人の楽しみ
「……おう」
「よう」
「三十年振りくらいか。まあ、どうでもいいか」
「ああ。それで、入っても良いか?」
「おう」
夜。友人が家に訪ねてきた。彼と会うのは久しぶりなのだが、そっけない挨拶。しかし、今の世の中これが普通だ。抱き合うなんてことはしない。無意味なのだ。
「それで、なんの用だ?」
「ああ、手術がすべて終わってな」
「ふーん、そうか。手術……ああ、そう言えばお前は今どき珍しく結構渋っていたものな。おめでとうと言っておこうか」
「ありがとう」
手術というのは人間を徐々に機械の体にする、つまりサイボーグ化手術のことだ。当初はSF映画だなんだと本当に大丈夫なのかと疑問視されていたそうだが、今では誰もが行っている常識。一応、個人の自由を尊重してはいるが、ほぼ強制と言っていい。尤も、しない奴はいないのだから、わざわざ義務化する必要などないのだろう。拒否する奴は気狂い扱い。まあ、それも当然だ。このお陰でみんな、長生きできるのだから。
手足に臓器はもちろんのこと。脳以外の全てを人工の物と取り替える。手術を開始するタイミングは各々の判断によるが、成人する頃には全て完了しているパターンが最も多い。素晴らしいことに手術費用がかからない。全て無料。国が推奨しているのもあるがサイボーグ化することによりあらゆる業界が業務効率化に成功、経済成長率上昇。そのお陰だ。
抵抗感をなくすために徐々に変えていくのだが、最近の若い連中は一気にやってしまうらしい。思い切りが良いというか風情がないというか。
これにより、伝染病の類は絶滅。みんな長生きできるというのはそういうことだ。先の業務効率化の件も含め、やってもらわなければ困る。やらない奴は頭がおかしい。和を乱す奴。実質、精神病院かそれと同等の施設送りなのだ。
脳は溶液に漬けこんで劣化を抑えられているが最初からイカれている奴はサイボーグ化してもどうにもならない。
こいつも最後に会ったときはサイボーグ化を渋っており、その後も恐らく馬鹿な意地を張り続けていたのだろうが、ついに折れたというわけだ。
仲間入りの乾杯でもしようか。尤も、酒などないがな。振りだけでいい。食物からエネルギーを摂取しないので飲食の必要などないのだ。脳への栄養剤のみ。それも口から摂取せずにこめかみの辺りに差し込み、流し込む。
その時、手首にあるパネルを操作し、アルコール摂取時に起きる陶酔感を呼び起こさせる。別に飲んでなくてもいいのだが、これも風情だ。他にも性的快楽なども好きなだけ味わえる。まったくサイボーグ化万歳だ。
「それじゃ、乾杯でもしようか」
「いや、いいんだ」
「そうか?」
観葉植物を入れていたグラスを洗い、わざわざ持ってきてやったのに、相変わらずノリの悪い奴だ、とおれは思ったが妙なことに気づいた。
「なあ、なぜ表情筋を緩めているんだ?」
奴は顔面を操作し、笑みを作っていた。おれがそれを指摘すると今度は笑い声を流した。おれは脳から信号を送り、訝しがるような表情を選択する。
「実はこれを見せたくて来たんだ」
「これ? え、お前、それは……」
奴が腕まくりし、おれに見せたそれは皮膚であった。前腕部のほんの少しだけしかし、ぐるりと一周丸々残しているようであった。
人工皮だろうか。通常、手入れが面倒なので全身を覆うボディスーツどころか服を着ることもせず、顔にしかつけないものなのだが、しかし、わざわざ見せたということはもしや人工皮ではなく本物の皮膚なのでは。
「残したんだ」
そう言うと奴はまた笑い声を流した。
全てを機械に変えず、一部、生身のままで。なんだってそんな真似をしたのか。銀色の美しい身体とまったく合っていない。見るのも嫌だ。気持ちが悪い。やはりこいつは頭がおかしいらしい。
おれが今度はそういった顔を作ると奴はまあ、聞けよと身をずいと寄せてポケットから何かを取り出した。透明の小箱。中に何か入っているようであった。
