第68話 潮騒カフェで替え玉バイト!?
潮騒が聞こえる。
照り付ける灼熱の太陽光。眩く反射する白い砂浜。水着ではしゃぐ男女のグループ。海を間近に臨んだカフェテラス。
「日向さん、これお願い」
「はい!」
店長に呼ばれて、出来たての飲食物をトレイに乗せて運ぶ。
屋号の印刷された白いTシャツと、水色のショートパンツ。いつぞやのポニーテール風のロングエクステで、ホールガールとして働くオレ。
――どうして、こんなことになったのか。それは、七月の終わり頃のこと。
◆◇◆
「お兄ぃ、居る? よね」
軽いノック音と共に、妹の陽葵が部屋にやって来た。オレは机の上の教科書から顔を上げて、振り返る。
「どした? 陽葵」
「うわ、また勉強してる。宿題終わったんじゃなかったの?」
「うん、終わったんだけど……今度は予習でもしとこうかなって」
「暗っ。折角の夏休みなのに、一日中部屋に引き篭って勉強とか。どっか遊びに行ったりしないの? ほら、御影さんと会ったりとか」
「いや……別に、御影さんとはそういう関係じゃないし……」
「ふぅん?」
含んだような陽葵の反応。連絡したくても出来ずにいるうじうじした自分を見透かされた気がして、何とも気まずい。
「そんな寂しくて暇なお兄ぃに相談なんだけどさ、八月から海の家でバイトする気ない?」
「海の家?」
「そう、よくあるじゃん。浮き輪とか貸してたり、軽食とか売ってたりする」
「それは知ってるけど、バイトって?」
「あたしがやる予定だったんだけど、ちょっと暫くルミん家の別荘行くことになってさ。断ろうかとも思ったんだけど、悪いし。だったら、代わりにお兄ぃにどうかなって」
「待った、中学生でバイト?」
「高校生ってことにして試しに応募したら受かったんだよね」
……なんてことだ。
「でも、何でオレが?」
「だって、お兄ぃ暇でしょ? どこも遊びに行くあてもないし、このままだと折角の夏休み、家で過ごすだけの暗~い青春になっちゃうじゃん。ちょっとは外に出た方がいいって。それに、海とかロケーション最高でしょ?」
「余計なお世話だって。……まぁ、確かに気分転換にはなりそうだけど」
それに、忙しくしてたら御影さんのことで悩まなくていいかもしれない。何より、応募しといて蹴るとか相手方に失礼だし、迷惑掛けちゃうだろうしな。
――仕方ない。
「分かった。引き受けるよ」
「よっし。じゃあ、早速ブラ買いに行こう」
「待った、何て?」
「ブラジャー。お兄ぃ、持ってないでしょ?」
「持ってる訳ないよね!?」
「でしょ? だから」
「いや、だからじゃなくて! 何で!? 何でブラ!?」
「だって、ユニフォームTシャツ一枚だし。白だから透けるじゃん。さすがにノーブラだと男だってバレるでしょ?」
「バレるって……え、女装でやるの?」
「うん。だって、あたしとして働いてもらうわけだし」
「……それは、別に妹の代わりに雇ってくれって、普通に交渉すればいいんじゃ……」
「ダメだよ。男女比率ピッタリで雇ってて、あたしは女子枠で受かったから。男はもう取らないんだって」
「いや、だからって女の振りするなんて、無茶だろ」
「大丈夫。お兄ぃの女装、あたしに似てるし。バレないバレない」
「いや、バレるって、そんな!」
無理があるだろ!
――というオレの主張は受け流され、結局はなし崩し的に替え玉バイトを引き受ける形になってしまった。
◆◇◆
うぅ、本当に何でこんなことに……。
慣れない胸部の締め付けが息苦しい。そこに着用されたスポーツブラを思うと、恥ずかしさで死にそうだ。
こんなの、もう完全に変態だろ、オレ。バレたら社会的に死ぬ……!
これを入手した経緯を思い出しても同様に恥ずかしい。
陽葵の手によってわざわざ女装させられて、男子禁制のランジェリーショップに連れて行かれ、試着までさせられた。いつ男とバレるか気が気ではなかったし、周囲の女性陣には申し訳なくて目も向けられず、全く生きた心地がしなかった。
死にそうなオレに反して、陽葵は終始愉しげだった。下着に留まらず色々な服屋に連れ回されては、着せ替え人形にされ、挙句、文句を言うと、「お兄ぃの秘密をママに言ってもいいの?」と脅されたものだ。……我が妹ながら、本当に良い性格をしている。
とにかくそんな事情で、オレは現在、日向 陽葵として海の家で働いている。担当はカフェ部門のホール。仕事内容はそう難しいものでもなく、やり甲斐も感じられるが――。
「店員さーん! 注文ー!」
「あ、はい! 少々お待ちくださ……っわ!」
呼ばれて振り向いた拍子に、運んでいたジュースのグラスがバランスを崩し、トレイから落下した。床に盛大に中身をぶちまけて、グラスが割れる。
「あぁあっ! 大変失礼致しました!」
慌てて割れたグラスを拾おうとして、伸ばした手を不意に掴まれた。
ハッとして顔を上げると、橙色の瞳と目が合った。抜き身の刃物のような、鋭い目付き。無造作に跳ねた鮮やかな深紅の短髪。――同僚の、東雲 暁良だ。
「……こっちはいいから。あんたは、これ六番テーブルに運んどいて」
「あっ、え……」
狼狽えるオレから空のトレイを奪い、代わりに別のドリンクの乗ったトレイを押し付ける。
「す、すみません、東雲さん!」
オレが謝ると、東雲さんはチッと舌打ちをして、ギロリとこちらを睨め付けた。
――ひぃっ!
思わず身を竦ませたオレに、今度は低い恫喝が飛んでくる。
「早く行け」
「は、はいぃ!」
オレは脱兎の如くその場から逃げ出した。
男バレの心配以外に問題があるとすれば、これだ。
――同僚が怖い。
初めて顔を合わせた時のことを思い出す。
「日向さん、こいつは今日から日向さんの同僚になる、東雲 暁良。去年もここでバイトしてた先輩だから、分からないことがあったら、何でも聞いて」
まだ若い四十代の店長によって、そうやって引き合わされたのが彼だった。
十代半ばくらいの同年代の少年。目付きが鋭いが整った顔立ちをしており、程よく日に焼けて引き締まった体躯なんかは、女性にモテそうだなと思った。
何より、その燃えるような赤い髪――。
「……何だよ」
「あっ! すみません!」
思わず、ジロジロ見てしまった。慌てて目を伏せ、オレは言い訳を述べた。
「綺麗な赤だなと思って……失礼しました」
一瞬、沈黙が訪れて……次いで、チッと軽い摩擦音が聞こえた。
顔を上げると、東雲さんは不機嫌そうにそっぽを向いていた。
え? ……今、もしかして、舌打ちされた?
「あ、あの……これから、よろしくお願いします」
いや、そんなまさか、と動揺を隠す為、笑顔で挨拶を交わした。しかし、返ってきたのは再びの舌打ちと、
「……ああ」
という、素っ気ない返事だった。
それから、何かと睨まれている。今みたいにオレがミスばかりしているから相手の不況を買うのは当然だろうけど、それにしたって、嫌われてるんじゃないかと思ってしまう。
何だろう……髪色のことは、地雷だったとか?
オレ、触れちゃいけない所に触れた?
こんなんで、この先上手くやっていけるのだろうか……。
陽気な太陽とは裏腹に、不安の曇は濃くなる一方だった。




