第五十五話「勇気」
「――――妃奈々様ッ!!」
楓がやっとのことで妃奈々の元へ駆けつけた時には既に遅く、妃奈々の身体は宙に浮いていた。否、霊の見えない楓には浮いているように見えるだけで、実際は悪霊によって持ち上げられているのかも知れない。
「か、楓ぇー!」
こちらに気付いた妃奈々が、空中でジタバタしながら泣きそうな顔で助けを求めている。やはり妃奈々に切り替わっている。元々日奈子の人格が出現すること自体稀である。それなのにここ最近は何度も顔を出しているため、何らかの限界が来たのだろう。
それにしても、よりによって悪霊との戦闘中に妃奈々に切り替わるとは……。
とにかく、今は妃奈々を助けることが先決だ。
楓は稜子から預かった弓を構え、背負っている矢筒から一本、矢を取り出した。
霊が見えないからといって、闇雲に射ても矢が無駄なだけだ。確実に妃奈々を助けるためには、本体を射るよりも妃奈々を捕らえている何かを射た方が確実だ。
妃奈々の目の前、妃奈々の身体に当たるかどうかギリギリの位置を狙う。
「楓ぇ!」
キリキリと。弦が音を立てる。
一応楓には弓道の心得がある。見えないとは言え、狙った位置へ射ることは難しい話ではない。
「…………そこだっ!」
ヒュンッ! と、風を切る音と共に、矢が射られた。
「え……?」
矢が、妃奈々を縛り上げていた数本の手を貫いた。貫かれた部分はボッ! と音を立てて消え、妃奈々を縛っている部分が緩む。緩み、自由になったのは良いが、ここは空中だ。
「お、落ちるっ!」
「妃奈々様っ!」
楓は弓をその場に投げ捨て、両手を伸ばして妃奈々の落下地点へと滑り込む。
無事、妃奈々の小さな身体は間一髪で楓にキャッチされた。どうにか無傷だ。
「か、楓ぇ……」
目頭が熱くなり、今にも涙がこぼれそうになっている妃奈々を、楓は立ち上がり、屈んで視線を合わせると、そっと抱き寄せた。
「もう大丈夫です。妃奈々様……」
楓の胸の中で妃奈々が泣きじゃくり、スーツの胸元を涙で濡らした。
妃奈々が無事なのは良いが、これからどうするか……。霊の見えない楓には、悪霊の現在地を知ることが出来ない。殺気を出しているため、気配程度ならわかるのだが、流石に詳しい現在地まではわからない。
いつ悪霊が襲いかかるかわからない。のんびりと思索している余裕もない。
楓は妃奈々の両肩を両手で持つと、そっと胸元から妃奈々を離した。
「妃奈々様。一つ、お願いがあります。大事なお願いです」
「どんなお願い?」
まだ涙目のまま、妃奈々が問う。
「向こうには、悪霊がいるんですよね?」
楓の問いに、妃奈々はコクリと頷く。
楓は背負っていた矢筒を降ろし、一旦妃奈々から離れると、先程投げ捨てた弓を拾い、妃奈々の元へ戻る。
「これを……」
楓は、弓と矢筒を、そっと妃奈々へ差し出した。
「これを、どうするの?」
不思議そうに問う妃奈々の背に、矢筒を背負わせ、弓を手渡す。妃奈々の小さな身体には少し大き目だが、今はそんなことを気にしている状況ではない。悪霊も長くは待ってくれない。
「妃奈々様、私が悪霊の囮になりますので、その弓と矢で悪霊の頭部を射て下さい」
「え……?」
妃奈々の表情が、驚愕の色を見せた。
「妃奈々が、やるの?」
「ええ。私では的確に射ることは出来ません」
それに、妃奈々は城野家で様々な習い事をしており、弓道もその内の一つだ。妃奈々が城谷家に長居し続けようとするのはその習い事から逃げたいというのも、理由の一つなのだが、それはまた別の話だ。
「無理だよ! 妃奈々には出来ないよ!」
「お願いです! 妃奈々様――――」
楓が言いかけた時だった、
「しまったっ!」
腰の辺りに違和感を感じた時には既に遅く、楓の身体は宙に浮いていた。
「ぐ……っ!」
身体を縛り上げているであろう何かが、楓の身体をきつく締めつけていく。
悪霊から伸びた無数の手が、先程妃奈々を助けた楓の身体を縛り上げている。
「楓ぇ!」
悲痛な声で叫ぶが、楓は答える余裕がないのか、苦しそうな表情を浮かべるだけだった。
「楓ぇ……」
楓に先程渡された弓を見つめる。
「妃奈々……様っ! お願い……ですっ!」
絞り出すような、そんな声で楓が叫んでいる。
「無理……だよぉ……妃奈々には無理だよぉ……」
だが、このままでは確実に楓は殺されてしまう、そればかりか、無数の手の内数本が、いつこちらに来るかもわからない。
背負っている矢筒から、一本だけ矢を取り出して見る。だが、それを射る勇気はなかった。習い事の中でも弓道は得意な方で、大抵の的になら当てることが出来る。が、今から妃奈々が射なければならないのはただの的ではなく、悪霊だ。いくら霊を見慣れているとは言え、怖い。
ブルブルと矢と弓を持つ手が震える。無理だ。自分には出来ない。が、目の前で苦しんでいる楓を放って逃げようとは思えない。
「妃奈々様……逃げて……下さいっ!」
「楓ぇ……!」
自分の命が危険に晒されているというのに、彼女は未だに自分よりも妃奈々を心配してくれている。やはり、そんな彼女を置いて逃げようなどとは……思えない。
矢を射るか否か、決めかねているその時だった。
『まったく、しょうがないわね……』
「……え?」
妃奈々の内側から声が聞こえる。反応を示していない辺り、楓には聞こえないようだ。
『私が、手伝ってあげるから。楓を――――助けるわよ』
「う……うん!」
怖くて、震えて動かせなかった手が、妃奈々の意思とは別に勝手に動き、矢を弦にかける。
『行くわよ……。アイツの頭、ぶち抜いてやるわ……っ!』
キリキリと。弦が音を立てる。妃奈々も力を込めて矢を引っ張り、前方の悪霊を見据えた。
「い、行くよ……!」
『ええっ!』
しっかりと悪霊の頭部に狙いを定め――――
「「そこだっ!!」」
同時に叫び、射る。
風を切る音と共に、矢は真っ直ぐに飛んで行き、悪霊の頭部へ直撃し、貫いた。
「ォォォォオォォォオオォォッ!!!」
唸り声を上げ、頭部を貫かれた悪霊はその場に仰向けに倒れる。
縛り上げていた手から解放され、楓がその場にドサリと落ちる。
「楓っ!」
妃奈々が楓の元へ駆け寄る頃には、悪霊の姿は消えていた。
「妃奈々……様」
「楓……良かったぁ」
妃奈々は顔を綻ばせたが、安心したのかすぐに泣きそうな顔になる。
「か、楓ぇ……」
「もう大丈夫です。妃奈々様。ありがとうござい――――」
楓が言い終わらない内に、泣きながら妃奈々が抱きついて来た。
「怖かったよぉ……!」
そんな妃奈々の頭を撫でながら「もう大丈夫ですよ」と、楓は優しく声をかけた。