北斎漫画
葛飾北斎という名を聞いたことがあるだろうか。彼は江戸時代の浮世絵師である。ここでは、彼の業績を綴ることはしない。それは他に譲ることにする。ただ、彼は西暦1849年にこの世を去る。齢数え90歳。彼の死後4年後に、北斎が訪れたであろう神奈川横須賀浦河沖に東インド艦隊司令長官ペリーが来航し明治維新を経て、日本は近代国家への道を歩み始める。これは、それから20年程の歳月が経った頃のお話である。
東京の街が憲法発布の大祭に沸く、1889年2月11日。新橋駅のホームを一人の和装の男が歩いていた。
「宮城はどちらでしょうか?」
「駅を出て右手にあります。」
「ありがとうございます。」
絣の着物を着た背の小さいやせ型の男は、紺セルの制服を纏った駅員に尋ね終わると、駅を出た。
駅の外には、笠をかぶった人力車夫たちが、煙管を吹かせながら客を待っていた。
「宮城まで回せるかい?」
「あいよ。」
男を乗せると人力車は走り出した。
「旦那は東京見物ですかい?」
「そんなところだね。」
「なんならあっしが案内しましょうかい?」
「どこか面白いところがあるのかね?」
「まかせてくだせい。」
車夫は車を走らせて行く。
「あれが日比谷の練兵場です。」
人力車は、有楽町方面へ向かった。通りには、和装、洋装種々様々な格好の人がいる。
「ちょっと止めてくれないか?」
「へい。」
左手には宮城が鎮座している。
「そうだ。上野に回してくれないか。」
「へい。」
車夫は車を上げた。
湯島聖堂を抜けて上野公園まで来た。
「ご苦労さま。」
男は十銭銅貨三枚を車夫に渡した。
「ここが上野の森…。」
「お待ちどうさま。」
男のもとに現れたのは、絣の和服を着た若者であった。
「私が志方之善と申します。」
その男は熊本訛りがあった。
「葛飾余慶です。」
「歩きましょうか。」
志方は足を出した。
「上野の森は草花がきれいですね。」
「ナショナル・パークというそうです。」
上野はもとは寛永寺の敷地である。彰義隊との戦いで焼けてからは、陸軍の用地として接収される予定だったが、オランダ軍医ボードワンによって、公園として整備された。
「さっそくですが、貴公の噂はお聞きしております。」
志方が足を止めた辺りは動物園の傍であった。
「どのような噂でしょうかね。」
余慶は辺りをきょろきょろと観察していた。
「何でも人の業をスケッチに写すと。」
「ほう。それはどういう意味にあなたはお考えですか?」
「うまく言い表せませんが、あなたにスケッチをしてもらうと、業を断ち切ることができると…。」
「すなわち縁切りのように…ですか?」
「あなたが仰られるのならばそうなのでしょう。立ち話も何です。行きましょう。」
志方が歩みを始めた。がそれは、今来た方向である。
「すみません。私も東京はあまり詳しくなくて。道を間違えました。」
すたすたと歩いて行った。
二人が来たのは可否茶館という二階建ての西洋館だった。店の中には、テーブルと椅子。奥にはビリヤード台がある。
「ここはどのような場所ですか?」
「サロンというところです。文人墨客が集う店と言いますか。空いてる卓子に座りましょう。」
志方と余慶は奥のテーブルに座った。店には他に、背広服の西洋人と書生が一人いるだけである。
「ご注文は?」
二人のテーブルに小袖姿の女性がやってきた。束髪の髪をまかれいと結びに結っていた。
「珈琲を一杯ずつ頼む。」
「はい。」
女性は去って行く。その跡には何かの匂いがした。
「先ほどの話になりますが。実は私の方があなたにお聞きしたいのです。」
志方は両手を卓子の上に突いて、顔を前に出して尋ねる。
「私は基督信徒です。普段は同志社の神学生をしております。なので、業という物は信じておりません。」
「はあ。」
余慶は、志方の方よりも、可否茶館の壁を見つめている。
「私の友人や周りにいる者たちも、基督信徒です。」
「珈琲どうぞ。」
女給が珈琲を二人の卓子の上に並べた。カップに入れられた飲み物からは湯気が立ち上がり、先ほどの女給と同じ匂いがした。
「飲みましょう。」
志方はカップから珈琲を啜った。余慶もそれを真似して珈琲を啜った。
「苦いですな。」
余慶が啜ったその黒汁は苦かった。
「こういう物なのです。」
志方は珈琲を二度、三度啜っている。
「誰が言ったのかは知りませんが、私の絵に業を断つなどと、そのような摩訶不思議な力はありません。」
「では、何故、そのような噂が流れているのですか?」
余慶は珈琲を啜っている。慣れてくると、茶の湯の茶のように、美味な物なのかも知れない。
「志方さんもご存じのとおり。浮世絵の浮世とは、この世のことを指します。この世の、このとは、今とここ。という事です。」
「時と場所ということですか?」
「そう思って頂いて結構。しかし、この世とは、私たちの見知っている世だけを言うのではありません。」
「つまり、あの世という事ですか?」
「うん。」
余慶は珈琲を飲んだ。
「あの世だけではありません。あらゆる時とあらゆる世です。世の中に、ありとあらゆる人間がいるように、それと同じく、ありとあらゆる時と世と思って頂ければ結構です。あくまで例え話ではありますが…。」
「ええ。」
志方も珈琲を飲んだ。
「その中で、今このときを絵にしたのが、私の浮世絵です。」
「写真のようなものですかな。」
「そう思って頂いて結構。空だ…。」
いつのまにか余慶の珈琲は空になっていた。
「今度は練乳珈琲を頼んでみましょうか。おうい。」
「ただいま。」
女給が駆けて来る。
「練乳珈琲を二つくれ。」
「カップを頂いていきますね。」
女給は空いたカップを盆に乗せて、奥へ行った。
「失礼。で、あなたがたが、絵を見て、美醜などを思うように。私も世の中の物事を見て、感じることがあったその物事を絵にします。」
「ええ。」
「なので、何も感じることがなければ、絵にはしません。」
女給がカップに入れた練乳珈琲を持って来た。
「どうぞ。」
「失敬。」
女給はカップを二人の前に置くと、再び奥へ戻っていった。
「こちらかな…。」
余慶は、並べられていたカップをそれぞれに分けた。ただ、カップはどちらも、同じ花柄の西洋茶碗であり、一見すると分からないのだが。
「うん。美味い。」
余慶は練乳珈琲を一口啜るなり、そう言った。
「失礼。なので、描かれた人たちも、その絵を見て何かしらを感じ取るのでございましょう。」
「あくまで、業を断つというのは、絵を見た者の結果であり、葛飾さんの絵はきっかけに過ぎないということですか?」
「そういうことです。それでもよろしいなら、受けますが、どうされますか?」
「お願いします。もとより、怪力乱神は信じておりませんでしたので。」
「分かりました。」
珈琲2杯と練乳珈琲2杯で締めて7銭だった。
「この辺りに下宿屋はありますか?」
「本郷辺りになら、たくさんあります。行きましょうか。」
志方は本郷の下宿屋的屋を紹介してくれた。やっているのは熊本の人らしい。
「下宿代は結構です。もとより、依頼により居所を点々としていますので、今からここが新しい居所になるだけでる。」
「そうですか。とはいえ、私も同じ下宿ですが。」
「そうなんですか。」
志方も上京したときは的屋を定宿としているらしい。
「私の部屋は1階の一番奥になりますから。」
「分かりました。」
余慶は女将に案内されて、部屋へ入った。余慶の部屋は2階の一番奥にあった。
「よいしょ。」
余慶は持っていた大風呂敷と小風呂敷を置いた。中には、和紙や筆、岩絵具などが入っている。
「少し早いですが飯を食べに行きませんか。」
余慶が部屋で休んでいると志方がやってきた。
「蕎麦屋へ行きましょう。」
志方は悪い男ではないが、少々強引なところがある。二人は、本郷近くの信濃屋という蕎麦屋に入った。
「かけともりどちらにします?」
「もりを。」
「では、私はかけで。」
しばらくすると、掛け蕎麦ひとつ、盛り蕎麦ひとつが運ばれて来た。
「志方さんはどういったことから、私に絵を頼んだのですか?」
蕎麦をつゆに浸しながら、余慶が聞いた。
「私は、北海道にインマヌエルを建てることが夢なのです。」
「インマヌエル?」
「桃源郷と言いますか。基督のことであり、神は我らと共にあるという意味です。」
志方も蕎麦を啜った。
「同士がいるのですが、彼らと、既に、府議の犬養氏より、開拓の御墨付も頂いております。」
「ほう。」
北海道の開拓などという話は余慶からしたら、とひょうもないことのように思われた。
「その中で、どうしても我々の同士になってほしい御方がいるのです。」
「ええ。」
余慶は蕎麦をつゆに浸した。
「その御方も、我々の夢に賛同して下さっているのですが、周囲の者が、私と彼女の結婚に反対するのです。」
志方は、音を立てて、激しく蕎麦を啜る。興奮しているのかもしれない。
「その御方というのは、ご婦人なのですか。」
てっきり余慶は、男だと思って聞いていた。
「ええ。彼女は医者でして、今は黒門町で医院を開いています。」
「それは大層、ご立派だ。」
「それ故、周りの者たちは、私には過ぎたる婦人だというのです。」
「はあ…。」
聞くところによると、その彼女は、政府の行う医師試験に合格したちゃんとした医者であり、日本基督教婦人矯風会風俗部長も務めている女性だという。
「四月には、東京女学校の講師を務めるということですが。」
「それはまた。」
周りの者たちからしたら、地に足を付けて歩いているその女性には、インマヌエルなどという夢想を企てている志方とは釣り合わないというのであろう。
「小父貴などは、吟子殿は、おどんに騙されとるとう言いよるのです。」
「はあ。」
分からないでもない。せっかく医師試験に合格したのに、未開の北海道に渡るというのも、突拍子もないことではある。
「おどんには吟子殿が必要なのです。」
「吟子さんと言うのですか?」
「荻野吟子と言います。」
そのことが、どうやって、余慶に絵を描いてもらうことにつながるのかと思って聞いていたが、志方にとっては、それは重要ではなかったらしく、話はそれっきりとなった。
「行きましょうか。」
蕎麦は1銭だった。
「彼女の医院に寄って行きましょう。」
志方は白い鼻緒の薩摩下駄を突っかけた。
