソファに横たえる大松に声を掛けた。
「大松」
大松は何も言わずに頷き、周囲で固唾を呑んで見守っている男達に言った。
「皆、ここまでよく戦ってくれた。青函トンネルを占拠するなんて、信じられない大博打だったな。それでも俺達は戦争を止めるために命を懸けた。だが、敵が悪かった。俺達の敵は日本人で、そして……人間の中の人間だった」
そして冷たくなった妻の頬に手を伸ばす。
「皆も察しているだろうが、この遺体は俺の妻だ。妻は妊娠していた。奴等は妻が自殺したと言って来たが、実際どんな経緯で死んでしまったのかは誰にも分からない。だが、こうして遺体を寄越したと言うのは確実に脅し以外の何ものでもないだろう」
大松は志を同じくした男達を改めて見やった。
「俺は函館へ戻る。勝手な言い分で申し訳ないが、許して欲しい。俺が死ぬのは良いが、家族が死ぬのは耐えられない。だから、皆も自分にとって最良の選択をして欲しい。こうなった以上……、誰も責めはしないさ」
ロシアとの戦争や道民の生活を支える青函トンネルを占拠すると言う、命懸けの抗議運動に出た男達だが、今やすっかりどよめきの中に息を潜めている。
そのどよめきの中、大松は竹内を振り返った。
「竹内、お前に頼みがあるんだ」
「何だ」
「俺と一緒に函館へ来てくれないか。叶を故郷に葬ってやりたいが、俺一人では無事に戻れるか不安なんだ。俺は見ての通り陸自に目を付けられている。道中、命を狙われるかもしれない。もし俺が死んだら、お前が叶を函館へ連れて行って欲しいんだ」
竹内はすぐさま力強く頷いた。
「分かった」
「ありがとう」
翌日の朝、カイは函館を去る日と言う事もあり、早く起きて少ない手荷物をまとめていた。一番重要なアタッシュケースの中身を確かめていると、あの手紙が目に留まる。手紙を取り出し、ベッドに腰かけて改めて読み始めた。
青函トンネルを占拠するなどと言う大胆な行動に出なければならないほどの窮状、政府への要望、そして自分達の決意が書かれている。白い便箋は涙に濡れて波打っているが、この涙はきっと叶のものだろう。この力強い手紙を書く人間が、涙を流しながら綴ったとは考え難い。
「おはよう。早起きだな」
背後でタケルの声が聞こえ、カイは手紙を封筒に仕舞ってアタッシュケースを閉じた。
「今日が出発なんだ。当然だろ。お前もいつまでも寝てんじゃねえよ」
「はいはい」
気の無い返事をして起き上がり、タケルは窓辺まで行く。窓の外に広がる海は、まだ弱々しい朝日を受けて僅かに煌めいている。その景色を見ながら伸びをして大きなあくびを一つ落とした。かすかに明るむ空には雲一つない。
「今日はきっと天気良いぞ」
「雨が降ると道がぬかるむから、晴れるに越した事はないな」
振り返ったタケルは溜息と共に肩を落とした。
「お前さ、晴れて気持ち良いな、とか純粋に感じねえの?」
カイはタケルを一瞥して吐き捨てる。
「感じねえな」
「つまんねえ人生だな」
「この世の中に面白え事なんて、何かあんのかよ」
タケルは聞いているのかいないのか、顔を洗いにタオルを持って部屋を出て行った。一人残されたカイは、さっきまでタケルが立っていた場所に立ち、窓の外を眺める。窓を開けると、まだ黒い霧が混ざっていない透き通った風が流れ込んだ。夏だと言うのに、涼しい風だった。少しずつ明るくなる東の空は、太陽の光に染められて淡い青と朝焼けの暖色が美しい帯を作っている。
涼やかな優しい風が頬を撫でると、カイは目を閉じてゆっくり息を吸った。海の香りがする。東京を出て初めて海から昇る朝陽と言うものを見たが、この瞬間はいつでも気持ちがいい。タケルには面倒でああ言ったが、思えば今のような瞬間が楽しみにもなっている事に気が付いた。
「貴方を見る事も、北方領土へ行くまでの楽しみになりそうです」
突然耳元で聞こえた声に、カイは驚いて飛び退く。
「そんなに驚かなくても」
「お、お前……」
