血の契約で縛られた悪役令嬢ですが、契約書の抜け穴を見つけたので破棄させていただきます ~元社畜令嬢、宮廷魔術師として辺境で成り上がります~
「――この契約書は、貴様の血で書かれている。逃げられると思うなよ、リゼット」
大広間に、勝ち誇った声が響いた。
第二王子オズワルドが、赤黒く変色した一枚の羊皮紙を、これ見よがしに突きつけてくる。
「契約魔法だ。お前は死ぬまで王家に魔力を献上し続ける。逆らえば血が焼ける」
シャンデリアの光の下、社交界の貴族たちが好奇と侮蔑の視線を私に注いでいた。婚約破棄の宣告。そして『永久魔力奴隷化』の言い渡し。
公爵令嬢リゼット・ヴァレンティア――冷酷で魔力を独占する悪女。
そう吹聴されてきた私に、同情する者などここにはいない。
だが。
(……この契約書、条文を最後まで読んでないでしょう、あなた)
私は内心で、薄く笑っていた。
表情には出さない。切れ長の紫紺の瞳を伏せ、感情を殺す。それは前世から染みついた、社畜の処世術だ。
そう――前世。私は現代日本の法務部で、来る日も来る日も契約書のレビューに追われていたOLだった。悪魔は細部に宿る。血の契約ほど、条文の解釈がすべて。それを、私は誰よりも知っている。
オズワルドの隣で、平民出身の聖女モニカが清楚な笑みを浮かべている。その少し後ろには、継母ヴィオレッタと、義妹セシリアが扇の陰でくすくすと笑っていた。
「お姉様、道具のくせに往生際が悪くてよ?」
セシリアの無邪気な残酷さが、耳を撫でる。
私は静かに顔を上げた。
「……よろしいのですか」
「何がだ」
「その契約書を、公衆の面前で有効だと宣言なさって。本当に、よろしいのですね?」
一瞬、オズワルドの顔に苛立ちが走る。
愚かな人。あなたは今、自分で自分の首に縄をかけたのですよ。
十数年。私はただ耐えてきたわけではない。この日のために――ずっと、あの一枚の羊皮紙を読み込んできたのだから。
◇
話は、十数年前にさかのぼる。
私はヴァレンティア公爵家の長女として生まれた。膨大な魔力量――それが、私の不幸のはじまりだった。
母が病で世を去ると、後妻として入り込んだのが継母ヴィオレッタだ。伯爵家出身の野心家。彼女は実娘セシリアを次期王子妃に据えるため、私を『使い潰す道具』と定めた。
「王家への忠誠の証よ、リゼット。おとなしく血の契約を結びなさい」
幼い私は、その意味も分からぬまま羊皮紙に血を落とした。以来、私の魔力は絶えず王家へと吸い上げられ続けた。
それだけではない。継母は私に、公爵家の書類仕事のすべてを押し付けた。
「道具が遊んでいては困るのよ」
領地の契約書。王家との協定書。魔力譲渡の記録。
嫌がらせのつもりだったのだろう。だが――それは皮肉な結果を生んだ。
(……前世で毎日やってた仕事と、同じですね)
書類の山を前に、私は前世の記憶を取り戻していた。法務部OL・リゼット。契約書の一字一句を疑い、抜け穴を探し、リスクを潰す。それが私の職業病であり、唯一の武器だった。
私は搾取されながら、ひたすら学んだ。
この世界の契約魔法の理を。そして――自分を縛るあの血の契約書の、条文のすべてを。
エルナだけが、私の味方だった。
「お嬢様、また徹夜ですか……! お身体に障ります」
栗色の髪の若い侍女は、継母派の目を盗んで古い記録の写しを運んでくれた。
「エルナ。第七条の原本、探してくれる?」
「はい……ですが、お嬢様。こんなに調べて、本当に報われる日が来るのでしょうか」
涙ぐむエルナに、私は静かに答えた。
「来るわ。契約書に、抜け穴がある限り」
そう。私はもう、見つけていたのだ。
この搾取契約を、根本から覆す三つの綻びを。
◇
大広間に戻ろう。
「逆らえば血が焼けると言っただろう」オズワルドが焦れたように声を荒らげる。「早く跪け、リゼット。お前は王家の道具として――」
「第七条」
私は、彼の言葉を遮った。
静かに。だが、広間の隅々まで届く声で。
「では、こちらの条項を読み上げますわ。――『対価不履行の場合、契約は締結者の血をもって、債務者側に返還される』」
「……なに?」
オズワルドの表情が凍る。
私は羊皮紙の一点を指し示した。
