されどタヌキに愚痴る悪役令嬢の恋
「おいニーベル、また刃物研いでたのかい? 身体が早く解してくれってそう言ってるよ」
婆さんは呆れたように言いながら、僕の背中をぐいぐいと揉んだ。
体重を込めて背中を押されるたび、僕の身体は絶妙に喜んだ。
撫でたり、さすったり、押したり、揉んだり、握ったり。
まるで麺を打つように、婆さんの掌はひらひらと僕の背中の上で仕事をする。
その度に、僕の身体からは着実に疲れもコリも押し出されていく。
時に強く、時に弱く、時には悲鳴を上げるほどの剛力で。
婆さんは実に絶妙な力加減とタイミングで僕の身体を解していった。
婆さんの両手はいつでも、どんな魔法よりもずっと魔法らしく人を癒やす。
「お前は身体は抜群にやっこいのに、どうも右に重心を乗せる癖が抜けないねぇ。右と左で凝り方が違う。だからただ疲れるだけじゃなく、包丁の研ぎもうまくいかないんだよ」
それでも僕が気持ちいいまま寝息を立てられないのは、僕のコリを解している婆さんが猛烈な勢いで僕にダメ出しをして来る人で、僕はそれにいちいち答える義務を負っているからである。
施術ベッドの上に寝かされた僕は、半分寝ぼけたような声で言った。
「気をつけてはいるんだけどねぇ。どうにも――うっ、癖が抜けなくてさぁ」
「ふん、癖なんて言葉で片づけんじゃないよ。お前はただ楽だから利き手の方に力入れてるのさ。早く研ごうと横着するからだよ」
「おっ、わかる?」
「わかるともさ、仕事が混んでたんだろう? そうさね――ここ四日ぐらい刃物研ぎしてた、違うかい?」
「凄い、完璧に合ってる。婆さんは予言者なの? それとも占い師?」
「つまんない世辞言うんじゃないよ」
婆さんはそこで僕の背中をぐいっと押した。
途端に、ボキボキッ、と、凝り固まっていた背骨が痛快な音を立てた。
僕は身も蓋もなく身体を捩り、おおぅ、と嬌声を上げた。
「みんなお前の身体から訊いてるんだ。お前は素直じゃないから何訊いたってまともに答えやしないだろう?」
「失礼な、僕は元来とっても素直な人間だぜ。――あっ、そこそこ、そこ強めに]
「どの口が言うんだい。アンタほど素直じゃない人間がそうそういてたまるか。世の中が回らなくなるよ」
「僕の上には常にダニエラ姉さんがいる。アレは本当に素直じゃない。それに……うっ、凄く意地っ張りだ。だから街の人間も僕も安心して偏屈でいられるんだ」
「口の減らないガキだね全く。お前たちはお互い同じくらい素直じゃないから、とうの昔にとっくにわかっていることにごじゃごじゃ理由つけてくっついたり離れたりしてるんじゃないか」
僕はその言葉を全力で無視した。
しばらく、この婆さんには珍しく、無言の施術が続いた。
五分ほど経ってから、婆さんは教え諭すような声で言った。
「――いいかい、この街にはお前が研いだ包丁に生活がかかってる人間もいるんだ。いつかこんなふうに身体に負担をかけないような仕事ができるようになるまで、気を緩めずに精進するこったね」
「まだ修行中だしなぁ――それに、刃物研ぎは一応親方から――うっ、認められてるんだけどなぁ」
「認められたとか、合格したとか、そんな言葉は職人にとって一番の癌さ。その言葉を超えるのに何年もかかるもんだ」
婆さんは噛んで含めるように言い、チョップするように僕の身体の正中線をポコポコと叩いた。
腰の辺りから肩甲骨のあたりまで、両手で刺激を与えるように駆け上がって。
これで終わりだ、というように、婆さんはパンパンと両手で僕の肩を叩いた。
「はい、終わったよ。30Gだ」
「高いよ。施術料は10分8Gでしょ? 30分なら24Gだ」
「釣り銭の6Gでラムネを三本買うんだよ。水分が必要だろ?」
つまり、一本は僕、一本は婆さん、一本はダニエラ姉さん分ということだ。
この心遣いが嬉しくて、僕は言い値の30Gを婆さんに支払った。
◆
エレノア婆さんが暖簾をくぐって「終わったよ」と言うと、番台に座ったダニエラ姉さんが僕を半目で睨んだ。
「なに、その顔?」
「アンタね、いくらなんでもヨガりすぎ」
ダニエラ姉さんは呆れたように言った。
「アンアンアンアンうるさいんだよお前。それがマッサージされてる人間の出す声か。さっき来た獣人のお母さんが教育上悪そうなものを見るような顔して出てったわよ。もう少し健全に施術されな」
「ひどくない? 僕は労働者だ。働いて稼いだ賃金で疲れを癒やす労働者の姿はこれ以上ない教育資材だろ」
「アンタの生き方そのものが教育上よろしくないのに何言ってんのよ」
「ひどいなぁ。僕は常連だぞ、土間を三尺掘っても出てこないのが常連だろ。僕にそんな言葉を吐いていいのか」
「おっ突然なんだこの野郎。私を脅す気?」
「グレちゃうぞ。この温泉に関する悪い噂を流しちゃうぞ」
「ほほう面白い。乗ったぞグレタヌキ。どんな噂流す?」
かなり強い脅迫だったのに、姉さんは全く動じていない。
それどころか番台から身を乗り出し気味にしてきた。
負けるもんかとばかりに、僕は少し考えて言った。
「そうだな、この温泉の湯守にラムネ1本100Gでぼったくられた、とかかな」
「なかなか面白いフィクションね、タヌキ。アンタ小動物やめて小説家になったらどうだい?」
「考えとくよ」
「よーし、その噂はフィクションにしとくには勿体ない。今晩に限って現実にしてやろう」
「な」
僕は本心から絶句してしまった。
ダニエラ姉さんはしてやったりの表情でニヤケ面を浮かべた。
「なんて湯守だ……鬼だ、鬼がいる」
「さぁどうするタヌキ。ウチでは木の葉を化かした札は使えないぞ。銀行強盗でもして工面するか?」
「はいはいアンタたち。くだらない漫才はやめて私に冷たいの飲ましてちょうだい」
婆さんがそう言うと、ダニエラ姉さんがさっと掌を出して小銭を受け取った。
姉さんは上半身だけを後ろに倒し、番台の奥にある小さな冷蔵庫を開けて、中からラムネの瓶を三本取り出した。
よっ、と、気合を入れ、腹筋の力だけで姉さんは上半身を元通りの位置に戻した。
この番台に座っている限り姉さんは運動不足とは無縁であるらしい。
「タヌキ、栓開けてあげて」
姉さんが小声とともに、瓶を二本差し出した。
僕はラムネの包み紙を取ると、瓶を床に置いてビー玉を押し込んだ。
プシュ、カラン、という音とともに、ビー玉が瓶の中に沈んだ。
「婆さん、どうぞ」
僕は婆さんの手を取り、開いてる方の手で瓶へと誘導した。
ありがとよ、と婆さんは嬉しそうに言い、手探りで瓶を持ち替え、うまそうに一口飲んだ。
ほう、と婆さんはため息を吐いて言った。
「目は見えなくても、舌はまともでよかったよ」
婆さんは実に愉快そうに笑った。
そのツンと尖った耳が、ほんの少しだけピコピコと動いた。
エレノア婆さんは、この街に歳古く住むエルフの按摩さんだ。
エルフの寿命は人間より遥かに長く、だいたい三倍ぐらいは生きる。
そういうわけで、この婆さんの歳は外見の通りならだいたい150歳ぐらいだと思われた。
だけど、結局は誰も婆さんの本当の年齢を知らないし、もちろん、本人も知らない。
そんな婆さんは、おそらく生まれつき目が視えなかったそうだ。
エルフは森と静寂と狩猟をこよなく愛する一方、概して気位が高く、はぐれものに冷たい。
そんなわけで婆さんは生まれてすぐにこの街に捨てられ、そこからはとある人間の夫婦に育てられた。
その夫婦は目の見えないエルフの少女をこよなく愛し、自分たちが居なくなった後も食べていけるよう、按摩の修行をさせた。
両親の期待に答えるため、婆さんは実に1世紀をゆうに超える間、一心に技術の向上に励んだ。
そんなわけで、現在のエレノア婆さんはこの国中では知らぬ者のいない、伝説的な按摩だった。
『馬で来た人間が、婆さんの施術を受けた後には王都まで歩いて帰った』という伝説は、王都の肥え太った医者たちも真剣に信じているぐらいだ。