そこに居たのはカエデだった。足音にも全く気付かず、カイは逸る心臓を落ち着かせるために深呼吸する。その様子に、カエデは淡白な表情の中に僅かな笑みを見せていた。
「貴方がたの車両が到着しました。朝食を済ませて、一時間半後にここを出ます。そのつもりで準備しておいて下さい」
「……分かった。頼むから、こっそり近付くのは止めてくれ」
するとカエデは首を傾げる。
「こっそり? 普通に入って来ましたよ」
「じゃあ、俺が気付かない内に話しかけないでくれ」
「なるべく気を付けるようにしましょう。では、また後程」
部屋を出て行くカエデと入り口ですれ違ったタケルは、窓辺に立つカイに快活な笑みを投げた。
「なに? 朝から密会?」
「んな訳ねえだろ! いい加減、そう言う思考回路何とかしろ!」
「俺みたいに健全な人間が居ねえと、人類が滅亡するぞ」
「勝手に滅亡しろ。車が着いたそうだ。朝飯をここで食って、一時間半後に出発するぞ」
「はいよ」
二人が食堂へ行くために部屋を出ると、廊下の壁際にモトイが立っていた。壁に背を預けていたが、二人の姿が見えると背を起こして立ち、こちらへ向き直る。
「よう」
カイは足を止めてモトイをじっと見据えた。モトイはいつものように爽やかな笑顔を見せている。
「……モトイ」
「今日でお別れだな。健闘を祈る」
「別れる前に、お前に訊きたい事があったんだ」
モトイはカイの疑問を概ね予感していたようだった。カイが言う前に自らその疑問を口にする。
「あの女を陸自に引き渡した見返りに、俺が何を得たのか、だろ?」
「ああ」
するとモトイは自分が着ている青い迷彩柄の服を示す。
「俺がこれを着るのも、今日で最後なんだ。俺はあの女を渡す代わりに、自衛隊を辞めたいと言ったんだよ。君達がここを出発するのと一緒に出るつもりだ」
するとタケルが不思議そうに言った。
「自衛隊って辞めるのそんなに大変なのか?」
「まあな。ただでさえ人手不足な上に、そもそも使命感やら集団意識やらを持ち合わせないランド・ウォーカーにやらせてるんだ、命を代償に使役しなければ組織が成り立たない。少なくとも今はそう言う方針なんだよ。俺はずっと、そう言う窮屈な組織から抜け出したかった」
「またとない機会を得たって訳か」
モトイはカイに頷き、嬉しそうに微笑む。
「ああ、そうだ。カイ、お前は自分が損をしたと思ってるかもしれないが、お前の報酬はしっかり前払いされた。後で伊山三佐から話があるだろう」
そう言うと、モトイは二人に背を向けて廊下の奥へ消えて行った。
食堂へ着くと、時間が早かったようでまだ誰も来ていなかった。カイとタケルはとりあえず配膳台に食事が並ぶまで座って待つ事にした。すると、厨房の奥からあの給養員のトオルが大きなトレーに盛られた料理を持って出て来る。
「あ、おはよう」
いち早く食堂へ来ている二人に気付き、トオルは料理を並べると、笑みを浮かべてやって来た。
「随分早いね。まだ準備中だよ」
「良い匂いだな!」
そう言って厨房の方を見やるタケルに、トオルはにこりと微笑む。
「今朝はイカ飯だよ」
「美味そうだな!」
すると、それまで笑顔だったトオルの表情に、一瞬雲がかかった。
「そう言えば、君達を案内してきた藤木一尉は自衛隊を辞めるんだって。あの女の人を陸自に引き渡して、作戦遂行に貢献したから」
「さっき本人から聞いた。俺達が行くのに合わせて出て行くって。あいつがここを出たがってたとは思わなかった」
カイがそう言うと、トオルは周囲を見回してから声を潜めて言う。
「ここを出たい人はわりと居るんだよ。外の仕事より報酬が良いし、衣食住も保証されるから居るって言う人が殆どだけどね。だってここは、ほら、退屈じゃん?」
「お前も辞めたいの? お前はここで料理してるのが合ってると思うけどな!」
あっけらかんと言うタケルに、トオルは苦笑する。
「合ってる? そうかな、そうだと良いけど」
