東都学苑へようこそ *4
廊下を歩くこと数分、俺たちは指定された1ーE教室へと足を踏み入れた。
入った瞬間から教室という言葉のイメージはすでに裏切られていた。
そこにあったのは、従来の教室とはまるで違う仕組みで動く空間。
座席はすべて固定されておらず、各自がタブレットを登録することで、その場所が自席として記録されるらしい。
机の上には固定のタブレットと静音キーボード。壁の一面には巨大なスクリーン。全方位に監視カメラと空調センサー。
完璧すぎる環境――だからこそ、居心地が悪い。
俺はまだ誰の名前も覚えていない教室の中で、空いていた席にそっと腰を下ろした。
羽野は俺の隣に座ったが、あえて話しかけるのはやめた。
全員が席に着いたところで、黒服の人たちはゆっくりと教室外にへと消えていった。
ちらほらと空席がある中で、静かな空気が流れていた。
物音ひとつ立てず、ただ淡々とスマホのような端末をいじっているやつ。
無意味に姿勢を正しているやつ。
机に突っ伏して、学苑長の話を聞いていなかったように早々と眠りこけるやつ。
バラバラだった。
これが俺の所属するEクラス。いやEクラスだけではなく他の全クラスも一緒のことだ。
学力順ではない、そう言われていた。
でも目に見える温度差が、無意識に境界線を生む。
静寂ではあるが、生徒同士の何かが違う境界線を無意識に感じて居心地が悪い。
そんな風に感じているとふと、教室の入り口の自動ドアが静かに開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、若い女教師だった。
年齢は二十代中盤か後半辺りだろうか。白衣のようなジャケットに細身のパンツスーツ、髪は茶色をベースにところどころに金髪が混ざる髪色で、肩にかかるくらいで整えられている。
「初めまして。今日から皆さんの担任になる、早乙女朱音です」
やけに端正な声だった。少し可愛らしい声色に俺の鼓膜が少し擽られた。
柔らかくて、でも耳に残る。まるで優しさの中に何か隠しているような。
そんな可愛らしい声色とは裏腹に、その声は教室の隅々にまで届いた。
「自己紹介の後に言うのもなんですが、このクラスにはルールというものがあります。それを皆さんと共有していきたいです」
彼女が手元のタブレットを操作すると、ピッという電子音と共に、教室前方の壁に埋め込まれた巨大なスクリーンが瞬時に切り替わる。
表示されたのは数項目の規則だ。スクリーンには、簡潔だが気になる文言が並んでいた。
――
【E-1クラス内ルール】
1.遅刻・早退はスコア減点対象
2.無断発言はできるだけ控える(挙手制)
3.チームワーク活動中の妨害行為はペナルティ処分
4.教師および生徒間の暴力は即時記録・報告
5. 教室内での録音・録画は禁止(必要時は担任を通じて許可申請)
6. 授業中の行動・発言は一部記録され、必要に応じて評価に反映されます。
7. 担任不在時のトラブルは後日報告制です(監視補完なし)
8. 他生徒とのトラブルは、当事者間で解決することを推奨します(重大時のみ介入)
9. 評価スコアは月末まで非公開とし、月末時点でその月の評価ポイントが学年・クラスごとの順位として発表されます。
10.学苑内の服装は制服のみです。髪型やアクセサリー等の自由は認められていますが、過度な身だしなみの乱れは評価ポイントに影響する場合があります。
――
「とまあちょっと堅苦しいけど、これは最低限。このクラスだけのルールです。全クラス共通じゃないからね?」
早乙女先生はそう言って、軽くウィンクを添えた。
「でも言っとくけど……自由って責任がついてくるの。うちのクラスはわりと自由です。休み時間とか本当になんでもしていいし……でも、やらかしたらちゃんと帳尻合わせてもらいますからね?」
明るく冗談めかしているが、目だけは笑っていない。
その緩急に生徒たちは戸惑いながらも背筋を伸ばした。
「ま、細かいことは後でいいとして……私から言えることは一つ!」
そう言って、早乙女先生は手のひらをぱんっと打った。
「このクラス、めっちゃ楽しいクラスにするつもりだから!」
ふわりと笑うその顔に、教室の空気が少し和らぐのを感じた。
型破りなようでいてどこか信用できる。そんな雰囲気の教師だった。
ざわ……ざわ……
早乙女先生の言葉が一段落すると、教室内は少しずつ弛緩していった。
最初は誰も動かなかったが、次第に女の子中心に会話が生まれ友達作りが活発になり始めた。
先生もこれを容認しているのか微笑ましい顔で生徒たちを眺めていた。
