雑談)「まどマギ」に見る「風刺」の技法
注意!! 本エッセイには「魔法少女まどか☆マギカ」、「がっこうぐらし!」、「けいおん!」の激しいネタバレが含まれます。
活動報告でアニメ「魔法少女まどかマギカ」もしくは「がっこうぐらし」について語りたいと書いた。
書きたいなら書けばいいじゃないか、なぜ誘い受けみたいな嫌らしいやり方をするんだ? それは「廃都の冒険者協会」と関係ない話題を書いて、読者に怒られるのが怖かったからである。
だから、誘い受けのようなことを書いて、反応が一つでもあれば、それをエクスキューズとして書こうと思った。
そして、ありがたいことに相良山椒氏のコメントを頂いた。
活動報告を見ていただいて、コメントまで頂けるとはありがたいことだ。感謝と謝罪申し上げる。
すまない。これから書くことはネタバレしまくりなのだ。
さて、最初に「魔法少女まどかマギカ」もしくは「がっこうぐらし」かと書いた。
どちらをターゲットにするにせよ、なるべく創作論系に沿った話題で進めよう。
本作は創作論系ののエッセイだからね。単なる萌え豚の戯言では本当に読者に怒られる。
この両作品だが、対極とはまでは言わなくとも、相当に異なった作品だ。
(ちなみにどちらもニトロプラスが関わっている作品)
「魔法少女まどかマギカ」は相当に語り易い。「がっこうぐらし」だって語ることはあるけど、「まどマギ」に比べると語り難い。
語り易い/語り難い理由はいくつかある。
「がっこうぐらし」は映像作品としてのトリックを扱っている。映像やキャラの芝居で説明を行っているのだ。だから言葉では説明しづらい。
例えば、主人公ユキの芝居がある。
「がっこうぐらし」の主人公のユキは童顔で、ドジッ娘で、いじられキャラだが、みんなの人気者……というような萌え系アニメのテンプレキャラとして描かれる。ところが、本質はそうではない。これはテンプレキャラ的な容姿を使ったミスリードなのだ。
本当のユキはそんなキャラではない。
「みんなオハヨー!」と言って、ユキが生徒会室に入ってくるシーンがある。ここでのユキの芝居が秀逸だ。
・廊下を歩いてくるユキ
・生徒会室の前で立ち止まる
・笑顔を作る
・「みんなオハヨー!」 扉を開ける
生徒会室に入る直前で「笑顔を作る」。つまり、ユキはいつも笑顔のキャラではないのだ。
このように「がっこうぐらし」は映像で語る。
「けいおん」でも映像で語るシーンがある。
最終回で梓がいかにして泣き崩れるか、これを映像で説明している。
卒業式の日、軽音楽部のメンバーの中で一人だけ年少の梓は、他のメンバーの卒業を見送るかたちになる。
ところが梓は泣かない。先輩たちを笑って見送ると決めたからだ。
心にガードを張って、泣かないようにしている。
ところがあるものを見て、梓は泣き崩れる。
部室でカバンを置こうとしたときに、先輩たちのカバンと一緒に卒業証書を入れる筒があるのを見てしまう。
心にガードを張っていても、予想外のところから先輩の卒業という事実が突き刺さってきて、泣き崩れてしまうのだ。
と、まあこんな感じで映像で描写するということをやっているわけだ。
では「まどマギ」はどうか?
残念ながら「まどマギ」では、キャラの芝居や映像で語られることはあまりない。
キャラの内面も、魔法少女というシステムもほとんど台詞で説明されてしまう。
映像で語ることがまったくないわけではない。
例えば、第1話でまどかとほむらが学校の廊下を歩くシーン。
まどかがほむらの名前に関して話題に出す。そのシーンでほむらはイラッとした表情を見せる。
実はほむらは時間をループしており、このシーンは何度も経験している。
自分の中の時間とまどかの時間のずれが大きくなっていることに焦燥感を抱いているのだ。
その様子を台詞ではなく、表情で表現している。
「まどマギ」における芝居はこんなものだ。
それ以外は前述の通りだ、キャラの内面はほぼ台詞で説明される。だから、わかり易いし、語り易い。
「がっこうぐらし」とは異なり、キャラも容姿通りのテンプレから外れることはない。
では、「まどマギ」には台詞以外の意味はないのだろうか?
