第三話
「はぁ? 俺がもやし、じゃなかった。一刀の世話係……ですか?」
遠征から帰還した翌日。早朝から曹操に呼び出された王平は、突然与えられた任務に戸惑いを覚えて聞き返した。ちなみにその姿は先日の浮浪者から一転、伸びた髭を綺麗に剃り髪も短かめに切り揃えた清潔感のあるものとなっている。
「ええ、そうよ」
「……本気ですか」
事も無げに言う曹操を、王平は若干恨み顔をして睨む。ひと騒動あった昨夜の風呂場にて、北郷から大体の今の事情を知らされていた王平は、あまりにも面倒なその任務に大きくため息を吐いた。
「会話はともかく、文字の読み書きに日常生活。その基本に不安がなくなるまで、俺が一刀の保護者の代わりをしろって事ですか」
「加えて武術の方の面倒も見てくれると大助かりね」
「……」
頭痛持ちではないが、王平が掛かる苦労を想像し軽く頭痛を覚える。日常生活、武術云々に関してはまだ良いだろう。しかし読み書きは……読み書きだけは勘弁してほしい。
「せめて、語学だけは他の文官に任せてはもらえませんか。俺の様な武官では、些か以上に荷が重すぎます」
「ダメよ。この忙しい時期に、たった一人の教育に人材を二人も当てられないわ」
確かに正論である。しかし王平も言うほど暇ではない。むしろ三日後の出陣に備えての準備に追われる予定なので、武官の中でも忙しい側の立場にいる。そこに新人の教育など任されようものなら、苦労が倍増するのは目に見えた結果だ。
「ですが……」
「それに、貴方は他の武官よりも政務の仕事量が少ないのだから、人材育成の時間くらい工面できるでしょう。あの春蘭よりも少ない事、忘れたとは言わせないわよ」
「むぅ」
そこを突かれると、なんとも弱い王平である。語学に弱い王平は仕事の内容を他者――主に楊鳳に読み上げてもらって初めて仕事に取りかかる事が出来る。内容さえ把握できれば、代筆にはなるが不備無く仕事をこなす事が出来るので、曹操も煩く言わずに現状に納得はしている。とは言え、やはり他よりも作業時間が長くなってしまう事は否めない。よって曹操は、王平には軍務の仕事を多めに回す変わりに、その分政務の量を減らしているのだ。
それは王平自身も身に染みて理解している。己の不甲斐なさゆえにこうして配慮をしてもらっているのだと。ゆえに、そこをこうして突かれると王平は何も言い返せなくなってしまうのである。
「……分かりました。出来る限りを尽くしてみます」
「よろしく。なんなら、良い機会だから貴方も一刀と一緒に語学の勉強をすれば? 幸い、優秀な副官もいるのだし」
「特に不便を覚えた事もありませんので必要ありません」
「今のこの状況に至るまでを振り返ってもそう言える?」
「……」
ばつの悪そうな顔をして王平は曹操から視線を外し、ぷいっとそっぽを向く。王平の子供っぽいそんな仕草に曹操はくすくすと笑う。
こうして、王平は天の御使いこと北郷一刀の教育兼世話係という名の任を引き受けることになったのだった。
◇ ◇ ◇
城のとある一室。一刀に与えられたその部屋の中には、部屋の主である北郷一刀とその世話係に任命されてしまった王平が椅子に座り、卓を挟んで向かい合っている。王平の隣りには、やはりというか楊鳳が静かに座っている。
「そう言う訳で、今日から俺がお前の世話係になった。まぁ、よろしく頼む」
「そっか。うん、こちらこそよろしく」
王平の言葉に一刀は安心した顔をする。正直、女の子が世話係になりでもしたらどうしようかとかなり不安だったのだ。いや、それはそれで嬉しいのだが、一刀とて男。毎日の様に女の子に世話をされると言うのは嬉しい半面、別のある意味ではかなりぞっとする事なのである。ちなみにだが、一刀は王平に対してはタメ口で話すようになった。と言うのも、敬語は曹操の前だけで十分という王平たっての申し出があったからだ。楊鳳に対しては、未だに敬語を使う事にしている。
「悪かったな。世話係が綺麗な女子じゃなくて」
「そんなことないよ!? 同じ男で良かったよ、本当に!!」
