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まだ誰も知らない私たちの旅立ち

作者: いかも真生
掲載日:2025/10/03

ご訪問ありがとうございます

※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

朝の冷たい空気が肌を刺す。

まだ夜が明けきらない台所で、祐子は包丁を握っていた。

まな板の上には、昨夜スーパーで買ってきたばかりのキャベツ。

千切りにして、マヨネーズとツナを和えれば、兄の好きなサラダが完成する。


「祐子、早くしてくれないか。もう七時だぞ」


背後から、兄の苛立った声が飛んできた。


「ごめん」


短く返し、包丁を動かすスピードを上げる。

兄は私立の進学校に通い、朝練と予備校で忙しい。

妹もいるのだが、妹は妹で今日は遠足だから可愛いお弁当にしてほしいと、昨晩から何度も繰り返していた。

両親は、そんな兄と妹の世話を長女の祐子に任せきりだ。

祐子は知っていた。

否、正確には祐子の身体の中にいるもう一人の意識──光が知っていた。

これは世間でいうヤングケアラーと呼ばれる状態である、と。

光の前世で、似たような状況を見たことがあるらしい。

両親は無自覚に"しっかり者で頼れる娘"として祐子を扱っているが、実態は違う。

兄は当然のように家事の負担を押しつけ、妹は当然のように祐子の好意に甘えている。

祐子は内向的で、自分の感情を内に閉じ込める。

誰かのために尽くすことに喜びを感じ、周りの期待に応えようと努力する。

幼い頃、両親が仕事で疲れて帰ってきた日、祐子が初めてお皿洗いを手伝ったことがあった。


「祐子は本当にしっかりしてるね」


と両親が祐子の頭を撫でた。

兄や妹が褒められるのは"できたこと"に対してだったが、祐子が褒められるのはいつも"手伝ったこと"や"役に立ったこと"に対してだった。

その経験が、彼女の自己肯定感を"誰かの役に立つこと"と結びつけてしまったのは必然でもあるのかもしれない。

だが、その根底には"わたしが頑張らなきゃ、誰も認めてくれない"という不安が渦巻いている。


「お姉ちゃん、お弁当!」


早く!と妹の声が響く。

彼女が祐子の弁当に文句を言ったことは一度もない。

お弁当はいつも可愛くて、美味しいからだ。

妹の笑顔は、祐子にとって唯一のご褒美だった。

でも、それだけでは足りない。

心は空っぽで何も溜まらない。

学校では、いつものように眠気が襲ってくる。

毎晩、兄の部屋の片付けと妹の持ち物の準備で寝不足になるからだ。

担任の先生が板書する文字が、ぼやけて見え始めた時。

祐子の意識はふっと遠のいた。

次に目が覚めた時、祐子は保健室のベッドに寝かされていた。カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。

頭がズキズキと痛んだ。


「大丈夫?」


隣に座っていた養護教諭が心配そうに尋ねる。

祐子は「はい」と答えた。

自分の声が、どこか遠くに聞こえた。

その時、頭の中で光の声が響く。


「もう、私に任せて」


それは冷静で、感情の揺れを感じさせない光の声。

光は祐子が幼い頃から、内側で静かに存在していた、ひとつの魂。

祐子の苦しみを、感情的にならず、データとして分析し続けてくれたのだ。


「このままでは、あなたの心も身体も、本当に壊れてしまう。もう限界だ。私がこの身体の主導権を握る」


祐子の意識は、光の言葉に抵抗できなかった。

身体が疲労しきっていたからではない。

それ以上に、光の言葉が、自分の心の叫びと重なったからだ。


─わたしが頑張らなきゃ─

「なぜ、あなたが頑張る必要があるの? 誰かがあなたに頼んだ? あなたがやらなければならない、というルールがある?」


光の問いかけは、祐子の心を揺さぶった。

そうだ。

誰も「お前がやれ」とは言わない。

ただ、祐子がやれば、誰もがそれに甘えるだけ。

そして祐子がやらないと、家族は彼女に文句を言う。


「あなたはこの状況を客観視できていなかった。家族という感情的な鎖が、あなたの視野を狭めていた」


光は淡々と続けた。


「家族の世話は、あなたの責任じゃない。兄は兄の、妹は妹の人生を生きている。そして、あなたはあなたの人生を生きるべきなの」


光の言葉は、祐子の心を深くえぐった。

涙が溢れてくる。

自分がどれだけ無理をしていたか。

どれだけ孤独だったか。

初めて客観的に理解できた。


─なるほど……頑張りすぎずに、やめるという選択肢もあったんだね─


祐子の意識は、静かに光に身体を委ねた。

これからは、光が祐子の人生を動かす。

祐子は、ただ傍観者として、その行く末を見守ることにした。

翌日から、"祐子"は変わった。

学校は『体調不良』を理由に休むことが増えた。

両親は最初は心配したが、やがて「しっかりしなさい」と口にするようになった。

光は、その言葉を受け流す。


─ねえ、光。お母さんもお父さんも、疲れてるんじゃないかな…─

「それなら兄か妹に任せればいいでしょ。体調が悪い祐子にさせることじゃない」


光の目的はただ一つ、祐子をこの家から完全に自立させることだった。

"祐子"は、まずインターネットで情報収集を始めた。

図書館やネットカフェを使い、留学制度、奨学金、海外の高校の情報を徹底的に洗い出した。


「家にいると気が滅入るから、図書館で勉強する」


毅然とした態度で親に告げ、自由な時間を作った。

バイトで稼いだお金は、親の知らないネット銀行に振り込んだ。

未成年でも口座は開設できる。

光は、その手続きも手際よくこなした。

兄は祐子が家事をしなくなったことに苛立ちを隠せない。


「お前がだらけているせいで、家の中がぐちゃぐちゃだ」


当然のように非難してくる。

妹は、自分で作った弁当が味気なく、友達から笑われたと泣きついた。

光は、そんな家族の言葉をただ聞くだけだった。

祐子の心なら、傷ついていたはずだ。

でも、光は違う。


─二人とも、可哀想かも…─

「心配しないで。今はあなた自身のことを考える時間よ」


彼女は、この状況こそが『祐子をこの家から解放する正当な理由』だと冷静に分析していた。

春が訪れ、高校の卒業式を迎えた。

卒業証書を受け取る"祐子"の顔には、疲労の色はなかった。

その目に宿るのは、どこか遠い未来を見据えるような、強い光だった。

卒業式の後、"祐子"はまっすぐに空港へ向かった。

リュックサックにはパスポートと最低限の着替え、そして祐子が大切にしていた一冊の詩集が入っている。

置き手紙は書かなかった。

書くべき言葉は、もう何も残っていないから。

スマホも置いてきた。

連絡を取るつもりになるまで、時間を置こう、という意志表示だ。

搭乗口のゲートをくぐり、飛行機に乗り込む。

窓の外には、見慣れた日本の景色が広がっていた。


─さようなら─


祐子は心の中で静かに呟いた。

その言葉は、家族に向けたものではなかった。

過去の自分に向けた、別れの言葉だ。

その瞬間、祐子の意識が表面に出る。

久し振りの実体に少しふわふわとした感覚があった。


「びっくりした」

─始まりは、自分で体感して体験しなくちゃね─


光が悪戯が成功した子供のようにわらった。

祐子は大きく息を吸って、吐く。

今から、新しい一歩を踏み出すのだ。


「さあ、わたし達の旅が始まる」


光は、静かに微笑んだ。

飛行機は、未来へと向かって、高く飛び立っていく。

まだ誰も知らない、彼女たちの物語が、今、始まる。

ご一読いただき、感謝いたします

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