「血の契約は、双務契約です。私が王家に魔力を献上する。その代わり、王家は私に相応の対価を支払う。そう明記されています。――ところが」
一拍、置く。
「王家は十数年間、対価を一切支払っていない。これは重大な債務不履行ですわ」
ざわ、と貴族たちがどよめいた。
「く、詭弁だ! そもそもこの契約は王家に有効なもので――」
「ええ、そこも問題ですの」
私は継母ヴィオレッタを見た。彼女の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「この契約が有効なのは、条文いわく『王家の正統な後継者』に対してのみ。……オズワルド殿下。あなた、王位継承権をお持ちでしたかしら?」
「何を――当然だろう! 私は第二王子だ!」
「あら。継母上は、ずいぶん熱心にあなたの出自を隠してこられましたが」
「な……なにを、根も葉もないことを……!」
ヴィオレッタの声が上ずる。
広間が、しん、と静まり返った。
「あなたは側妃の子。王位継承権は、最初から存在しない。私、公爵家の記録を隅々まで管理しておりましたの。……書類仕事を押し付けてくださって、感謝いたしますわ、継母上」
ヴィオレッタが、扇を取り落とした。
「つまり――契約の『効力主体』が、そもそも存在しない。この契約は、最初から無効だったのです」
私は微笑んだ。前世で幾度となく、瑕疵ある契約書を突き返してきた、あの笑みで。
「効力主体は不在。対価は不履行。――さて、殿下。この搾取契約、どちらが債務を負っていたと思われます?」
◇
「デタラメを言うな!」
オズワルドが羊皮紙をひったくろうと手を伸ばす。
だが遅い。
私はすでに、指先に魔力を灯していた。
「――前世で覚えた言葉があります。『解除条項の発動には、正当な手続きを』」
羊皮紙の上に、私は前世知識で組み立てた解除の詠唱を刻んでいく。契約魔法の理と、契約法理。二つが噛み合った瞬間――
羊皮紙が、赤く光った。
「な……なんだ、これは……!?」
血の契約が、逆流をはじめる。
十数年分。私から吸い上げられ続けた魔力が、未払いの『対価』という名の負債に姿を変え、利子をつけて、債務者へと牙を剥いた。
「ぐ……があああっ!?」
オズワルドが胸を押さえて膝をつく。
「オズワルド様!? い、いや、私は関係ありませんわ!」
真っ先に彼から距離を取ったのは、聖女モニカだった。清楚な仮面が剥がれ、その顔には露骨な保身が浮かんでいる。
(あら。ずいぶん現金ですこと)
「あ……あなたたち、なぜ! なぜ私の魔力が――!」
継母ヴィオレッタの豪奢なドレスを飾っていた魔力が、音を立てて崩れていく。搾取した魔力で保っていた地位も、栄華も。
「お母様! わたくしの婚礼衣装が……! どうして!?」
セシリアが泣き叫ぶ。姉の犠牲の上に築いた栄華が、一夜にして砂の城のように崩れ落ちていく。
私は、静かにその光景を見つめていた。
喚かない。嗤わない。
ただ、淡々と。
「因果応報、という言葉が前世にありましてね」
私は羊皮紙を丁寧に折りたたむ。
「搾取していた側こそが、返済不能な負債を抱えていた。――ただ、それだけのことですわ」
エルナが、涙を流しながら駆け寄ってきた。
「お嬢様……! やっと、やっとこの日が……!」
「ええ。長かったわね、エルナ」
崩れ落ちる加害者たちを背に、私は広間の出口へと歩き出した。
もう、この場所に用はない。
後日、王家は事の次第を正式に裁定した。オズワルドは継承権詐称と契約不履行により廃嫡。ヴィオレッタは財産没収。セシリアの王子妃の話は、一夜にして霧散した。
失ってから、彼らはようやく気づいたのだろう。私の魔力の価値に。私という人間の有能さに。
だが――もう遅い。
◇
人払いされた廊下は、しんと静まり返っていた。
――はずだった。
「……あの」
低い、無骨な声。
見上げれば、そこには長身の男が立っていた。黒に近い深紅の髪。金の瞳。こめかみには、竜の血を示す小さな角。
辺境を守護する竜人将軍、アルヴィス・ドラクロード。『冷酷無比の竜将』と恐れられる、あの。
その彼が――なぜか、廊下でそわそわと視線を泳がせていた。
(……冷酷無比の竜将が、なぜこんなところで所在なさげに?)