一刀の心を見透かしたかのような王平の言葉に、つい一刀は大声で反論する。焦る一刀の姿に王平は意地の悪い笑みを浮かべ、楊鳳はそんな二人に一つため息を吐いた。
「ちなみに教育の方も俺が一緒に担当する」
「えっ、あーでも、その……」
「分かってる、みなまで言うな」
口ごもる一刀に、王平は苦笑を浮かべて言う。一刀が何を思ったのかは、王平には想像するまでもない。なにせ、自分でも教育係など柄ではない思っているのだから。
「教育と言っても、実際に語学を教えるのは楊鳳だ。んで、俺が教えるのは……」
そこで言葉を区切った王平が、次の瞬間目にもとまらぬ速さで剣を抜刀し、そして再び鞘に納める。すると卓上にハラリと短めの黒髪が数本落ちる。
「うぎゃあぁぁぁ!?」
絶叫した一刀が椅子ごと仰け反り、派手な音を立てて盛大に後ろにひっくり返る。見れば、一刀の前髪の一部がほんの少し短くなっていた。
「とまあ、こういう事だ」
「あ、危なっ!? 少しでもずれてたら死んでたぞ!」
「見くびるなよ。あの程度の事など造作もない事だ」
「だからって実践しなくてもいいだろ! おかげで寿命が縮むかと思ったよ!」
若干涙目になりながら抗議する一刀。恨みがましい目つきで王平を睨みながら椅子を立て直し座り直す。ちなみに……少しちびりかけた事に関しては、彼の永遠の黒歴史に認定である。
「……つまり、楊鳳さんが語学担当。聖がその……武術担当、ってところ?」
「そうだ。なぁに、心配するな。静音は教え上手だし、俺も手加減はしてやる」
にかっと笑いながら言う王平。先ほど怖がらせてしまった手前、王平は恐怖を抱かれないように会心の笑みを浮かべたつもりであった。が、当の一刀と言えばあまりにも会心過ぎるその笑みに逆に内心で不安が爆発状態であった。
王平から視線を外し、一刀は視線だけで楊鳳に問う。本当に大丈夫なのか、と。かくして返ってきたのは、楊鳳のゆっくりと首を横に振る仕草であった。
「あ、あのさ……念のため聞くけど。手加減ってどれくらい?」
怖いもの聞きたさ、と言うわけではない。本当に怖いからこそ一刀は王平に問う。しかしそんな心境を王平が知るはずもなく、王平はなんだそんなことかと笑うと、親指をぐっと立ててまた笑った。
「死なないようには〝手加減する〟から安心しろ。俺に全て任せておけ」
「……」
確かに、〝手加減する〟つもりはあるようである。しかしその度合いがおかしい。死なないように? と言う事は、加減が誤れば死ぬのだろうか? と言うか、意味通り本当に死なないだけで、実はかなりやばい人が師匠になってしまったのではないだろうか? ガチなの、死ぬの? 俺の人生ここで終わり?
一刀の背中にじんわりと汗がにじむ。これからの未来に顔を引き攣らせている一刀を見て、楊鳳は小さくため息を吐く。流石の楊鳳も、目の前の青年がぼろぼろになるのを見捨てるほど非情ではなかった。
「聖様。まずは訓練兵として、隊の調練に参加させる事から始めては?」
「訓練よりも実戦形式の方がいいだろ。その方が経験も稼げる」
「それはある程度下地がある者の場合です。そ・れ・に!」
「それに?」
強調して何かを言おうとする楊鳳に、王平は首を傾げた。
「彼一人に割ける時間があるほど、暇があるとお思いですか?」
楊鳳がにっこりと花の様な笑みを浮かべる。しかし目は笑っていない。むしろ絶対零度もかくやと言うほどの冷たさの視線に、王平はうっと声を漏らしてひるむ。
「いや、けどな。これは華琳様直々の命令であってだな」
「別に鍛錬は聖様直々でなくとも良いでしょう。隊の調練に混ざって貰えれば、それこそどちらの任務もこなせます。聖様は全体調練の一環として他の兵たちと共に北郷殿にも指導ができる。北郷殿は戦の基礎のなんたるかを学べる。ほら、一石二鳥です」
非の打ちどころのない楊鳳の提案に王平が口ごもる。しかし諦めの悪い王平は、ここでくじけたりはしない。
「だがそれだと一刀に割ける時間が少なくなるぞ」
「ではその割く時間とやらはどう工面するおつもりで?」
