エピローグ
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず――。
よく言ったものだ。俺はこの名言が大嫌いだ。
季節は春。暦の上ではそうだが、ここの空気はまだ冬を引きずっている。
潮風が指先を刺すように冷たくて、ポケットに手を入れていてもかじかんだ感覚は消えなかった。この寒さのせいかもしれない。
ふと頭に浮かんだのが、かの有名なフレーズだった。
でも俺が腹を立てているのは、その前半部分じゃない。
聞き馴染みのないその続きの文なのである。
『と言へり。而して、今広くこの人間世界を見渡すに、賢き人あり愚かなる人あり、貧しきもあり富めるもあり、身分の貴きもあり卑しきもありて、その有様雲と泥との相異なるに似たるは何ぞや。』
小学校の社会の授業で初めて知ったとき、俺はそういうことかと妙に納得して高揚した。
福沢諭吉は、生まれながらの平等を説いてなんかいない。ただの世間で流布している俗説を引き合いに出しただけだ。
本人はむしろその真逆だ。
学問を勤めた者が貴人となり、学ばぬ者は貧人となる――それこそが先程の現代翻訳である。
福沢諭吉が本当に言いたかったことは学を極める、すなわち努力すれば報われる。タイトル通りの学問のすゝめだ。
正しい道を歩けば、上に行ける。
……そんな、理屈通りの綺麗な世界があるとでも?
いや、俺は本気で信じてたんだ。
小学校の頃は、ノートの端にその言葉を何度も書いた。寝る前に音読した日もあった。
成績さえ上げれば、遅くまで残って練習すれば、周りと衝突せずに頑張れば、きっと誰かが俺を認めてくれるって。
必ずこの言葉が俺を救ってくれると、本気で信じていた。
なのに現実は違った。
歳をとってその言葉を見るたびに裏切られた気がした。
いや裏切られたんじゃない、俺の努力そのものが誰にも見られてなかったんだ。
評価もされず、意味もなく、ただ虚空に消えていった。
何度も何度も、心の奥で何かが擦り切れていく音がした。
そして高校一年生になった今の俺にとってその言葉はただの虚言にしかならないのだ。
たった一人の男――実の兄のせいで。
小学校も中学校も、すべて俺は『優れた兄の弟』という存在でしかなかった。
何事にも真摯に取り組んで、努力して、一番になろうと必死にもがいた。
けど周囲から発せられるのは、いつだってあの言葉。
『兄より出来の悪い弟だね』
何度聞いたか分からないその言葉は、まるで呪いのように俺の耳に染みついていた。
テストで学年2位を取っても、母は凄いねと無機質な賞賛をした。
そして呟く『お兄ちゃんの時はずっと1位だったけどね』って。
野球部で1年生ながらレギュラーに選ばれたときも、コーチが軽く褒めた後にぽつりとつぶやいた。
『でも君の兄は、都大会で優勝してたんだよな』
決して貶させることはなかった。褒められたは褒められたのだ。
だが俺はそれを褒められた!と素直に受け止めることはできなかった。最後に必ず兄とセットで語られて兄を讃える語尾が付属されるから。
俺は、俺自身として評価されたことがなかった。
兄の写真が飾られているリビング。表彰状で埋め尽くされた壁。
自分の何倍ものサイズで焼かれた卒業アルバムの集合写真に兄の笑顔がある。母や父の笑顔がある。俺の記憶にはない、あの笑顔が。
「……あ、俺ってあの言葉じゃなくて兄貴が嫌いなのか」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
慌てて周りを見渡す。
――誰も、俺を見ていない。
これから俺たちは新たな高校生活を送る場所へ、船で輸送されていくのだ。
船のキャビンでは、今日初めて会ったはずの生徒たちがすでに小さなグループを作っていた。
いかにもの陽キャたちが笑い合い、馴れ馴れしく、もう何年も一緒にいたかのようなノリで。
傍らには気取ったように勉強をしているやつ、キョロキョロしてるやつ、無言でスマホを見てるやつ。
