第二輪 『ティラル・ガーデン』
あれは確かまだ寒い1月のはじめだった。駅前に突如開店した花屋。いつのまにオープンし、さも昔からあったかの佇まい。店先に並ぶ植物はとても綺麗で魅力的なものばかり。
軒先にはいつも真っ白というか銀色というかとにかく美しい猫が日向ぼっこしている。
はじめは外から眺めるだけだったのだが前を通るたびに惹きつけられるものがあり次第に興味が膨らんだ。ただ男の自分が一人で花屋になんて今まで考えたこともなかったから躊躇していた。
そんなある日、いつものように外から店内をのぞき込んでいると
「いらっしゃいませ。どうぞなかにも沢山ございますので…」
ととても美しい声の女性に促せられてはじめて店内に足を踏み入れた。
店内は穏やかな音楽に包まれた空間で花の香りが優しく鼻を撫でる。
「ゆっくり見ていって下さいね」
その時、店内にいたのは店主と見られる先ほどの女性と例の銀猫
シーズー犬と思われるおとなしくて賢そうな犬を連れた年頃は女子高生くらいの女の子が楽しそうに花を眺めていた。
「ねぇ、優くんこのお花、綺麗だよ。これ買ってかえろうか?」
その女の子は床にいる犬にパンジーの鉢植えを見せている。
「どうですか?みんな素敵でしょ?お一ついかが?」
あの女性が声をかけてくるが
「いやぁ~。世話とか難しそうだし、もし枯らしっちゃったら可哀想だし」
と答えた。
「大丈夫ですよ。ちゃんとお教えしますから。ふふ。じゃぁいつでも声をかけて下さいね。」
なんとも不思議な雰囲気のするお店だったがそれからというもの気が付くとこの『ティラル・ガーデン』に立ち寄ることが多くなっていた。
営業成績が悪く課長にどやされた時も、帰り道にこの店に来ることで忘れることが出来た。休みの日にも暇さえあればお店に通うようになった。しかし、一度たりとも花や植物を買う気にはなることはなかった。そうあの日までは…お客としては最低な俺を翠さんはいつもにこやかに迎えてくれた。
そしてそろそろ夏本番に差し掛かる7月の中旬、いつものように仕事帰りに店に立ち寄る。
「いらっしゃい。今日も暑かったわね。今年は暑くなるようよ」
いつものように笑って迎えてくれた。
そしていつものように店内をうろつく、いつもどおり花々は綺麗だった。そうやって店内を物色していると突然足が止まる。目の前の台の上に大きな輪郭のとても鮮やかな橙色をした一輪のガーベラが植えられた鉢植えが一つだけ見えた。いや、もちろん他に花がなかった訳じゃない。でもその花以外は目に映らなかった。まるで太陽がそこにあるかのような存在感で目を釘付けにする。
しばらく見つめて迷わずに手を伸ばす。そっとやさしく鉢を両手で包み込み持ち上げて翠さんのもとまで行く。
「あ、あのぅ、これ」
翠さんは新しく入荷した植物の手入れをしていた。
「あらあら、素敵な子を選んだわね」
そのときは育て方とか日々の世話のことなんて忘れて手にとっていた。とにかく連れて帰りたい、ずっと見つめていたい一心だった。
翠さんは丁寧に袋に入れ最後に花に『ふぅ』と優しく息を吹きかけ一言。
「これはお花が元気になるおまじない。ふふっ。元気でね。お花ちゃん」
「ありがとうございます」と言って受け取る。
「ふふっ、ありがとうございますは私の台詞よ。面白い人ね」
「あっ。そうでしたね。はは」
あまりにの嬉しさについ口から出た言葉。
「それでは」と頭を下げてお店を後にする。