今度こそ、王平は反論の余地を失った。三日後の戦の準備に追われる忙しさを引き合いに出されては、どうやっても勝ち目はない。ゆえに、王平は一か八かの禁じ手を使った。
「それは……静音が政務を肩代わりしてくれるとか?」
「……」
王平の賭けは負けのようだ。楊鳳の凛々しい美貌の額に、数本の青筋が浮かぶ。どうやら完全に怒らせてしまったらしい。王平の額にはびっしりと汗が浮く。ぷるぷると体を震わせる楊鳳から発せられる怒気に、男二人は完全に気圧されていた。
「これまでに何度……何度っ! 私が聖様の代わりに政務を処理したことか!!」
「適材適所! そんな言葉があるだろう!」
「その前に聖様は部隊長でしょうがぁぁぁーーー!」
立ちあがった楊鳳の右拳が王平の顔面に迫る。常人ではまずかわせそうにない鋭い一撃。それ王平は何の苦もなくパシリと左の掌で受け止めた。
「……やるか?」
「無論です!」
「上等……っ!!」
次の瞬間、王平が蹴りあげた卓が砕け散りながら楊鳳に向かって飛ぶ。迫る卓をさらに楊鳳が蹴り砕き、いくつもの破片を部屋にまき散らす。
「下がってろ一刀! 巻き添え食らっても知らねぇぞ!」
「他人の心配をする余裕がおありですか!」
「って、ここ俺の部屋ぁぁぁーーーー!!」
一刀の叫びも空しく、王平と楊鳳がぶつかり合う度に部屋の調度品が一つ、また一つと砕け散っていく。唯一の救いは、王平も楊鳳もお互いに徒手格闘による戦闘であることか。
「ちょ、マジで部屋が壊れていくんですけど!?」
「んなもん、後で直せば良い!」
「この部屋にはそこまで高い調度品は使われてませんから!」
「まさかの事実に少し悲しくなってきた……」
確かに、よくよく見ればこの部屋の調度品は全て質素な木製のものばかりである。曹操の執務室にあるような、美しい装飾などの施されたものは一切ない。それでも、綺麗に磨き加工がされているだけあって、そこそこに上等なものなのだろう。市の大衆食堂の卓などは、ここまで綺麗に磨かれてはいない。むしろささくれが見つかる事の方が多いくらいだ。
「はっ! そんな拳が効くかっての!」
「だったら急所を狙いに行くまで!」
しかしそんな上等な調度品も、ひとたびこの嵐に巻き込まれれば後は残骸となって部屋に転がるだけである。この喧嘩で一体どれほどの被害額が生まれるのか、一刀からしてみれば想像すらしたくない。なまじ喧嘩の原因の大本が自分であるだけに。
出来る事なら喧嘩を止めたいとは思う。しかし流石にアレに巻き込まれて生き延びられる自信は一刀にはない。ゆえに砕けた円卓の天板部分の残骸を盾にしながら、大人しく部屋の隅に退避する。
「うわっ、おまっ! 股を蹴りあげようとするのは反則だぞ!」
「戦いは常に非情なんです!」
一刀の視線の先で、楊鳳が王平と取っ組みあった状態から男の急所目がけてひざ蹴りを繰り出す。王平はそれを素早く自身の足を割り込ませることで防ぐ。もし当たっていればと思うと、一刀は無意識に股を抑える。男と女の喧嘩でここまで壮絶な喧嘩を見るのは、一刀としても初めてであった。
「くっそぉ……おい静音! 事故で変な所触っても怒るなよ!」
「怒りませんけど腕はへし折らせてもらいます!」
とは言え、絶賛喧嘩中の王平からしてみれば、これくらいの喧嘩は過去に何度もあったことである。むしろ得物を振り回していない分、今回の喧嘩は比較的安全な位なのだ。最悪の時は、これはもう得物で斬り合うくらいの度合いにまで発展する。その場合は、大抵仲裁役に夏候惇か夏候淵が駆り出されるのだ。
実はもう一人実力の高い将がいるのだが、その将が仲裁に入ると余計悪化する場合があるのでまずその将が仲裁に来ることはあり得ない。
そしてこの時間、曹操以下重臣たちは皆政務か軍務についている時間である。つまるところ、現状一刀しか仲裁役になれる人物はいないのである。あとは喧嘩が自然に収束するのを待つかだが、それまでに一刀の部屋は見るも無残な姿へと変貌する事だろう。ぶっちゃけ、今も確実に無残な姿になりつつあるのだが。