そんな神業を、この辺境の温泉ではたったの30Gで拝めることには本当に感謝というほかない。
からからと笑う婆さんは、それからわずか三口ぐらいでラムネを飲み干してしまった。
老婆とは思えない飲みっぷりだった。
「さぁ、今晩はお前が最後だったね。ダニエラ、新しい予約は入ってないだろ?」
「今晩はもうないわね。一週間後はもうギチギチだけど。婆ちゃん、一週間後に来てくれないと恨むよ」
「全くこの街の人間は人使いが荒いねぇ。こんなしわくちゃの梅干しになっても休ませちゃくれないんだから。これじゃ明日の朝にもポックリ逝っちまいそうだよ」
「エレノア婆さんは死神だって殺せない。安心してもいい」
僕がラムネを飲みながら言うと、婆さんはそう言った僕の方を見た。
否、僕の方に耳を向けた、という方が正しいだろう。
「何言ってんだい。あたしだってもうこの歳だよ。いつお迎えが来たっておかしくはないんだ」
「この歳、って言ってるけど、自分何歳なのかわからないんでしょう?」
ダニエラ姉さんがラムネの栓を開けながら言った。
この人には珍しく、ちょっと焦ったような口調だった。
婆さんは「そんなこたないさ」と胸を張った。
「逆算すりゃちゃんといくつなのかぐらいはわかる。あたしが十五歳の時に王様が死んだんだ。国中喪に服すとか言ってどこもかしこもまっくろけだったって聞いてるよ」
「死んだのはなんて王様よ」
「そんなの知ったこっちゃないよ」
「ほらね」
ダニエラ姉さんは安心したように笑った。
「何歳かなんてわかんない。もしかして婆ちゃんは150歳かも知れないけど、逆に100歳かもしれないしまだ50代かも知れない。まだまだ死なないわ」
きっと、ダニエラ姉さんはこの老婆が好きなのだろう。
屈託なく悪態をつくところも。
皮肉屋なところも。
そしておそらく――全く素直じゃないところも。
ダニエラ姉さんが婆さんになったらエレノア婆さんになる。
姉さんは老いた自分の姿を婆さんに重ねているのかも知れない。
だからそう簡単に死なせたくないのだ、話の上であっても。
そんな姉さんの必死のフォローを受け取り、婆さんは「ありがとよ」と二、三本欠けた前歯を覗かせて笑った。
「ささ、もう飲むもの飲んだし、行くとするかね」
あだだ、と腰を庇いながら婆さんは立ち上がった。
「近くまで送ろうか?」
僕は本気ではない口調で言った。
婆さんは「なぁにを言ってんだよ」と呆れたように言った。
「あたしはこの道歩いて何十年だよ。たとえ杖がなくたって帰れる。まだまだアンタにおんぶされて帰るような歳じゃないさ」
そう言って婆さんは傍らにあった杖を取り上げた。
そのまま、棒の先端でカツカツと前後を探り、番台に座るダニエラ姉さんの方を見た。
「それじゃ帰るとするわ。また一週間後によろしくね、ダニエラ」
「はいはい。気をつけてね」
姉さんがひらひらと手を振ると、婆さんはカツカツと棒で地面を叩きながら温泉を出ていった。
◆
「羨ましいわぁ」
その呟きに、僕は真剣に驚いた。
この法被姿の麗人が他人を羨むところを、僕は始めて見たかもしれない。
「羨ましい?」
「羨ましいじゃない。あんなにカクシャクとしてて元気で。みんなに必要とされてて。私なんかよりよっぽどハツラツとした日々生きてるわよ、あの婆ちゃん」
おっ、始まった。
姉さんの愚痴モードだ。
ということは、僕はこの愚痴が終わるまで帰れないということだ。
「そうかな? 婆さんを羨むほど姉さんの日常ってハツラツとしてないの?」
「してないわねぇ」
姉さんは番台に頬杖をつきながら言った。
「結局私ってここにずっと座ってるだけじゃない? 午前中に風呂場の掃除して、シャンプーだのリンスだの補充して、牛乳だのラムネだの注文して。んでも結局、よかったよって言われんのは私じゃなくてここの温泉じゃない。私はなにか人様の役に立つようなこと出来てんのかしらんって思うときがあんのよ」
「いやいや、それは自分を卑下しすぎだよ。ダニエラ姉さんと温泉はセットだ。だから《令嬢の湯》だろ? 姉さんはここにいるだけで人の役に立ってることじゃないか」
「アンタそれ本気で言ってんの?」
「言ってるよ。かなり本気だ」
「ほほう。正直ちょっと嬉しいかも」
ふふっ、とダニエラ姉さんが笑った。
うおっ、と僕はすんでのところで驚きの声を上げるところだった。
ダニエラ姉さんが笑う時は悲しいときか本当に嬉しいかのどちらかだ。
なおかつ、これは本当に喜んでいるらしい。
僕の本心は姉さんのかなりレアな反応を引き出したのである。
だが次の瞬間には、あああ、と悲痛な声を上げて姉さんは番台に突っ伏してしまった。
「あぁ、私終わったわ。一瞬でもタヌキに褒められて嬉しいと思ってしまった。もうダメだ、明日キツネに祟られて死ぬかも」
「ひどくない? 今の僕は人間だぞ。化けて出てきてるわけじゃないし尻尾もないし足もちゃんとある」
「わかってるわよ。でもアンタは近すぎんの。番台のすぐ側すぎるの。だからもっともっと会ったこともない、あの火山のてっぺんぐらいにいる人に感謝されたい。そう思うのって私がおかしい?」
「おかしくはないと思うけど遠いなぁ。感謝されるのに距離感とか大事なの?」
「乙女心は複雑なのよ」
「ふーん、そんな事考えてたんだね」
やっぱりダニエラ姉さんは不思議な人だ。
ぶっちゃけた話、僕は姉さんが姉さんであることに満足して生きているのだと思っていた。
日がな一日番台に座って、常連客相手に長々愚痴るだけで。
それだけで人生のほとんどが足りている人だと思っていた。
でも、そうではないらしい。
姉さんにもちゃんと職業的なやりがいを感じたいという欲求があるのだ。
僕は頭の中の辞書にある『ダニエラ姉さん』の項目をかなり上書きした。
「私も婆ちゃんに按摩習おうかしら。そしたら揉む度にみんなありがとうって言ってくれんのかね」
ダニエラ姉さんは冗談と本気の中間ぐらいの声で言った。
僕は即座に否定した。
「やめといたほうがいいんじゃない」
「なんでよ?」
「正直言って姉さんガサツだし。客の背骨折っちゃうかもよ?」
「人間の体には二百本以上骨があんのよ」
「一本ぐらいいいだろ、って?」
「そうそう」
「お願いだから按摩にはならないでくれ」
笑いながら釘を刺してから、僕はラムネを呷った。
ちなみに。
僕がダニエラ姉さんを止めたのは、姉さんがガサツだからではない。
姉さんが他の男の身体を撫でたり触ったりするところを想像したからだ。
そしてさっきの僕みたいに、男に嬌声を上げさせるところを想像したからだ。
この人にはそんなことをさせたくないし、その想像すらもしたくない。
本人のやる気に関わらず、僕がそう思うのは――僕の勝手なはずだった。
◆
鍛冶屋というのは、よほど腕がよくてもそう忙しいものではない。
もともと、近くに鉱山や製材所でもない限り一度に大量の道具の注文が舞い込むことは稀だし、包丁は毎日研いだりしない。
となると、日常の大体の仕事は農具の先がけ、ということになる。
クワやスキというのは不思議な道具で、地面を耕す部分の先端の鋼部分をまた付け直せば、新品同様になるのだ。
だから親方の弟子である僕は、一週間に一日だけ街を回って、そのテのすり減った農具がないか注文をとって街を歩く。
まぁでも、鍛冶屋のお得意先は決まっているし、農業には農閑期もある。
だからそろそろ秋めいてきて、農業も一段落を迎えるこの時期の営業は暇なのだ。
それが実質的なサボりのための期間であると固く信じている僕は、そんな訳で素早く得意先を回った後、昼に帰るまでの時間潰しでぶらぶらと街をほっつき歩いていた。
屋台を冷やかしていると、《令嬢の湯》の近くまで来た。
おっと、これはマズい。いつもの癖で温泉に足が向いてしまった。
なにしろダニエラ姉さんは僕が仕事をサボっていると怒るのだ。
真面目に仕事しなさいよ、と、愚痴ではなく小言を言われることになる。
