第92話 誰も居ない保健室で
「日向、それ……」
「あー……やっちゃったみたい」
険しい顔の東雲に誤魔化し笑いで答えると、次の瞬間、オレは宙に浮いていた。
「!?」
咄嗟にしがみついたのは、御影さんよりも分厚い胸板で……遅れて、東雲の腕に抱え上げられたのだと悟った。
「し、東雲!?」
「保健室に連れて行く」
端的にそれだけ告げると、東雲は有無を言わさずオレを抱えたまま歩き出した。オロオロと見送る二年四組の先輩方に、とりあえずオレは「心配要らない」と、それから「此度のことは気にしないで欲しい」という旨を取り急ぎ伝えた。
東雲は速かった。駆けてこそはいないが、長い脚で風を切るようにお化け屋敷を抜け、校内を進んでいく。その勢いに押されてか、廊下の人波がモーセの海割りの如く左右に分かれては道を譲った。
「え? 姫!?」
通りすがる人達が、皆驚愕に振り返っていく。それもそうだ。厳めしい表情をした巨躯の男が豪奢なドレスを纏った人物をお姫様抱っこで颯爽と運んでいるのだから。文化祭における何らかの演出だと思われてもおかしくない。
――うぅ、恥ずかしい……!
集まる視線に何とも居た堪れない想いをしつつ、ようやく保健室に辿り着いた。
「失礼します」
片手でノックしてから、東雲が開扉と同時に声を掛ける。しかし、返ってきたのは静寂のみだった。室内はがらんとして、人気が無い。
「あれ? 保健室の先生、居ないのかな?」
「仕方ない。勝手に使わせて貰おう」
宣言するや、東雲は二つある内の片方のベッドにオレを下ろした。
え!? ベッド!?
「靴を脱いで横になっていろ」
「そ、そこまで酷くないよ? 大袈裟だって!」
オレの抗議は、しかし見事にスルーされた。備品の置かれた棚を勝手に漁り始める彼を横目に、仕方なく言われた通りにする。
手早くいくつかの道具を選んで戻ってくると、東雲はオレの足元に重ねたタオルを配置した。そうして、
「……足、触るぞ」
神妙に申し出た。直後、オレが返事をする前に、彼の指先が触れる。思わず、素足の指がぴくりと跳ねた。そっと、壊れ物を扱うような、慎重な手つき。その意外な程の優しさに、急に緊張が高まる。
――熱い。
負傷して熱を持つオレの肌と同じか、それ以上に東雲の指は熱かった。もしかしたら、彼も緊張しているのかもしれない。
「少し、痛くするぞ」
続いての申告に対する理解が追い付かぬ内に、今度は患部をグッと圧迫された。途端、走る疼痛。
「いっ……」
「……骨に異常は無いようだな。軽い捻挫だろう」
息を詰めて耐えるオレとは対照的に、淡々と所見を述べる東雲。優しいかと思ったら急に容赦のない彼に、内心ちょっと恨めしくなったり。
「……どのくらいで治るかな」
文化祭は明日も続くし、休む訳にはいかない。不安でそう訊ねると、東雲は呆れたように嘆息した。
「一週間は安静にしていろ……と言いたいところだが、あんたは聞かないだろう。安心しろ、歩けるようには処置する」
頼もしいお言葉に、身を任せることにした。東雲はオレの足首を氷嚢で冷やすと、テーピングやら包帯やらでガチガチに固めて、最後にまた患部の上に氷嚢を置いた。
「……凄い。何か手慣れてるね」
「怪我は日常茶飯事だったからな」
それは感心出来ないけれど、もう喧嘩はしないと誓ってくれたし、今後は東雲が怪我するようなことも減るだろう。ともかく、東雲の技術に感謝だ。
「とりあえず、このまま暫く休んでろ」
「……休憩、終わっちゃうね」
「気にするな。どうせ今日はもう終業時間だ」
「ん……」と呟いて、天井を見た。
「何か、オレのせいでごめん……折角の文化祭なのに」
何だか情けなくなって零すと、東雲は数瞬の無言の後、オレの額にぴしりとデコピンをかました。
「ったッ!」
「何言ってんだ。あんたがドジなのは今に始まったことじゃないだろ」
「ひどい!」
「それに……謝るのは俺の方だ。あんたを守れなかった」
不意に重くなった声の響きに、ハッとした。
「そんなこと……」
「怪我のことだけじゃない。才賀達のこともそうだ。俺の軽率な行動のせいで、あんたやクラスの奴らにも迷惑を掛けた」
東雲の横顔は沈んでいた。そこに浮かぶのは、自責の念。硬く引き結ばれた口元に、彼の悔恨が滲んでいる。
「東雲……」
――オレは。
「迷惑だなんて、思ってないよ」
力強く断言すると、東雲が息を呑む気配がした。おもむろにこちらを向いた彼と、まっすぐに目を合わせる。
「オレだけじゃない、皆だって。東雲が本当は優しい人だって分かってるから、味方したんだ」
「日向……」
すると、東雲はふっと目を細めて苦笑した。
「それは……日向のおかげだ」
「違うよ。東雲の行動の結果だよ。東雲が時間をかけて、ゆっくり皆との間に信頼関係を築いたんだ。オレは何もしてない」
「……いいや、あんたのおかげだよ」
ぎし、とベッドのスプリングが軋んだ。オレの顔の横に片手を突いて、東雲が上から見下ろしてきた。
突然の至近距離。思考が真っ白になる。
「あんたが……俺を信じてくれたから。あんたが、傍に居てくれたから……」
吐息が、降ってくる。真剣な眼差し。熱に浮かされたように潤むそれに射抜かれて、身動きが取れなくなる。
――あれ? 何だか……。
「……東雲?」
「日向……やっぱり、俺は」
何某かを東雲が言いかけた、その時――保健室の扉が、勢いよく開かれた。




