兄から見た場合
「誠二、最近調子良さそうじゃん」
「そうか?いつもと変わらないけどな」
同じバスケ部の仲間がそう言ってくるのを聞流しながら、バッシュを脱いで帰り支度を始める。今日の晩ご飯はなんだろう。尚人が作ってくれるものなら、自分は何でも美味しいと感じられるのは分かり切っている。でも今日は何を作ってくれるんだろう、明日は何を作ってくれるんだろうと、小学生のようにときめいてしまう。気持ちが表情に出にくいため、そんな浮かれた気持ちを他人に悟られることはほとんど無い。それが歯がゆいと思った時期もあったが、今ではそれがありがたい。
「じゃ、先行くな」
「おう、お疲れー」
部室を出ると真っ先に美術室へと向かう。薄暗くなってきて人気の無い廊下を早足で歩く。決して急いでいる訳ではないのだが、自然と早足になってしまう自分に笑ってしまう。
「尚人、帰るぞ」
「えっ、もうそんな時間?」
美術室のドアを開けると、いつもは何人か居るはずの教室には尚人しか居なかった。相当集中していたのか、俺が声をかけるまで一心不乱にキャンバスに向かっていた。尚人は慌てた様子で道具を片付け始めた。
「別に急がなくていいぞ、今日は俺の方が早めに終わっただけだから」
「なんだ…大会前なのに早めに終わっていいの?」
「休むのも大事だからな。週に一度の休息日ってやつだ」
「ふーん」
そう言って筆とパレットを片付ける尚人の後ろ姿を見つめる。最近、美術教師に勧められて美術部の希望者数人で油絵を始めたんだと話していた。まだまだ自分の思った通りには描けないが、毎日新しい発見があって楽しいと笑いながら話していた。ただの絵が尚人にそこまでの笑顔を引き出させるのかと思うと多少妬けるが、嬉しそうな顔を見るともう何も言えなかった。
「今日の晩ご飯は何作ろうかな…兄貴食べたいものある?」
「なんでもいい」
「もう…兄貴ってばそればっかり」
ムスッとした尚人には申し訳ないが、尚人が作った物なら何でも食べたいというのが正直な気持ちだから他に言いようがないのだ。
「冷蔵庫にしめじとエリンギがあったはずだから、帰りに豚肉とネギ買って和風パスタとサラダでどう?」
「美味しそうだな。よし、スーパー寄って帰ろう」
「あ、ちょっと待って。母さんにきのこ残ってるか確認してみるから」
そう言ってスマホをいじり始めた尚人を、少し責めたような目で見てしまったのは仕方あるまい。
「いい加減その母さんっての、やめたらどうなんだ」
「えー…だってそう呼んで良いって言われたし…今更やめるのもなんか変だし……」
困ったように目を反らす尚人を見て、何とも言えない気持ちになる。困らせたい訳じゃない。でも、困らせているのも分かっている。それでも、あの人の作ったものを食べたいと思わないし、できるだけ同じ空間にいたくないと思う。別にあの人が悪い訳ではなくて、自分自身に対する気持ちの問題が大きい。それをあの人のせいにみせかけて、自分の傷口を広げまいとあがいている自分はなんて滑稽なんだろう。時々何もかも捨てて、忘れて、自分の本能に任せてすべてを壊してしまいたい衝動に駆られる。その衝動を抑えているのは大切な笑顔を壊したくない、傷つけたくない、そんな相反する爆発しそうな気持ちを抱えて、綱渡りの様な生活を続けている。
「良かった。きのこ残ってるって」
そう言ってこちらに微笑みかける尚人の頭を撫でながら。この瞬間の幸せを噛み締める。指先の上に乗る積み木のように、微妙なバランスを保っている幻のようなこの瞬間を、俺は眺めることしかできない。
「豚肉、豚コマと豚バラどっちが良い?やっぱり豚バラかな…」
こちらに問いかけているようで自問自答している尚人の少しカサついた唇を見つめて、体の奥が熱くなるのを感じてしまう。
こんな想い、抱えることさえ許されない。そう思えば思うほど、俺は息ができなくなっていく。