第四記 不老不死
「先生、何を調合したんだ?」
お前の思う通り人魚の肉だ。
「それって須佐じゃ禁忌だって言ったじゃないか?!」
うん、けれど不老不死の薬ではないし、他にもいろいろなものを混ぜた。万能薬だよ。不老不死は禁忌だが、基本的にこれを飲めばほとんどの病は治る。人魚の肉は万能薬になることを発見したんだ。つまり、大量に作り置きが出来るんだよ。「水妖薬」と名付けた。
「すいようやく?」
水妖=人魚の別名だよ。今の時代は病で若く死んでしまう者が多い。薬が行き渡らないからだ。そう、わたしやおまえが現地に行って状態を聞き、薬を調合する。それでは無駄な時間がかかる。
「そうか、おらたちが行かなくても薬だけ届ければ良いわけだ。全国にいっせいに送れる」
日向は自分たちのことも考えていた。そう、昔、族長の武角に言われた一言だ。
「日向、おまえの受容が人間界で多くなってきた。それだけおまえは下界に滞在しなければならない。つまり短命で死ぬ。わたしはそうはさせたくない。なんとかならないか?と日々思っている」
その答えになるのか?そう、この薬は日向や平太にも向けた薬なのだ。
調合を少し変えれば俺や平太は長寿を望める・・・。
「す、すごい薬だね!先生」
人魚は干し肉にした。これを部落に持ち帰って武角さまに許可をもらおう。
そう云えば、不老不死の薬を求めて昔、秦から海を渡って来たものがいたな。
不老不死の薬など、この世には必要ない。自然の法則を無視することだ。
人魚はこの世のものでは無いし。
「何言ってんだ、先生、虫の善い勝手な話じゃな」
〇徐福と不老不死
1700年ぐらい前、徐福と言うものが、秦の始皇帝の命で3,000人の童男童女(若い男女)、百工(多彩な技術者)を従え、五穀の種(麻・黍・稷・麦・豆)を持って東方を目指し「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となって戻らなかった。
孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、崇神天皇の時に死んで神となり人々に祭られた。
参照:朝鮮「海東諸国記」
「竹内文書」には日本に徐福が来て、天皇に会ったと書いてある。
富士吉田の神社には「宮下文書(富士古文献)」と云う徐福が編纂した伝承がある。史記には「徐市」とありますが、宮下文書では「徐子」と書かれ、「徐子 仁博」とされている。
富士山には6,000年前から長寿の人達が住んでおり、宮下文書には、大和朝廷以前の歴史が書かれている。富士文書、あるいは徐福文献とも云われ、古代富士山長寿国が書かれている。此処は富士高天原王朝と呼ばれ、紀元前約9世紀(縄文後期)頃に成立し、古代第1神朝~第2神朝の期間が2670年間で富士高天原王朝は第2神朝になり、神皇が22代とある。これを平均で割っても一代在位年数が121年!になる。
宮下文書は徐福の子孫たちが、受け継ぎ加筆され、1,400年頃の記録で終わっている。
徐福一行が平原広沢に永住し、子孫は「秦(はた~訓読)」姓を名乗ったと伝説にある。
富士吉田市では、徐福は此処で亡くなったとしている。彼は徐の姓を使うことはしなかったそうで、秦、羽田、波田などの姓が多い。
宮下文書の噂を聞いた厩戸皇子(聖徳太子)が朝廷より派遣され此れを見せられた。皇子は驚嘆し、其の事を日記に記した。皇子は秦河勝(はたのかわかつ~太秦執政に関わり、日本の舞楽、能の始祖、雅楽の東儀家は直系の子孫とされている)を気に入り、同行させ近臣にした。皇子の史書に天馬黒駒に股がって奈良の飛鳥と富士を行き来した。
其の後、厩戸皇子は「天皇紀」「国記」「旧事紀」を編纂したが、蘇我蝦夷は息子の入鹿を殺害された悔しさに、厩戸皇子が編纂した書物を入れた庫を放火し自殺した。全てを焼失してしまった。天武天皇の命により再編纂されたのが「古事記」なのだと云う。
徐福は不老不死の薬を見出せたのだろうか?それは出来なかったに違いない。
比丘尼どの、あなたがわたしたちにしたことは許そう。巡り巡って「水妖薬」が出来た。それにあなたの医療への思いも本気だとわかった。
「とは言え、ここから出られなければ」
大丈夫。
「え?」比丘尼は目を見開いた。
「先生!なにか方法があるべか?!」