「事のついでです。」
荻野吟子の医院へは歩いてすぐだという。夕方の東京の町は、人が多かった。新橋や銀座辺りには、ガス灯も、多く輝いているが、この辺にはちらほらと夕闇を照らしているに過ぎない。
「ここです。」
間もなく目的地に着いた。家の前には『産婦人科 荻野医院』と書かれた看板があった。
「吟子殿は、医院に住んでおります。」
医院は商家の屋敷か何かだった物を借りているのだろうか、二階建てで案外広い。
「ごめん下され。」
志方はそういうなり、がらりと戸を開けた。
「はあい。ただいま。」
どたどたと床板を打つ音がする。
「あら。之喜さん。こんばんは。」
二人の目の前に現れた女性に、余慶はどこか見覚えがあった。
「吟子殿はおりますか?」
「先生なら、奥で論文を書いてますよ。」
女性は余慶にぺこりとお辞儀をした。
「あなた、珈琲の…。」
よく見ると、小袖にまかれいと結びの姿は可否茶館にいた女給であった。
「昼間はどうも。」
にこりと笑った。
「今、先生にお取次いたしますので。」
どたどたと床板の駆けて行った。
「今のは、吟子殿のお弟子の都子殿です。」
「珈琲屋にいた方ですよね?」
「都子殿は、可否茶館で給仕の仕事をしておられます。」
どたどたと音がする。
「中へお上がり下さいと。」
「行きましょう。」
志方は下駄を脱ぎ、足袋に付いた埃をぱっぱっと払った。一方、余慶は草鞋に足袋なので脱ぐのに、手間がかかる。草鞋の紐を解くと、余慶も手拭いで埃を払った。
「遅くなりました。」
志方と余慶の二人が座敷で待っていると、紺鼠の小袖に、束髪を夜会巻にした女性が入って来た。
「医院長の荻野吟子にございます。」
荻野は慇懃にお辞儀をした。
「吟子殿。こちらのお方は、前に話した葛飾先生です。」
「葛飾余慶です。」
余慶も頭を下げた。
「お名前は、之喜様より伺っております。」
「どうも。」
再び荻野がお辞儀をしたので、余慶も会釈した。
「葛飾先生には、絵を描いて頂くことになりました。今、先生は、的屋に滞在されております。」
都子が茶を運んで来た。
「どうぞ。」
茶を運び終わると都子は、お辞儀をして座敷を下がって行った。
「それで、吟子殿。先生のお噂のことですが、あれは、やはり、噂でありました。」
志方は、矢継ぎ早に、可否茶館で余慶に聞いたことを話した。
「それでも私は、先生に絵を描いてほしいと思っております。」
「それは、今のお話を聞き、私もそう思いました。」
志方が話している間、荻野は時折、肯きつつ、黙って話を聞いていた。
「描けるかどうかは、まだ、分かりませんが…。」
二人の熱の入れように、余慶の方がたじろいでしまいそうである。
「それでも構いません。」
荻野が答えた。
「それでは…。」
一通り、話が済むと、二人は医院を後にした。
「また、お越し下さいませ。」
荻野が玄関まで見送った。
翌日から、志方は本郷の教会や知人の宅やらへ行かねばなるまいと言って、忙しそうに的屋を出て行った。
「さあて…。」
余慶は的屋の2階の奥の一室で、荷物を広げていた。荷物の中から、一冊の和綴の本を開き、項をめくる。本には、物事人のスケッチが描かれていた。
「行きますか。」
余慶は冊子と矢立を持って、町へ出掛けた。
「…。」
新橋まで、歩きながら、目に付いた物を冊子にスケッチしていく。
「(人が多い…。)」
町行く人は、余慶からすると、皆、忙しそうに見える。しかし、町を行く人たちからすると、それ以上に、余慶の筆を動かす速さの方が早い。時折、道行く人が、余慶のスケッチブックをのぞきこむが、それらの人たちは、きょとんとした顔で、少しすると立ち去って行く。
「(少し遠出をしてみるかな…。)」
別に余慶は東京が初めてというわけではない。それでも、余慶のスケッチは冊子の項をもう数枚埋めている。
「(何度見ても違うなあ…。)」
余慶に言わせると、同じ場所であっても、同じ景色はふたつとないという。時間やそこにいる人は愚か、その場に流れる風や空気の色や形も、余慶には異なって見える。
「おうい。」
新橋駅まで来た余慶は、駅前の人力車を呼び止めた。
「昨日の旦那じゃあないですかい?」
煙管を燻らせていた車夫は、昨日、余慶を乗せた車夫であった。
「昨日の続きをお願いしたいのだがいいかい。」
「合点でさ。」
吸い殻を掌にぽんと出して、宙に捨てる。
「その姿いいね。」
余慶はその一瞬の光景に何かを感じたのか、その場で冊子に描き止めた。
「旦那は絵描きなんですかい?」
「そうなるかな。」
余慶を乗せた人力車は、東京の町を走って行った。
「旦那は何という名の方なんですかい?」
「うん?葛飾余慶だが。」
時折、人力車は余慶に言われて止まる。余慶が目に入ったものをスケッチし終わると、また、走り出す。
「葛飾ってえと、昔の浮世絵師にそんな名前の方がいたような気がしますがねい。」
「葛飾北斎は、私の曾祖父にあたるお方だよ。」
「へえ。」
「車夫は江戸の生まれかな?」
「爺さんが本所深川で職人をやってましてねい。その頃からの江戸っ子でさあ。」
「でないと、なかなか北斎の名は知らないからなあ。」
「着きました。」
人力車は本所の吾妻橋へやってきた。
「ずいぶんの人だね。」
吾妻橋は二年前に鉄橋に架け替えられており、東京観光名所のひとつになっていた。余慶は車の上から、吾妻橋とたむろする人々の姿を描き止めた。
「余慶ってのはどういうことなんです?」
車夫は煙管に火を点けて、紫煙を燻らせている。
「余計者ってことだよ。私なんぞ。一生懸命働いている人々の姿を傍から眺めているだけだからね。」
自虐ではないが、余慶はスケッチを描きつつ、そう言った。
「それでも、金を貰って生きてるんだから、大したもんですよ。」
車夫の煙管から昇る煙が、昇り龍の如く、天に上がって行く。法被を脱いだ車夫の背中には、登竜門の彫り物が入っていた。
「それもスケッチさせてくれないかな。」
「お安い御用ですよ。」
車夫は諸肌を脱いで、煙管を燻らせていた。
「可否茶館の前で降ろしてくれないかな。」
「合点。」
案内代を乗せて運賃を払うと、人力車は走って行った。
「いらっしゃい。」
余慶が可否茶館に入ると、都子が給仕をしていた。
「あら先生。」
余慶は奥の席へ座った。
「珈琲を一杯下さい。」
「はい。」
店内には、余慶の他には人がいない。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
余慶の前に珈琲が置かれる。
「先生は絵描きさんなんですか?」
「荻野先生がそう言ったのかな?」
「ええ。」
都子は余慶の前の椅子に座った。
「私のことも描いて下さらないかしら?」
「下絵くらいならできるけど…。」
「下絵でもいいですわ。」
余慶はささっと筆を走らせる。
「はい。」
その項を破って、都子に渡した。
「あら、やだ。」
「似てないかね。」
余慶のスケッチは引目鉤鼻の美人画である。
「いいえ。そっくりですわ。ありがとうございます。」
都子はそう言って、紙片を畳んで懐に入れた。
「あなたも医者を目指しているんですか?」
「ええ。」
都子は座ったままである。
「女学校で医学を学んでいますわ。」
彼女も基督信徒で、明治女学校の学生だという。
「今は、休業中ですの。」
学校が休業しているのか、都子が休業しているのかはどちらかは分からなかった。
「荻野先生はとてもご立派なお方です。」
都子の話では、荻野吟子は昔、夫から罹患された婦人病が原因で離縁されて、その後も婦人病の治療の際に、男性医師の手にかかって診察されたことから、女性医師の必要性を感じ、自らその道を目指したという。
「ああして開業するまでには、多くの苦難があったのですよ。」
「あなたは、荻野先生をたいへん尊敬しているようですね。」
「もちろんです。あ、いらっしゃい。」
制服姿の学生が入って来て、都子は行ってしまった。余慶は、珈琲を一口啜った。
余慶から見ると、荻野吟子と志方之喜はよく似ている。しかし、違っている。また、異なるようで、実はよく似ている。
「(饅頭と餡パンのようかな。)」
見た目は違うが、開けてみると中身は同じなのかもしれない。
「(餡パンが食べたくなったな…。)」
銀座の木村屋まで行くと、また新橋方面へ戻らないといけないことになる。
「(明日にしようか。)」
明日も、まだ、餡パンが食べたいかどうかは分からなかった。
「ごちそうさま。」
珈琲一杯1銭5厘を払って店を出た。
「あれ?」
通りの向かい側に、先ほどの車夫が人力車を止めていた。車夫は可否茶館の中を見ていたらしく、余慶が出て来ると、気がついて、会釈をした。
「どうかしましたか?」
「いや、先生を待っていたわけではねえんですよ。」
車夫は困ったような顔をしている。
「ここだとまずいですんで、どこか行きましょうや。」
「それなら木村屋まで頼みます。」
「へい。」
人力車は余慶を乗せて走って行く。
「お待ち。」
車は銀座の木村屋の前で止まった。銀座は煉瓦造りの建物が多く、木村屋も赤煉瓦でできている。
「ここで待っていて下さい。」
余慶は店へ入って行った。
「どうぞ。」
しばらくして、余慶は餡パンをふたつ持って戻って来た。
「そんな悪いですぜ。」
「いいのですよ。」
車夫は申し訳なさそうに餡パンをもらった。当世、人力車夫というのは、荒くれ者か渡世人のような者が多いのだが、この男は案外、腰が低い。
「それで、何故、可否茶館の前にいたのですか?」
「娘があそこにいるんです。」
車夫は会釈しながら、餡パンを頬張った。
「うめえな。ちくしょう。」
「都子さんのことですか?」
「旦那、都子の知り合いなんですかい?」
「先日、会ったばかりですが。」
「あっしの名前は、芝山の鞠五郎ってんでさ。」
辺りは夕暮れが近づいて来た。通りには、制服姿の学生や背広服の官僚なども歩いていた。
「都子さんを待っていたわけですか。」
「いや、あしと都子は、もう親子の縁は切っておりやす。って言っても、俺が都子を追い出したんじゃあなくて、俺が都子に捨てられただけですがね。」
「何か訳があるのですかね?」
「都子のやつは、元気でやっておりますか?」
「湯島の荻野先生の所で医者の勉学をしているそうですよ。明治女学校にも通っているようですね。」
