第58話 星空の下で
扉を、そっと叩く。
「棗先輩」
呼び掛けて、暫し待つ。返ってきたのは、静寂。
「こんな遅くに、すみません。良ければ少し、歩きませんか? 今日は星が綺麗ですよ」
やはり返事はない。閉ざされた板の向こうに、果たして本当に彼は居るのだろうか。静まり返った夜の廊下はしんと冷え、独りで居ると次第に心細さが募っていく。
――駄目か。
諦めて戻ろうかと思った時、目前の扉が控えめにゆっくりと開かれた。
伏し目がちに視線を外した棗先輩が、そこに居た。
「先輩」
安堵に頬が緩む。棗先輩は気まずげにそっぽを向いて、ぽつりと一言だけ寄越した。
「……行く」
◆◇◆
歩くといっても、こんな深夜に外出するのは憚られた為、あくまで姫寮内だ。外から見たら塔のようになっている階段棟を登り、最上階へ向かう。そこは全面ガラス張りで開けた展望台になっていた。
「……!」
待っていたのは、宵闇のパレットに描かれた幾千、幾万もの輝く光点の群れ。太古の昔から人々の営みを見守り続けてきた、導きの光。
突如目の前に広がった満天の星空に、棗先輩が息を呑んだ気配がした。
「綺麗ですよね。バルコニーから見てて、先輩にも見せたいなって思って」
背後から、声を掛けた。先輩の肩越しに、すっと星座を指差す。
「ほらアレ、夏の大三角形! ベガ、デネブ、アルタイル。あっちの赤いのは、蠍座のアンタレス」
「……ハルくん、詳しいね」
「父さんが星が好きで、小さい頃よく夜の散歩に連れてってくれたんです。うちの方は夏の星座より冬のオリオン座の方が分かりやすかったけど、この学園は敷地が広くて周りに高い建物が少ないから、全体的に星がよく見えますね」
「……ふぅん」
棗先輩の反応は素っ気ない。
あるいは、家族との思い出話は疎遠な彼にはタブーだったかもしれない。でも、伝えたかった。
「父さんは今、海外に単身赴任してるけど、星を見る度に思い出すんだ。向こうでは同じようには見えないだろうけど、空は繋がってるから。この空の下で、父さんも今頃頑張ってるのかな、とか。星を見ると、自分は独りじゃないような気がするんだ。月並みかもしれないけど」
今日も一人で天を見上げていて、星に励まされたような気がした。
だから、棗先輩にも見せたいと思ったんだ。
「来てくれて、ありがとうございます。先輩」
改めて、礼を述べた。先輩は依然として顔を逸らしたまま、ぼそりと返した。
「……別に」
身を固くする彼は、今にオレが決定的な話を切り出すのではないかと、緊張しているようだった。
オレは苦笑した。
「安心してください。オレももう、余計なことは言いませんから。ただ、このまま避けられてるのは寂しいっていうか……折角なら、納涼祭までの間も楽しく過ごしたいじゃないですか。って、オレからテスト勉強に専念するって散々誘いを断ってたくせに、今更何勝手なこと言ってんだって、自分でも思いますけど」
「……」
先輩は俯いて暫し黙り込み……。
「ごめんね、ハルくん」
予想外な謝罪を受けて、オレは目を丸くした。
「ワガママ言って。本末転倒だったよね。避けてたら恋人同士も何もあったもんじゃないよね」
先輩は自嘲気味に笑って、不意に真っ直ぐオレの方を見た。
「もういいよ。好きな人を困らせるのは本望じゃないから。解放してあげる」
「先輩……」
――それって。
「本当は、分かってたんだ。ハルくんがボクを好きにならないってことは。……ハルくん、自分の護衛人のこと、好きでしょ」
「ふぇっ!?」
突然の爆弾発言に、盛大に噎せた。
「え、なん……何で!?」
「分かるよ。ハルくんのこと、ずっと見てたもん。明らかに被服部の新入りに嫉妬してたし。初めは所有欲かなと思ってたけど、アイツとのキス、めちゃくちゃ意識してたし」
「!? ……っ!?」
オレ、そんな分かりやすい!?
自分でも自覚したのは、ごく最近のことなのに!?
愕然として、次いで顔が熱くなってきた。棗先輩がそんなオレをジト目で見てくる。
「それに、昨日二人でデートしてたでしょ、変装までして。皆は相手を見知らぬ誰かだと思ったみたいだけど、あれってアイツでしょ? ボクの目は誤魔化せないから」
「うっ……それはその、散々遊びの誘いを断ってきたのに、御影さんとだけは出掛けるのかって、皆に申し訳なくて……決して、こう、疚しい気持ちがあったとかではなくて……」
ゴニョニョ言い訳するオレ。我ながら見苦しい。先輩は呆れたようにふんっと鼻息を鳴らした。
「で、いつ告白すんの? やっぱ納涼祭?」
「告!? しませんよ、そんなこと!」
「え? 何で? 折角、ボクから解放してあげるって言ってるのに?」
「だって、そんな……あの人二十歳ですよ! 成人です! オレ未成年! 犯罪でしょう!」
「別に、変なことしなきゃいいじゃん。想いを伝えるくらいは自由でしょ。ていうか、ボクが見たところ、アイツもハルくんのこと相当好きだと思うけど」
「え!? いや……それは、種類が違うというか、方向性が違うというか……オレ、あの人の恩人? みたいなものだから、懐かれてるってだけで」
「そうなの? それだけじゃないように思うけどなぁ」
棗先輩は揶揄うでもなく、淡々と事実を述べているように言う。それが余計にオレを動揺させた。
「とにかく! オレは何も言うつもりはありませんから!」
「ふぅん……まぁ、ハルくんがそれでいいならいいけど」
先輩は納得のいかない様子だったが、ふぅと一つ息を吐いて切り替えると、ふと階段の方に足を向けた。
「それじゃあ、そろそろ戻ろっか。あんまり遅くなるといけないし」
「そう……ですね。あの、先輩」
「うん?」と何気ない風に振り返った先輩に、最後にオレは偽らざる本音をぶつけた。
「ありがとうございました。オレ、誰かに好きって言ってもらえたの、初めてで……本当に、本当に嬉しかったです!」
「……うん、そっか」
棗先輩は、一瞬だけ切なげに眉を下げた後、
「こっちこそ、ありがとう。ちゃんと応えてくれて。――大好きだよ、ハルくん」
実に晴れやかな笑顔を見せた。それは、満天の星空も一時霞むくらい眩しくて、思わず見蕩れてしまうほどに――綺麗だった。