「アルヴィス将軍。このような場所に、何のご用でしょう」
「その」
彼は言葉に詰まり、あらぬ方向を見た。
「……見ていた。今の、契約の一部始終を」
「それは光栄ですわ。醜い争いをお見せしました」
「醜くない」
即座に、彼は否定した。今度はまっすぐ私を見て。
「見事だった。感情を殺し、知略だけで戦うあの姿。……いや、それだけじゃない。俺は前から――」
言いかけて、また視線を逸らす。耳が、うっすら赤い。
(この方、もしかして……何度も公爵領に『視察』にいらしていた?)
思い当たる節があった。ここ数年、辺境の将軍が理由をつけては公爵領を訪れていた。あれは。
「リゼット・ヴァレンティア」
アルヴィスは、意を決したように口を開いた。今度は、彼にしては珍しく言葉数が多かった。
「その頭脳と魔力、王家などにくれてやるには惜しい。搾取される道具でも、飾りの令嬢でもなく――正当に評価される場所で、その力を使え。俺の――辺境の宮廷魔術師にならないか」
私は、少しだけ目を見張った。
前世でも、今世でも。私はずっと、報われない有能者だった。どれだけ働いても、評価されず、ただ使い潰されるだけの。
だが、この不器用な竜将は。
私の価値を、まっすぐに認めてくれている。
「……ひとつ、条件がありますわ」
「言え」
「雇用契約書は、私が書きます」
私は、久しぶりに――心から笑った。
「血ではなく、インクで」
アルヴィスが、ふ、と表情を緩める。その無骨な顔に浮かんだ、不器用な安堵。
「……ああ。好きに書け。お前が納得するまで」
後ろから、エルナが息を切らして追いついてきた。
「お嬢様! 私も、辺境へお供いたします! どうか、どうか置いていかないでくださいませ!」
「もちろんよ、エルナ。あなたなしでは困るわ」
◇
辺境への出立の朝。
公爵領には、もう未練はなかった。廃嫡されたオズワルド。財産を没収された継母。婚姻話の霧散したセシリア。
『失ってから、リゼットの価値に気づく』――そんな彼らの後悔など、今の私にはどうでもいいことだった。
馬車に荷を積み込みながら、エルナが荷物の整理をしていた。
「お嬢様、こちらの書類は――……お嬢様。これは?」
彼女の手が、ふと止まる。
差し出されたのは、一枚の羊皮紙。
見覚えのある――赤黒い色。
血の契約書だった。
(……昨日、逆流させたはずでは?)
いや。違う。これは、あの契約書ではない。
私は羊皮紙を手に取った。指先が、かすかに震える。
そこに記されていたのは、私自身の血の署名。だが――幼い頃の、たどたどしい筆跡で。
「リゼット……お嬢様、いつ、こんな契約を?」
「……覚えていないわ」
本当に。まったく、記憶にない。
契約の相手方の名は、不自然ににじんでいて読めなかった。まるで、何者かが意図的に隠したかのように。
ただ一文だけが、はっきりと読めた。
『――時満ちしとき、汝は我のもとへ還る』
背筋を、冷たいものが滑り落ちた。
(前世の記憶を持つ私ですら、まったく心当たりがない……)
逆流の難を免れ、まるで自らの意思でここに残ったかのような、もう一枚の血の契約書。
「お嬢様……?」
心配そうなエルナに、私は羊皮紙を静かに折りたたんだ。
「……大丈夫よ、エルナ」
悪魔は、細部に宿る。
そして――どうやら私の物語は、まだ終わっていないらしい。
「辺境で、じっくり読み解くとしましょう」
馬車が動き出す。
新天地へ。私を正当に評価する場所へ。
そして――記憶にない契約が、いつか私の前に、その正体を現す日まで。
私は、懐の羊皮紙にそっと手を添えた。
(次はどんな抜け穴を、探すことになるのかしら)
窓の外、竜将アルヴィスが馬を並べて護衛につく。その金の瞳が、ちらりと私を見て、また慌てて前を向いた。
――ええ。この物語は、まだ始まったばかりですわ。