「あいつあ、やっぱり、医者になろうとしてんですねい。なあに、古い話だと、思って聞いて下さい。旦那。」
「分かりました。」
「今は昔、本所深川にろくでもない親父とその女房と娘がいたんでさあ。その親父は昔は大工の仕事をしていたんですが、明治の御維新で仕事がなくなっちまいましてね。昼間から酒を飲んでは、浅草辺りで女遊びに洒落込んでいましてね。まあ、とんでもねえ、ろくでなしだったんですが、女房と娘のことは大事に思っておりました。」
鞠五郎は煙管に火を点けた。
「ですがね、あるとき、その女房が急な病をこじらせちまって、こてんと死んじまったんでさあ。」
「それは、お労しいことですな。」
「なあに、自業自得ってんですかね。まあ、一番可哀想なのは、女房と娘でさあ。というのも、女房のやつは、そのろくでもない親父のせいで花柳病になって、それをこじらせて死んだんですから。」
「花柳病ですか…。」
花柳病とは婦人病のことであり、令和の時代の言葉で言うならば、性感染症である。
「医者に言わせれば、安静に休んでいりゃあ命までは盗られることもなかったらしいんですがね。親父は、遊び呆けて家にゃあ帰っちゃこねえ始末でしたからねい。結局、その親父が性根を叩き直したのは、娘が女房の妹夫婦のところへ引き取られてからでしたや。」
「そういうことでしたか…。」
「なあに、旦那。馬鹿な野郎も世の中にはいたもんでしょ?」
「馬鹿かもしれないが、その親父さんは、女房と娘のことを好いていたんだと思うよ。」
「へっ。」
鞠五郎は吸い殻を掌にぽんと出して宙に捨てた。
「いつまでも時化た面しててもしょうがねえですな。さあ、もう店閉まいでさあ。旦那、宅まで送りやす。」
余慶を乗せると、鞠五郎は人力車を走らせて、的屋まで、駆けて行った。
「ありがとうございます。」
「なあに、それはこっちの台詞ですぜ。あらよ。」
的屋で余慶を降ろすと人力車は新橋方面へ向かって走って行った。
「先生。今、お帰りですか。」
的屋の玄関で志方に出会った。
「これから、飯を食べに行くところなんです。先生も、ご一緒に行きませんか。」
半ば強引な、志方の勢いに余慶は再び、東京の町に出た。
「ごめんよ。」
志方が入ったのは、先日の蕎麦屋だった。
「先生はもりですか?」
「はい。」
「おうい。もり、かけひとつずつくれ。」
この時間は蕎麦屋も混むのか、店内はひっきりなしに店の者が動いていた。
「今日はどちらまで行かれたのですか?」
「吾妻橋まで行きました。」
「そうですか。あれは、私も近々行かなければと思うのですが、もう2年も経ちました。」
志方は志方で忙しいのだろう。
「失礼。」
そう言うと、志方は人の間を縫って、奥から湯呑みと薬罐を持って来た。
「この時間は混むので、まだ、しばらくかかるかもしれません。」
自分と余慶の物、ふたつの湯呑みに薬罐から水を注いだ。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
湯呑みの中の水は、店の中の熱気によるのか、生温かった。
「志方さんは、どうして北海道の桃源郷建設を考えたのですかね?」
「インマヌエルのことですか?」
「ええ。」
志方は水を飲んだ。
「志方家は、細川家に仕える丹後以来の御家にございました。」
「肥後の細川大名家ですか?」
「そうです。一時は彼の宮本武蔵の剣法を継いだ家系であるとも言われました。」
「ええ。」
余慶も水を飲む。蕎麦はまだ来なかった。
「しかし、私は、そのような昔のことはいいのです。」
志方は今、25、6だという。彼が物心付いたときは、世の中は既に維新を終えていた。
「私は、同郷の先輩諸氏から基督の教えを承りました。」
「はい。」
「それらの中で、この明治という時代の中で基督や日本のために私が成せることは、新たな土地を拓き、そこで基督や先輩諸氏の教えを広めることだと悟ったのです。」
そこまで言ってから、志方は水を飲んだ。
「お待ちどうさま。」
蕎麦がやって来た。
「いただきましょう。」
そういうと、志方は豪快に蕎麦を啜った。
「逆に言えば、私にはそれくらいしかできることがないのです。」
「いや。唯一できることが、北海道の開拓というのは並のお方に言えることではないでしょう。私などは、天地がひっくり返っても、適いそうにありませんよ。」
「先生は謙虚なお方だ。」
再び志方は豪快に蕎麦を啜った。一通り蕎麦を平らげて、二人は外へ出た。
「こんばんは。」
的屋へ帰る途中、都子に出会った。
「夕飯ですか?」
「今、食って来たところです。」
志方が挨拶した。
「先生もこんばんは。」
「ええ。こんばんは。」
余慶は今日、何度目になるかの挨拶をした。
「吟子殿は今日は?」
「先生なら、今日も一日中、医院にいらっしゃいましたよ。」
「そうですか。」
「ご心配なら、一目だけでも顔を見せに来られませ。女子はそれだけでも、うれしいのですから。」
「そうですね。また、今度、お伺いします。」
「先生も。」
都子は余慶に顔を合わせた。
「先生は可否茶館の方へいらっしゃいませ。」
「また、通わせてもらいますよ。都子さんはどこかへ?」
「先生のお使いで、帝大の方へ。」
「それなら、ご一緒しましょう。」
的屋と帝大は目と鼻の先である。
「絵の方は描けそうですか?」
「こればかりは、なんとも言えませんな。」
「そんなに難しいものなんですか?」
「これだというときには、絵の方から私のところへやって来るのです。」
「それは便利ですね。」
都子は笑っていた。
そのうちに三人は的屋へ着いた。
「ついでに、本郷教会に寄っていきますので。」
「そうですか。」
「先生は、先にお休み下さい。」
辺り少し暗くなり始めていた。志方は都子の身を案じたのだろう。もしかしたら、帰りも荻野医院まで、送って行くかもしれない。余慶はそのまま、的屋の2階の部屋に入った。
「(寝る前に少し、仕上げようかな…。)」
女将から無尽灯を借りて、部屋で色々と下絵を描いてみた。余慶は版下も描くし、肉筆画も描く。
「…。」
下絵の構図は余慶の頭の中にある。そこから、今日、集めたスケッチを破片として、判じ物を解くように、組み合わせて、ひとつの絵にする。
「だめだな…。」
今日見た中では、これだと言うものはなかった。時には、下絵の構図を選ぶだけでひと月以上かかるときもあるし、ひと月で2、3の下絵が描けてしまうこともある。
「似てるには似てるのだが…。」
絵を描いているときの余慶は、ぶつぶつと独り言を言いながら描く。
「何かが足りないなあ…。」
荻野と志方は似ている。餡パンと饅頭のように。
「しかし、それだけでは、何も見えない…。」
余慶は考えが行き詰まったので、無尽灯を消して寝ることにした。次に余慶が気がついたときには、外は明るかった。
「先生。」
余慶が階段を下りて行くと志方に出くわした。
「これから本郷教会へ行きませんか?会わせたい人がおるのです。」
「それならば、少しお待ち下さい。支度をするので。」
余慶は顔を洗うと、部屋へ戻り、冊子と矢立を持って来た。
「お待ちどうさま。」
玄関には志方が待っていた。
「それでは行きましょう。」
志方は下駄を履いた。余慶も宿の下駄を借りて行った。
「海老名先生と大久保先生が来てるそうです。二人はも、同郷の先輩ですが、ただ…。」
「どうしました?」
「いえ、まあ、二人は、私と吟子殿の結婚には反対しておりまして。たいしたことではないのですが…。」
それにしては、だいぶうろたえているようである。
「とりあえず行きましょう。」
本郷教会は的屋から歩いてすぐ、帝大の傍らにある。
「今、説教をしている最中ですかな。」
教会には、多くの人たちがいた。余慶はそこで初めて今日が日曜日だということを思い出した。
「しばらく待ちましょう。」
教会に来ている人たちは熱心に説教を聞いている。
「(なにか…?)」
壇上にいるのが、海老名か大久保のどちらかだろう。志方は、二人に余慶を会わせたいと言っていたが、なにかひっかかる感じがした。余慶は基督信徒ではない。それこそ、基督信徒の家に儒者を招くような者である。そもそも、会ってどうするというのだろうか。
「(ただの挨拶だろう…。)」
「終わりました。」
説教が終わっても、熱心な信徒は、牧師のところへ聞きに言っていた。
「海老名先生の説教を聞きに来るのは、信徒だけではないのです。」
「そうなんですか?」
てっきり余慶は、教会に来るのは、基督信徒だけだと思っていた。よく見ると、学生らしい制服姿の者もいる。
「基督を信じるか、どうかはその人の心次第ですから。」
「仰るとおりですね。」
「海老名先生。」
壇上を去って行く、牧師に志方が声を掛けた。
「之喜か。眞次郎も奥にいるぞ。」
「はい。行きましょう。」
志方と余慶は海老名について行った。奥の一室へ行くともう一人男がいた。
「久しぶりだな。」
「小父貴こそ。お元気そうで。」
「そちらは。」
「こちらは、絵師の葛飾余慶先生です。先生、こちら、大久保先生です。」
志方が二人の間に入って紹介した。
「葛飾余慶です。」
「大久保眞次郎です。」
余慶と大久保は互いに会釈をした。
「お待ちどうさま。」
海老名が入って来た。
「海老名先生。こちら絵師の葛飾余慶先生です。」
再び、志方が二人の間に入って紹介する。
「海老名弾正です。」
「葛飾余慶です。」
二人は会釈を交わす。
「座りましょう。」
大久保が椅子を持って来た。それを見て、志方も走って行った。
「すいません。」
余慶は肘掛けが付いた椅子に腰を降ろした。
「葛飾というと。画狂人北斎翁の一門ですかな。」
志方が持って来た椅子に海老名も腰を降ろした。
「よくご存じで。北斎は私の曾祖父にあたる人です。」
「そうですか。」
自ら椅子を持って来た志方と大久保が、最後に座った。
「余慶先生も浮世絵を描かれるのですか?それとも別の物ですか?」
海老名弾正も大久保眞次郎も、対して、志方と年は変わらないように思える。余慶とは同じくらいになるだろうか。それでも、志方が二人を先生と呼ぶのは、尊敬の表現かあるいは、牧師という地位のこともあるだろう。
「私も浮世絵を描かせてもらってます。」
「そうですか。一度、拝見したいものです。」