前評判通り。本当に多種多様なやつらがいるようだ。
喧騒と、船舶が波を掻き切っていく音。
そのおかげで、俺の独り言は誰にも聞こえていなかったらしい。
水を一口飲んで、視線を前へ向けた。
誰もいない船尾の柵に顎を置き、その先の東京の街を眺める。
いつまでもみたいくらいに綺麗だった。
*1
世界中のみんなが共感する名言なんてものは、存在しない。
平和を訴える慈愛に満ちた言葉でも、それを聞いた相手が今から人を刺そうとしている凶悪犯なら、その言葉はただのノイズにすぎない。
努力を怠った者が下人になる保証なんてどこにもないし、努力した者が貴人になれるとも限らない。
それが現実で、ずっと目の前に答えはあったはずなのに俺はずっと目を逸らしていた。
『きっと誰かが見てくれている』
『正しいことを続けていれば、必ずいつか報われる』
そんな甘ったるい理屈にすがりついて、自分の中にある劣等感や憎しみに蓋をしてきた。
けど結局この世界は、そういう希望を信じる奴から順に踏み潰されるようにできている。
名言ってやつは、過半数が共感した瞬間に正義に姿を変える。
それがどんなに浅はかで、空っぽで、都合のいいものだったとしても。
声の大きい者にとって都合が良い言葉は、いつだって真理のような顔をして世界を支配する。
少数派の声なんて、誰も拾わない。
むしろお前の努力が足りなかったんじゃない?って鼻で笑われる。
そう言う側の人間は、きっと一度も外れ側に立たされたことがないんだろうな。
俺はその過半数の外にいる。
理屈じゃなく、ずっと前から、空気でわかっていた。
努力しても評価されない人間がいて、何もしなくても持ち上げられる人間がいる。
なのに誰も、それを問題視しない。
きっとみんな、うすうす気づいてるんだ。それでも黙ってる。
正しい言葉の皮を被せて異常を日常に変えていく。
そうやって構築された空気――それがこの世界の本質だ。
だから俺が本当に文句を言うべきは名言の作者なんかじゃない。
努力しても報われない構造を黙認して、支えてきた空気。
そして、努力しても報われない環境を当然のように維持してきた奴らなんだ。
――兄の顔が浮かんだ。
本気で褒められた記憶のない母や、いつも仕事ばかりで無関心だった父の顔よりも先にどうしてか兄の顔だけが脳裏にこびりついている。
……思い返しても、その中に俺に向けられた笑顔は一つもなかった。
いや、違うか。
兄はいつだって笑っていた。優しくて、誠実で、礼儀正しくて、誰にでも親切だった。
ただ、それは俺に向けたものじゃない。ただの外向けの完璧な笑顔だ。
俺は兄が嫌いだ。
容姿端麗で、愛想が良くて、誰にでも優しくて、勉強もスポーツもできて、みんなの中心にいて――
笑って、褒められて、愛されて。
そのくせ驕ることもなく、人の痛みにも敏感で。
……そんな完璧な兄がただただ憎い。
でも、なんでだろうな。
「……俺、なんで兄貴の背中、追ってるんだろ」
東京の高く聳えるビル群とは対照的に、俺の内側はずっと這うように低空を這いずり回っていた。
目を逸らしても、意識のどこかでいつだって兄を見ていた。比較して、落ち込んで、苛立って、でもそれでも……いや、
産まれてからずっと世界は俺にこう言い続けていたんだ。
『お前は劣等種で、兄は神の子だ』と。
たぶんそうやって刷り込まれてきたんだろう。
憎んでいるはずなのに、どこかで尊敬している。
俺の中にはもう、兄という存在を否定する自由も気力も残っていないのだろうか。
心の奥の奥で、俺はきっとこう願ってる。
『いつか兄に追いつきたい』って。
『せめて一度くらい、こっちを見てほしい』って。
……でも、それを口にした瞬間、きっと自分が壊れてしまう気がして。
自分の唯一の反撃の狼煙が雨に打たれて消えてしまうような気がして。
だから俺は今日も、言い訳のように反抗し続ける。
その背中を、憎んでいるふりをして。
5話投稿予定です