まぁ確かに、彼女は朝から晩まで湯船の掃除なんかをしているのだから、サボっている姿を見られるのは僕としても後ろめたいことでもある。
どうしよう、このままUターンしてあっちの方を彷徨こうか。
屋台で買った今川焼きを齧りながら考えていると、ふとある人を見つけた僕は足を止めた。
「エレノア婆さん」
僕が声をかけると、婆さんがはっと顔を上げた。
そして僕の方に耳を向け、助かったというように言った。
「あぁ、ニーベルだね? 今日は仕事は休みかい?」
「いいや、ちょっとした――まぁ用足しだよ。それより婆さんこそどうしたの?」
「神の手」と称されるこの婆さんはいまだに引く手数多だ。
金曜の夜に《令嬢の湯》に来る以外は国中を飛び回っている。
だから土曜日の今日、婆さんがここにいることは珍しいことだった。
「ちょうどよかった、ちょっと探しものをしておくれ」
「なんだい? なにか落としたの?」
「昨日の晩だよ。ここいらだと思うんだ」
「何を落としたの? 何を探してるか言ってもらわないと」
「落としたんじゃないよ。ここの近くにガラスの破片か何か落ちてないかい?」
破片?
僕が鸚鵡返しに尋ねると、婆さんは焦ったように頷いた。
「私の代わりに探しとくれ。目開きのアンタにしか頼めないんだよ」
なんだか、妙な話だった。
言われた僕がきょろきょろと辺りを見回すと、道の端っこに、砕けたガラス片があった。
近づいて見てみる。
なにかガラス瓶が砕けた破片で、それが一塊分ある。
「あぁ、なんだかガラス片があるけど、これが何?」
「他にはなにもないかい?」
「どういう感じのもの?」
婆さんは言った。
「なんだかこういう、丸く丸めた紙みたいなものさ」
紙? 僕は眉根を寄せて周りを見てみた。
が、それらしいものはどこにも落ちていない。
「あぁ――なにもないな。やっぱり落とし物?」
僕がそう言った瞬間の婆さんの顔。
婆さんは一瞬、皺だらけの顔を更に皺だらけにして、ぎゅっと目を瞑った。
言うなればそれは、後悔の念のようなもの。
悪いことをしてしまった――と、己の行為を悔いるような表情だった。
「ねぇ婆さん、一体どうしたんだよ? 何があったんだい?」
ちょっと心配になって僕が尋ねると、婆さんが僕の袖を掴んだ。
その力の強さに驚いていると、必死さを滲ませた声で婆さんは言った。
「ねぇニーベル、このことはお願いだから誰にも喋らないでおくれ」
「え?」
「絶対だよ、いいね?」
「はぁ――」
僕が答えると、頼んだからね? というように婆さんはもう一度袖を引いた。
そして婆さんはくるりと踵を返し、トコトコと歩いて行ってしまった。
なんだったんだろう。
僕は小さくなってゆく婆さんの背中を呆然と見ていた。
◆
「おうっ、ニーベル、今日は仕事サボってやがったな! ウチの若ぇのが見てたってよ!」
湯船に浸かったヤエレクのおやっさんが、物凄く大きな声で笑った。
正直、そういうことはもう少し小声で言ってほしいものだ。
一応、僕も言い訳めいた声を、少し大声で言った。
「サボってたんじゃない。注文を取って歩くのも鍛冶師の仕事だよ、おやっさん」
「なぁにを抜かしやがんでぇ、屋台街は街の中心だろ! そんな垢抜けたところのどこに客がいるもんかよ!」
「販路拡大ってのも営業の仕事だよ」
「おいおい、誤魔化すなぁ見栄が悪いぜ。いいんだぜ若ぇ奴はいくらサボったってな。ただしコソコソするな、サボるなら男らしく堂々とサボれ、なぁ!」
ぐわはは、と、ヤエレクのおやっさんは牙を剥き出しにしながら僕の背中をばんばんと叩いた。
おやっさんは怪力のオークであるからこれをやられると結構痛いのだ。
僕は微妙に身を捩りながら言った。
「あだだっ! ちょ、おやっさん! 手加減手加減!」
「おう、すまねぇすまねぇ。俺はどうしても力加減ってやつができなくてよ」
「それにあんまりサボりサボり言わないでくれ。今日は立派に人助けもしたんだからさ。トントンだよトントン」
スン、と鼻を鳴らして僕は言った。
ヤエレクのおやっさんが湯船の中で身を乗り出して訊いてきた。
「人助け? いいねぇ訊いてやろうじゃねぇか。ゴロツキに絡まれてた娘っこでも助けたか?」
「道で乙女を助けたのさ。目が視えない、齢百五十歳の乙女をだ」
僕がそう言うと、えっ? とヤエレクのおやっさんが驚きの声を上げた。
ん? と僕がおやっさんを見ると、おやっさんは少し声を潜めて訊いてきた。
「するってぇとおめぇ、今日あのエレノアの婆に会ったのか? どこで?」
「え? 温泉の近くでなにか探してたところに声をかけたんだけど」
さっきまでの大声はどこに行ったんだろう。
そう思うほどに、ヤエレクのおやっさんが萎んだ。
落ち着いたとか、驚いたとかではなく。
とにかく、おやっさんが萎んだように、僕には見えた。
「えっ、なに?」
「あ――いやな。ちょいと驚いちまったんだよ」
「驚くって何を」
「あー、そいつなんだがなぁ。一応あの因業婆にも口止めされててな」
おやっさんは牙だらけの口をもごもごと動かし、そして訴える目で僕を見た。
「訊きてぇか?」
「いや、そんなには別に」
「訊きてぇんだな?」
「そうだね。訊きたい」
このまま否定し続けると、おそらく「訊きてぇって言いやがれ!」となるに違いない。
ヤエレクのおやっさんは短気だし一本気なのである。
口止めされていたことをバラすのだから、どうしても僕がしつこく問い詰めたことにしておきたいのだ。
僕が言うと、ヤエレクのおやっさんが人差し指をクイッと曲げた。
耳を貸せ、ということらしい。
僕がヤエレクのおやっさんの逞しい肩にしなだれかかるようにして耳を寄せると、おやっさんが言った。
「岡惚れ」
「は?」
「逢引だ」
「何よ合い挽きって? 肉?」
「まぁ要するに――あの婆さん、レコができたんだよ、レコ。ホの字」
おやっさんがぶっとい小指を立てた。
僕は仰天して動揺して、おやっさんを見た。
「嘘だぁ!」
「しっ、声がでっけぇ!!」
僕の「嘘だぁ!」よりも何倍もデカいその声が風呂場に響き渡った。
その声に驚いたように、洗い場や別の湯船にいた客が一斉にこっちを向いた。
いかつい顔を歪め、気まずそうに愛想笑いをしてから、おやっさんは言った。
「昨日の晩に、俺も会ったんだよ。あの婆に」
「えっ、どこで?」
「まぁ妙な話なんだがな――昨日の晩、俺はちょいと寝酒を引っ掛けすぎてよ。汗かいちまったんで、ちょっくら夜風にでも当たろうと散歩に出たと、そう思いねェな」
うんうん、と僕は頷いた。
おやっさんの口調がこうであるから、まるで講談師の講釈を聞いている気分だ。
「すると向こうから誰かがパタパタ走ってくるじゃねぇか。なんだろうって見るってえと、あの婆なんだよ。よくもああやって歩けるもんだぜ、杖一本であんな真っ暗い中をよ」
「まぁ、元から本人の世界は真っ暗だろうからね」
「どうした婆、女の性分でも落っことしたか、って冷やかしたらよ、ヤエレクかいっ、ってアイツが大声で怒鳴るんだ」
なんだか、今日の僕と似たような話だった。
おやっさんは続けた。
「俺がその声の大きさにおったまげたところでよ、婆がサッと紙を差し出してきやがる。何だよこれって言ったら、あたしのかわりに読んでくれと来たもんだ」
ほうほうそれで? と、今や僕も身を乗り出して聞いていた。
「なんて書いてあったの?」
「まぁ俺の方もだ、文字の方とは生まれてこの方あんまり付き合いがねぇもんでよ、拾い読みぐれぇが関の山なんだ。だけど色々読んでったらよ、書いてあんの」
「何が」
「これからも頑張ってください、好きです、みてぇな文言がだよ」
僕は絶句してしまった。
もちろん、それは個人の趣味嗜好を否定する行為なので、褒められたものではない。
だが、それはあまりにも斜め上な展開だと思った。
あの皺くちゃの、どこからどう見ても婆さん、と見える婆さんに、恋?