そこにカイの重たい声が割って入った。
「なあ、今度は何が目的で俺達に話しかけに来たんだ?」
「え? 目的?」
「カイ、そんなに尖るなって。日常会話に目的なんてねえだろ」
カイはタケルを一瞬睨んで、再びトオルの方を向く。
「お前が最初に話しかけて来たのは、陸自が来る時間に俺達を基地の外へ出すためだった。今度は何のためだ?」
するとトオルは苦笑して肩をすくめた。
「ああ、あれは文句を言われても僕にもどうもできないよ。だって上官命令なんだから。今日はただ話しかけただけだよ。僕の意思でね」
「……ふうん」
「こいつさ、すげえ根に持つタイプだから」
「カイくんは、どうしてあの女の人の事をそんなに気にするの?」
トオルはその純粋な瞳を真っ直ぐカイに向ける。カイはそんなトオルから目を逸らして、ぼそりと答えた。
「あの女は俺と取引をしてた。だからだ」
「でも、君が受け取る報酬は伊山三佐が代わりに払うって言ったそうじゃない。だったら何も問題ないんじゃないかな」
「俺は……ああ言う手合いに死なれるのが嫌なんだよ」
「どうして?」
カイは視線を床に泳がせたまま言う。
「ああ言う奴等が死ぬと、その度に何かを託されていくような気がする。それが嫌なんだ」
それを聞いたトオルは不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。
そんな話をしていると、食堂へ緑の迷彩が何人もやって来た。
「おっと、仕事に戻らないと。話せて良かったよ。この先も気を付けて行ってね」
厨房へ戻るトオルに手を振るタケル。カイはその背中を見ながら眉を寄せた。
配膳台に全ての料理が並び、カイとタケルはそれぞれ自分が食べる分を取って席に戻った。するとカイの隣にカエデがやって来て、自分の盆を置いて座る。
「隣に失礼します。報告がありますので、食事をしながら良いですか」
カイは警戒しながらも頷いた。
「部下から報告があり、大松一平が青函トンネルを出たとの事です。残った仲間も大松の妻が死んだのを見て、その多くがトンネルを去る意向だそうです。彼女の死も無駄ではありませんでしたね」
「じゃあ、トンネルが開放されるのも秒読みだな。良かったな、カイ。お前の報酬はちゃんと手に入りそうだぞ」
イカ飯を飲むように平らげていくタケルの向かいで、カイは味噌汁を飲み干して言う。
「大松の動向はまだ分かるが、トンネル内の仲間の動向も分かるって事は、あんたの部下が中に居るのか」
するとカエデは僅かに微笑んだ。
「それに関する直接的な返答は控えます。ですが、一つ言うとすれば、地底人が我々の振りをする事はできませんが、我々は地底人の振りをする事ができます」
「そうか。あんた達も手広くやってるんだな」
「ええ、当然です」
それから朝食を食べ終えた二人は食堂を出て、荷物を持って外へ出た。建物の外には見慣れたジープの姿がある。離れていたのはたった数日だったのに、東京からここまで寝食を共にしてきた車を見ると、どこか落ち着く気がした。
車のドアを開けるなり、カイは後部座席やトランクを確認する。秋田で手に入れた猟銃は後部座席の下に隠してあったが、どうやら漁られていないようでそっくりそのまま残っていた。その他の荷物も確認したが、どれも変わらず残されている。
「良かった。物色はされてねえな」
カイは運転席に乗り込み、助手席のタケルに言った。タケルは身をよじって後部座席を眺める。
「なんだか懐かしいなー」
「こいつには行けるとこまで頑張ってもらわないと困るからな」
「そうだな」
カイはエンジンをかけ、前に並ぶ陸自の車両に続いて基地の門へ向かって動き出した。タケルは助手席のシートにもたれ、サイドミラー越しに基地の姿を眺めているが、ふと口を開く。
「モトイだ」
その呟きに、カイは助手席側のサイドミラーをちらと見た。そこには確かに大きな黒いバッグを持って基地を出て行くモトイの姿がある。モトイは徒歩で出て行くようだ。
