大好きな婚約者に近づく平民がいますが、何もせず見守ります
「エレイン様、いいのですか? あの平民、またグランシール侯爵令息と二人っきりですわよ」
草原を思わせる緑の瞳を猫のように丸く見開きながら、エレインは友人であるジゼルに笑顔を向けた。
「そうねぇ……」
王立学園は貴族の子女が通う高等学校だが、頭のいい平民も特待生として入学できる。
学年に一人か二人という狭き門ではあるが、エレインの婚約者のランセル・グランシールに纏わりつく平民も特待生である。
(ララミィ、といったかしら。……困ったものね)
ジゼルの横にいた令嬢たちも、このときとばかりに囀り始めた。
「そうですわ、それだけではなくて私の婚約者も」
「私の婚約者もです」
「私も」
昼休みが終わる鐘が鳴り響く。
令嬢たちがいる中庭には美しい噴水や植栽が計算されて配置されていて、とても華やかだ。
学校ではあるが、まるで貴族の中庭のように整えられている。
少し曇っている空を見上げたエレインは、令嬢たちの方に向き直った。
「そうね。今度ランセル様にお話ししてみますわね」
ヴィクトール公爵の令嬢であるエレインの言葉に、令嬢たちは一応納得したように頷いた。
件のララミィはエレインたちと同じ一年生である。
入学から半年、数回行われた実力テストでは毎回十位以内に入っている。
十位から落ちれば警告、二回目も這い上がれなかった場合は特待生の資格を失う。
なので、他学年の特待生たちはトラブルを起こす暇もなく勉学に励んでいるのだが、ララミィは違った。
高位貴族の子息たちをあっという間に籠絡し、侍らせている……と言われている。
(それでいて好成績。アレがなければ一位も射程圏内でしょうに……)
だが、ララミィの成績は少しずつ低下していっている。
初回は一位、前回は五位。
今回は七位。
見目のよい子息に囲まれて、夢見心地で過ごしているのだろう。
貴族子息がララミィに差し出す贈り物は本人の小遣いで買える範囲の物ばかりだが、平民から見ればとんでもなく高級品である。
そう考えればララミィがお姫様気分になるのはなんとなく理解はできる。
令嬢たちはララミィの言葉を借りると『エレインの取り巻き』らしい。
事実である。
同じ派閥の令嬢たちがリーダーを定め、一緒に行動するのは常識なのだから。
不用意に一人で行動すれば、不名誉なことに巻き込まれる可能性もあるのだ。
お互いを護るため、集団で動くのは理に適っている。
エレインは黒板の内容を書き写しながら、チラリと左斜め前に座るララミィの後ろ姿に目をやった。
曇った日や、陽が落ちてくると桃色がかって見える金髪は平民には珍しい。
紫色の大きな瞳もあまり見ない色合いだ。
どこかの貴族の落とし子の可能性はあるが、確認した限りでは城下町のパン屋の娘。
顔立ちに関しては貴族令嬢のような華やかさはないが、整ってはいる。
よく笑い、よく泣き、距離が近い。
令息たちが貴族令嬢より話しやすいと構うのもわからないではない。
が、婚約者たちがそれを許すかどうかは別問題である。
エレイン自身もいい気分ではなかった。
「…………」
また、ララミィはちやほやされている自分──それを婚約者たちに見せつけているきらいもある。
大切にされて、勝った気分でいると見える。
とある令嬢が見かねて苦言を呈した時に、『学園ではみんな平等って規則にありますよ?』と言い返す気の強さもある。
泣いて令息に言いつける策略家でもある。
つまり、第一学年は全体的にいい雰囲気ではなかった。
放課後、同じ派閥の令嬢たちが迎えの馬車に乗り込むのを見守るのが日課であるエレインは、全員が揃ってるうちにこう言った。
「例の件……しばらくの間、皆様は学園内でご自分の婚約者にもあの方にも絶対に近づかないように」
令嬢たちは素直に頷き、それぞれの馬車に乗り込んでいった。
エレインは三年生の同派閥の令嬢に、一年生の令嬢が帰途についたことを伝え、自身も見送られながら馬車に乗り込んだ。
自由な学園と言っても、貴族令嬢はこんな感じで過ごすのが当たり前なのである。
ララミィのように誘えば気軽にカフェに寄るような真似はできない。
令息たちは思い通りに動かない、そんな貴族令嬢を少し煙たく思っているのかもしれない。
もしかしたら、エレインの婚約者のランセルも。