それも情熱的な文言をしたためた手紙で? まるで中学生じゃないか。
正直、想像もしにくいことだった。
「俺がその通りのことを言ったらよ、あの婆、なんだかしょげ返っちまってよ。そうかい、手紙を返しとくれ、って言ってそれっきり」
「それで?」
「それでもヘチマもねぇよ。それだけだ」
そして婆さんは夜道を帰っていった。
たった一人で。
僕は肩を落とし、トボトボと闇に消えてゆくエレノア婆さんを想像した。
とても似合わない――というより、想像だに出来ない光景のように思えた。
おやっさんの話が終わったようだった。
「なぁニーベル、どう思うよ」
「どうって」
おやっさんがそう訊いてきて、僕は半笑いで言った。
「いいんじゃないの。いつになっても女は女だし男は男だ。そして趣味嗜好は千差万別だ」
「それだけか」
「それだけかって」
僕はヤエレクのおやっさんを見た。
「それ以上、どう言おうってのよ。あの婆さんを好きになった人がいたなら仕方ないだろう。僕らが何を言えるんだよ」
僕は更に言った。
「確かにあの人は僕から見ても婆さんだ。でも、それでも好きになったなら仕方ないよ。後は婆さんの心持ちとノリ次第だ。僕らが口出すことじゃない」
「そうさなぁ――そうだよなぁ」
ヤエレクのおやっさんはそう言い、瞬時視線を下に落とした。
何故だか、おやっさんはますます萎んだように見える。
禿頭をかくんと揺らし、おやっさんは野太くて長いため息をついた。
それはまるで緑色の風船から空気が抜けるかのようだった。
それきりおやっさんは何も言わず、ざぶざぶと湯船から上がった。
「えっ、おやっさん?」
ヤエレクのおやっさんは長風呂である。
そして風呂を上る前はだいたい他人に対して愛想良く上がる。
だからこういう風に、急に風呂を上がることは珍しいことだった。
僕が引き止めるように言っても、ヤエレクのおやっさんは振り返らなかった。
それきり、なんだか不機嫌そうな雰囲気をまといながら、おやっさんはそそくさと風呂を上がって行ってしまった。
しばらく、僕は何も考えられなかった。
ヤエレクのおやっさんは短気だ。
だけども変わりに一本気だ。
だから、この人がこういう風な行動を取ることは、まずありえないことだった。
なんだろう、何がそんなに面白くなかったんだろう。
僕はおやっさんが消えていった脱衣所のドアを見ながら考え込んでいた。
◆
「婆さん、送ろうか?」
「いいんだよ」
エレノア婆さんは短く僕の申し出を否定した。
だが断るにしても、この婆さんなら、いつもはもっと愛想よく断る。
まだそこまで老けちゃいないよ、とか。
どこの介護老人と間違ってんだい、とか。
あたしがあんたの手を引いて帰るの間違いだろう、とか。
だが、いつまで経っても婆さんの口は開かれなかった。
あまり見たことのないノリの悪さに、僕は居心地悪く番台横の椅子に座り直した。
ハァ、と、一緒に魂まで抜けていきそうな勢いで、婆さんはため息をついた。
ここまで元気がないのも心配になるぐらいの萎れ方だった。
内心、驚いているのはダニエラ姉さんも同じらしい。
ダニエラ姉さんがまごついている雰囲気が伝わってくる。
「それじゃあダニエラ、また来るからね」
「気をつけてね、婆ちゃん」
ダニエラ姉さんの言葉に一言も返すことなく、婆さんは杖をカツカツ鳴らしながら温泉を出ていった。
「なんだか婆ちゃん、元気なかったわよね」
やっぱり、姉さんも婆さんの萎れ方が気がかりなようだ。
気づかれないように視線をそらして、僕はラムネを呷った。
「そうかな?」
「私の気のせいかな」
「どうだろうね」
「煮え切れタヌキ」
「それどういう脅迫?」
僕は苦笑してダニエラ姉さんを見た。
「タヌキに『煮え切れ』って、それはないよ。禁句中の禁句」
「猟師に鉄砲で撃たれたら煮て焼いて喰われろ。タヌキの責務だ」
「ここは千波山じゃない」
「山なんてみんな同じよ」
「元気がないように見えたんだね?」
「だからどう思う、って訊いてんのよ」
「うーん……確かになぁ」
僕はあくまで片足を対岸に付けたままの物言いをした。
まぁ、結論から言うと間違いなくエレノア婆さんは元気がない。
普段なら施術が終わった後は、番台の横に座って一言二言世間話をして帰る。
だが今回はそんなこともなく、暗い顔で逃げるように帰ってしまったのだ。
繰り返しになるのだが、ダニエラ姉さんは婆さんが好きなのだ。
特にその軽妙な掛け合いを見ていると、二人は実の祖母と孫なのではないかと思ってしまうぐらいだ。
だから婆さんに元気がないと、つられて姉さんも調子が狂うのだ。
ダニエラ姉さんは頬杖をつきながらため息をついた。
「なんだかこっちまで元気なくなるわねぇ。あの婆ちゃんはいつもカクシャクとしててニコニコしてて遠慮ないところがいいのに。なんだか火が消えたみたい」
「言えてる。今の婆さんは火が消えてる」
一体、婆さんに何があったんだろう。
僕はしばらく婆さんに起こったことを想像してみた。
あの日の夜、施術が終わった帰り道、婆さんは誰かに会って恋文を渡された。
手紙を渡してきた人物は何も言わずに走っていってしまう。
エレノア婆さんは困惑したに違いない。
そしてたまたま向こうから来たヤエレクのおやっさんにそれを読んでもらった。
そして手紙の内容を知り、何故だかショックを受けた。
そういうことなのだろうか。
いや――それはおかしすぎる。
大体婆さんの目が見えないことはこの街なら常識だった。
受け取った本人が読むことのできない手紙をわざわざ書いて渡すだろうか。
その手紙を朗読するならともかく、他人に読んでもらうことでしか婆さんは手紙の内容を把握できないのに。
たいてい、恋文の内容なんて他人には知られたくないもののはずだ。
そしておかしいのは、あの日婆さんが探していたものだ。
ガラスの破片、とは一体何なんだろう。
婆さんはあの夜、どこかでガラスが割れた音を聞いたのだ。
でなければ僕にそれを探してくれなんて言わないはずだ。
けれど――なんでそんなものを探す必要があったのか。
そしてそれが、ヤエレクのおやっさんが読んだ恋文となんの関係があるんだろう。
僕が考え込んでいる横で、ダニエラ姉さんは番台に頬杖をつきながら言った。
「なんだか婆ちゃんがあのままだと、私まで元気なくなっちゃうわ。どうしたのかしらね」
「さぁてねぇ、誰かにフラれたんじゃない?」
僕が冗談めかして言うと、ダニエラ姉さんは力なく肯定した。
「そうかも知れないわね」
ハァ、と姉さんは物憂げにため息をついた。
僕は少し驚いた。
姉さんは、エレノア婆さんが失恋した可能性を、冗談だと思っていないのだ。
「えっ、そうなのかな」
「自分で言ってて自分で驚くな、アホ」
ダニエラ姉さんは愚痴るように言った。
「逆に、あの元気いっぱい婆さんが落ち込むんだもの、それぐらいしか考えられないでしょうよ」
「そうかな」
「そうよ」
「なぁ、姉さん」
「あによ」
「話はかわるけど、もし、もしだよ?」
