第6話 ポンコツ世界に在る限り
その日は──いつもと違う、寝覚めのいい朝だった。
窓から暖かな日差しが差し込み、穏やかに意識が覚醒する。
昨日の夜は初めて命令による拘束がないままの就寝できて、一度寝ぼけながらトイレに行けたため、お漏らしもなく目が覚めた。しかもそこは自室のベッドの上だった。
パジャマとかそういう物は与えられていないの。いつも着ているメイド服モドキの姿のまま眠っていたので皺になっていた。一応、旦那様と坊ちゃまに仕える身ではあったので身なりには気を使っているつもりではある。なのでクローゼットからハンガーに掛かった予備のメイド服もどきをベッドの上に置き、今着ているのを脱いだ瞬間──スパアン! という擬音がぴったりなほど勢い良く自室のドアが開け放たれた。
そこには目を赤く血走らせた坊ちゃまがいて、開口一番に何か怒鳴り散らした。
まだ言葉を理解できていないので、チンプンカンプンではあったが、大方朝起きたら我が隣にいなかったことを怒っているのだと思う。
坊ちゃまのことは放っておいて、手慣れた手つきでメイド服モドキを着始める。
我がワザと理解していないようなキョトン顔をしていると、坊ちゃまは何かを叫んで部屋から出て行った。多分何か命令したのだと思う。
メイド服モドキの前側のボタンを閉めてる途中だったのに突然体の自由が利かなくなった。
髪もまだ整えていなかったのでボサボサしている状態だったのに、足が勝手にどこかへ向かおうとしてしまう。
操られるままに歩いていくと食堂にたどり着き、坊ちゃまの席の後ろに控える状態になった。
食堂では旦那様と坊ちゃまが席についていて、旦那様は服が半脱げ状態のまま待機している我を見てギョッとしていた。
旦那様が坊ちゃまに機嫌を伺うように何か言うと、憐れむような視線が我に向けられたが、それ以上何か言うと機嫌を更に損ねるとわかっているらしく、そのまま流された。
先輩メイドや執事が食堂に入ってきて我を見るたびにギョッとしたのだが、坊ちゃまと我の様子を比べ見て何かあったのだろうとすぐに理解し彼らもまた見なかったことにした。
メイド服のようなワンピースの服の前側ボタンがほとんど閉められておらず肌着が見えたままになっている状態で待機姿勢を取らされるという羞恥プレイをされている我は、さすがに顔が赤面していた。良くはないが坊ちゃまだけならまだしも、他の人たちにまでそんな姿を晒されたのにはさすがに堪えた。
肉体に合わせて精神年齢も下がって少女化してきているのか、赤面して俯いているうちに涙が溢れてきた。
食堂に我のすすり泣く声が聞こえ始めて、我に返った坊ちゃまが我のほうを向いた。あたふたと慌てふためいて我のそばに駆け寄ってくる。
不意に体が自由になったので、頬を伝った涙を拭いもせず鼻をすすりながら恨めしそうに坊ちゃまを睨みつけたまま服装を整え、手櫛で髪を直す。
坊ちゃまは取り繕うように何か言い訳するような仕草をしていたが、泣き止まない我を見て諦めたようにポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いてくれた。そのハンカチを奪い取り仕返しとばかりに鼻もかんでやった。我は何も悪くない。ハンカチを返そうとしたら受け取り拒否された。
ハンカチに書かれた盾に三頭の狼が描かれた紋章が目に入った。霞掛かってきている前世の記憶ではケルベロスとかそう呼ばれていたやつだ。きっとこの家の家紋か何かなのだろう。
我が泣き止んだのを確認した坊ちゃまはちょっとだけまだ頬を膨らませた駄々っ子のような顔をしていたが、ばつが悪そうに席に戻って先輩メイドが用意した朝食を食べ始めた。
今日はいつもと違い、朝食が終わっても我は自分の仕事を始める許可を貰えなかった。自発的に与えられている仕事をこなそうと坊ちゃまから離れようとしても苦しくなってしまうので、何か坊ちゃまのそばに留まるように命令されているのだろう。言葉が通じないのは不便極まりない。言葉が通じないのに仕事をこなせているのは比較的簡単な掃除系の仕事である上に、先輩メイドに手本を見せられたからである。
朝食後の勉強の時間も、昼食の時間も、専属家庭教師による午後の剣術指導の時間も、坊ちゃまから何か言われることはなかったがそばを離れることを許されなかった。
坊ちゃまは我に対して丸一日無言のままそばにいさせた癖に何も相手してくれなかった。パワハラもへったくれもあったものではなかったが、夕食の時間になって変化があった。
いつもは旦那様と坊ちゃまの二人だけの食卓に、我も案内されたのだ。
坊ちゃまは我の事を指差すと、旦那様に何かを尋ねているようだった。
尋ねられた旦那様も首を傾げ、長く悩みこむような声を上げた後に首を横に振った。
何について話しているのか気になってしまう。言葉がわかれば、ともどかしい気持ちになってしまう。
坊ちゃまは我のほうを向いて何か言うと、何度も口を大きく開けた
「ウィ・リ・ア・ム! ウィ・リ・ア・ム!」
自身を指差し何度も『ウィリアム』と言う坊ちゃまを見て、我は名前を言っているのだと理解した。
我も習って、坊ちゃまを指差しながら「ウィリアム」と口にする。
ウィリアム坊ちゃまはそのままの流れで我のほうを指差して首を傾げた。
──問われて思い出してみれば、この世界での我の名前はまだ無かった。