「どこに行くんだろうな、あいつ」
タケルの疑問に、カイは一言返した。
「さあな」
するとタケルが少し前に身を乗り出してミラーを覗き込む。
「……トオルも一緒だ」
「は?」
カイは前を行く車に追突しないよう気を付けながら、もう一度ミラーを見た。言われなければ分からなかったが、モトイの後方に小さくトオルの姿がある。
「やっぱりな」
「やっぱりって何が?」
カイはまっすぐ前を見てハンドルを握りながら言った。
「今朝あいつが俺達に話しかけて来た理由だよ。あいつはモトイが俺達と接触するのを知ってたんだ。それで情報を漁りに来た。言っただろ、モトイは俺達がここを出るのと同時に出る予定だって」
「便乗して逃げるとか?」
「いや……違うと思う」
モトイは支給品のバッグに荷物を詰め、肩から斜めにかけて門へ向かって歩いていた。清々しい朝日と、夏の朝の爽やかな風が心地良い。こんな日にこの監獄を出られるのだから、幸先が良いとしか言いようがない。
陸自の車両が列をなして次々に門の外へ出て行く。この列のどこかにカイとタケルの車両もあるのだろう。外見が同じなのでどれかは分からないが。そんな事を考えながら歩みを進めていると、ふと背後で微かな足音がする事に気が付いた。車の走行音で殆ど掻き消されているそれは、意図的に気配を隠そうとしているようだ。
咄嗟に背後を振り返ったモトイの視界に、朝日を受けて煌めく何かが映った。次の瞬間、トオルが振り上げた出刃包丁がモトイの黒いバッグに突き刺さる。固く丈夫な生地が鈍い音と共に鋭利な刃を受け止めた。モトイは咄嗟にバッグを盾にしたのだ。
「お前……!」
トオルは包丁を抜き取り、再びモトイに斬りかかる。だがモトイはその一撃をバッグで弾き、トオルごと突き飛ばした。トオルは地面にしゃがみ込んだまま、モトイを睨み上げる。
「藤木一尉……いや、元一尉……。僕を踏み台にして、一人だけここを出て行く気ですか」
モトイは、普段の爽やかな笑みからは想像もできないような冷たい視線をトオルに落とした。
「踏み台? 部下が上官の命令を聞くのは当然だろうが」
そのあまりにも冷たい目にトオルは自分の非力さを恨み、下唇を噛みしめた。だが再び立ち上がり、出刃包丁をモトイへ向ける。
「僕だって……ここから出たいんだ。外の世界で自由に生きたい。あんただけ逃げ出すなんて、許せない!」
突き出された切っ先を的確にかわし、モトイはトオルの腕を掴んで捻り上げ、包丁をむしり取った。そしてそのままトオルが動けないように背後から腕で抱え込み、彼の首筋に包丁の冷たい刃を当てる。呼吸を忘れたトオルの喉を、一筋の赤い血が流れて行った。
「トオル、ここはまだ基地内だ。基地内では自衛隊の規律が適用される。お前は今、その規律があるおかげで俺に殺されずに済んでるんだ。これが基地外だったら、俺は迷わずお前を殺した。自分が自衛官で、この環境に守られている人間の一人だと言う事に感謝するんだな」
「か、感謝……だって……」
トオルの声は恐怖に震えていた。一方で、モトイの声は錨のように重く沈んでいる。
「お前は大人しく給養員をやってろ。お前の天職だろ。外の世界へ行けば、地上は無法地帯だぞ。地下に入れば、どの道地底人どもの世話をしなきゃならねえ」
そう言うと、モトイは包丁を海へ投げ捨てた。包丁は一度朝日を受けて煌めき、高い音を立てて海に沈む。
モトイの腕から開放されたトオルは、ただその場に膝をついて輝く海を呆然と眺めていた。そして、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。朝日が照らすトオルの頬を涙が静かに流れて行った。
「……僕は、自由になりたいんだ。誰にも使われず……誰のためでもなく……自分のために、生きたいんだ……」
波に消されそうなその声を聞き、モトイは足を止める。
