第五十二話「幻術」
詩祢の目の前で、鎌が空を切る。反応が少しでも遅ければ詩祢の顔は縦に切られていただろう。
「菊……どうして……っ!?」
詩祢の問いには答えず、菊は悪意に満ちた笑顔でゆっくりと詩祢に歩み寄る。
「菊っ!!」
「ウルさいでスよウた祢サン……。コれで喉ヲ引きサイてダまラセましょウカ?」
違う。菊じゃない。菊はそんなこと言わない。
しかし詩祢の目に映るのは確かに菊であり、悪霊化している両腕以外は詩祢の知る菊そのものであった。
「行キますヨ……!」
菊は両腕の鎌を構え直し、詩祢目掛けて素早く駆け出す。そのまま両腕を振り上げ、菊は詩祢に飛びかかった。
詩祢は慌ててそれを避けると、取り落とした大鎌のある位置まで移動し、大鎌を拾い上げる。
「ワたしと……たたカうんでスか……?」
「ええ……。今の貴女は……悪霊。今の私には、滅することしか出来ないっ!」
目に大粒の涙を溜め、詩祢は大鎌を構えた。
戦うしかない。いくら菊でも、悪霊化すればただの悪霊だ。先日亮太を救えたのはほとんど奇跡のようなものだ。
「うわああああっ!!」
迷いを振り払うかのように叫ぶと、詩祢は駆け出した。
「そウ来なくッチャ!」
菊はニヤリと笑うと、横に振られた詩祢の大鎌を、両腕の鎌で受け止めた。そのまま大鎌を弾き、高く跳び上がると詩祢の背後で菊は着地した。
詩祢は即座に反応し、振り返りながら大鎌を振る。
菊はその大鎌を受けたが、力負けし、その場に尻もちをつく。
「クっ……!」
「さよなら……菊……っ!!」
詩祢は大鎌を振り上げ、菊を滅するため大鎌を振り降ろ――――
「…………っ!」
せなかった。詩祢には大鎌を振り降ろすことが出来なかった。例え悪霊化していても、親友の姿をした霊を切ることは、いくら詩祢でも躊躇してしまう。
いい加減にしなさいっ!! いつまでその子を苦しめる気なのっ!?
過去に、自分が月乃に向けて放った言葉を思い出す。
そうだ。これ以上菊を苦しめる訳にはいかない。今この瞬間でさえも、菊は苦しんでいるハズなのだ。
助けなくてはならない。滅することによって、菊の魂を今度こそ安らかに眠らせなければならない。
「バかがっ!!」
「――――ッ!?」
菊の頭上で大鎌を止めている内に、菊の両腕の鎌が詩祢の大鎌を弾いた。大鎌は宙を舞い、詩祢の背後で音を立てて落ちた。
「終ワりだ間ヌケな巫女メぇッ!!」
体勢を立て直した菊が、詩祢にに切りかかろうとした――――その時だった。
ドッ! と音がして、菊が後ろに吹っ飛ぶ。
「え……?」
呆ける詩祢の前に、菊を吹っ飛ばしたのであろう着物姿の少女が、そこにはいた。
『何やってるんですか詩祢さんっ!』
少女は、怒鳴りながらこちらを振り向いた。
「貴女……」
『何を躊躇してるんです!? さっさと滅しちゃって下さいよ!』
その声、その口調、その姿に、一瞬詩祢は呆然とした。
『それに、私と偽物を間違えるなんて失礼ですよ!』
「ご、ごめんなさい……」
『さ、早く大鎌を拾って下さいな。私がこの場にいられる時間は、後数秒くらいのものですから』
そう言って微笑む少女に、詩祢はコクリと頷くと、急いで大鎌を拾い、構えた。
「ありがとう」
詩祢の言葉に、少女はどこか寂しげな笑顔を見せると、すぐに姿を消した。
「ふザけんジャねぇワよォぉォっ!!!」
怒号を撒き散らしながら、凄まじい形相で菊――――否、その悪霊はこちらへと突っ込んで来る。
「貴女は――――菊じゃない」
キッと睨みつけ、一閃。
上下に綺麗に両断されたその悪霊の上半身は鮮血を撒き散らしながら宙を舞い、地面にベチャリと音を立てて落下する。下半身は上半身が落下した後に大量の鮮血を噴き出し、その場に倒れた。
詩祢は悪霊の上半身の傍まで歩み寄り、見下ろした。
徐々に菊の姿をしていた悪霊の姿が変わっていく。
「やっぱり貴女ね」
チェストであった。上半身だけになったチェストが恨めしそうな顔で下から詩祢を睨んでいた。
恐らく、幻術。
このチェストと言う悪霊、戦闘力自体は大したことがないようだ。相手に幻術をかけ、精神的苦痛を与えることによってジワジワといたぶる。そういう嫌らしい戦いを得意とするタイプなのだろう。幻術をかけられたタイミングは目が合った瞬間。恐らくあの時点で詩祢は既にチェストの幻術の中にいたのだろう。これならば全ての事象に説明がつく。
「ま、待ちなさい……! 今私を滅するのは得策ではないわ!」
チェストの言葉には興味がない、といった様子で詩祢は大鎌を振り上げる。
「く、黒鵜の居場所を教えるわ! これで、滅するのだけは勘弁して!」
「黒鵜の居場所……?」
チェストは詩祢の問いに、必死になってコクコクと頷いた。
「本当に教えてくれるのね?」
「え、ええ、勿論よ!」
その言葉に、詩祢は振り上げていた大鎌を一旦下した。それを見たチェストは、安堵の溜息を吐く。
「で、どこなの?」
「人食い屋敷ってあるでしょ? 今は人食いでも何でもなくなってるみたいだけど。あの屋敷の近くに廃工場があるのよ。そこに黒鵜はいるわ。私や他の奴らはともかく、黒鵜とヘッドは自分の霊力や気配をコントロールして消すことが出来るの。だから協会でも詳しい位置を断定出来なかったのよ」
そう言ってチェストは得意気にフフンと鼻を鳴らす。
「さ、私は約束通り居場所を話したわ! これで私は滅せられなくて済むのね!?」
詩祢が二コリと微笑むのを見て、チェストは再度安堵の溜息を吐いた。
詩祢はそっと目を閉じ、右指をそっと右眉へと置いた。そしてそのまま、右指を右頬まで降ろす。
「――――え?」
チェストが短く声を上げた時には、詩祢の眼はしっかりと見開かれ、チェストを見据えていた。
「菊の姿を、声を、汚した貴女を私が許すとでも思ったのっ!?」
チェストの身体中(とは言っても上半身だけだが)に激痛が走る。
「いやあああああッ!!」
絶叫し、身悶えるさせる。詩祢の右眼はそういう眼であった。
「跡形も残らず消えなさいッ!!」
一瞥するだけで霊魂そのものを苦しめる、呪いの眼。そんな眼で睨みつけられているのだ。チェストが身悶えるのは至極当然である。
「ああッ! あああああああぁぁぁぁぁッッ!!」
断末魔の叫び声を上げ、チェストの身体は上半身、下半身共々薄れていき、やがて姿を消した。
「ハァ……ハァ……っ」
疲労で息を切らせながら、詩祢は右眼をもう一度封印し、再び目を開けた。
「ありがとう……菊」
ボソリと。助けてくれた親友に、詩祢は礼を言った。