すると前列の男子が椅子の背にだらしなくもたれかかり、ぽりぽりと首を掻く。
そして、空気を読まない一声が飛んだ。
「てか先生~!生徒会長になったら給料とか出るんすか?」
教室中が一瞬固まった。
後ろから覗くとくしゃくしゃの茶髪にピアス、襟元からチェーンが覗く、完全にこの学校の所謂『バカ枠』ピッタリの見た目だった。
しかし本人は至って真面目に聞いているようで、机に肘をつきながらキラキラとした目で早乙女先生を見つめていた。
早乙女先生は、ほんの一瞬まばたきもせずにその男子を見た。
「……奥村樹くん、今の質問、無断発言でマイナス3点。あと、授業妨害で追加2点引いときますね」
「えっ!?うそ!?え、マジで!?」
教室内に微かな笑いが起こる。
けれどそれは、単なる冗談で終わらなかった。
早乙女先生のタブレットに何かが反映されたのか、前方スクリーンの隅に【奥村樹 現在評価スコア:−5pt】と表示されたのだ。
「う、うわっ、ほんとに減った!?」
「大丈夫、まだマイナスから始まる主人公っていうジャンルもあるわよ?」
にこっと笑う早乙女先生。
笑っていいのかわからない雰囲気だったが、奥村という男子生徒の明るさもあってか、笑いが教室全体を包んだ。
「なんだあいつ。ホントバカだよな」
少し笑みを浮かべながら羽野がこちらを見てくる。
けど、その顔に浮かぶ笑みは完全に素じゃなかった。
不安や緊張の裏返し、多分俺と同じだ。
前列の席では、嘘泣きをする奥村に金髪の短髪男子が肩を組んで慰めていた。
「泣くなよ奥村〜!マイナスから始まるってことは、それだけ伸び代があるってことだろ!?な!?ポジティブに行こうぜポジティブに!」
「お、おぉ……ありがとう天馬……マジでお前だけだよ、味方は……!」
なぜ出会って早々あんな知り合い風に喋っていられるのかが不思議で仕方なかったが、多分ああいうのが自然と友達を作れるタイプなんだろう。声がデカくて、バカで、でも憎めない。
「Eクラス、案外こんなやつらばっかなら、案外生きやすいかもな」
羽野がポツリと呟いた言葉に俺も小さく。
いや、まだ何も始まっていない。始まってすらいない。
だけど、教室にある人間味が、ほんの少しだけ俺の警戒を和らげてくれる。
その時、早乙女先生が再び声を上げた。
「さて、ではふざけてる男子たちはそのままでいいとして、次にスコア管理の説明に入りましょう」
冗談交じりのような口調。でもその目は、さっきとは少し違っていた。
生徒全員が再び椅子に座る。空気が少しだけ張り詰めた。
「スコア管理の実演にに移りますね?」
早乙女先生がそう言って手元のタブレットを軽く操作した瞬間、教室全体のスクリーンが切り替わり、そこにはEクラスの現在評価スコア:0ptが一覧で表示された。
名前、IDコード、顔写真、そしてスコア欄。
ざわめきが起きるかと思ったが誰も声を出さない。
代わりに、全員がそれぞれの名前を探し始めていた。
「……うわ、ホントに全員ゼロなんだな」
「最初くらいは横並びってことか」
後ろの方からぼそぼそと声が漏れる。すると早乙女先生はにっこりと笑った。
「ここから、皆さんの毎日の行動が、このスコアに逐一反映されていきます。例えば……」
そう言って、先生がもう一度操作する。
その瞬間、画面の一部の数値が+10ptと更新された。
「はい、教室に入った際に静かに着席できた生徒たちに自動加点が入りました。おめでとう」
どよめきが走る。
「逆に、今この瞬間私語をしていた生徒は減点されてます。ね?前の男子おふたりさん?」
奥村と天馬が同時にピクッと体を固めた。
たぶん、スコア一覧の中で何かが起きたのを自分たちで確認したんだろう。
スクリーンには、二人の名前の横にこんな表示が出ていた。
【奥村樹 社会性:+10pt(入室後の即時着席)/−5pt(授業中の私語および進行妨害) 合計:+5pt】
【天馬隼人 社会性:+10pt(入室後の即時着席)/−1pt(授業中の私語) 合計:+9pt】
周囲の生徒たちも気づいたのか、微かなどよめきが走る。
その空気に奥村は小さくうめいた。
「マジかよ……俺、褒められてなかった……?主人公は逆境を乗越えて上がるって」
「いや、お前先生の言った意味分かってるのか?逆境って言われてる時点でお前はマイナスにされる運命なんだよ」
天馬が苦笑しながら答えると、奥村は机に突っ伏した。
「この学校、厳しすぎんだろ……!」
先生は続ける。