「自由ってのはな、強い人間だけが手に入れられる最高の報酬なんだよ」
振り向かずに吐き出された言葉だったが、トオルには耳元で囁かれたようにはっきりと焼き付いた。
大松と竹内はトンネル内に常備されている電気自動車に乗って函館へ向かっていた。トンネルは非常時のシェルターとしても機能するように改造されているので、ランド・ウォーカー以外の人間も安全に移動できるよう、空気清浄機能の付いた特殊車両が用意されているのだ。二人はその車両に叶の遺体を乗せ、夜通し走って函館の居住区へ向かっていた。
「竹内、運転を代わろうか」
助手席の大松が、ヘッドライトに照らされる道を見ながら言う。北海道は戦時と言う事もあって本島よりインフラが整備されている。特に青函トンネルから伸びる道は、車両が円滑に移動できるよう、入念に管理されているのだ。そのおかげで移動にさほど労力を掛けずに済んでいた。
「いや、居住区はもうすぐだし、このまま行こう。陸自の奴等がどこで見張ってるかも分からないんだ。なるべく止まらずに移動した方が良いだろう」
竹内はハンドルを握りながらしっかりとした口調で言った。その言葉を聞き、大松は運転席の若い男を見て口角を上げる。
「お前が居てくれて良かったよ、竹内。俺一人だったらヤケを起こして……死んでいたかもしれない」
「奥さんが亡くなった事はショックだろうが、あんたが死んだら俺達はずっとランド・ウォーカー達の奴隷として生きなきゃならないんだ。諦めないでくれよ」
大松は苦笑して助手席のシートに背を埋める。
「そうだな……。せめて、ランド・ウォーカー達に同じ人間として扱われるようにな」
「前にも言ったと思うが、俺がいた居住区はランド・ウォーカー達の横暴で多くの餓死者が出たんだ」
眉を寄せる竹内の目に、遠く東から昇る朝日が映った。
「ああ、知ってる。旭川だろ。まだ函館で市長をやってた頃に測量士から聞いたよ。かなり酷かったらしいな」
「酷かったよ。この世の地獄だと思った。だから俺は、絶対に諦めない。ランド・ウォーカー達に好き放題させるのだけは御免だ」
ハンドルを握る竹内の手に力がこもるのが分かった。大松は徐々に存在感を無くしていくヘッドライトの光をぼんやりと眺めて言う。
「ランド・ウォーカー達は、地上で電力や水を調達するのも、命懸けで戦うのも自分達なんだから、それを支えるために俺達がどんな目に遭おうと当然だと思ってるんだ。確かに、俺達は防護服無しでは地上へ出られない。だが、それは俺達が望んでそうなってる訳じゃないもんな」
「そうだ。誰が望んで地下に籠るかよ」
「俺は、確かにランド・ウォーカー達を憎んでいる。けどな、そんな俺にも理想はあるんだ」
「理想?」
大松の言葉に小さく首を傾げ、竹内はヘッドライトを消して海沿いの道を進んで行く。
「ああ。笑われるかもしれないが、俺達とランド・ウォーカー達が互いに尊重し合って生きられる世界、それが俺の理想だ」
まさかと言わんばかりの目で、竹内は大松を振り返った。
「それは……確かに理想だな。奴等に尊重なんて言葉は理解できっこない」
「そうだよな。いや、心の底から尊重してくれとは言わないさ。尊重する振りで良いんだ。振りなら奴等にもできるだろ」
竹内は一度小さく息を吐いて気の無い返事をする。
「さあ、どうだろうな」
それから暫くの間、車は徐々に眩しくなる朝日を浴びながら静かに走った。大松も竹内も互いに口をつぐんだまま、ただ函館居住区の入り口だけを目指していた。漸く居住区の場所を示す標識が現れた頃、竹内が鉛のように重たい声でぼやく。
「俺達だって……尊重し合って生きるなんて、できるのか……。俺達がまだ地上に出る事ができた時代だって、世界中で戦争があったんだ。俺達も所詮は……」
「竹内」
大松の声が鋭く響き、竹内は言葉を呑み込んだ。
「お前の言いたい事はよく解る。俺達はずっとそれを認めたくなくて、目を逸らして生きて来た。けど、言っただろ、俺が敵に回したのは人間の中の人間だって。俺達もランド・ウォーカーも、所詮はみんな人間なんだ」
