第四話
出陣の日が二日後に迫り、王平たち遠征部隊にとっては帰還から二日間の休養が過ぎたその日。調練場には鎧を纏う兵士たちが列を組んで整列していた。王平が率いる部隊の兵士たちである。
相変わらずの整然としたその姿からは、王平の部隊の練度の高さが伺える。異様な威圧感に満ちた調練場の中で、しかし王平は気負いなく兵士たちの前に立ち口を開く。
「あー、皆はもう知ってるだろうから手短に話すぞ。今日から二日後に大規模な暴徒鎮圧作戦が決行される。勿論、俺たちも従軍する予定だ」
改めて聞かされる内容に、結構な数の兵士たちのため息を吐く姿が王平の目に留まる。しかしそれも仕方がないだろう。体が休まったとはいえ、遠征から帰ってすぐにまた戦に駆り出されるのだ。ため息を吐きたくなる気持ちもわかる。王平とて、今回の出陣に完全に納得しているわけではないのだ。
「遠征の時からずっと戦続きのお前らには悪いが、これが俺たちの仕事だ。納得の行かない事もあるだろうが、割り切ってくれ」
厳しくはない口調。だが、王平のその言葉には有無を言わせぬ迫力がある。そして兵士たちも、王平のその言葉に頷き応える。雑念を抱えたまま戦場に赴けば、そこに待つのは死である事を彼らは知っているからだ。戦場では常に見敵必殺、目の前の敵を討つ事に集中しなければならない。集中を切らし敵を見逃せばその敵が自分を、もしくは隣りの友を殺すかもしれないからだ。
そんな中で、夏候惇たちの様に他念に回す余裕を持てる者たちは、いわゆる特別な存在なのである。その特別さゆえに、彼女たちは将軍という位についている。己だけでなく、他者にまで気を割り振る余裕を持てるからこそ、人を率いる立場にいられるのだ。
「とまあ、俺からお前たちへの言い訳はこれくらいにしてだ。もう一つ、お前たちに知らせる事がある。……一刀、こっち来い」
「あ、あぁ」
そう言い、王平は手招きして後ろに待機していた一刀を自身の隣りへと呼び寄せると、緊張で固まっている一刀の両肩を後ろからガシッと掴み兵士たちの前に突き出した。
「今日からウチの隊の調練に参加する事になる、北郷一刀だ。最初に言っておくが、こいつは弱い。本気で弱い。体つきは……まぁ、普通だな」
「ちょ、ひどっ!?」
衆目の前で堂々と弱い弱いと宣言され、一刀が抗議の声を上げる。体つきも王平たちと比べてば華奢ではあるが、しかしそれは王平たちの方が凄いのであって、剣道部に所属しある程度鍛えられた一刀の体は同年代の男の中では十分引き締まっている部類なのだ。抗議だってしたくなるというもの。しかし王平は一刀の方へは目も向けず、さらに言葉を続けようとする。
きっとまた碌でもない評価をされるのだろう。そう思い、一刀は俯いて陰鬱な表情を浮かべる。しかし、次に王平の口から発せられた意外な言葉に、一刀は顔を上げ大きく目を見開いた。
「だがな、肝は十分据わってやがる。その点に関しては俺のお墨付きってやつだ。ぶっちゃけた話、誰だって最初は弱い。お前らだって、この俺だって最初は弱かった。今の一刀は弱い。だがそれは〝今〟の一刀だ。そうだろ?」
王平の問いに兵士の皆が然りと答える。茫然として立ちつくす一刀に、王平はニヤリと笑みを向ける。
「だったら今から強くなれば良い。そのための調練、そのための仲間だ。いいかお前ら、さっきも言ったように今日から一刀は俺たちの同僚、仲間だ。互いに助け合え、そして更なる上を目指せ。例えば……そうだな。どうせだったら……」
そこで一度言葉を区切り、王平は一刀の傍から離れる。そして再度、兵士たちの前に立つと、
「俺を越えるくらいの気持ちでやれ」
そう言って王平は、兵士たちに向けて獰猛な笑みを浮かべた。
そんな王平の笑みに、兵士たちもそんなことは言われずとも分かっていると言いたげな笑みをそれぞれ浮かべて返す。目の前の光景に冷や汗が止まらない一刀は、隣りに立つ楊鳳にこっそりと小さな声で問いかけた。
「楊鳳さん。聖って、曹操軍の中でどれくらい強いんですか?」
「武の強さだけで言うならば、同列一位と言ったところです。夏候惇将軍と徐晃将軍、そして王平将軍はほぼ実力が拮抗していますから。ちなみに武官内の位の高さで言えば、夏侯惇将軍たちよりも一つ下の位ですよ」
「あ、あはは、はは……マジですか」
楊鳳の答えに、乾いた笑いが一刀の口から漏れる。つまるところ、王平の言葉は実質最強を目指して調練に励めと言っているのに等しいと言う事だ。そんな部隊に放り込まれた日には、きっと自分など一日でぶっ倒れてしまうに違いない。予想を斜め上を行く現実に、一刀は心の中で涙した。