「このように、評価スコアは日々あらゆる場面で変動します。行動、発言、協調性、提出物の期限、授業中の態度……。人によって何が高く評価されるかは違いますが、どれも記録として残るのは同じです」
スクリーンに今度は『評価内訳』の項目が表示される。
・ 学力:0/200
・ 認知能力:0/250
・ 社会性:10/150
・ 精神安定性:0/100
・ 基礎体力:0/150
・ 自己管理力:0/150
社会性が10ポイント加点されたことで、それが視覚的に分かるようになっていた。
「これが、あなたたちの通貨であり、順位であり、命綱です」
その言葉には、笑顔の奥にある真剣さが混じっていた。
早乙女先生の説明が一通り終えたあと、教室は少しざわめいている。
「はーい、じゃあ……ここまでで質問、ある人ー?」
明るく手を叩いた早乙女先生がクルリと視線を教室内に巡らせる。
誰も手を挙げないまま数秒が流れ、一人の女子生徒が少し躊躇いがちに手を上げた。
「……はい鶴巻さん、何か質問あるかな?」
「はい。えっと、ここに入る時に見たんですけど……日本国憲法が通じませんって看板、あれ本当なんですか?」
一瞬、教室内の空気がピンと張り詰めた。
だが、早乙女先生は微笑みを崩さないままよく気づいたねと言って、手元のタブレットを操作した。
「はい、じゃあ今から皆さんの端末に、この国の法的地位に関する条文データを送りますねー」
ピッ、と音がして各々のタブレットに通知が届く。
俺の画面にも『東都学苑自治区における法的適用範囲(抜粋)』とタイトルの付いたPDFが開かれた。
すかさずタップする。
【東都学苑特異自治体制保持法 制定:第41代生徒会長・神谷天玄】
その下に続くように、無数の細かい条文が並ぶ。
――
第1条(憲法適用除外の原則)
本自治区においては、当該区域に関する主権的規範として、日本国憲法の規定は原則として適用されない。
ただし、教育基本法および国際人権規範に照らし、最小限の人権的保護は尊重されるものとする。
――
第2条(国籍権の放棄および取得)
本学苑に入島し、入学を認められた者は、日本国籍を実質的に放棄し、本自治区の特別住民権を取得するものとする。
これにより、入島時点以降、当該生徒は日本国の一般行政機構および司法機関の直接的統治権の適用を受けない。
――
第3条(生徒会長の統治権限)
本学苑における生徒会長は、本自治区の統治機構の長として位置づけられ、教育運営、生徒統治、法令改正、裁定権限の全てを有するものとする。
生徒会長の命令は、学苑長を含む全職員および全生徒に対して拘束力を持ち、例外的状況下においては、臨時規約の発布や緊急裁定の執行も許可される。
――
第5条(国家権力の不介入原則)
日本国を含むすべての外部国家・政府・司法・行政機関は、本自治区の教育運営・生徒統治・裁定制度に対して、いかなる形でも介入することはできない。
緊急事態・事件・事故の発生に際しても、本自治区の内部統治構造によってのみ対処される。
――
第9条(緊急統治下における憲法除外措置)
本学苑区域内において、以下のいずれかに該当する危機的事態(以下、「特別統治状態」)が発生したと、生徒会長および学苑長の連名によって正式に判断された場合、日本国の憲法・法令・保護規定の全ては一時的に無効化され、本学苑独自の臨時統治規約が適用される。
当該状態においては、学苑内の秩序維持、裁定、処罰等はすべて生徒会および執政機関の判断に基づき遂行される。
――
「……いやいやいや、なにこれ」
ようやく誰かが口を開いた。
中ほどの席、明らかに地頭で押し切ってきたタイプの男子が顔をしかめている。
「五十嵐学苑長?は退学ないって言ってたよな?それって、つまり俺らもう日本人じゃなくて東都学苑の国民になったってこと?」
何人かの生徒がざわつき、横目を交わす。
冗談のような本当の話。だがそれを否定する空気はどこにもなかった。
早乙女先生はにっこりと笑った。
「その通りよ。皆さんはもう日本国民じゃありません。今日から正式に、東都学苑の国民です」
静寂に近い空気の中で、彼女の声だけが軽やかに響く。
「でも安心して。この制度は、41年前から続いてるものなの。みんな最初は驚くけど、慣れたら別に大したことないのよ。もちろん公用語は日本語だし、文化も日本だし?寮も設備も娯楽施設も完璧だから外より快適かもよ?」
言ってることは軽いのに、言葉の奥にあるのは本気だった。
「この島での生活にはルールがあるし、自由には責任がつきもの。でも、ここで何を得るか、どこまで登るかは全部、あなたたち次第です」
ふっと笑って、先生は肩をすくめる。