海老名という男は、少し話しただけでも、その気位と好奇心の強さが分かるような人だった。
「今、先生に絵を頼んでいるところです。」
志方は両手を膝の上に乗せて、前のめりに話した。余慶もそうだが、他の二人は、ゆったりと肘掛けに肘をかけて座っている。
「之喜。お前、熊本には、まだ帰らんのか?同志社にも、顔を出しておらんのだろうが。」
大久保が、声量のある声で言った。
「暮れまでには、一度、帰らんといかんと思うとります。」
「暮れなど、まだ半年以上もあるだろう。」
志方はばつが悪そうにしている。二人はいつもこんな感じなのだろうか。
「やめんかい。こんなところで。」
海老名が二人を叱るように言った。
「すみません。」
大久保が会釈した。
「すみません。先生。」
志方も会釈した。その後も、余慶と海老名たちはたわいもない雑談を交わした。
「それでは、行くところもあるので。我々はこの辺で。」
一通り話も尽きた頃、海老名と大久保は椅子から立ち上がった。
「どうも、ありがとうございました。」
余慶が二人にお辞儀をして、見送ろうとした。
「之喜。お前はまだ、荻野先生のところに通っとるのか?」
「はあ…。」
大久保が志方のところに寄って行った。
「あまり、迷惑かけるでないぞ。」
「はい…。」
そういうと海老名と大久保は部屋を後にした。
「いやあ。お恥ずかしいところを、お見せいたしました。」
教会からの帰り、いつもの蕎麦屋で蕎麦を食べた。志方はかけ。余慶はもりである。
「私に吟子殿を紹介して下さったのは、あの大久保先生なのですよ。」
志方は蕎麦を啜るが、いつものような豪快さはない。
「自分が紹介した手前、吟子殿が付き纏われていないか、心配なのでしょう。」
「そういうことなのですか。」
余慶はいろいろと合点がいったように思った。志方がなにかと荻野のことを心配する割には、医院に顔を出さない理由もそれなのだろう。
「荻野先生は何と仰っているのですが?」
「何がですか?」
「志方さんとの結婚について。」
「吟子殿には、まだ言っておりません。」
「…?」
再び余慶は、合点が合わなくなった。志方と荻野はお互いに結婚を望んでいるが、周囲がそれに反対しており、結婚に至らないのだと余慶は思っていたのだが。
「しかし、前に医院に伺ったとき、お二人はお互い親密な間柄に見えましたが?」
「それは何よりです。」
「(なるほど…。)」
なんとなく分かった。
「行きますか。」
蕎麦を食べ終わり、二人は的屋へ帰った。
「(荻野先生も志方さんの気持ちには気がついていて、その気もあるのだが、志方さんの方が、周囲のことを気にして、言い出せないでいるのか…。)」
荻野も志方が思いを口にするのを待っているのだろう。
「そういえば、吾妻橋にも、2年経っても行けてないと言っていたな…。」
いつの間にか、考え事が口に出てしまう。
「まだ、何か足りない…。」
志方と荻野の関係は分かったが、周囲には、まだ何かが眠っているように思えた。
翌日、余慶は宮城の周りをぶらぶらと歩きながら、スケッチをした。
「いいかな。」
一通り終わると、可否茶館に行った。
「先生。いらっしゃい。」
「こんにちは。」
余慶が行くと、いつも都子がいる。
「珈琲を一杯下さい。」
「はい。」
余慶は奥の席に座った。店内には、いつもの西洋人が新聞を読んでいた。
「お待ちどうさま。」
「早いね。」
余慶が席に着くなり、珈琲が運ばれて来た。
「急いで入れてきましたから。」
「この前は用事は済みましたか。」
「おかげさまでした。」
余慶は珈琲を一口啜った。
「美味だね。」
「先生もすっかり慣れましたね。」
「荻野先生は元気ですか。」
「おかげさまです。」
「志方さんは、顔を出しますか?」
「あの人は…。だめですよ。」
「はあ?」
「先生よかったら、このあと、一緒にお話ししませんか?お店、今日は早く閉めるみたいなんです。ねえ。御主人。」
都子は西洋人の方を見た。
「ああ。言ってらっしゃいな。」
彼は新聞を見たまま、答えた。
「あの方が御主人?」
「ええ。」
「日本人なのですか?」
「いやだ。れっきとした日本人ですよ。ねえ。」
主人はその問いかけには答えなかった。あとで聞くと、彼は、幼い頃から米国で生活して来たらしい。あまりにも、背広服が板についていたので、余慶はてっきり西洋人だと思っていた。
「お待ちどうさま。」
半刻も経たないうちに店は閉まり、都子が玄関から出てきた。
「動物園へ行きましょうか。」
可否茶館も上野にある。
「先生は、動物園は初めてですか?」
「そうなりますね。」
大人二人の料金を払った。
「鼻が良い人は臭いが気になるかもしれませんが。」
「大丈夫だと思います。」
動物園では木造の小屋に、猪豚や山羊、牛、鳥などが飼育されていた。
「少し、写生をさせてもらってもいいですか?」
「どうぞ。」
余慶は矢立と冊子を取り出して、さささっと、筆を走らせる。
「やはり、お上手ですね。」
「器用なだけでしょう。」
「先生。孔雀がおりますよ。」
孔雀室と書かれた立て札の小屋には、雌雄一対の孔雀がいた。
「綺麗ですね。」
「ええ…。」
余慶は孔雀を写生している。
「先生はどうして絵描きになられたのですか?」
「曾祖父が絵師だったのです。」
「曾祖父様は、どのような絵を描いていたのですか?」
「どのような…。」
当時、浮世絵というと風景画もあるが、美人画や役者絵も多く、中には春画もあった。明治の御維新では、浮世絵は、日本画や西洋画に比して低俗でいかがわしい物と考える者もいる。
「風景とか、いろいろですねえ…。」
余慶は都子が若い女性でもあったので、言葉を濁しておいた。
「先生。お次は虎を見に行きましょう。」
都子は前にも来たことがあるのか、見知った様子で虎小屋へ向かった。虎小屋へ行くと、虎は寝ていた。
「いつも寝ているんですよ。」
余慶は虎を描いている。
「お話ししてもよろしいかしら?」
「どうぞ。」
余慶は虎の縞を描いているところだった。
「私、本当の親の顔を知らないのです。」
「え…?」
余慶は筆を止めた。
「物心ついたときには、叔母夫婦の家にいたんです。」
「お父上のこともご存じないのですか?」
「ええ…。そうですけれど?」
「座りましょうか。」
虎を描き終わり、二人は虎小屋の前に置いてあった縁台に腰掛けた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
余慶が手拭いで木の葉や埃を払った。
「父と母は幼い私を残して花柳病で亡くなったそうです。」
「そうなのですか…。」
てっきり都子は鞠五郎のことを知っているのかと余慶は思っていたが、そうではないらしい。都子を引き取った叔母夫婦は、都子に余計な煩いをさせたくなくて、鞠五郎が死んだことにしているのだろう。
「医師を志したのも、そういういきさつがあったからなんですよ。」
「そうでしたか。」
鞠五郎はこのことを知っているのだろうか。
「変なことをお尋ねしますが、都子さんはお父上にお会いしたいと思ったことはありますか?いや、その、花柳病ということなので、お父上のことをどう思っているのかなと思いまして…。」
都子はきょとんとしている。
「失礼。今の言葉は忘れて下さい。」
「先生って、変なお方ですね。」
余慶の言葉で気を悪くさせたと思ったが、案外、都子は笑っていた。
「子どもの頃は父母に会いたいと思ったことはありますが、今は、それよりも婦人病に苦しむ方々をお救いしたいと思っております。」
「ご立派な志ですな。」
「荻野先生の受け売りにございます。」
「それでも、なかなか。百聞は一見に如かずと言いますか、思っていても、手に行うことはできないものです。」
余慶は志方の事が頭に浮かんだ。
「そういえば、志方さんのことを忘れていましたわ。」
都子が同じように、志方のことを口にしたので驚いた。
「おの方は荻野先生に思いが伝えられないのです。」
「そのようですねえ。」
「荻野先生のことも考えているようなのですが、それでもいつまでもうじうじとして、しようがありません。」
都子の言葉にはどこか刺があった。
「ひょっとして、都子さんは志方さんのことを好いておられるのですか?」
また、変なことを言ってしまったと思った。都子は快活だからか、どうも、都子の前にすると、余慶は余計なことをしゃべり過ぎてしまうようだった。
「ふふ…。」
またも都子は笑っていた。
「私はあのようなお方は好みではありません。」
はっきりと都子はそう言った。
「あ…。嫌いという訳ではありませんよ。」
そう付け加えた。
「私は、男の方を好きになることがないのです。」
そのように言った都子の顔は悲しそうに見えた。
「都子さんは荻野先生のことを…。」
余慶が尋ねると、都子はこくんと肯いた。女性同士の恋愛を指す『エス』という言葉が出て来るのは、もう少しあとのことである。ちなみに、それ以前にも女性同士の恋愛はもちろんあったが、それが表面的に知られることはほとんどなかった。遊里などでは女性同士の性行為は知られていたが、それらは、どちらかというと恋愛よりも、性行為に主眼を置く知識である。浮世絵師を自称する余慶はそういう事情も見知っていたので、都子の言ったことに理解を示すことが出来た。当時、社会全体がそうであったやうに、基督教でも、まだ同性による恋愛を罪悪とする風潮があった。基督信徒でもあり、明治女学校の生徒でもある都子は、そのようなこともあり、男性を好きになれない自分のことを余慶に言ったとき、悲しそうな顔をしたのだと思った。勘繰ってみると、もしかしたら、以前、都子が明治女学校の生徒でありながらも、今は休業していると言った理由もその辺りにあるのかもしれない。
「ガアオ!!」
いつのまにか虎小屋の虎が目を覚まし、2、3度大きな声で吠えた。
「初めて見ましたわ。」
ひとしきり吠え終わると、再び虎は寝てしまった。
「そろそろ行きましょうか。」
都子が立ち上がった。二人は、その後、うをのぞきを見物してから、公園を出た。
「荻野医院までご一緒しましょう。」
まだ日は明るいが、余慶はそう言った。とは言っても、上野から黒門町までは目と鼻の先である。
「今日はありがとうございました。」