「さて、長話はこれで終いだ。早速今日の調練を始める。一刀は慣らしも兼ねて体力作りの基礎訓練には参加しろ。それ以外の時は俺が剣の基礎を教えてやる」
「えっ、連携とか、そう言うのは別に良いのか?」
王平の言葉に一刀は首をかしげる。なぜなら王平隊の調練の基本的な構成は、体づくりのための基礎訓練と素早い陣形変更を出来るようにするための連携訓練。そして兵士たちの模擬戦による実戦訓練となっているからだ。しかし王平は一刀の言葉に一瞬きょとんとすると、次いでその顔に苦笑を浮かべた。
「今のお前じゃ、体力不足で他の調練には付いていけん。本格的に調練に参加するのは、最低限の体力がついてからだ。それに基礎訓練だけでもお前にとっては相当辛いはずだ。駄目だと思ったら休んで良い。ただし、本当に限界寸前だと思ったらだ。いいな?」
「ん、分かった」
「よし。んじゃ、これが一刀の装備一式だ。大事に使えよ」
そう言う王平から一刀に手渡されたのは、使い込まれた装備一式。あちこちに傷が入り、鎧を止めるための紐なども一部が薄く黒ずんでいる。恐らく、過去に戦死した兵士が使っていた装備なのだろう。
「使い回しの物で悪いがな。大きさはたぶん合うはずだ」
「そうかな。……よっと」
王平の手助けを受けながら、一刀はどうにか鎧を纏う。案の定、鎧の寸法は一刀の体とぴったり一致した。
「中身はともかく、外観だけはマシになったな」
「くそっ、言い返す言葉がない……」
「はっはっはっ! 言い返したければ強くなれ。それ以外に方法はない。そら、一刀も皆の列の後ろにつけ」
王平に促され、一刀は列の最後尾へと並ぶ。それを確認した王平は、兵下に向け声を張り上げた。
「これより調練を開始する! 初めに城壁回り三周、総員駆け足!」
「「「応っ!!」」」
ちなみにこの時代、城壁の長さとは一つの町の外周と同意である。なぜなら、この恐ろしく長く巨大な城壁の中に一つ町が存在しているのだから。たかが三周とはいえ、その距離はばかにならない。しかしこれくらいこなせないようでは、遠征地での行軍などは到底こなせないのだ。
そして当然、これが初の訓練となる一刀はどれだけの距離を走る事になるのかを把握できていない。それはつまり、自分にとっての最適なペース配分を想定出来ないという事でもある。一刀は慣れない鎧の重さに嘆息しながらも、それでも必ずや一周走り切る事を胸に誓い、走り出すのだった。
◇ ◇ ◇
兵士たちと共に走り出した一刀を、王平は開始地点より見送っていた。その隣には、表情の優れない楊鳳が立っている。ちなみに、昨日あれだけの喧嘩をしておきながら二人の間に流れる空気はいつもと変わりはない。二人とも既に昨日の事は気にしていないのだ。
「彼は、完走できるでしょうか?」
王平と共に一刀が走り出すのを見送った楊鳳が、少し不安を滲ませた声で王平に問う。その事に王平は少し驚いた顔をする。一刀には興味が無いといった風に振舞っていた楊鳳が、一刀の心配をしたからだ。どうやら心配するに値する程には一刀の事を見ているらしい。
「さてな。こればかりは俺にも分からん。一刀の元からの体力と、気力がどれだけ続くかによりけりだ」
そう言って王平は上向けた両手をひょいっと上げる。お気楽な王平の言葉に、楊鳳はやれやれとため息を吐きながら首を横に振った。
「もし完走できなかった場合はどうするおつもりで?」
「そうだなぁ。俺としては無理して体を壊して欲しくはない。だから途中で抜ける事も許可したんだが……」
「しかしそれでは、他の部下たちに示しがつきません。何かしらの罰を与えなければ」
「ん~……」
楊鳳の正論に、王平は顎に手を当てて唸る。王平としては拳骨の一つでもお見舞いする程度にしておきたいのだが、中途半端な事をすると楊鳳が怒る。かと言って厳罰に処せば、今度は一刀が折れかねない。第一、曹操から任された一刀がそんな事になれば、それこそ王平の首か飛びかねないのだ。
厳しすぎず、かと言って優しすぎず。
こう言った事にはあまり拘らない王平には、考えるのになかなかに苦労する事である。
「う~む。なら、抜けた罰としてウチの隊舎の掃除なんてどうだ。適度に重労働だし、いかにも罰っぽい感じだろう?」
「まあ、確かに罰っぽい感じはします……」
と言いつつも、どこか納得のいかない様子の楊鳳。そんな楊鳳を見て王平は苦笑すると、楊鳳の頭にポンと優しく手を置いた。
「聖様?」