僕は入念に断りを入れてから言った。
「例えばの話だ。自分が老いさらばえて、もう完全に耄碌して、皺だらけで、腰も曲がって、女としての花盛りを完璧に過ぎてたとしても、そのときに誰かを好きだと思ったり、誰かと一緒になりたいって考えると思う?」
「当たり前じゃない」
姉さんの即答に、僕はちょっと驚いた。
「当たり前――かな?」
「なるほどタヌキ、アンタは悲しいぐらいモテないでしょうね」
「なんでだよ」
「重ねて訊いてくるところがもうモテないのよ」
姉さんはジロリと僕を睨んだ。
「そういうことはしなきゃいけないって思うからそうなるもんじゃない。金持ちでも貧乏人でも、人間じゃなくても、道の真ん中に落とし穴があったら皆等しく落っこちる、そうでしょう?」
「重力は万物に働くからね」
「わかったようなこと言うな」
口をとがらせてから、ダニエラ姉さんはまるで詩人のように言った。
「タヌキ、これだけはよく覚えとけ。恋には落ちるものだ。穴の中にスットーンとね。そしてそう簡単には這い上がれない。相手も、タイミングも、なにひとつ選ぶことは出来ない。そして自分では歯止めが効かない。なんでこんなやつに、って自分が嫌になるときさえある。そういうもんよ」
「そうなのかな」
意地悪く僕が疑念を挟むと、姉さんがため息をついた。
そして、翡翠色の瞳で僕を睨んだ。
「逆に訊く。アンタは――アンタはそうじゃないの?」
突然訊ね返されて、う――と僕は返答に困った。
結局、なんて答えようか迷った僕は、苦笑しながら言った。
「そうだなぁ――僕がジジイになったら絶対、自分から身を引くかな。僕がヨボヨボのジジイだったら相手の迷惑とか考えちゃうだろうし」
姉さんは無言で、責めるように僕を見ていた。
それで? 姉さんの目は続きを待っている。
僕はその視線から逃れたくて、自分の手のひらに視線を落とした。
そう、僕の手は汚れているから――。
だから、そうじゃない。
そうであってはいけないのだと、僕は思っているから。
僕は三年前の旅で、とんでもなく色んなものを犠牲にした。
際限なくどいつもこいつも斬り殺して、血で汚れて、恨みを買って。
そしてまた――三ヶ月前には、王国のお尋ね者にさえなった。
そして僕が殺していった存在は、常に僕の中で僕を睨み続ける。
ほら、今みたいに。
ちょっと油断すると、すぐに僕の両足に亡霊が絡みついてくる。
今が楽しいか、俺たちから奪った時間で生きる余生は楽しいか。
そう言って亡霊たちは僕を苛み、僕の人生を誹り続ける。
だから僕には、きっとそうなる資格はない。
誰かの幸せと引き換えに自分が幸せになろうなんて僕には思えない。
いっそ恋ではない、どこか深い、陽の差し込まない穴に落ちればいいとさえ。
僕は本気で自分がそうなればいいのにと願う時がある。
でも――そうではなくなりたいと思う自分も、どこかに確実にいる。
僕は結局、嫉妬しているのだろう。
僕ではない誰かが、誰かから好かれているという事実に。
僕ではない誰かなら、誰かから差し出された剥き出しの好意を、何のわだかまりもなく受け入れられるという事実に。
だからエレノア婆さんが誰かから愛されている可能性を否定したい。
それがあり得ない、おかしいことであると否定したくて。
だから僕はわざわざ姉さんに意地悪く反論しているのだ。
亡霊が僕を見返した。
カタカタ、と、ガイコツの顎が僕を嘲笑うように動く。
その亡霊の望むまま、僕は口を開きかけた。
「まぁ、僕みたいな人間に好かれても、きっとその人は迷惑すると思うしね。こなお尋ね者男、誰かに好かれると思う方が間違いだ。そうでなくても僕は――」
「それ以上はやめとけ」
ダニエラ姉さんが鋭く言って、僕は口を噤んだ。
途端に、僕の足元に絡みついていた亡霊たちが、一瞬で消えた。
しばらく、僕は何も言えなかった。
姉さんが番台の上で尻をにじって僕に向き直り、咎めるような、憐れむような、不思議な視線で言った。
「アンタってたまに極限まで卑屈で失礼なこと言うわよね。それって侮辱よ。最大級の侮辱」
「そう――かな?」
「そうよ。アンタはもし心の底から誰かに好かれたときに、その相手に今みたいなことを言うの? そんなもん、こっちはひっくるめて全部請け負うつもりで来てんのに。相手のことを考えて身を引く? 最大級に失礼じゃない」
姉さんはそこで大きくため息をついた。
「ああ、この人は私の覚悟にきちんと向き合ってくれないんだ、飛び込んできてくれないんだ、って。それを聞いた相手はきっと凄く悲しいと思う」
ダニエラ姉さんは悲しそうな顔で言った。
その顔を見て、僕は少し項垂れた。
そうだ、全くその通りだった。
僕にその勇気がないからって、周りの人が全部そうであるとは限らない。
僕だけが、きっと卑屈で卑怯なだけなのだ。
勇者とは勇気がある人間のことをいうのに。
僕は――勇者失格人間だ。
ダニエラ姉さんは、ふっ、とため息をついた。
「まだまだアンタは真っ暗な穴の中ね、ニーベル。あったかい日向に出てくるには、もっともっと頑張って、色んなもの振り捨ててかなきゃないわよ」
姉さんは僕の心の奥底を見透かす声で言った。
そして、はいっ、と手をひとつ叩いた。
パン、と、乾いた音が鳴った。
「つまんない話は終わりよ。あの婆ちゃんに引っ張られて私たちまで暗くなったら元も子もないからね」
姉さんが許してくれた。
僕にはそう思えた。
エレノア婆さんを元気にしてやろう。
僕はそう決めた。
あの婆さんがあのままだと、この人まで元気がなくなる。
僕はこの人にだけは、いつも元気いっぱいで、満ち足りた人でいてほしい。
そう思うから、婆さんに元気になってもらわなければならない。
それが自分にとってどんなに不利な結果になっても。
「姉さん、ありがとうね」
僕がそう言ってラムネの残りを飲み干すと、姉さんがまた、ふふっと笑った。
「どういたしまして」
◆
一週間後。
寒寒寒寒、と念仏を唱えながら、僕は温泉に程近い物陰である人物を待っていた。
張り込みもこれで一週間。
何食わぬ顔で風呂に浸かり、帰るふりをしてこの植え込みの陰へ。
温泉の火が消えるのは夜九時だから、かれこれ一時間ぐらいの張り込んでいることになる。
もうすっかりと湯冷めしていた。
叶うことならもう一度風呂に入りたかった。
と、ガラガラという音がして、温泉の引き戸が開いた。
ダニエラ姉さんは僕に気づく素振りもなく、暖簾を外して中に入れた。
しばらくあって、姉さんが一抱えのケースを持ってきて、それを入り口の脇に置いた。
明日の朝、業者に返すための、カラになった牛乳瓶のケースだった。
そして姉さんはひとつ伸びをして、今日も満天の星空を見上げた。
まるで仕事終わりの儀式のように、姉さんはそれを繰り返していた。
今日も終わった。言葉以上にそう示す姉さんの顔は晴れやかで、僕が見るいつもの気怠げな表情とは違う。
ほう、と白い息を吐き出して腕を降ろし、姉さんは温泉に引っ込んでいった。
「おやすみ」
僕はそっと姉さんに言った。