そんなことはない。「まどマギ」は物語に二重の意味を持たせているのだ。
二重の意味を持たせる手法、つまり「風刺」である。
風刺の説明の前に、脚本担当の虚淵玄と本放送時のまどマギを巡る状況について説明しよう。
虚淵玄の書く物語はバッドエンドが多い。というか、本人も一時期ハッピーエンドが書けないという悩みを吐露していた。
虚淵玄の物語は、良かれと思ったやったことが事態を悪化させていくというパターンが多い。(まどマギでもこのモチーフは繰り返し出てくる)
視聴者もそのことがわかっている。本放送時の実況や感想では、まどかや魔法少女たちがどこまで絶望的な状況に置かれるのかを楽しんでいる視聴者が結構いた。そして、虚淵玄もそういう視聴者の存在と自分の立ち位置を認識していたに違いない。
ここまでがまず前提だ。
まどマギでは、中盤である真実が明かされる。
宇宙には高次元の存在がおり、魔法少女の希望が絶望に変わるときに生まれるエネルギーを搾取している、という真実だ。
前提(魔法少女の絶望を楽しんでいる視聴者の存在)を理解していればわかる。
高次元の存在やそのエージェントであるキュウベエ、これはまさしく視聴者の象徴である。
では、魔法少女は何を示しているのだろうか?
高次元存在→→→搾取→→→魔法少女
視聴者→→→→→搾取→→→????
視聴者に消費され、利用される者、それは作家(アニメーター、声優、製作、その他)だ。
視聴者→→→→→搾取→→→作家
(↑こんな感じで、別のものに見立てて描写する手法が「風刺」だ)
これがわかれば、なぜまどかによる改変後の世界で、ほむらとキュウベエが良い関係を築いているのかがわかる。
作家が視聴者を敵に回しても何も生まれない。そもそも、地球人類は高次元存在の助力によって成り立っていることを、キュウベエが明言している。
(つまり、作家は視聴者の存在によって成り立っている)
「魔法少女」は「作家の象徴」であると解釈したとき、自分には美樹さやかが非常に重要なキャラに見えてきた。
登場した魔法少女の中で、さやかだけが改変後の世界でも死ぬ。そこも改変しとけや!と思うが、そもそもがおかしい。
改変後の世界では魔法少女が絶望することはない。それならばさやかが死ぬ必要はないはずだ。
この設定を歪めてまで描いたこと、これは作家性の現れではないか? 脚本家が表現したかったことは実はこれじゃないのか? そんな風に思えるのだ。
・さやかは、かつて聴いた恭介の演奏に憧れを抱く
・もう一度あの演奏を聴きたいと思い、魔法少女になる
・しかし、恭介は自分のものにならない
・さやかは無報酬で戦い続け、自分をすり減らしていく。(やがて魔女に……)
・改変後の世界で、改めて恭介の演奏を聴いて思い出す。「私はただもう1度あいつの演奏が聞きたかっただけなの」
・「さやかちゃんが祈ったことも そのためにがんばってきたこともとっても大切で絶対無意味じゃなかったと思うの」
「魔法少女」が「作家の象徴」という前提でみれば、さやかがどんなキャラクターかわかりやすい。
そして、これは挫折して業界を去った人間に対して、虚淵玄がかける慰めのように聞こえる。
以下、まどかの台詞。
「だって魔法少女はさ、夢と希望を叶えられるんだから」
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」
創作活動に関わる人間はみんな「まどマギ」見るべきだと思います。