ふたりごと。
ほんとに読むんだな、お前さん?
薫。
私の名前が、唐突に聴こえた。
東京の、人波に紛れたその隅に少年が立っていた。
一瞬目を奪われて、それから我に返る。―――私よりいくつも年下じゃあないか。あんな知り合いはいないし、見覚えも無い。きっと彼が口に出した言葉は偶然で、私の名前なんかじゃないんだ。そう自分に言い聞かせて、踵を返そうとした、その時だった。
「薫、待って」
今度はもう間違えようのない強い声だった。引かれるように少年の目を、私は見る。まるで惹かれるようだった。……魅かれるような、強い眼だった。
それなのに、どうしてだろう。どうしてだろうか、彼の強い眼が泣きそうにゆがんでいるのは――――
「終わったんだ。やっと……やっと終わった。太陽が、勝ったんだよ」
これで世界は、終わらないんだ。
そう言った瞬間の、彼の表情は一生、私は忘れない。ずきん、と痛んだ胸の音が耳に残った。そのまま強く主張し続ける心臓が痛くて、痛くて。
乱れ始める呼吸が、なぜか歓びに震えていた。
――――――逢いたかった―――――
あぁ、誰に?
「薫。もう、遅いかもしれない。何も残ってやしないことなんて分かってる。でも……俺、迎えに来たよ。約束、ちゃんと……果たせたんだ」
「逢いたかった、逢いたかった、薫……!」
なんだろう、この懐かしさは。
なんだろう、この心臓の音は。
ねぇ、グレン。私も逢いたかったよ、あなたに―――――
グレン?
その一刹那のうちに、脳が壊れるくらいの映像が全身を駆け抜けた。それは、どれも懐かしい、あの忘れてしまっていた世界で……
黄龍さま。乱馬くん。疾風さん。このみちゃん。篤士くん。神隠くん。
どうして今まで忘れてしまっていたのか。……あんなに、身が千切れるくらいに大事に想ってた人たちの柔らかい笑顔に、胸が震えて涙が溢れる。
「あ……、あぁっ…!」
口から漏れ出る小さな嗚咽が、こらえきれなかった。初対面のはずの少年の前で、こんな街のど真ん中で泣きじゃくっていることさえ忘れていた。
だって彼は。
だって、彼は……
――――やっと、思い出した?
世界の色が無くなって、ぼやけた視界の真ん中にこれまた懐かしい顔を見つけた。薄く、見覚えのある笑い方でにやついている。雅、と、私が思わずえずいた名前に満足そうに、彼女は微笑った。
――――まったく、しようもねえ奴だよ、お前は。あたしのこともすっかり忘れてノーテンキに暮らしてよ。え? 折角お前が人間になれるようにあたしが消えてやった、って言うのにさ。
銀色の髪を揺らして、彼女は言葉と裏腹な優しい表情をした。そして、最後はちいさな声で、少しだけ寂しそうに言った。
―――――絶対離すなよ、あいつの手。あたしの分まで、幸せになって―――――
ふと、もと居た都会の雑踏に立ち返って、涙でふやけた世界を見れば、彼は私に背を向けて今にも歩き出しそうになっていた。
全身が叫んでいる。もう離れたくなんてない、って必死に訴える。
その衝動にただ身を任せただけの、私は叫んでいた。行かないで、そう言って、去っていく彼に手を伸ばして――
少し前を行った、彼が振り向いた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、初めて見る懐かしい表情で――――彼も私に手を伸ばす。
差し出された掌に縋りついた私は、彼の腕の中にいた。
紅蓮、紅蓮、と、ずっと呼びたかった名前を繰り返すことしかできない私を、彼は――紅蓮は隙間なく抱きしめてくれていた。耳元で遣われる息がかすかに震えて、咳き込むように紅蓮も泣いている。
逢いたかった、と囁くように耳に落ちてきた言葉だ。必死に首を縦に振って肯定した。ちょっと焦りすぎてむせた。そうしたら、さっきまで余裕なく泣いていた紅蓮がひどく幸せそうに笑い声を立てた。
宥めるように、紅蓮の手が私の背中をさする。
「薫」
そう、呼んでくれるこの声がどれだけ欲しかったか。どれだけ、待ち望んでいたことか。
薫、と、もう何回目とも分からない私を呼ぶ声に顔を上げると、優しく、目尻を下げた紅蓮が私を見つめていた。
多分、私も彼と同じ表情してる。どうしようもなく幸せだ、って表情。まだ二人ともぐしゃぐしゃの顔だけど、でもきっとこれから―――――
これから、笑顔の染まった道に二人、歩いていけるよね。
いろんなことがある。もう二度とあんな思いはしたくないけど、それでも道は続いて世界は広がるんだろう。
何があってももう、離さない、あなたの事。覚悟を決めて、胸の前に差し出されていた、紅蓮の手を取った。少しだけ、熱を孕んだ懐かしい体温だった。
「紅蓮」
あなたの名前を呼んで。くしゃ、っと崩れるその表情に胸を躍らせて。
歩いていく。
一人ぼっちだった世界はもう、さみしくなんてない。
fin...?
…………駄文失礼しました<m(__)m>