「それなのに……排除されるのは俺達だ」
「霧か……」
大松は窓の外に視線を泳がせる。眩しい朝日の中に薄く墨を垂らしたような靄が見えた。今この車に乗っていなければ、自分達は逃げる間もなくその場で死ぬ事になる。いったいどうしてあんなものが現れたのか、未だに誰も解明できずにいる。
眩しい光に混じる黒を眺めながら、大松は苦笑混じりに言った。
「もしかしたら、俺達の方が嫌われちまったのかもな」
「嫌われる? 誰に?」
「この星にさ」
二人と叶を乗せた車は函館居住区の車両用出入り口から中へ入った。ここは東京の居住区のように地下へ伸びる長いスロープにいくつもの防護壁と空気清浄機があり、そこから車両ごと入る事ができるようになっているのだ。
居住区と駐車場とを隔てる防護壁にはインターホンが取り付けられていて、大松はそこで呼び出しボタンを押した。少しして中から返答があって大松が自分の名を名乗るなり、分厚い防護壁はすぐさまその口を開いたのだった。
函館居住区は北海道の中でも要所に当たる場所なので、防護壁の向こうは地上の街さながらの景色が広がっている。巨大な地下空間の天井まで届く集合住宅が立ち並び、行き交う人々は活気に満ちていた。天井から降り注ぐ照明は太陽光の強さに合わせて調節され、今は爽やかな朝日を思わせる白色だ。
大松と竹内が広い中央通りを進んでいると、奥から一人の若い男が駆けて来るのが見えた。
「大松さん! 竹内さん!」
「菊池!」
大松は黒い死体袋を抱えたまま男を呼ぶ。菊池と呼ばれた男は二人の前で足を止め、すっかり上がってしまった息を整えながらも大松の抱える袋を見て目を細めた。
「大松さん……申し訳ない……まさか、それは……」
大松は何も言わずに頷いた。菊池は強く目を閉じ、悔しさに顔を歪める。
「詫びる言葉も無い……。叶さんは漁船に乗せてもらって本島から戻って来たと言って、突然やって来たんだ。それで、大松さんを説得に行くから防護服を貸して欲しいと言って……。俺達も日に日に陸自の奴等からの圧力が強くなっていて……何かお互いに妥協できる可能性があるかもと……叶さんを行かせちまった……」
「叶が死んだのは、俺のせいだ。他の誰のせいでもない。皆にも迷惑をかけてしまって、悪かったな」
「大松さん……!」
菊池は大粒の涙を手で拭い、大松を見て首を振った。
「迷惑なもんか。ただ、俺達は……ここを第二の旭川にする訳にはいかなかったんだ……許してくれ。まさか叶さんの身にこんな事が起きるだなんて……」
大松は菊池の震える肩に手を置き、穏やかに返す。
「留守をお前に頼んだのは正解だった。お前はここの皆を守ってくれた。ありがとう」
「…………」
菊池はただ、涙の中で俯いていた。
「菊池」
ふと投げられた声に、菊池は涙に濡れた顔を上げる。目の前の大松は、石のように固く冷たい表情だった。
「リョウヘイはまだ居るのか」
菊池は思いもしなかった名前に眉を寄せるが、とにかく小さく頷く。
「……はい。五年前に大松さんが決定した通り、居住区内の刑務施設の独房に居ます」
「分かった。叶の葬儀をしたい。準備を頼めるか」
菊池が頷くのを見届けて、大松は死体袋を彼に預ける。そして竹内に向き直り、その目を真っ直ぐ見て言った。
「竹内、一緒に来てくれ。俺がリョウヘイに殺されないように、いざと言う時は手を貸してくれ」
「ああ。でも、今更弟に会ってどうする気なんだ?」
足早に歩き出した大松の後に続きながら、竹内は昨日からずっと抱えている疑問を口にした。先を行く大松の背中からは、今まで以上に張りつめた声が戻って来た。
「戦争を止めるには、もうこれしかない」
「これって……?」
大松は行き交う人々の間を縫いながら、居住区の更に深部、刑務施設を目指して進む。その足取りに迷いは無かった。
「レイを殺す」