荻野医院で別れる前、都子はそう言って頭を下げた。
「いろいろお話しできて、なにか胸の奥がすっきりしたようです。」
「それはよかった。」
余慶も都子にお辞儀をして帰路についた。的屋に着くと、女将に無尽灯を借りて、遅くまで絵仕事に没頭した。
「旦那。」
それから2、3日後、東京の町をぶらぶら歩いていると、余慶は鞠五郎に会った。
「これから飯なんですが、どうですか。御一緒に。」
「今日はお休みですか。」
「車を直してもらってるんですよ。」
車輪が割れたのを修理しているのだという。鞠五郎はいつもの法被姿ではなく、今日は小袖を着ている。
「行きましょう。」
余慶が鞠五郎に連れられて言ったのは、新橋駅前の一膳飯屋だった。
「今日はあっしの奢りでさあ。」
飯は麦飯に煮染めが乗っている丼に、豆腐汁がついていた。辺りには、車夫や人足たちが、同じように煙管を吹かしながら、飯を食べている。
「この間、都子さんに上野の動物園に連れて行ってもらいました。」
「そうなんですかい。」
「都子さんは、父上が亡くなっていると思っているようでしたよ。」
「ああ…。」
鞠五郎は飲んでいた汁を置いた。その口元には、青菜が付いていた。
「義妹夫婦がそうしたんでしょう。都子にも、余計な煩いはさせたくないんでしょう。」
「ご両親の顔を覚えていないそうです。」
「まあ、幼さかったからなあ…。」
鞠五郎は煮染めの蓮根を一口、口に入れた。
「俺も余り、家に帰りませんでしたからねい。」
余慶も蓮根を口に入れた。少し堅く泥臭かった。
「鞠五郎さんは、よく都子さんのことが分かりましたねえ。」
「実を言うとですねい。性根を入れ替えたあとに、一度だけ、義妹夫婦の家に行ったことがあるんでさ。」
「へえ…。」
「しかし、義妹たちは、都子には会わせてくれなくて、それでも、泣いて喚く、あしを憐れんでくれて、絶対に近づかないという約束で、居場所を教えてくれたんですよ。」
「それが、荻野医院だったんですか?」
「そのときは、まだ、この辺りの下宿屋の世話になりながら勉学をしていたんですが…。まあ、とどのつまり、都子のことが心配で、結局、新橋駅で車を走らせることになったわけでさあ。」
「そうなんですか…。」
それ以来、鞠五郎は義妹夫婦との約束通り、都子に会うこともなく、遠くから姿を眺めているという。
「余計なお世話かもしれませんが、都子さんに会って見ませんか?」
「へ?」
「勿論、素性を明かすことはなく、一人の人力車夫としてです。」
「そんなことできませんよ。旦那。それに…。」
鞠五郎は食べようとしていた丼を置いた。
「そんなことをしても、都子が悲しむだけですよ。」
鞠五郎は再び丼を持って、飯を食った。
「ごっそさん。」
飯を食べ終えると二人は外へ出た。
「話して見て分かりましたが、都子さんは鞠五郎さんが思っているような娘さんではありませんよ。勿論、良い方向でです。」
「でもねえ。義妹夫婦との約束もあるしなあ…。」
義妹夫婦は、多摩の方で小間物屋をやっていて、今も都子の学費などの仕送りもしているらしい。
「実は、都子さんは今、女学校を休業しているそうなのです。」
「休業?」
「お母上を亡くした婦人病から人々を守ろうとして、医者を志したそうなのですが、ある悩みから、その志が揺らいでいるようすなのです。」
「都子のやつ。それで、医者になろうとしてるんですかい…。」
「都子さんはお父上も婦人病で亡くしたと思っていますから。」
「そうですかい。」
「素性を明かさずとも、都子さんが鞠五郎さんに会えば、何か道が開けるのではないかと思うのですよ。まあ、私のあてずっぽうではありますが。」
「…。」
しばらく、鞠五郎は黙っていた。
「分かりやした。旦那。娘じゃあなくて、一人の人助けだと思いまさあ。」
「引き受けてくれますか。」
「まあ、車が直るまで、2、3日かかりますから、そうしたら、ステンショ横の溜まり場に顔を見して下せえ。」
「分かりました。」
的屋へ帰る途中、道傍で婦人が声を掛けて来た。
「余慶先生ではありませんか。」
「志保さん。」
婦人は小袖に下巻き髪をしている。
「今日はどうしました?」
「この辺りに名のある婦人科の先生がいると聞きましてね。」
「それなら荻野先生のことでしょう。医院まで案内しますよ。」
「それでは、お言葉に甘えましょうか。」
二人は、新橋から黒門町の方へと歩いて行った。
「お店はいいんですか?」
「宿六がいますから。」
志保は、横浜で画筌屋色彩庵という画商兼画材屋を営んでいる。
「ここです。」
荻野医院の前まで来たが、医院は満員である。
「いつもと同じですね。」
「あれまあ。」
「志保さんも患いがおありなんですか?」
「女人にそんなことお聞きになるものではありませんよ。先生。」
志保は笑っている。
「そうだ。夕飯をご一緒したいから、暮れにまた、ここへお立ち寄り下さいな。」
「構いませんが。」
「お約束ですよ。」
そう言うと志保は医院へ入って行った。余慶は一度、的屋へ戻り、暮れ前に、また荻野医院の前まで来た。
「お早いじゃありませんか。先生。」
そう言いながらも、志保は既に医院の前に待っていた。
「では、参りましょうか。」
志保は余慶を連れて銀座の方へと向かった。
「少し歩きますけれど。」
銀座一帯は歩道に街路樹があり、鉄道馬車が走っている。
「着きましたよ。」
「ここは精養軒ではありませんか。」
「ええ。」
築地精養軒は、精養軒ホテルとも言い、レストランでは西洋料理が食べられるが、来るのは西洋人か政府官吏くらいである。志保はその建物の中に臆面もなく入って行った。
「先生。」
建物を前に居すくんでいた余慶は志保に言われて、足を運び始めた。
「ようこそいらっしゃいました。」
給仕に案内されて席に着く。
「このようなところに私が来ていいのですか?」
「あら。お金さへ払えば誰が来ようと構いませんよ。」
「お金などありませんが…。」
「いやですよ。先生。もちろんお代は私が持ちますよ。」
噂では、1食3、4円はするらしいが。ちなみに腕の良い大工の稼ぎが月20円くらいである。
「お待たせいたしました。」
目の前に伊勢海老が運ばれて来た。
「いただきましょうか。先生。」
「ええ。」
余慶は志保にナイフとフォークの扱い方を教えてもらいながら食した。
「お待たせいたしました。」
その後も、料理は牛肉、豆羹などが運ばれて来た。
「こちらで最後になります。」
「これなら大丈夫です。」
最後のメニューは珈琲だった。
「先生、お腹は満腹になりましたか?」
「たいそう。」
珈琲の啜る。
「そこでひとつ先生にお願いがあるんですが?」
「なんですか?」
「荻野先生にお会いできませんかしら?」
「見てもらえなかったのですか?」
「いいえ。診察はしてもらいましたが、荻野先生のことを気に入ってしまいましてね。ぜひともお話ししてみたく思ったのですよ。」
「志保さんは、いつまで東京にいられるのですか?」
「荻野先生がお会いして下さるならば、いつまでもおりますよ。」
「頼んでみましょうか。」
「ぜひ。」
会計は志保が済ませた。
「本当に申し訳ないです。」
「私がお誘いしたのですから。」
二人は宵の銀座を歩いていた。頭上ではガス灯が輝いている。
「ところで、志保さん。」
「なんでしょうか?」
「志保さんも女の方を好いたりするのですか?」
「あら。どうしてそんなことを仰るのですかしら?」
「ちょっと気になることがありまして。」
「そうですかね…。」
志保は夜空を見上げた。
「女が女を好きになったとしても、何らおかしなことはないんじゃないんですかね。」
「そういうものなのですか。」
「男が男を好きになったとしてもおかしな話ではありますまい。」
「確かに。衆道の話はよく聞きますからね。」
「まあ、大事なのはお互いの気持ちではないですかね。」
二人は御茶ノ水近辺まで来た。
「では。私はこの辺に宿を取ってありますので。」
「今日はありがとうございました。」
「いえいえ。荻野先生のこと。よろしくお願いいたしますよ。」
志保は法律学校の方へ歩いて行った。
「あら、私たら、宿の名前をお教えしとかなければいけませんね。」
2、3歩進んで振り返った志保はそう言った。
「宿はこの先の、鈴美館というところですので。」
会釈をして、志保は闇に消えて行った。
「(私は荻野先生のところへ寄って行くか…。)」
余慶は黒門町の方へ足を伸ばした。
「ごめんなさい。」
「はあい。」
床板を打つ音と伴に、都子が現れた。
「あ、先生。」
「こんばんは。荻野先生はいらっしゃいますか?」
「お待ち下さい。」
再び、都子は床板を打つ音と伴に奥へ行った。
「こちらへどうぞ。」
そういう都子の声が聞こえたので、余慶は下駄を脱いで、家へ上がった。
「夜分、遅くに申し訳ないです。」
余慶が通されたところは、書院だろうか。荻野はそこで、文机に向かい何かを書いていたようである。
「何かお困り事などがありましたのですか?」
荻野が余慶を前にして言った。
「いいえ。困り事というわけではありませんでして。実は、今日、先生のところに、横浜からご婦人か診察に来られたと思うのですが?」
「ええ。」
「その方は、私の世話になっている画商のご婦人でして。」
「さようにございますか。」
「そのお方が、ぜひとも先生に会って話をしたいと申すのです。幾らかでも、お会いできませんか?」
「確か、志保さん…と仰いましたかしら?」
「そのとおりです。」
「いつまで当地におられるのでしょうか?」
「先生にお会いできるのならば、いつまでもいると当人は言っておりますが。」
「それはまあ…。よろしいのですが、余り、お時間がとれませんと、志保さんにも、申し訳ないですし…。」
荻野はいろいろと志保のことを気遣って思案を巡らせているようだった。
「とりあえず、少しの間だとしても、お会いできれば、志保さんも喜ぶとは思いますが…。」
「かしこまりました。それならば、明日の診察が終わり次第、医院へ来て下さい。急患がいなければ大丈夫だと思いますので。」
「ありがとうございます。さっそく、志保さんにお伝えします。」
余慶は深々とお辞儀をした。
「ところで、之喜さんはお国にでもお帰りなられたのでしょうか?」
「志方さんですか?いえ。的屋に下宿されていると思いますけど…。」
