第56話 決意と揺れる心
「おはようございます、陽様。本日も気持ちの良い晴天ですよ」
朝一番に、好きな人の声で目を覚ます。
「おはよう、御影さん」
挨拶を返して、目を擦りながら半身を起こした。ここは姫寮、オレの部屋。寝ている所にいきなり御影さんが姿を現しても、もはや日常茶飯事なので、もう驚かない。過保護を容認してからというもの、御影さんは毎朝アラーム代わりに直接オレを起こしにくるようになっていた。勿論、例の本棚から繋がる秘密の隠し扉を使ってだ。
「陽様、そのイルカのぬいぐるみ……」
オレの横に転がる一メートルのイルカぬいに目敏く気付いて、御影さんが指摘してきた。……そう、昨日の水族館のお土産だ。
「うん、抱き枕にしたんだ。サイズ的に丁度良いから」
「それは、ようございました。イルカのぬいぐるみが少々羨ましいですね」
「えっ」
それはどういう意味だと問う前に、御影さんは話題を変えてしまう。
「陽様、お目覚めのモーニングティーは如何ですか? 頭がスッキリ致しますよ」
全く、のらりくらりと、掴み所が無い。
オレは小さく息を吐くと、御影さんが差し出すティーカップを手に取った。一口含むと、口内に濃厚なミルクの香味が広がる。甘くて、温かくて、ホッとする味。……幸せだ。と、思った。
――どうやら、オレは御影さんのことが好きらしい。
今回のお忍びデートでのハプニングで、しっかり自覚した。……が、特にどうこうするつもりはないし、彼とどうにかなりたい訳でもない。
なんたって彼は成人で、オレは未成年。五つも歳の差があり、おまけに姫と護衛人という、謂わば主従関係。
それに、御影さんのオレに対する盲信的な感情は、おそらく恋愛対象としてのそれではない。苦しい時に彼の心を救った恩人として、オレは彼の中で神格化されているだけに過ぎない。
だから、これ以上は望まない。高校を卒業するまでの間、傍に居てくれればそれでいい。それ以後、どうなるかなんてオレにも分からないし、増してや下手に告白なんてして、今の関係性を壊す気はさらさら無かった。
そのようにオレの気持ちは固まっていたから、今更迷うことはない。――ただ、目下の問題が一つだけ残っていた。
◆◇◆
「おはよ~、ハルくん!」
食堂に向かうと、先に来ていた棗先輩が元気に挨拶を投げてきた。その後ろで、巌隆寺さんが無言で会釈をする。
「おはようございます、棗先輩」
返事をしながら、オレはその屈託のない笑顔に、強い罪悪感を覚えていた。
――ボクは、ハルくんが好きだ。
脳裏を過るのは、先輩がくれた言葉。
――だから、これからもハルくんと一緒に居たい。……出来れば、一番近くで。
オレは、先輩の気持ちに応えることは出来ない。
御影さんのことが好きだと自覚した今、ハッキリとその答えが出てしまった。
告白の返事は納涼祭の夜まで待つという約束だったが、もう覆ることもないのに結論を無為に引き延ばすのは、期待を長引かせるだけでかえって残酷なのではないか。
「あの、棗先輩」
「うん?」
「今日の放課後、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
オレの様子からただならぬ気配を感じたのか、棗先輩は訝し気に表情を硬くした。
「別にいいけど……なぁに、改まって。ていうか、テストまでは試験勉強で遊べないんじゃなかったの?」
「いえ、まぁ……気分転換と言いますか、ちょっとお話したいことがありまして」
「ふぅん……そう」
――言わなくちゃ。
約束は破ることになるけれど、出来るだけ早めに先輩に伝えよう。
そう意気込んで臨んだ、週明けの月曜日。登校後のクラスで、いきなり予想外の出来事がオレを待ち受けていた。
◆◇◆
校内が、何だか騒がしい。廊下を行くオレを、皆チラチラと見ては、ヒソヒソと話している。注目されるのはいつものことだが、その質が違うというか……何だか、嫌な感じだ。
棗先輩と別れて自分の教室に行くと、そこでもまた同じような接遇を受けた。皆一斉にこちらを見ては、ソワソワざわざわ。
一体何なんだ!?
「おはよう。あの……何か」
「ハル姫! 校外にカレシが居るって、本当ですか!?」
――は!?
「え、何その話!?」
「昨日、ハル姫に似た人を街で見かけたって奴が居て……」
ほら、と差し出されたスマホ画面を覗くと、そこには紛うことなき昨日のオレ(女装バージョン)と金髪サングラスの御影さんが肩を並べて歩いている画像が映し出されていた。
……いつの間に。
「ハル姫にはユーリ姫が居るんだ! こんなガラの悪い金髪男がカレシな訳ない!」
「違いますよね!? ハル姫!!」
真剣な表情で詰め寄ってくるクラスメイト達に気圧されつつ、何とか用意しておいた口上を述べる。
「あ、あー、それ、オレの妹だよ!」
「……妹?」
「ハル姫、妹居たんですか?」
「うん。陽葵っていうんだけど……アイツ、彼氏なんか居たんだなー、知らなかった」
ごめん、陽葵! 今度、何かいいものをお土産に持ってくから!
内心、妹に謝っておく。しかし、声わざとらしくなってないか?
突き刺さるクラスメイト達の視線に、冷や汗だらだらだ。
「本当にハル姫じゃないんですね?」
「当たり前だろ! 何で外でまで女装なんてしなきゃならないんだよ!」
その一言で、ようやく皆も納得したらしい。場に安堵の空気が広がった。
「それもそうですね」
「なんだ、ビックリした。妹さんかぁ」
「ハハハ!」
「てか、ハル姫にそっくりな妹さんとかって、最高では?」
「でも、カレシ居るのかぁ、残念」
「……ちなみに、陽葵に手を出したら、お兄ちゃん怒るからな?」
最後に、低い声で釘を刺しておく。
ともかく、これで一応の難は逃れたようで、ホッとした。
でも、これだけ話題になっているってことは、棗先輩もこのことを聞いているかもしれない。皆は金髪男イコール御影さんとは気付いていないみたいだけど、棗先輩は気付くかも……。
休みの日にオレがお忍びで御影さんと出掛けたなんて知ったら、先輩としては面白くないんじゃないか?
放課後、先輩に会った時にこのこともフォローしておかなくては、と考えて、すぐに打ち消した。
いや、むしろ、棗先輩にはちゃんと本当のことを全部話した方がいいかもしれない。
例え怒らせて嫌われたとしても、あの人には嘘を吐いちゃいけない気がする。
改めてそう決意すると、密かな緊張を胸に、放課後を待った。