思い出して我は首を横に振る。肯定は首を縦に、否定は首を横に振るのだけは前世の記憶と一緒のようなので助かっていた。
ウィリアム坊ちゃまは考え込むように顎に指を当てるとしばらく黙り込み、思い付いたように我を指差した。
「ミリア! ミリア!」
我にそう名付けて、坊ちゃまが旦那様のほうを向くと、旦那様も静かに頷いた。
「ミリア! ミリア! ミリィ!」
嬉しそうに我の名を連呼するうちに愛称まで決めたらしい。
我としては名前が無いのも不便だったので、これからミリアと名乗るのも悪くないと思う。
名付けられたのは良いのだが、今度は坊ちゃまの我を呼ぶ声がうるさ過ぎる。
暇さえあれば『ミリィと呼びつけては何でもない』を繰り返す。
もう少し年を重ねれば落ち着きも出てくるのだろうが、今のところ我はウィリアム坊ちゃまにとって格好の玩具兼抱き枕に過ぎない。
暮らしている屋敷を見る限り、旦那様は(小太りだけど)結構な地位にいる方なのだと思う。これから厳しい教育を受けてきっと凛々しいお方に育っていくのだろう。そうであって欲しい。
我に名付けて上機嫌になっているウィリアム坊ちゃまは食事の後に部屋の本棚の隅の方から一冊の本を取り出して渡してきた。我は今その本を読みながら、ウィリアム坊ちゃまの連呼攻撃を受け流している。
ページをぱらぱら流し見ると、可愛らしくデフォルメされた勇者が魔法使いや仲間たちと邪悪なドラゴンを討伐して世界に平和をもたらすという王道物のストーリーの絵本のようだった。各ページに言葉がデカデカと書いてあるので読んで覚えろ、という意味であろう。
今日の夕食時間の坊ちゃまを見る限り、我との会話を望んでいるように感じられた。
これからきっと長いことお世話になるのだろうから、言葉くらい通じるようになりたい。我は肉体的には幼いのだから、今からでもきっと覚えられるはずだ。
本を落としそうになり、思わず手をページの間に突っ込んで押さえた。
不意にそのページを見ると、勇者がドラゴンの首を刎ねたシーンだった。
児童向けの癖に割とグロいシーンもあるものだ。ドラゴンの首がスパッと切られて、奇麗な断面を見せる首と胴体に分かたれた亡骸が横たわる様子が描かれていたりした。
『グォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーー』
狐耳を音のする方向に向けながら、そうそう、ドラゴンならきっとそんな雄叫びを上げる──なんて思って顔を上げると何かの雄叫びによって窓がビリビリと揺れていた。思わず尻尾の毛が逆立ってしまう。
我と坊ちゃまは慌てて窓に駆け寄り、満月の空を見上げた。
満月を遮るように漆黒の巨体が羽ばたいていた。
まさしくついさっき見た絵本で勇者に倒されたドラゴンをリアルにしたそのものがそこにいた。
ドラゴンの周りに魔法陣が展開され、ドラゴンは羽ばたくことを止めたが空中に固定された。
ドラゴンの口が大きく開けられ、その中に小さな魔法陣第一段、その鼻先に第二弾が距離を置いて展開される。
呆然と見ているには美しい光景ではあった。
まるで空気中の魔力を吸い込むように、何もない場所から生まれた光の粒が第二弾の魔法陣にに触れた瞬間に第一弾へ向かって急速に収束を開始する。
小さな光玉が生まれ出でて、急激に膨張を開始した。
──嫌な予感がする。
冗談だと思いたいが、ドラゴンの口はこちらを向いた。
言い表せない恐怖に慄いて思わず手に持っていた本を落としてしまった。
ふと落ちた本に目をやると、表表紙を上にして床に転がっていた。
そして、嫌な予感が確信へと変わっていく。
表紙に描かれた、ドラゴンの首を刎ねた勇者が持つ盾に描かれている紋章──三頭の化け物ケルベロス。
恐怖に怯えながらも、我を守ろうと抱き締めてくれたウィリアム坊ちゃまが着ている服に付いている紋章も、今朝のハンカチに描かれていた紋章も、絵本と一致する。
絵本は御伽噺ではなく、史実であり、旦那様とウィリアム坊ちゃまは勇者の子孫の末裔にあたるのだろう。
そして、ドラゴンは首を刎ねられた復讐へとやってきたのだろう。
ウィリアム坊ちゃまの胸に抱かれながら、震える手で必死にしがみ付いた。
──だが、ふと思い立った。
──なんの為に我は転生したのか? きっとすべてはこの瞬間の為だ。
怒り狂うドラゴンの構える光玉はさらに速度を増して膨張を続ける。
──きっと我は窮地に陥った坊ちゃま一族を救い、街を守り、王様に金一封貰って名を上げるのだ。この世界の神が用意したサクセスストーリーに違いない。きっとそうだ。
今までの倍以上の大きさの魔法陣第三弾が展開され、誰が見てもヤバいと感じる程の力が圧縮され、さらに広範囲から魔力を吸引し始め、光玉は煌々と月に成り代わり太陽のごとく地上を照らしている。
我は藁にもすがる想いで泣き笑いしながら、しがみ付くのに使っていた左手をドラゴンに向けて力を込めてみる。
──きっと何か起きるはずだ。きっと!きっと!
何度も何度も手を突き出してみるが、何も起きない。
我は今きっとなんとも情けない顔で口をへの字に曲げて泣いていると思う。
──話が違う。これで我の異世界人生は終わりだ。
──せっかく歩み始めたばかりのこの世界で、デッドエンドを迎えるのだ。
音もなく放たれた光玉が比較的ゆっくり、かつ真っ直ぐにこちらに向かってくる。
窓の外の至近距離に太陽のような光玉が見える。
世界のすべてが真っ白に塗りつぶされ、意識はすり潰された──。