軽い足取りで家路を急ぐ。部屋に帰るとテーブルの真ん中に買ってきた花を置きいつものようにラジオ付ける。
その日の夜はあまりの嬉しさに夕食も取らずにテーブルに両手で頬杖を付いてずっと見つめていた。何時間そうしていたかわからないがいつの間にかに眠ってしまったようで誰かの声で目を覚ます… 一人暮らしのこの部屋にだれかが来ることもない。
「何、あなた。放ったらかしにして眠ってんじゃないわよ」
誰かが大きな声で喋っている。その裏でラジオからはヴィヴァルディの四季「夏」が流れている。夏らしく躍動感のあるメロディだ。
「ちょっと起きなさいよ。ねぇ。あなた。あたし寂しいじゃない一人で喋ってるの」
ゆっくりと目を開けると目の前にはあの花。左右を見回しそして後ろに両手を付き後ろも確認しようと頭をそらそうとした時。
「ここよ、ここ。どこに目つけてんのあなたは?」
『どさっ』
そのまま腕を引き仰向けになった。
「これは夢だ。きっと夢に違いない。あの綺麗な花がこんなにも乱暴な話し方をする訳がない。きっと夢だ」独り言を言う。
「あなた馬鹿ね。こんなに品のある喋り方する花、他に居ないわよ」
「じゃぁ、花の世界ってどんだけ罵声が飛び交ってるんだ」
「ふふっ、それはもう大変よ。あの店でのあなたのあだ名、教えてあげるわ。牛乳臭いモヤシ男」
「あ~ぁ、なんなんだよ。もう、リアルにへむじゃないか」といいながら起き上がる。
「じゃぁ、あなたの名前は?」
「名前を聞く態度かそれ?」
「牛乳臭いもやしおと…」
「分かったよ。それはもう言わないでくれ。俺は海野耕介。海に野原の野、耕は耕すで介は仲立ちの介」
「はははははっ、ぷっ。海野耕介だって、海に畑はないわよ。どうやって耕すつもりかしら。笑えるわ」
「いちいち人のこと馬鹿にして、俺に言わないでくれよ。それじゃ君の名前は?」
「やっぱり馬鹿ね。そんなものあるわけないじゃない。必要だったら耕介が付ければ?でも変な名前つけたら返事しないけどね」
「あ~ぁ。俺そういうの苦手なんだよなぁ」
「得意なことがあるような人間には見えないけど?」
「くっ、じゃぁ…どうすっかなぁ。花子なんて良いんじゃないか?」
「嫌、園児以下ね。園児でももっとましな名前つけられるわ」
「じゃ、ガーベラだからガーコ」
「嫌、馬鹿にしてるの?あたしはアヒルじゃないわ。そもそもなんでも子付ければいいと思ってない?」
「いや。そんなこともあるかもだけど…じゃぁ、サニーなんてどうだ?」
「う~ん、ひねりが足りないわね。それにそんな車みたいな名前嫌よ。もっと可愛くてオシャレな名前ないの?」
「う~ん。俺の頭じゃこんなもんしか出てこないぞ」
「でしょうね…あなたの頭じゃね」
「う~ん。悔しい…なんとしてもこいつを唸らせるような名前を…」
「あら?なんか言ったかしら?」
「いや、何も…自然…ナチュラル…ナチュラ…チュラ…ちゅら。おおおぉ。『ちゅら』なんてどうだ?
ナチュラルのチュラ。それにたしか…沖縄の方言で美しいの意味の『ちゅら』なんてどうだ。」
「あまりの奇跡的なこの展開はちょっと引くわね。でも気に入ったわ。『海野ちゅら』あんたの名前と大違い。ふふっ、海のちゅら、海野ちゅら、海野ちゅら。可愛い名前。私にぴったりね」ちゅらはご機嫌で名前をなんども口ずさんでいた。
これがちゅらとの出会い。なんの楽しみもない乾いた生活に注がれた余りにも瑞々しい水。素敵な予感のする出会い。おれはこのとき救われた。色々なものから…
つづく