火が消えて、十分程が経過した。
今日も空振りかな――。
僕がそう思ったときだった。
タタタッ、と、小さな足音が聞こえて、僕は音がした方向を見た。
金曜の夜に母親に手を引かれて温泉にやってくる、獣人の幼い男の子だった。
男の子は寒さに鼻を啜りながら、温泉の入り口まで走って来た。
そしてそこで立ち止まり、子狸がそうするように、きょろきょろと辺りを伺った。
そして意を決したように、両手に持ったそれを、さっき姉さんが置いたケースの中に押し込んだ。
からん、と音が発し、びくっと身を竦ませた男の子は、もう一度辺りを伺った。
頭から突き出た猫のような耳が、頭以上にぴこぴこと辺りを伺っているのが可笑しかった。
しばらく、男の子はしゃがみこんだままケースを見つめていた。
そして意を決したように立ち上がると、来た道を走って戻っていった。
男の子が去って数分後。
僕は物陰から這い出た。
そしてゆっくりと、温泉の入り口に近づいた。
元勇者の恩恵なのかなんなのか、僕の目は完全なる闇夜でもそこそこ見通しが効く。
だからそこにあったものも簡単に見つけられた。
牛乳瓶の中に小さく丸められて入っている手紙を。
「ごめんな」
僕は男の子に小さく謝ってから、その瓶を手に取り、用心深く物陰に戻った。
そして瓶の蓋を開け、中の物を取り出した。
あの夜、エレノア婆さんが持っていたという手紙。
僕の予測が正しければ、それの正体がこれだろう。
婆さんはきっと、あの日の夜、今のようにやってきた男の子とぶつかったのだろう。
男の子が手にした牛乳瓶は地面に落ちて割れて、手紙が外に出た。
婆さんは手探りでガラスの破片の中から手紙を拾い、持ち主に返そうとした。
ぼくんじゃない!
男の子はきっとそういうようなことを言って、慌てて帰ったのだろう。
男の子はその手紙の内容が知られることも、その手紙を持ってきたのが自分であることも、誰にも知られたくなかった。
だから慌ててその場を逃げ出した。
婆さんは目が視えず、その手紙を読むことが出来ないとは知らずに。
手紙の持ち主に逃げられた婆さんは、それがなんであるか確かめようとした。
そこにヤエレクのおやっさんがやってきて、手紙を読んでやった。
婆さんは拾ったそれが恋文であることを知って、悪いことをしたと罪悪感に駆られた。
だが婆さんは目が視えない。
つまり、誰がこの手紙を落としたのかすらわからないのだ。
では何故、婆さんがその手紙を然るべき人に届けなかったのか。
それはきっと、手紙の宛先が書いていなかったからだ。
そう、それはそれを読むべき人の元に届けられていたのだ。
その人に宛てて、その人のすぐ目の前に。
手紙は、その人以外には決して読まれない場所に直接差し出された。
だから最初から誰に宛てたかなど、書いてはいなかったのだ。
いても立ってもいられず、婆さんは夜が明けてからここに来て手がかりを調べた。
だけども、そこには割れた牛乳瓶の破片以外、何も手がかりになるものはなかった。
だから――婆さんは手紙を返すことも届けることもできず、罪悪感からずっと落ち込んでいるのだ。
しばらく、僕はどうしようか迷った。
僕より何倍も勇気ある少年の勇気の結晶である。
これを廃棄したり持ち帰ったりするのは人として最低の行いだろう。
でも――僕の中の天秤が揺れ動いた。
僕の予想通りなら、これは正直、本当に有り難くない内容だろう。
何しろライバルが現れたことになるからだ。
しかも相手は猫耳だ。僕にはない強力なアドバンテージがある。
最終的に姉さんがどちらを選ぶにせよ――競争相手は少ないほうがいい。
僕がここでこの手紙を持って帰るなり廃棄するなりすれば、全てが闇に葬られる。
エレノア婆さんには適当に言って励ましておけばいい。
ぼうっ、と、僕の身体が青白く発光し始めた。
いけない、このままだと、光る身体のせいで手紙の内容が読めてしまう。
いやでもダメだ、やっぱりそれは人として最低の行いだ。
それに、もはや彼は僕の友だった。
同じ女を愛したなら、僕と彼とはこれ以上ない友であるはずだ。
友達のものを盗み見るなんて最低だ。
ましてやそれを破棄してしまうなんて。
最低だ、最低だ、最低だぞ勇者ニーベル。
お前は勇者なんだぞ、元だけど。
結局、僕の中の天秤は友情を取った。
僕はくちゃくちゃにまるまった手紙を、なるべく中身を見ないように広げて丁寧に折りたたみ、細く長くしてから一重結びにして、どうにか手紙らしく折りたたんだ。
あの子の年齢なら、まだこういう風な工夫は思いつかないはずだ。
今まであの手紙が届かなかったのは、姉さんがそれを単なるゴミだと思って捨てていたからだろう。
牛乳瓶の中に包装紙やゴミを丸めて突っ込むようなマナーの悪い大人がいるせいだ。
そのせいで彼の情熱的な思いは今まで届かなかったのだ。
例えば僕のような、マナーのなってない悪い大人のせいで。
明日の朝、これを見たら、バカでもなにかこれが内容のある手紙だとわかるだろう。
彼の友として僕にできることは、姉さんがバカでないことを期待するだけだ。
僕はそっと牛乳瓶の蓋を締め、小走りにケースに駆け寄った――。
◆
僕が風呂から上がると、本を読むダニエラ姉さんが鼻歌を歌っていた。
僕はタオルで頭を拭きながら、何喰わぬ顔を装って言った。
「姉さん、なんかご機嫌じゃない?」
僕が当てこするように言うと、姉さんは「さぁ」と気のない返事をした。
「別に普通だけど?」
いや、絶対そうじゃない。
僕にはわかる。
今の姉さんは絶対に機嫌がいい。
僕は今まで姉さんが鼻歌なんか歌っているところを見たことがない。
たぶん、あの手紙を読んだからだ。
ぐぬぬ……と歯ぎしりしたい気分で僕は番台の横に座り込んだ。
ぎしっ、と、歯ぎしりの代わりに、椅子が大きな音を立てた。
「反対にアンタはなんだか機嫌悪そうね」
姉さんに言われて、僕は思いっきり動揺した。
「――別に、普通だよ」
「嘘つけ。身体めちゃくちゃ光ってるし」
あっ! と僕は自分の身体を見た。
内に眠る勇者の血のせいで、僕の身体は気分が高揚するとすぐに光り出す。
こういうときは身体が口ほどに物を言う。
馬鹿野郎、と自分の中の勇者を恨んで、僕は努めて冷静な声を装った。
「――姉さん、何かあったの?」
「そっくりそのままアンタに返す。何かあったの?」
「あぁ、めちゃくちゃ面白くないことがあったよ。めっちゃくちゃね」
「何が、とは訊いてほしくなさそうね」
「わかってるね。訊いてほしくない」
「ふーん。なら訊かないわ」
ダニエラ姉さんはそう言って、本を読むのに戻ってしまった。
クソックソッ、なんだかダニエラ姉さんに凄くからかわれ、はぐらかされている気がする。
正直、僕は気が気ではなかった。
と、そのとき。
ガラガラと脱衣所から出てきた人がいた。
ふとそっちの方を見た僕は、息を呑んだ。
見ると、昨日のあの獣人の男の子だった。
いつもはお母さんと一緒に来るのに、今日は一人だった。