◆
二週間ほど経ったころ、エレインは自宅のサロンでランセルと定例のお茶会をしていた。
「母上が婚姻後にエレインと小旅行に行きたいそうだよ」
「まあ。どこに連れて行ってくださるのかしら。楽しみだわ」
「そうだね、そうそう。我が屋敷の君のものになる予定のあの南の部屋なんだが……君の好きな緑色でカーテンを発注しようと思ってて」
「あら、もう?」
「うん。ホースウッドの絹はもう頼んでおかないと二年じゃ間に合わないから」
「でしたら、カーテンは落ち着いた緑がいいです」
「そう言っておこう」
ランセルはエレインと同じ色の純金のような濃い金髪をかきあげ、品のいい笑顔を浮かべた。
ランセルとの逢瀬で、学園の話が出ることはない。
令嬢は令嬢同士で固まっているし、令息たちもそうだからだ。
ランセルの率いる子息たちに、ララミィが交ざっているだけで。
尤もそれがものすごく違和感があるのは確かだ。
だが、令息たちも未成年のうちは一人で行動するのは避けるべきであって──以前にランセルとララミィが二人きりでという話も、実際は周囲に令息たちがいたのはわかっている。
「絨毯はどうする? 私室だから毛足の長いアンブリーのものはどうだろう」
「いいですわね。とても柔らかくて大好きな絨毯ですわ」
色はどうする、毛足の長さは──ランセルとエレインは穏やかに二時間あまりを過ごし、いつものように彼がエレインの指先にキスを落として辞していった。
葉が君の目の色に似ていたから、と大きな花束を贈ってくれたのでエレインは侍女を呼んで花瓶に生けてもらった。
「なんて大きな薔薇──ああ、本当にこの葉はお嬢様の目の色ですね」
侍女はオレンジ色の花を褒めてから、葉の色について言及した。
「きれいね」
「本当に。何故葉を落とさず花束にと思ってましたけれど、この見事な葉をお嬢様に見せたかったのでしょう」
「ふふっランセルらしいわね?」
「婚約されて十年も経つのに、情熱的ですこと」
「いいことだわ。政略結婚とはいえ、円満な方がいいに決まっているもの」
オレンジ色の薔薇はそれぞれ色の濃淡が違っていて、とても立体的に見える。
確かに葉は多かったが、そのままでいい。
エレインは微笑みながら、ほのかな薔薇の香りを侍女と楽しんだ。
◆
「エレイン様、ランセルを束縛するのは良くないと思います!」
ある日、授業の合間の教室移動中だったエレインに、いきなりララミィが話しかけてきた。
学園の規則では身分に関係なく生徒は平等に学ぶ権利を持つ。
だが、平民がいきなり貴族に話しかけてくるような事態は、今まで聞いたことがない。
目上の家の人間が許可をするまで、立場的に下の人間が口を開かないのは庶民にも浸透している一般常識である。
婚約者であったり、同じ派閥で許可しあっている人間同士は例外となるが、平民が許可なく貴族に話しかけてくるのは珍事と言っていい。
もちろん、学園内ではそこまで厳格なルールがあるわけではないので、上の学年の特待生たちが貴族と仲良く話している光景もよく見られる。
だが、親しくもない状況でそれをやらかす人間は……まずいない。
黙ったまま立ち止まったエレインと令嬢たちに、ララミィはさらに詰め寄った。
「政略結婚の何がいいんですか。好きな人と結婚するのが幸せなのに、家の力で無理やり縛り付けるなんて可哀想です!」
口を開きかけた令嬢たちを制し、エレインは何事もなかったように歩き始めた。
「無視ですか! 身分をかさに着て平民を差別するなんて──」
ララミィの声は遠ざかり、エレインたちは美術室に到着した。
今日は高名な画家の講義を聞けるとあって、とても楽しみにしていた授業だった。
エレインはいつも通りに帰宅し、たまたま赴任先から帰ってきていた兄を見つけて笑顔になった。
「お兄様! 半年ぶりですわね」
「うん、エレインは元気だったかい?」
「ええ。今回はいつまでいられるの?」
「一週間。シャロンが産気づいたら大変だから、陛下の用が済み次第帰るよ」
兄は外交官で遠方の国に赴任しているが、妻であるシャロンが臨月のため長居はできないと言った。
「そう……。もう生まれるなんて、嘘みたい。女の子だったら私の絵本を全部贈りたいわ。男の子だったら、ポニーがいいかしら」
「ははは、生まれるまではわからないな。……ん? どうした、エレイン。悩みでもあるのか?」