「さようですか。最近、こちらへ顔をお見せくださらないものですから。」
余慶はなんとなく予想がついた。
「それは、おそらく、教会に海老名さんと大久保さんがお見えになられているからでしょう。」
「はあ?」
余慶はいつも通り、余計なことを言ってしまったと思った。まあ、仕方ないので、先日、本郷教会でのことを荻野にも話すことにした。
「志方さんは、荻野先生に迷惑がかかるといけないと思っているのだと思います。」
「迷惑だなどとは…。」
荻野はふいと、文机の方を向いた。机の上には、筆と書翰紙が置いてある。
「私は之喜さんはとても素晴らしい方だと思っております。」
荻野は余慶の方を見て言った。荻野の表情は凛々しかった。都子と同じく、英吉利結びの髪型をしている。その眼はしっかりと余慶を見つめており、見つめられた余慶の方が、たじろいでしまいそうだった。
「あの方は、自分の理想を持って、それを叶えようと、必死になって努力しています。世の中に、そのようなお方が一体、幾人おられるでしょうか。」
「仰るとおりです。」
「私は、之喜さんのそうした熱意に心を打たれたのでございます。」
志方之喜と荻野吟子という人間は、餡パンと饅頭のようだと思った。外側を開いて見ると中身は同じであり、似ている。それは同じ基督信徒だというだけでは、説明できないことだろう。その関係は、逆にいえば、中身は同じく似ているが、外側は異なるといえる。それは、二人はもともと似たような子どもであったのが、大人になるにつれて、吟子が一人の母親として大人になろうとするのに対して、志方は親元を離れて一人の父親として大人になろうとしたとでも例えることができるだろうか。それでも、お互いに似ているところと異なるところを認めて、一緒にいたいと思えるのだろう。
「すみません。突然、このようなことを言ってしまって。」
「いいえ。志方さんも荻野先生と同じ気持ちだと思います。志方さんには、私も荻野先生がご心配されていたとでもお伝えいたします。」
「そのようなことは…。」
荻野は顔を赤らめた。意思の強い方なのではあろうが、恥ずかしいのであろう。
「あまり、遅くまでお邪魔しても何ですので。」
余慶は足を上げた。
「志保さんにもよろしくお伝え下さいませ。」
荻野は玄関外まで余慶を見送っていた。余慶は、御茶ノ水の鈴美館に寄った。志保には会わず、女将に言伝を頼んで、鈴美館を去った。
「旦那。」
翌日の午後、的屋の方に鞠五郎が人力車を引いて訪ねて来た。
「案外、早く直っちまったみてえでして。」
「それで、わざわざ訪ねて下さったんですか?」
「なあに。仕事のついででさあ。」
「今、お客はいるのですか?」
「いや。さっきそこで降ろして来たところですが?」
「それならば、今から可否茶館に乗せて行って下さい。都子さんの都合をお聞きしたいので。」
「合点。」
余慶の乗せた人力車が走って行く。
「前と比べて乗り心地が良くなってでしょう。」
「そうかな?」
余慶には余り分からない。
「旦那。すまねえが、ここら辺でいいですかいね?」
人力車は可否茶館から少し離れたところに止まった。
「行って来ますので、ここで待っていて下さい。」
余慶はとことこと通りを歩いて行った。
「ごめんなさい。」
「はあい。」
都子は可否茶館にいた。
「先生。」
「どうも。今、少しいいですか?」
「ええ?」
店内を見回したが、学生が一人いるだけである。
「実は、今度、この間の動物園のお礼がしたくてですね。お暇なときはありませんか?」
「え。いいですよ。お礼なんて。」
「いや。ぜひとも合わせたい人がいるのです。」
「合わせたい人?」
「いえ。人力車夫なんですが、気が良い方で、いろいろ名所を案内して下さるそうですので、都子さんもご一緒できないかと思いまして。」
「そういうことですか。ちょっと待って下さいね。」
そういうと都子は2階に上がって行った。
「お待ちどうさま。明後日の昼過ぎからなら大丈夫そう。」
「明後日なら、天気も良さそうですね。」
「うん。」
「それでは、明後日の昼過ぎに可否茶館に伺いますので。」
「楽しみにしてますわ。」
都子に礼を言って、余慶は可否茶館を後にした。そして、また、来たときと同じように、とことこと鞠五郎のもとへと歩いて行った。
「明後日の昼に、的屋まで来てくれますか?そのあと、可否茶館で都子さんを乗せて、東京見物に向かいたいと思いますので。」
「明後日ですね。分かりました。」
「見物先は鞠五郎さんに任せても大丈夫ですか?」
「お任せ下さい。」
「それでは、ついでに御茶ノ水の鈴美館まで送ってもらえますか?」
「へい。」
約束の時刻には、まだ早いが多分、志保は宿にいるだろうと思った。
「先生。」
宿にはいなかったが、案の定、神田明神の辺りで志保に出会った。
「鈴美館に戻るところですか?」
「ええ。」
「それならば乗って下さい。鞠五郎さん。大丈夫ですか。」
こちらを見ている鞠五郎に尋ねた。
「旦那のト一さんですかい?」
「ほほ。こんな色男のト一が私に務まりますか。」
「違えねえ。」
人力車は志保と余慶を乗せて走った。
「それじゃあ、あっしはこれで。」
鈴美館で二人を降ろすと、鞠五郎は新橋方面へ帰って行った。まさか、本当に志保を余慶の色女だと思ったわけではあるまい。
「お約束までは、まだおありですけど、どうかなさいましたか?」
「少し相談したいことがありまして。」
「とりあえず、お上がりなさいな。」
余慶は志保の泊まっている部屋に上がった。
「なにもお出しできませんが。」
志保は座布団を余慶の方に置いた。
「ありがとうございます。」
どっと余慶はその上に座った。
「どうかなさいましたか?」
「ええ。実はですね。」
余慶は志方と荻野のこと。都子と鞠五郎のことを志保に語った。
「ほほほ…。」
一通り、話を聞いてから、志保は頬を鳴らした。
「どうかしましたか?」
「いいえ。先生ったら、またいつものように、余計なお節介をして、人様の事に入りこんでしまうんですから。」
志保はハンケチで口を覆っていた。
「それは、また、なんと言ったらよろしいのか…。」
「それなものですから、人様から、先生の絵は業を断ち切るだのと言われるのでございますよ。」
「面目ない…。」
余慶は顔を伏せてしまった。
「あら。私は先生のそういうところがお好きなんですよ。」
「また、そのようなことを…。」
志保はハンケチを懐にしまった。
「まあ。それは良いとして。志方さまも荻野先生も、もう心の内では、自分たちのこれからのことを決めていらっしゃるのだと思いますよ。あとは、何かきっかけがあればよいのではないでしょうか。」
「と言いますと?」
「それは、先生のお仕事にございましょう。」
志保は煙管に火を点けた。
「まあ、あとは、先ほどの父娘さんたちのことですが…。」
煙管からは煙が立ち上っていた。
「案外、うまく行くのではないでしょうかねえ…。」
「そんなものですか。」
「父娘ってそんなものですよ。」
志保は、格子窓から外の通りを見下ろしていた。
「さあさあ。そろそろ私も支度を致しますから。」
「すみません。」
「下の座敷でお待ち下さいな。」
そういうなり、余慶は部屋から追い出されてしまった。
「お待ちどうさまでした。」
半刻たらずで、志保は階下に降りて来た。
「では、行きましょうか。」
余慶は格子窓から外を眺めて、行き交う人たちを写生していた。
「それは何ですか?」
志保は小包をひとつ両手に持っている。
「内緒。」
間もなく、荻野医院に着いた。
「ごめんなさい。」
「はあい。」
床板を鳴らしながら、都子がやって来た。
「横浜で画商をしております。画筌屋色彩庵の志保と申します。今宵は荻野先生とお会いするお約束で伺ったのですが。」
「お話は伺っております。先生は、只今、診察の途中になりますので、座敷にお上がり下さい。」
「こちらは皆様に。」
志保は小包を都子に渡した。
「今、ご用意致しますので、どうぞ。」
都子に案内されて、内へ上がった。
「しばし、お寛ぎ下さい。」
挨拶を済ませて、都子は奥へ下がって行った。
「お忙しいみたいですね。荻野先生。」
「ええ。」
ずいぶんかかるかと思いきや、意外にも荻野は、四半刻もせずして、座敷へやって来た。
「申し訳ありません。」
そう言うと丁寧にお辞儀をした。
「こちらこそ、お忙しい中、お邪魔致しまして。」
志保も丁寧にお辞儀をした。
その後、荻野と志保は余慶をよそにいろいろなことを話していた。
「お茶をお持ちしました。」
都子が入って来た。
「あら。」
お茶と一緒に団子が添えてある。
「これは芋坂の羽二重団子ですね。」
「志保さんが持って来て下さいました。」
荻野と都子がそのように話していた。お茶と団子を置くと都子は奥へと下がった。
「いただきましょうか。」
志保がそう言い、皆が団子を頬張った。団子には餡が纏っており、その甘さの中に団子がひとつひとつ歯応えを持って並んでいた。
「このような美味しいものをわざわざありがとうございます。」
団子を頬張った荻野は可愛らしく、にっこりと笑顔を見せていた。その姿は、幼い少女の姿そのものであった。
「失礼。」
余慶は冊子と矢立を出して、その姿をさっと項に描いた。
「いやですわ。先生。このような姿を…。」
荻野は幼い少女の姿のままだった。その姿を余慶は黙々とものすごい速さで紙に写していく。
「このお方は、こうなるともうしょうがありません。」
志保が言った。
「まこと。絵に人生を捧げているようなお方にございますねえ。」
「ええ。本当に困ったものですよ。」
荻野と志保は都子が入れてくれたお茶を口にした。
「今宵はありがとうございました。」
一通り話を終えて、余慶と志保は荻野医院を後にした。玄関からは荻野と都子が見送っていた。
「良い絵は描けそうですか?」
志保が余慶に尋ねる。夜の闇の中では、星月の明かりとガス灯の輝きがきらきらと瞬いている。そのあとには、志保と余慶の鳴らす下駄の擦れる音が聞こえていた。
「北斎翁は、あと10年いや5年あれば、本当の絵師になれるのにと言い残して、この世を去ったそうです。」
「ふふ。そのお話、先生から何度もお聞きしましたよ。」
「そうでしたか?」