「まあでも、もしやりたくないならやらなくてもいいのよ。ただし……その場合、最低限の衣食住以上は、何も得られないと思ってね?」
その言葉に、誰かが息を飲む音が聞こえた。
「……っていうかそれって法律違反じゃね? こんなこと国が許すわけ――」
教室の後方、後頭部だけ見える男子がぼそっと呟いた瞬間だった。
「はいストップ!そこ、大事なポイントだからもう一回読んで」
早乙女先生が人差し指をひょいっと上げて、スクリーン上の条文を指差す。口調は明るいままだが、教室の空気は一気にピンと張る。
「第5条、ちゃんと読んだ? 国家権力の不介入原則。つまりね……この島は、日本政府が手出しできない治外法権エリアなの。日本の憲法? 法律? そういうのはね、ここでは意味を持たないのよ」
男子生徒が言葉を失う。
早乙女先生は肩をすくめ、タブレットをひとつトントンと軽く叩いた。
「もし何かあっても弁護士は来ないし、マスコミも報道できない。だって、この国に外部は存在しないんだから」
空気が、また一段と冷えたような気がする。
「でも、だからこそよ」
先生は軽く微笑み直し、今度は教壇の端に腰をかけるような姿勢で言った。
「ここでは本気になった人間だけが世界を変えられるの。チャンスは全員に平等にある。日本じゃ絶対にあり得ないくらいにね」
生徒たちの視線がちらちらと早乙女先生へと集まり始めた。
「東都学苑は、名前だけの学校じゃない。この国で一番強い法を作るのは、政府でも国会でもない。生徒会よ」
「……いい? この学苑では、正しさを定義するのは権威じゃない。結果を出した者が正義になるの。力のない理念なんて机の上で腐っていくだけ。ここでは行動がすべてを決める。法律さえ、変えられるの」
教室の空気が一変する。息すら呑むような静けさの中、彼女の声だけがよく響いた。
俺も何か過去のことが脳裏を掠り、早乙女先生の話を注視した。
「この国では10代の演説一つで未来が変わるのよ。たった一言で、戦争も和平も決まる。たった一枚の法案で常識が書き換わる。そしてその法案を書くのは、あなたたち」
「生徒会長になれば条文の一字一句まで好きに決めていい。この国の法律をね。そう、私が言ってるのは冗談でも比喩でもない、これが現実。ここは学校なんかじゃないし国家ごっこする場でもない。本当に、あなたたち生徒だけでこの東都学苑、この国を動かすのよ。」
その語気には、ただの教師の枠を超えた重みがあった。
そして早乙女先生は、少しだけトーンを落として言った。
「……だって、私もその一人だったから」
一瞬、誰もが耳を疑った。
「私はこの東都学苑の第33期生徒会書記担当。実際に法律を作り、統治の判断を下し、国家を動かしていた人間を一番間近で見ていたの」
静まり返る教室の中、誰かがようやく小さく声を漏らした。
「え、先生……元生徒?」
羽野がぽつりと呟く。俺は思わず横目で羽野を見たが、彼もまた驚いているようだった。
「そう。あの頃は今ほど現代的な整備はされてなかったけどね。だから今よりもっと剥き出しだった。でも理念は何も変わらなかった。本気で東都学苑という名の国を変えようと」
そう言って、早乙女先生は懐かしそうに目を細めた。
生徒たちの誰もが、息を呑んだままその言葉に耳を傾けている。
それは単なる思い出話ではなかった。
『国家を作る』というこの異常なルールが目の前の教師を通して、現実味を帯びて迫ってきたのだ。
早乙女先生はふっと笑って、話を切り替える。
「ま、それはさておき。そろそろオリエンテーションも終わるから最後にもう一つ。皆さん、明日からさっそくポイント演習が始まります」
「演習?」
「さっき言った評価スコアの、実践型授業……みたいなものです。何をすればスコアが増えるか、どれだけで減るか。それを体験してもらいます」
「……つまり、最初のチュートリアルってことっすか?」
「うん、チュートリアルって思っててくれていいわ。でも、ゲームオーバーもあるから気をつけてね?」
静かに誰かの喉が鳴った。
冗談に聞こえた台詞が、冗談では済まされないことを全員が理解していた。
早乙女先生は手元のタブレットを軽く確認してから言った。
「さて、それじゃあ今日のオリエンテーションはこれで終了です。寮ごとの割り振りと施設案内は、各自の端末に送られているはずだから。なので今から自由に動いて大丈夫よ」
彼女は最後ににこやかに微笑むと、じゃあまた明日とだけ言い残して教室を出ていった。
足音が遠ざかっていくにつれて、教室内の緊張もゆっくりとほどけていくように感じる。