「実は──」
◆
兄は宣言通り、一週間で帰って行った。
それから数日後、ララミィが登校しなくなった。
ランセルたちはいつもと変わらないように見えたし、元々女友達がいなかったララミィがいなくてもあまり変化はなかった。
──そこから更に数日後。
エレインが馬車から降りると、馬留付近は生徒たちでいっぱいで悲鳴や大きな話し声で騒がしかった。
規則では馬留付近で滞留してはいけないので、これは異常事態だ。
教師たちの姿もあり、家の馬車がまだ残っていた生徒は家に帰される事態となった。
エレインの家の馬車で何人かを送り届け、帰宅したところ夫人は驚いたようだったが、それならばドレスでも作りに行きましょうということでエレインは母親と一緒に仕立て屋や宝飾店を見て回り、思いがけない余暇を楽しんだ。
翌日、登校したエレインは友人たちから驚くべき話を聞かされた。
しばらく姿を見なかったララミィが、朝に馬留付近の石畳の上に全裸で放り出されていたというのだ。
「服を着ていなかったらしいですわ」
「それに傷だらけで酔っていらしたそうよ」
「サーシャ様は直接ご覧になってしまって、今もショックで寝込んでらっしゃるみたい」
「まあ……本当に?」
エレインは心底驚いて、教科書を取り落とした。
バサッ……と思っていたより大きな音が響き、同級生に視線が集まる。
慌てて教科書を拾い、周囲に謝罪をしたエレインは席についたあと、左斜め前の空席をじっと見つめた。
こういう話は貴族令嬢より夫人たちの方が情報収集に長けている。
学校中の騒然とした雰囲気が収まってきた頃、エレインは母親から事の詳細を聞くことになった。
「未婚の子女に聞かせられる話ではないのだけれど……同じ学校だし、知らずに迂闊なことを言えば醜聞に巻き込まれかねないからエレインには話しておくわね」
夫人は紅茶のカップを手に取り、憂い顔でため息をついた。
「はい、お母様」
「……と言っても私も詳しい経緯は知らないのだけれど。特待生の平民の女性が数日行方不明だったそうなの」
「まあ。お休みではなく……」
「それで、あの日の朝……生徒たちが登校する時間の少し前に馬車が荒々しく入ってきて、女性を放り出して去っていったのですって。生徒たちが怪我をしないよう、教師や守衛の目を取られたものだから走り去った馬車はそのまま消えてしまった」
「馬車から放り出されるなんて……」
「その馬車には紋章もなかったし、馬もよく見る茶色の馬で……御者を見た人もいないそうよ」
「まあ……」
夫人は紅茶をもう一度口に運び、ほんの少し眉間にしわを寄せながらエレインの顔を見て再び話し始めた。
「その特待生はええと……服を着ていなかったの」
「はい、噂で聞きました」
「……なんと言ったらいいのかしら。ハッキリ言ったほうがいいだろうから言うけれど、そのお嬢さんはどうやら男性から……そうね、純潔を……ええと、乱暴なことをされていたようで……両足も折られていたようなの」
「まあ……」
「直接見てしまった子どもたちの家の方から聞いた話だと、その特待生は酔っぱらっていて色々叫んでいたというのだけれど……」
「そうなのですか」
エレインはカップをテーブルに戻してから首を傾げて、困ったような顔をした母親を見つめた。
「そう聞いているわ。その時に我が家の家名やエレインの名前を叫んでいたようなの。いえ、他の家や生徒の名前もね」
「私の名前を? 親しくはない方ですわ」
夫人は頷き、エレインを安心させるように微笑んだ。
「もちろんよ。学園には警邏隊から厳しい調査が入って、名前の挙がった複数の生徒たちは一切彼女と関わっていないことがわかっている。その特待生は酔っていたのではなく、何らかの薬剤を投与されていたみたいよ」
「はい」
「他に名前が挙がっていた、彼女と親しくしていた生徒たちも学園と自宅以外に外出すらしていないか、していても子ども一人で出歩いたわけではない……やはり無関係だったと報告があったわ」
「驚きました。聞いていたよりずいぶんひどい話ですわね、お母様」
「そうね。名前が挙がったことであれこれ聞かれることがあったら、知らないと答えなさい」
「はい」
「よろしい。あなたは何も知らないし、大人たちからも何も言われていない──そう振る舞いなさい」