「お前は大人しく、上官の言う事を聞いとけっての!」
「こんな時だけ上官面しても、何の説得力もありませんから!」
「ちょ、ストーップ! これ以上はマジでヤバいって!」
どんがらがっしゃんと断続した破砕音にかき消される一刀の声。一応聞こえてはいるはずだ。しかし二人がそれに反応しない。こうなったらと一刀は半ば自棄になりながら肺に空気を一杯に吸い込み、そして全力全開で魔法の言葉を叫ぶことにした。
「夫婦喧嘩なら他所でやれぇぇぇぇーーーーーっ!!」
一刀の渾身の叫びが部屋中に響く。ビリビリと部屋の空気が振動する中、
「ぐはっ!?」
「きゃあ!」
次いで聞こえてきたのは王平の無理やり肺から空気を押し出されたかの様な声と、楊鳳の驚きに染まった可愛い悲鳴であった。
もつれ合いながら王平と楊鳳がドサリと地面に倒れる。傍から見れば、王平が楊鳳を押し倒しているかのようにも見える、そんな光景である。実際には一刀の叫びに集中を乱された王平が楊鳳の放った正拳突きをもろに食らい、同じく動揺した楊鳳がぶっ倒れる王平を避け損なったというのが事実なのだが。
「ちょ、何してるんですか聖様! 早くどいてください!」
「無理だ……。誰かが本気で、拳入れやがったせいで、痛みで、体が動かねぇ……」
楊鳳よりも王平の方が体躯は大きいので、文字通り楊鳳は王平の体の下に埋まっている状態である。そして力の入っていない人の体と言うものは予想以上に重たいもの。加えて先ほどの動揺がまだ治まっていない楊鳳では、とても退かせそうになかった。
「すまん一刀、多少乱暴でも良いから俺の体を退けてくれ」
「あ、ああ。分かった」
うんしょと気合を入れ、一刀が王平の体を楊鳳の上から押しのける。床を転がり仰向けになった王平の顔は激痛のためか真っ青。対する楊鳳は、色々な理由から顔を真っ赤にしながら立ちあがる。
「全く。誰が夫婦ですか誰が」
「いえ、どう見ても夫婦喧嘩にしか見えな――ひぃ!?」
ギンッと楊鳳に鋭く睨まれ、一刀が続く言葉を飲み込む。楊鳳は服についた埃を払うと、未だ行動不能な王平を一瞥し扉を乱暴に蹴破って一刀の部屋から出て行った。
「やれやれ……怒った女は怖いもんだな」
これで徐晃が居たらどうなってた事やら……などと王平は呟き、楊鳳が出ていくのを見送ると仰向けのままため息を吐く。胸がまだ痛むのか、若干呼吸が荒い。
「楊鳳さん、怒るといつもああなのか?」
「いや、今回はまだましな方だ。もしあいつがここに居たら、それこそちょっとした殺し合いになる。だが、あーいつつ……こんなきっついのを食らったのは今回が初めてだな。一刀の所為だぞ、まったく」
よほど痛いのか、王平が痛みに顔をしかめる。対する一刀は破壊されつくした部屋を見渡しながら、はぁ~っと大げさにため息を吐いた。
「それ、聖にだけは言われたくないんだけど……と言うか、結局これ誰が直すんだよ」
「さあな……後で大工呼んでこないとな」
配置されていた調度品の中で、唯一無事なのは寝台のみ。床はひび割れ、壁は陥没し、四散した調度品の残骸が部屋中に散乱している。とりあえず部屋としての最低限の機能は保っているものの、進んでここに住みたいとは王平も一刀も思わない。
「それにしても、良いのかこのままで。仲直りとかした方が良いんじゃ……」
「なぁに、これくらいの事で俺と静音との仲に亀裂が入ったりなんかしないさ。これでも結構な付き合いなんだ。さっきはああだったが、静音だって実際はそこまで気にしちゃいねぇよ」
「本当かなぁ。俺にはもの凄く怒ってる様に見えたんだけど」
「それはお前、まだまだ人を見る目がなってないってことだ。いや、女心を見る目が……か?」
疑問符を浮かべて首を傾げる一刀に、王平はやれやれと苦笑する。こいつは将来、女関係に凄く苦労しそうだと。
「まあ、なんだ。部屋をこんなにしたのは悪かったな、すまん。とりあえず、今日は俺の部屋に泊れ」
「うん、そうする」
台風一過の様な有様の部屋の中。取り残された王平と一刀は、男二人で仲良く揃ってため息を吐いたのだった。