「おい、それ中に何か……虫か?」
「これはな、蚊だよ」
「蚊か。久しぶりに見たな」
人間の血を吸えなくなった蚊は自然と生活圏から姿を消し、見ることはなくなった。無論、そう易々と絶滅する連中じゃないから奴が手に入れられたこと自体に驚きはないが……。
「この小箱。蓋がスライド式でな。こうして腕の生身の部分に被せて逃げないようにしながら蓋をゆーっくりと……」
「あっ!」
と、おれは声を上げた。蚊が奴の血を吸い始めたのだ。なんとも気色が悪い。吐き気がするところだ。
「まあ、待ってな。こうしてまた蓋を閉じて逃げないようにしてと……あ、あ、き、きた。ふぅぅぅぅー」
奴は何とも恍惚感のある声を出した。しかし、まったくわけがわからない。腕をぽりぽり掻いて、あ
「……かゆみか」
「そうだ。かゆいところを掻く。これが、最高に気持ちが良いんだぁあうあぁぁはぁぁ」
何を言っているんだ。そんなことない……と否定できない。なぜなら、かゆいという感覚もそれを掻いた時に生じる感覚もおれには備わっていないのだ。それでも性的快感には及ばないだろうと思ったが、味わったことがないくせにそう断言できるのかと返されるだろう。奴は他の快感もおれと同じように味わえるのだ。
と、今思い出した。昔、おれはサイボーグ化しないこいつのことを散々嘲笑ったのだ。この快感を味わえない奴は阿保だの奇人変人だのなんだの他の友人たちと馬鹿にしてやった。奴はそれを根に持っていたのだ。
「はい、こちらにあります綿百パーセントのアームバンド。これにはノミとダニがたぁーっぷりついてましてねぇ。これを装着すると、あ、あ、あいい、いい……」
骨まで残しているのか、それとも皮膚とその下数センチだけなのかは知らないが維持するのはかなり手間と金がかかるだろう。なのにもかかわらず残したのはおれに自慢する以外に理由はない。常に新しい娯楽に飢えている現代人にとって自分がまだ体験していないもの、それができないものとなると羨ましくて仕方がないのだ。
「それと、ここだけではなく後頭部もかゆみ用に少しな」
「なに!? そこも残したのか……」
「ちなみに足裏はくすぐり用」
「あ、おお、くすぐったい、か……」
マッサージや耳掃除をしたときに得られる快感はあってほしいと声が多かったため、おれも脳に信号を流し体験することができるが、かゆみやくすぐりなどはその守備範囲にないのだ。
「それから目。片方は残したんだ。擦ると、あぁははぁ……」
多少オーバーなリアクションな気がするが、ぐぬぬと唸り声を流すしかない。おれはその感覚をとうに忘れてしまっているのだから指摘しても僻みと返されるのがオチだ。
「それから」
「え、ま、まだ他にあるのか?」
「ああ……」
奴はそう言うとおもむろにズボンを脱ぎ始めた。
「まさか、肛門か? ……ははは! なんだ、知らなかったのか? 排泄時における快感はおれも味わうことができるんだ。残念だったな!」
おれはそう言い、高らかに笑う声を流してやったが、どうも変だ。奴は腰を落とし、力んだ表情を作った。
「いいや、違うぞ。ふ! うぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
「あ、おい。おいおいおいおい! まさかお前、胃もまだ取り替えてな、っていや、人の部屋で何してんだ! おい! お、あ」
と、奴はひり出したその糞を掴むと、おれの顔面に投げつけたのだ。
臭みも痛みも感じないが、おれは何とも言えない感覚を味わった。そして奴はというと
「ああ、いい。こうしてやりたかったんだぁ……」
嫌いな相手に糞をぶっかける。それ以上の快感はないのだと、奴は表情を変えるのを忘れているのか力んだ顔のままだが、天井を見上げ呟いたその感嘆の声から、おれは察したのだった。