彼を目にした途端、僕の身体が遠慮なく青白く光り始めた。
番台の横で青白く光り輝きながら、こちらを睨んでむすくれている男。
五歳ぐらいの彼にとっては恐怖の光景だっただろう。
もう僕は彼への嫉妬を隠す事を諦め、舐めるようにしてラムネをチビチビ飲み続けて注意深く様子を伺った。
ちらちらと、男の子は姉さんを見ていた。
姉さんは男の子の視線に気づいてないのか、本から顔を上げない。
しばらく待ってから、男の子の耳が、シュン、と落胆したように垂れた。
反対に、僕の身体が一層強く光り輝いた。
男の子は不思議そうに僕を見てから、もう一度姉さんを見て、それからとぼとぼと玄関に向かった。
「ちょい待ち」
その声は、雷鳴のように鋭く響き渡った気がした。
男の子だけでなく、僕の方もビクッとダニエラ姉さんを見た。
姉さんは顔を上げ、男の子に手招きした。
そして番台から首だけを出して、意地悪く微笑みながら男の子の顔を見た。
「アンタでしょ、昨日の手紙」
びっくぅ! と、男の子の耳が緊張した。
あ、あ、と、男の子の顔は気の毒なぐらい蒼白になり、姉さんを見ながら硬直してしまった。
ダニエラ姉さんはそれを見て、にっこりと笑った。
「そんな緊張しなくてもいいわよ。ありがとうね、三ヶ月前に王都から悪いやつが来た時、私の変わりにアンタが蹴っ飛ばしてくれたのよね?」
え? と僕は男の子を見た。
戸惑っている僕の横で、男の子の顔がパッと笑顔になった。
「私もちゃんと見てたわ。えいやっ、って、アンタがあの悪いやつのスネを蹴っ飛ばしたの。あの時のアンタ、勇者みたいでカッコよかったわよ」
ダニエラ姉さんがニコニコと言うと、男の子はぐっと胸を張った。
やっと言いたいことが言えた、というように、男の子は目を輝かせて言った。
「僕はお姉さんがいるこのお風呂屋さんが好きだもん! またあいつらが来てひどいことを言ったら、また僕がやっつけてお風呂屋さんを守ってやるんだ! だからお姉さんは安心していいよ!」
「あはは、ありがとう。これはその御礼よ、持っていって」
姉さんは番台の横からラムネを取り出すと、男の子に向かって差し出した。
うん! と全身で頷いて、男の子は玄関に向かって走っていった。
そしてもう一度だけ、ダニエラ姉さんを誇らしげに振り返ると、勢いよくトコトコと駆けていった。
「――なんかあったの?」
僕はやっと、やっとのことで、とぼける一声を発することができた。
姉さんは思わせぶりに「別に」と言ったきり、本に視線を戻し、実に機嫌よく鼻歌を歌いだした。
あああ、と、僕は心の中で、とんでもなく長く大きくため息をついた。
恋文ではなかった。
恋文ではなかった。
恋文ではなかったようだ。
王都から使者が来て、ダニエラ姉さんを好き勝手なじったのが三ヶ月前。
おそらく彼はその時のことを言っているのだ。
あの男の子は、あの使者とかいう男を、どさくさに紛れて思いっきり蹴飛ばしていたのだ。
それを知ってほしくて、ダニエラ姉さんに安心してほしくて、あの手紙を出したのだ。
結局、その使者は怒り狂ったヤエレクのおやっさんにボッコボコにされたのだが、彼もその「ボッコボコ」に一役買っていたのだと、彼は言いたかった。
そして彼が「好き」なのは――どうやらこの温泉のことだったらしい。
安堵と、そして一人で勝手に盛り上がっていた自分への恥ずかしさで頭の中はぐちゃぐちゃだった。
今や僕の身体は本物のホタルイカのように、美しいグラデーションを描きながら光り輝いていた。
「あ、もしかしてアンタ、私が機嫌いいのが今の話のせいだと思ってる?」
と、突然――。
ダニエラ姉さんが言い、僕ははっと姉さんを振り返った。
「え?」
「え、って何よ?」
「え――違うの?」
「なるほどね」
ダニエラ姉さんは笑みを深くして僕を見た。
「やっぱりアンタ、モテないでしょうね」
ダニエラ姉さんはさも面白いものを見るように、番台に頬杖をついて僕を見た。
その翡翠色の瞳が、僕をまっすぐに見た。
声も、心も、魂でさえも。
一瞬だけ、僕のすべてがその瞳に魅了され、吸い込まれてしまったように感じた。
しゅるるる……と、音が聞こえそうな感じで、僕の身体の発光が治まった。
姉さんはそれを見て、あははは、と大笑いに笑った。
「それでいい、タヌキ。年端もゆかぬ少年に嫉妬は醜いぞ」
ダニエラ姉さんはそう言ったきり、ご機嫌な表情で本を読むのに戻ってしまった。
分厚い本には、あの一重に結ばれた手紙がしおり代わりに挟まれていた。
◆
「婆さん。あの子の手紙、届けたよ」
僕が婆さんの手を引きながら言った。
エレノア婆さんは一瞬だけ立ち止まり、僕の方に耳を向けた。
「ヤエレクだね? 全くアイツ、どうせ誰かにしゃべるだろうとは思ってたけど、よりによってアンタに喋ったのかい」
「あぁ、婆さんが落ち込んでるのもそれが原因だったんでしょ? ちゃんと渡したよ。あの子がまた書いてきてくれてよかったよ」
僕が言うと、婆さんは安心したようにため息をついた。
そして欠けた歯を剥き出して笑った。
「まぁいいさ、ありがとうよ。これで肩の荷が降りたよ。落とし主には悪いことをしたとずっと思ってたからねぇ」
「しかしなぁ、婆さんも最初から僕にそう言ってくれればよかったんだよ、この手紙を届けてくれってさ。本人には悪いけどさ、届かないよりずっとマシだったろ?」
僕がそう言うと、ふぇっふぇっふぇっ、と婆さんが意地悪く笑った。
「そんなことは出来やしないよ」
「えっ?」
僕が言うと、婆さんは杖の先でカツカツと地面を叩いた。
「あたしはその手紙を持ってないんだから」
その言葉に、僕は婆さんの顔を見た。
「落としちゃったの? 捨てちゃったの?」
「いいや違うよ。これが私の受け取った手紙」
婆さんはそう言って、上着のポケットからくしゃくしゃに丸められた紙の玉を取り出した。
広げて中身を見た僕は、少なからず驚いた。
これは――近所にある製材所宛の領収書だ。
これが牛乳瓶に入っていた手紙? まさか。
わけがわからずに困っている僕に向かって、婆さんが恨めしそうに言った。
「あの悪たれめ、アレが恋文だとわかった途端、なにをどう勘違いしたのかその手紙を握り潰したのさ。かわりにこんなものをごまかして渡して。紙の手触りも厚さも違う。それぐらい目開きでなくてもわかるってのにだよ。どこぞに捨ててあるんじゃないかと思ってお前に探してもらっただろう?」
「えっ――? 先々週の土曜日のこと?」
僕は驚いた。
「捨てたって――もしかして、ヤエレクのおやっさんが?」
そうだ。手紙を拾ったあの晩、婆さんはヤエレクのおやっさんに会ったのだ。
そして手紙を読んでもらったはずなのだ。
ヤエレクのおやっさんはそれが恋文だとわかると、それを握り潰した。
そして咄嗟に、製材所の領収書を丸めて渡した――そういうことなのか。
「なんでそんなことを?」
ヤエレクのおやっさんは一本気だ。
だから嘘や誤魔化しの類は本人が一番嫌っているはずだ。
なのにどうしてそんなことをしたんだろう。