「先生のお祖母様は、『この世の全てを絵にするには余りに短い人生だった。これからは、あの世の全てを描きに参るから、この世のことはお前たちに任せた』って言って、亡くなったんでしょう。」
「そうでした。」
「先生が、この世の全てを描き終わるまで、あと幾年かかるのですかねえ。」
「さあ…。おそらく私の人生全てを費やしたとしても、無理でしょうね。」
「私がどれだけ気の長い女でも、流石に、そこまではお待ちできませんでしたから…。」
「申し訳ないことでした…。」
宵闇の中、夜空に星が輝いていた。
「それでは。先生もお気をつけて。」
「では。また。どこかで。」
志保を鈴美館まで送り届けて、余慶は的屋へ戻って行った。
「先生。」
鈴美館の前で、しばらくぼうっと星空を眺めていると、志保の声がした。
「これ持って行って下さいな。」
志保が渡した小包に入っていたのは、芋坂の羽二重団子だった。
「横浜へ持って帰ろうかと思ったのですけれど、余り日持ちさせても、よくないかと思って。宿の皆さんでお召し上がり下さい。」
「いいのですか?」
「亭主には、明日、他の物を買って帰りますから。」
「ありがとうございます。」
「おやすみなさい。」
志保は部屋へ戻って行った。余慶が小包を抱えて的屋へ戻ると、志方が1階の座敷で、女将と碁を打っていた。
「そうだ。これをどうぞ。」
「芋坂の羽二重団子ではありませんか。」
女将と志方は、それぞれ1本ずつ口にした。
「まこと美味でありますなあ。」
志方は団子を美味しそうにもぐもぐと頬張っていた。
「やはり、そっくりですなあ。」
その笑顔が、荻野そっくりだったので、余慶は笑ってしまった。志方はそのことを意に介することもなく、団子を食べていた。宿の女将はお茶を入れに行っていた。
「荻野先生が心配しておられましたよ。」
「吟子殿がですか…!?」
急にしゃべったからか、団子が喉につっかえたようであった。志方は宿の女将が持って来た茶を一気に飲み干した。
「志方もんはこの間も、餡パンばもだえ食って喉に詰まらせとりましたからな。」
「こりゃ。女将。そげなこと、言わんでもよか。」
女将と志方は顔馴染みのようであった。
「ほりゃ。もう碁はしまいたい。」
志方は女将にそう言って碁を片付け始めた。余慶は志方の方から碁をやり出したのかと思っていたが、どうやら始めたのは女将からだったらしい。
「吟子殿は元気でありましたか?」
碁を片付け終わると志方が話を始めた。
「近頃、顔を見ないと言っていましたよ。」
「教会でも、お目にかからんのです。吟子殿も忙しい身でありますから。」
「医院の方へ顔を出したらいかがです?」
「あまり吟子殿の邪魔になりたくないものですから。」
「荻野先生はそんなことは思いませんよ。」
「確かにそうですなあ。」
どうしても煮え切らないようである。
「志方さんは、餡パンがお好きなのですか?」
「先ほどのことですか。いや。お恥ずかしい限りです。」
「恥ずかしがることはありませんよ。私も餡パンは好物ですから。」
「一度、吟子殿にもらってからというものやみつきになりまして。今では、10日にいっぺんは食べています。」
「荻野先生も餡パンがお好きなのですか?」
「吟子殿は甘い物が大の好物ですから。」
しばらく雑談をしてから、二人はそれぞれ部屋へ戻って行った。余慶が眠りにつき、次に目を開けたときには、外は雨が降っていた。
「(ちょうど良い。)」
たまっていた下絵とスケッチを整理して、素描を描いた。雨の日は、筆が湿って重くなる。その分だけ、顔料を減らしたいのだが、それだけ、色合いが薄くなってしまう。余慶はそのとき描く作品によって、晴雨いずれの日に描くかを選ぶ。その日は、一日中、部屋にこもって、構想を練っていた。その翌日は綺麗に晴れた。
「行きますか。」
的屋の前に人力車が止まっていた。車夫は鞠五郎である。もうすぐ昼が過ぎる。二人は可否茶館へ都子を迎えに行った。
「あら、お早いお着きですね。」
可否茶館の前に行くと、中から都子が顔を出した。
「只今、主人に言ってきますから。」
都子は2階へ上がって行った。
「大丈夫ですかね。先生。」
「大丈夫ですよ。」
しばらくして、都子が出て来た。
「お待ちどうさまでした。」
薄紅色の小袖に髪はまかれいとに結んでいる。
「こちらが、五郎さんです。」
余慶が鞠五郎を紹介した。
「五郎でやす。お初にお目にかかりやす。」
「先生のお友達の都子です。」
鞠五郎は少し緊張気味のようである。
「行きましょうか。」
余慶と都子を乗せた人力車を鞠五郎が引いていく。
「私、人力車は初めてなんですよ。」
都子は言った。
「今日はどこに行くんですの?」
「芝公園の方へ行きますかい。」
都子の言葉に鞠五郎が答える。何気ない会話であるが、そのひとつひとつが鞠五郎にとっては感慨深いものであることは、余慶も感じていた。可否茶館から芝公園へは宮城の前を通って行く。
「綺麗に晴れましたね。先生。」
「ええ。」
昨日の雨雲はどこか海の方に行ってしまったのだろうか。
「ちょいと揺れますよ。」
東京の地面は未だ雨が降ると泥濘みが多い。
「大丈夫ですか?」
乗っている方は楽ちんだが、走る方は大変であろう。都子が鞠五郎を心配して声を掛けた。
「あしは大丈夫でさあ。お嬢さんこそ、舌を噛まないように気を付けて下せいな。」
半刻もすると、人力車は芝公園に着いた。
「地面が泥濘んでまさあ。このまま、ゆっくり行きますんで。」
「どこかで一度、休みましょうか。」
せっかくの父娘水いらずである。
「向こうに茶屋がありますんで、そこへ向かいましょう。」
人力車はゆっくりと増上寺のある方へ向かった。
「ここらで一休みしましょうか。」
人力車は三解脱門付近の茶屋の前に止まった。
「疲れませんか?」
「はは。なんのこれしき。」
鞠五郎と都子は思ったよりも自然に会話できている様子である。
「増上寺には崇源院様も入れて6人の将軍様の墓所があるんでさ。江戸の昔には、学僧が3000人もいたと言いますからねい。」
「五郎さんは東京の生まれですか?」
「あい。まだ東京が御府内だったときでさあ。」
「それで詳しいんですね。私も本当は東京の生まれなんですけれど、物心ついたときは、多摩にいたので、あまり東京のことは知らないのです。」
「そうですかい。お嬢さんは学生さんですかい?」
「明治女学校に通っていますわ。」
「そりゃあ、てえしたもんだ。」
都子と鞠五郎の間に流れていたもの。それは、どこにでもある日常であった。
「甘酒です。」
二人が話している間、余慶が3人分の甘酒を注文していた。
「鞠五郎さんもどうぞ。」
「ありがとうごぜえます。」
余慶と都子と鞠五郎は茶屋の縁台に座りながら、一緒に甘酒を飲んだ。
「お二人はどこで知り合ったのですか?」
都子が尋ねた。
「志方さんの依頼で、こっちに来たとき、新橋ステンショから乗せてもらったのですよ。それから、何度かお世話になっています。」
「東京に来る前まで、先生はどこにいらしたんですの?」
「そうですねえ…。絵の依頼があり次第、方々に出向いていましたからね。」
余慶は甘酒を啜る。境内の桜はまだ早く、桜の木には青々とした葉が茂っていた。
「さしずめ、絵描きの武者修行ってところですかい?」
鞠五郎は飲み終わった椀を盆に乗せた。
「この世の全てを絵に収めろというのが祖母の遺言なのですよ。」
「そりゃあ、たいそうな御遺言ですねい。」
甘酒を飲み終わった椀を乗せた盆を茶屋の老婆が下げに来た。
「鞠さん。ご無沙汰。」
「婆さんも、達者そうじゃないかい。」
「あしは、腰が立たなくてまいったよ。そちらは、娘さんかい?」
「てやんでえ。女学校の学生さんでい。」
「そうかい。あたしゃ、父娘かと思ったよ。」
老婆は盆を持って奥へ行った。
「鞠五郎さんは、お子さんはいるんですの?」
都子が春風が浴びながら、聞いた。
「あ、ああ。」
「娘さんですかしら?」
「ああ。娘が一人。元気に暮らしてまさあ。」
「お名前はなんて仰るんです?」
「名前かい?」
鞠五郎は余慶の方を向いたが、余慶は目をそらした。
「花子ってんでさあ。」
「どちらにいらっしゃるんですの?」
「女学校に通っておりやす。」
ぼろが出ないかと余慶はひやひやして見ていたが、心配なので、口を挟むことにした。
「そろそろ行きましょうか。」
2人は人力車に乗った。
「ねえ。帰りに大川に寄って行かれませんかしら?」
「合点でさ。」
鞠五郎が人力車を引いて行った。
「着きやしたぜ。」
人力車は永代橋付近で止まり、そこから、3人は大川を眺めた。
「永代橋は昔、赤穂四十七士が吉良上野介を討ち取った帰りに渡って行ったんですよ。」
「それ、私のおとっつぁんも行ってました。」
「え?」
鞠五郎は法被を脱いで、煙管に火を点けた。
「都子さん。お父上のことを覚えていられるんですか?」
「小さい頃、大川の岸をおとっつぁんとおっかさんと一緒に、手を繋いで歩いているの。それだけをかすかに覚えているんです。」
「そうなのですか。」
「そのときはお花見で人が大勢だったんですけど、途中から、おとっつぁんが背中に私を背負ってくれました。」
都子が話すのを鞠五郎は黙って聞いていた。
「そのとき、綺麗な桜の花びらと一緒に、私の心に覚えている光景があるんです…。それは、おとっつぁんの背中でした。その背中には、竜門の滝登りの画が彫られていました。」
都子は鞠五郎の背中を見た。その背中には、登竜門の彫り物がしてあった。
「叔母から聞いたおとっつぁんの名前は鞠五郎と言います。」
沈もうとしている夕日を背にして、3人は立っている。その夕日は3人の背中を通して大川の水面を照らしていた。
「すみません実は…。」
余慶が事情を説明しようとしたとき、鞠五郎がそれを遮った。鞠五郎は吸い殻を掌に乗せるとふっと吹いて、大川に舞いた。
「すまねえ。都子。黙っていて悪かった。」
鞠五郎は頭を下げた。
「今まで、ずっと何してたの…?」
夕日を受けた都子の姿は、太陽光線の反射によって、余慶には定かには見えなかったが、眼がきらきらと輝いていた。
「すまねえ。本当は叔母さんたちから、会わないように言われてたんだけどよ。おとっつぁん。どうしてもお前に会いたくなっちまってな。」