「はい」
◆
結局、ララミィが再び登校することはなかった。
学園では家にいるとか、遠くで療養しているとか様々な憶測が飛び交っていたが──本当のことはわからないままだった。
大きな事件ではあったけれど、ララミィがいなくなっても生徒たちは何も変わらなかった。
ショックで寝込んでいた生徒たちも、登校し始めている。
婚約者に纏わりついていたララミィを苦々しく思っていた令嬢たちも、普段通り穏やかに過ごしている。
……そもそも彼女たちが不快に思っていただけで、婚約者と不仲だったわけではなかったからだ。
「あら、今日は百合なのね」
「うん。花屋に聞いたらこの百合の花言葉が君にぴったりで」
「どんな花言葉ですの?」
「穏やかな妖精。ぴったりだよ」
エレインは頬を染めて、ランセルからの花束を受け取った。
「いい香り……いつも素敵な花束。ありがとうございます、ランセル様」
ランセルはヴィクトール家のサロンの豪奢なソファーにリラックスした様子で背を預けている。
エレインは思い切って、気になっていたことを聞いてみることにした。
「……ランセル様」
「ん? なにかな、エレイン」
「あの、ララミィさんのことなのですけれど」
「ああ、あの子か。どうかした?」
「ずっと仲良くしていらしたでしょう?」
「あ、そうだね……友達がいなくて困っていたからね。連れてきたのはベンジャミンだけど」
「あら、そうなのですか? 私はてっきり皆様が気に入って、彼女をそばにおいていたのだとばかり」
「何人かはそうだったんじゃないかな。彼女が学費以外の出費を親に言えないって言うから、文房具や髪留めなんかを贈ったりしてる者はいたと思う」
「そうなのですね……私、勘違いしていたようですわ」
ランセルは首を傾げ、整った顔にうっすらと微笑みを浮かべた。
「何回言っても貴族の呼び方を覚えないし、珍しい動物みたいで面白かったけどね。学生のうちはいいけれど、卒業後はそんな態度でいたら大変だよって言ったら泣いていたけれど……笑ったり泣いたり、忙しい子だったなぁ」
「表情が豊かだったのは覚えてますけれど」
「週末はみんな家の用事か、婚約者に会うだろう?」
「そうですわね」
「あの子、放課後はみんな遊んでくれるのに休日は誰も遊んでくれないって言い出してね。週末は家の用か婚約者と会うから、そもそも予定がいっぱいなんだと説明したんだよ」
「ええ」
「毎週いっぱいだなんておかしいって言うから、政略で決まった婚約者を大事にしないのは家の恥だって誰かが……ベンジャミンだったかなぁ、そう言ったらそもそも政略結婚がおかしいって」
「確かに平民にはあまり馴染みがない婚姻事情ですものね」
「面白いよね、政略結婚は可哀想だなんて考え方。僕たちはその為にいると言うのに」
「おかしいだなんて思った事ありませんでした」
「僕もだよ。本当に面白い子だった」
「そうですか……面白い……」
「ちょっと面倒くさい子だったけどね。すぐにくっついてくるから引き剥がすのが大変だったなぁ。平民では普通って言ってたけど、僕たち貴族だからね」
ランセルは立ち上がり、窓辺まで歩いていった。
「公爵家は薔薇が多いね。すごく素敵だ」
「お母様が薔薇好きなのです」
「エレインは薔薇も好きみたいだけど、百合の方が好きだよね」
「はい」
エレインも窓辺に立ち、公爵夫人の自慢の薔薇園をしばらくランセルと一緒に眺めた。
「君が嫁いできたら、百合を植えさせよう。温室は要るかい?」
「嬉しいわ、温室があったら色々育てられそうですもの」
ランセルはエレインの指先にキスを落とし、屋敷を辞していった。
侍女が百合を生けるのを眺めながら、エレインは花言葉を思い出した。
(穏やかな妖精……そう思ってくださっているのは嬉しいけれど。私は相当なやきもち焼きなのよね)
正直、本当に不愉快だった。
かと言って飄々とした様子のランセルにそれを言うのも嫌だった。
「この百合も大きゅうございますわねぇ」
「そうね。とても素敵だわ」
「お部屋に飾られますか」
「一輪だけ……自分で持っていくわ」
エレインは侍女から一輪挿しを受け取り、サロンから出て自室へと戻った。
結局、エレイン自身は何もしていない。
──ただ、エレインを溺愛している兄にララミィの話をしただけだ。