エレノア婆さんは答える代わりに、虚空を見上げるようにして、懐かしそうに微笑んだ。
「あたしが若かった頃、アイツは手のつけられない悪ガキでねぇ。近所に住んでるあたしにしょっちゅうゲンコツを喰らってたのさ。あたしが死んだ連れ合いと結婚してからも、毎日毎日なにかに理由つけてやってきて――子のないあたしたちの家は、あいつが来ると賑やかでねぇ――」
そう言われて、僕はエレノア婆さんとヤエレクのおやっさんの年齢を考えてみた。
エルフほどではないが、オークも人間よりは確実に長命だ。
外見的に八十歳手前ぐらいだろう婆さんと、人間で言えば還暦ぐらいのおやっさん。
なるほど確かに、昔はそういった、ごく親しい関係であったかも知れない。
なるほど、おやっさんが面白くなかったのはそういうことなのか。
つまり、あの手紙に嫉妬していたのは僕だけではなかったのだ。
それがちょっと可笑しくて、顔見合わせて失笑した僕らが、角を曲がった、そのときだった。
道の向こうにいた人が、あ、と声を上げた。
同じく僕も、あ、と声を上げた。
発見されたと知った緑色の禿頭が、一瞬だけ動転したように辺りを見回した。
どうも、隠れるところを探したらしい。
だが、身長2メートルを超える巨体を隠せるような場所は生憎となかった。
しばらくキョロキョロと辺りを伺い、しばらくもじもじとしてから、結局その人は隠れるのを諦めたように僕たちの前に立った。
「ヤエレクのおやっさん?」
「おっ、おう、ニーベルかよ。おめぇなにしてやがんだ、こんな時間に」
おやっさんはなんだか恥ずかしそうに、ぼそぼそと言った。
妙な顔をした僕から視線を逸したおやっさんは、次にエレノア婆さんを見た。
「おう、どこのボロ雑巾がひっかかってんのかと思ったらエレノアの婆じゃねぇか。てめぇ、まだお迎えが来てねぇのか」
「言うじゃないかクソガキ。あたしゃまだまだ死なないよ。あんたの二倍は生きてやるさね」
「けっ、相変わらず減らず口叩く婆だぜ。――それでニーベル、こんな遅くになんだってこんなみすぼらしい婆と連れ立って歩いてやがんだ?」
軽口になっていない口調でおやっさんは言った。
ぞわっ、と今僕の隣を駆け抜けたのは、おそらく殺気だろう。
僕は慌てて首を振った。
「い、いや! 温泉で背中揉んでもらったから途中まで送ってるだけだよ!」
「本当だろうな? 嘘ついたら舌ぶっこ抜くぞ」
冗談ではない口調と表情でおやっさんは凄んだ。
わかってると思うが、オークの人相と体格で凄まれると、これが本当に怖い。
うひぃ、と思わず身を竦ませると、おやっさんがもじもじと言った。
「おう、それでな婆――これ、この間落としていったぞ」
そう言っておやっさんが突き出した右手には、くしゃくしゃの紙玉が握られていた。
あれ、と僕はおやっさんを見た。
おやっさんは目をそらしがちに言
った。
「全く、そそっかしい婆だぜ。この手紙はてめぇが落としたのを俺が拾っといてやったんだ。感謝しろい」
この顔は絶対に嘘だろう。
おやっさんはこの手紙の内容を知って持ち逃げした。
そして、良心の呵責に耐えかねて返しに来たのだ。
当然、婆さんは闊達とした口調で怒った。
「全く情けない男だねぇ! 何が落としただよヤエレク、小賢しいことして! そんなものはもうとっくに必要なくなっちまったよ!」
そう一喝されて、ヤエレクのおやっさんがぎょっと婆さんを見た。
「は、はぁ――?」
「あの手紙はあたしが道で拾ったんだよ、最初からあたし宛じゃなかったんだ! 全く、なんて勘違いしてくれてんだい。こんな婆に恋文なんか書くやつがどこにいるってんだよ。お前だってちょっと考えたらわかるだろ!」
ヤエレクのおやっさんの顔が、だらんと弛緩した。
なるほど、あの時の僕の顔もきっとこんなふうだったに違いない。
僕は必死に笑いを堪えて、おやっさんの顔を堪能した。
「相変わらずそそっかしいねこの子は。これが手紙じゃなかったなんてその時からわかってたんだよ。こんな紙切れのどこが手紙さね! どこに好きだのなんだのって書いてあるってんだい!」
婆さんが製材所の領収書をおやっさんの足元に放った。
それを見て、ヤエレクのおやっさんは面白いぐらいに動揺した。
「そんなもん――咄嗟に渡し間違えただけでぇ」
「わざわざ丸めてかい?」
「う――」
「渡し間違えた方は何で持ち帰ったのさ?」
「や、やかましい! んなこたぁ最初からわかってたぜ! だいたいな、てめぇみたいな盲の婆に恋文なんざ似合ってたまるかってんだい! 俺は今日それを言いに来ただけでぇ!」
「ほーう、言うじゃないかさ。あたしが若い頃、毎日毎日ミミズののたくったような字で毎日毎日恋文よこしてたのはどこのどいつだい? 僕はあなたが好きです、歳が離れててもずっと大好きです、なんて恥ずかしい言葉並べてさ」
ぶはっ! と僕はたまらず吹き出した。
吹き出した僕を見て、ヤエレクのおやっさんの顔が茹でダコのように真っ赤になった。
「なっ――なぁにを抜かしやがんでぇこのクソ婆! あんなもん百年も昔のガキの頃の話じゃねぇか! なんだって今になってそんなこと言うんでぇ!」
「百年経っても二百年経っても忘れられるもんかね! あたしはあれが――」
嬉しかったんだから。
エレノア婆さんがそう言いかけたのを、僕は察した。
はっ、と口をつぐんだ婆さんの顔が、ヤエレクのおやっさんと同じぐらいにみるみる真っ赤になった。
無言になった二人を、僕は交互に見つめた。
僕は婆さんの手を取ると、ヤエレクのおやっさんに握らせた。
「僕、温泉に忘れ物しちゃったから戻るよ」
「はぁ――?」
「おやっさん、ちゃんと手を引かないと婆さんが転んじゃうよ。しっかり送ってってね」
そう言うと、ヤエレクのおやっさんのゴツい指が、反射的に皺だらけの婆さんの手をしっかりと握った。
おぅ、と、おやっさんは蚊の鳴くような声で言った。
めちゃくちゃ気恥ずかしそうな顔だ――。
お互い、なんだか少年と少女に戻ってしまったような、初々しくて、見ているこっちが恥ずかしくなりそうな表情。
僕はそれをしっかりと見てから、静かに踵を返した。
あーあ、と僕はひとつ伸びをして、星空を見上げた。
きっと薄くて汚くて寒いんだろうけれど。
あそこの空気はきっと澄んでいるんだろう。
そう思わせるほどに、綺麗な星空だった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
面白かった
続きが気になる
第四話待ってるぜ
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あと、短編形式での当シリーズの投稿はこれで最後にいたします。
以後は連載版で進めて参りますので、前作読んで面白かったよーという方は是非連載版へ移動をお願い致します↓
【超連載版】されど悪役令嬢はタヌキに愚痴る
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