「いやなに、副将を務めるのにあんまりにも一生懸命な静音が可愛くてな」
「誰の所為で一生懸命になっているとお思いですか?」
「まあ、俺の所為だな」
悪びれずにそう言って王平がくつくつと笑う。楊鳳はもぅ、と抗議らしき声を上げるも、乗せられた手を払う事はしない。
「すまんな、俺が色々と劣るばかりに、静音には苦労を掛ける」
「そんなの今更ですよ。適材適所、なのでしょう?」
「おいおい、ここで昨日の事を引っ張ってくるか」
「引っ張ってこようと思えば、今までの事全てを引っ張ってこれますよ?」
したり顔で言う楊鳳に、王平はうへぇと参ったような顔になる。
「静音は案外、根に持つ方か」
「記憶力が良いと言ってください」
「ものは言い様ってやつだな」
王平が茶化す様に言うのと同時に、楊鳳の肘鉄が王平の脇腹に綺麗に決まる。平静を装う王平だが、額には汗が浮かび頬が若干引き攣っている。
「……流石にこの状況からのそれは避けられんぞ」
「その分、ちゃんと手加減しました」
確かに、楊鳳の本気の肘鉄が決まろうものなら、今頃王平の肋骨は無残にも砕けていた事だろう。可愛い顔をしてやる事には遠慮がないなと、改めて王平は思ってしまった。
「全く、不敬罪だぞ不敬罪」
「だったら聖様は職務怠慢です」
「あぁ……静音が部下になってそろそろ二年。どうしてこんな強かで口達者な子になっちまったんだか」
しくしくとあからさまな嘘泣きをする王平を、楊鳳がジト目で睨む。
「無自覚だとしたら許せませんが、惚けているのなら尚更許せませんね」
「さぁて、何の事だか」
正直、心当たりが有り過ぎて困る王平である。と言うか、ほぼ間違いなく自分の影響だろうと確信している。この二年間、楊鳳と一番長く過ごしてきたのは誰でもない王平なのだから。ぶっちゃけた話、最近楊鳳が自分に似てきたなとは思っていたのだ。
ただまあ、それを馬鹿正直に言うのも何なので、王平は素知らぬ顔で楊鳳から視線を外し、両手を頭の後ろに組んであさっての方向を向く。楊鳳はと言えば、そんな王平の足をぐりぐりと容赦なく踏みつけながら、小さくため息を吐く。
それからは特に会話もなく、二人はじっと調練場の入口で兵士たちの帰りを待つ。そして時間は過ぎ、一時ほどが経過したころ、先頭の集団が城門の方面から戻ってくる光景が王平たちの視界に入る。息を切らしながら一人、また一人と兵士たちが調練場に戻ってくる。
先頭の一人から数刻ほどかけて数百人の兵士たちが戻り、出発前の様に隊列を組む。しかし王平は未だ城門の方角を見つめていた。
「聖様……そろそろ」
「分かっている。だが、もう少しだけ待たせてくれ」
楊鳳の言葉を撥ね退けてまで待つ理由。そう……北郷一刀が未だに戻ってきていないのだ。正直、途中で脱落した可能性が高い事は分かっている。だが、もしかしたらと、王平は低い可能性の方をなぜだか信じてみたいのだ。己の殺気を真正面から受けても、じっと目を見つめ返してきたあの青年の可能性を。
一刀を除いた王平隊の兵士たちが帰還してから、さらに数刻。流石にもう無理だと楊鳳が王平に声をかけようとしたその時、今まで無表情のまま城門を見つめて微動だにしなかった王平が、ニヤリとその口に笑みを浮かべた。
「ったく……遅刻だ、遅刻!」
嬉しさの滲む声で、王平が向こうに見える青年に叫ぶ。肩大きく上下させ、ふらつく足を懸命に動かしやってくる青年を、王平は優しく受け止めた。
「はっ……くはっ……わ、わる……い。遅く、かはっ……なった」
「おう、遅いも遅い。大遅刻だぜ、一刀」
「ははっ、流石に……この距離は、今の、俺には、きつい……や」
「そうか。だが、お前は無事に完走した。見事だ」
「やっりぃ……」
それだけ言うと青年――北郷一刀はガクリと脱力し王平に完全に寄りかかる。限界まで体を酷使したからであろう、一刀は満足げな顔をしながら、王平に支えられ気絶した。
「大した根性だよ、本当に。さて、剣術はまた今度だな」
隠しきれない笑みを浮かべ、王平が気絶した一刀を肩に担ぐ。一度ならず二度までも自分を驚かせてくれるなど、こいつは本当に大した男だと王平は思う。曹操が気に入り、傍に置いた理由も分かる気がした。
「静音、俺は一刀を寝かせてくるから後を頼む」
「分かりました。そのままさぼったりしたら、後がひどいですからね?」
「しねぇよ、そんな事」
釘を刺す楊鳳に王平は苦笑を返すと、一刀を担ぎ救護所の方へと歩いて行く。
こうして、王平による一刀の最初の調練は何とか無事に終わりを告げたのだった。