鞠五郎は人力車に掛けてあった法被を手に取り、それを着た。
「すみません。私が言いだしたんです。」
余慶も頭を下げた。
「先生もひどいよ。私に黙っていて…。」
都子は流れている涙を袖で拭った。
「先生は、俺に、お前が医者になろうと頑張っているって教えてくれたんだよ。お前の力になってやってくれってなあ。」
「それでも、ひどいよ…。」
そのまましばらく都子は泣いていた。
「都子。医者になるのは、大変だったらやめてもいいんだぞ。おとっつぁんもおっかさんもお前に申し訳ないと思ってる。お前が悪いなんて思うことはないんだ。悪いのは全部、おとっつぁんが悪いんだからな。」
「ううん。そんなことないよ。おとっつぁん…。」
都子は顔を上げた。
「私、おとっつぁんもおっかさんも悪いだなんて、これっぽっちも思ってないよ。もちろん私が悪いだなんて思ってもいない。私がお医者さまになりたいのは、おとっつぁんとおっかさんへの恩返しのつもりなんだ。」
「恩返しかい…?」
「うん。二人のことはあんまり覚えてないけど、さっきみたいになんとなく覚えていることはあるんだ。それは全部良い思い出なの。一緒にいれたのは少しだったけど、二人はちゃんと私のことを大事にしてくれてたっていうのが、すごく分かるの。だから、私はおとっつぁんとおっかさんが私を大事にしてくれた恩返しがしたいなって思ったの。」
「都子…。」
「でも、二人とももういなかったから。それでね。」
時間は静かに流れていた。3人が背にしていた夕日は、時を止めたように、空に浮かんだままであった。周りが停止したその時間の中で、3人は、もう少しの間だけ、一緒にいた。
「おとっつぁん。私ね。女の人が好きなの。男の人はどうしても好きになれないみたい。」
「へっ。そりゃあ。俺みたいなのが、いりゃあそうにもならあな。それにな、お前が誰を好きになろうが、構うことはねえ。」
「でもね。おとっつぁんのことも、先生のことも、他の男の人のことも嫌いじゃないんだよ。ただ、荻野先生みたいな、女の人ともっと仲良くなりたいなと思うの。」
「荻野先生はご立派なお方だ。お前のおっかさんも、同じだったよ。自分のことよりも、人の心配ばかりしやがる。」
鞠五郎は法被の袖で目元を拭った。
「大丈夫。おとっつぁん?」
「べらんめえ。目に塵が入っただけでい。」
大川の岸傍に座り、会話する父娘の姿を、余慶は冊子と矢立を取り出して優しくスケッチしていた。
「今日はありがとうございました。」
荻野医院の前で都子を下ろした。辺りは宵が迫っていた。医院の中は、まだ灯りが付いている。
「先生。私、この前、志方さんのことを悪く言ってしまったけど、本当はね。二人の関係がいまいちなのは荻野先生にも一因があるんです。」
「それは、どういう?」
「志方さんは、荻野先生に北海道へ付いてきてほしいのだけど、先生は患者さんのことを、心配しているんです。自分がいなくなったあと、患者さんたちが困るんじゃないかって。そのことに志方さんも気がついているから、なかなか結婚のことを切り出せないのだと思います。」
「なるほど…。」
「だけど、やっぱり、このままではいけないと思うの。先生だって、ご自分の幸せを望んでもいいと思うし、私も先生には幸せになってほしい。」
「その通りだと思います。」
「だから、私にも、先生のお手伝いをさせて下さい。」
「はあ?」
「先生が、私とおとっつぁんにしてくれたように、余計なお世話かもしれないけど、志方さんと荻野先生の助けになってあげたいの。」
「分かりました。」
「じゃあ。また。」
そういうと、都子は余慶と鞠五郎に会釈をしてから、医院の中へ入って行った。
「先生。あしからも礼を言わせて下さい。ありがとうごぜえました。」
鞠五郎は、笠を取って、頭を下げた。
「いいえ。私はきっかけを作っただけです。」
「それでも、先生がいなければ、こうはなりませんでした。」
鞠五郎の人力車は余慶を的屋まで送って行くと、そのまま、夜の東京の町へ消えて行った。余慶が的屋に入ると、1階の座敷には、誰もいなかった。そのまま、2階の部屋に入った。余慶は借りっぱなしになっていた無尽灯を点けると、今日の出来事を描いた。
翌日、可否茶館に、余慶と都子と志方の3人がいた。3人が座っているのは、一番奥の席である。
「吟子殿が見合い?」
「ええ。」
珈琲を前にして、志方は声を荒げた。
「長与専斎先生の紹介で。お相手は米国人のお医者様らしいです。」
都子も珈琲を前に座っている。今日は休店日である。
「医院はどうなるのですか?」
「結婚した後は、米国に移住なさるそうです。」
「そんな…。」
都子は珈琲を一口飲んだ。
「専斎先生の紹介なので、荻野先生も断るに断れなくて、それで、之喜さんに相談したわけなのです。」
「分かりました。」
志方は珈琲を一息に飲み干すと、すごい勢いで店を出て行った。
「本当に大丈夫なのでしょうか?ずいぶんあっさりとことが運んでしまいましたが…。」
余慶は珈琲を飲んだ。
「大丈夫ですよ。さあ、私たちも追いかけましょう。」
都子が立ち上がった。余慶は卓子の上に、志方の分の珈琲代も置いて、後を追った。
「吟子殿。」
「はい?」
志方は荻野医院の診察室にいた。
「私と結婚して頂きたい。」
「ええ…。分かりました。」
志方の求婚はあっけなく済んだ。
「まことですか。」
「ええ。それで、あの、言いづらいのですが…。」
「はい。」
「診察の最中なので、退室して下さるとありがたいのですけれど…。」
診察台の上には婦人が横になっていた。
「あ!?これは失礼しました。」
志方は狼狽しながら、部屋を出て行った。
「之喜さん。おめでとうございます。」
待合室には都子がいた。他の人たちも方々で手拍きをして、讃辞の言葉を述べていた。
「これは一体どうしたのですか?」
診察を終えて、荻野と婦人が出て来た。
「見ての通りです。」
都子が言った。その横には、都子のように荻野医院に寄宿している医学生たちもいた。
「皆さん。まことに申し訳ありませんが、今日は午後からの診察はお休みさせて頂きます。」
都子が人々に言った。
「どうか先生に蜜月のお暇を差し上げて下さい。」
都子や他の学生は頭を下げた。
「そんなこと。いちいち頭を下げなくても、あたしたちは構わしないよ。ねえ。」
一人の婦人が言うと、他の人たちも手拍きをした。
「先生にはいつもお世話になってばかりですから、私たちからも、たまにはお礼をさせて下さいな。」
隣の婦人が言った。そういうと、待合室の人々は、荻野たちに、感謝と讃辞の言葉を掛けてその場の後にして行った。
「先生。表に車が待っています。」
荻野と志方が玄関を出ると、医院の前で、鞠五郎が人力車を置いて待っていた。
「あと片付けは私たちがしておきます。」
都子はそう言って、荻野に小包を渡した。
「これは?」
荻野が見ると、中には餡パンが二つ入っていた。
「お乗り下せい。」
鞠五郎の呼びかけに応えて、二人は人力車に乗った。
「あらよ。」
掛け声と伴に梶棒が上げられる。
「おとっつぁん。任せたよ。」
「あたぼうよ。ほいさっ。」
志方と荻野を乗せた人力車は、青空の下、行き交う人々を尻目にして、東京の町を駆けて行く。その一部始終を、冊子と筆を手にした余慶が描いていた。
志方が荻野に求婚した日の翌日から、余慶は的屋の部屋にこもりっきりになった。
「もう、み月ばかりも姿を見ていません。」
可否茶館で志方が珈琲を飲んでいる。その横にはお盆を持った都子が立っていた。店内には、背広姿の主人が新聞を読んでいるだけである。
「お食事は召し上がっているんですか?」
今も時折、都子は鞠五郎と会っているらしい。
「宿の女将が昼に茶漬けと香の物あと水を部屋に持っていっております。」
志方と荻野は来年、式を上げる予定らしい。
「できました。」
可否茶館の扉を開けて、余慶が入って来た。
「これは素晴らしい。」
その日の夕方、荻野医院の座敷で志方と荻野、そして、都子と鞠五郎も伴にして、余慶は出来上がった浮世絵を見せた。
「『東京大川畔世人月見行楽図』」
そう名付けられた浮世絵には、大川の畔、月明かりと洋燈の灯りの中で、和装の男女や女学生。人力車夫などが、手に手に、餡パンや団子を持って、月見を楽しんでいる絵であった。暗闇の中、月光を纏い、洋燈の灯りに浮かび上がる人々の表情は、幸せそうであった。
「肉筆画なのでところどころ異なるところがありますが…。」
「あしたちもいいんですかい?」
鞠五郎が尋ねた。その隣には、絵を受け取った都子がいた。
「ぜひとも受け取って下さい。」
「ありがとうございます。先生。」
都子は小さくお辞儀をした。
「先生。お代はいかほどになりますか?」
志方と荻野が、絵を見ながら尋ねた。
「お代はいりません。」
「そういうわけにはまいりません。」
荻野が余慶の顔をじっと見つめて言った。
「代わりに、この絵を出版する権とその売り上げを私と版元に一任して頂きたいのです。」
「それは構いませんが…。」
「ちなみに、版元は画筌屋色彩庵になります。」
「志保さまの。」
「そうです。」
余慶は、皆に志保からもらってある名刺を渡した。
「私の仕事はここまでです。あとの細々したことは画筌屋から使いが来ると思いますので。」
「先生。なにからなにまでありがとうごぜいます。」
鞠五郎が平伏した。
「私も、おとっつぁんとの。ありがとうございました。」
都子も頭を下げた。
「私たちからも。改めてありがとうございます。」
「先生。ありがとうございました。」
荻野と志方も礼を述べた。
「私も、また一枚、この世の事を絵に収めることができました。皆さんに出会えてよかったです。ありがとうございます。」
余慶も深々と頭を下げた。
「それでは。」
余慶は、そのまま荷物を持って、新橋駅まで行った。都子も鞠五郎も見送りにと言ったが、余慶は丁重に断った。
「私は浮世絵師。浮世の事を写すのが人生です。これからは皆さんは皆さんの人生を生きて下さい。」
余慶はそう言って、東京の町の中に消えて行った。
「不思議な人だったね。おとっつぁん。」
「ああ。」
葛飾余慶。葛飾北斎の曾孫を名乗るその人は、明治の世に、この世の全てを絵に描かんとして、今日も、どこかの町や村を、筆紙を片手にふらふらと歩いている。