第三十六話「苦悩」
体中から疲労感を感じる……。
楓との壮絶な特訓の果て、月乃はへとへとになっていた。何の武術も心得ていない月乃相手に楓は容赦なく攻撃を仕掛けて来た。幾度も殴られ、蹴られ、傷だらけにはなったが……一撃だけ。たった一撃だけだが月乃は楓へ拳をぶち込むことに成功した。
最初、楓は驚愕していたが、すぐに表情を緩めると「その調子です」と微笑んだ。
その後すぐに隣で日奈子の張った結界が解かれ、中から日奈子と、傷を負った亮太が姿を現した。それを区切りに今日の特訓は終了。日奈子のことだから午後もするかと思ったのだが、意外にも日奈子は「今日は半日だけ。明日からはバリバリやるわよ」と悪戯っぽく笑っただけだった。
そして気になることが一つ。
亮太の様子が少しおかしいのだ。
今朝はなんだかボーっとしていたが、特訓の後はずっと何か考え込むような表情だった。
何度問うても答えは得られなかった。代わりに、亮太は一瞬寂しそうな顔をしていた。
「……そう。今日中には……」
大した用事もなく、家の中をうろついていると、日奈子の話している声が聞こえた。
誰と話しているのかと、そっと日奈子の部屋(正確には妃奈々の部屋)を覗き見ると、中で日奈子が携帯電話で誰かと電話をしていた。
喋り方からして妃奈々でないことは確かだ。
「とにかく早い方が良いわ…………が手遅れになる前に……」
所々よく聞き取れない。
「ええ、わかったわ。ありがとう」
日奈子は携帯を閉じると、すぐに月乃の方を見た。どうやら気づいていたらしい。
「月乃」
「え、あ……奇遇だねお母さん」
「何が奇遇よ。さっきからずっと聞いてたんでしょ?」
日奈子は呆れたように溜息を吐いた。
「う、うん……。でもほとんど聞こえてないんだけどね」
「まあ良いわ。聞かれてまずい内容でもなかったし……でも、人の会話を盗み聞きするのはやめなさいね」
傍から見れば小さな女の子に説教される女子高生という妙な状況である。
「は〜い」
説教をされるのは好きじゃなかったが、親に叱られるというシチュエーションが月乃にとって新鮮で、何だか嬉しかった。
母親がいる。見た目はただの女の子だけど、ちゃんと自分のお母さん。
「そういえば、今日は妃奈々ちゃんだったの朝だけだよね?」
月乃が問うと、日奈子はコクリと頷いた。
「ええ、しばらくは私のままでいるわ。気にかかることもあるし……」
「妃奈々ちゃんはそれで良いって?」
日奈子は少し考えるような表情をすると、少し溜息を吐いた。
「いいえ、次に交代したらしばらく私は出られないわ」
妃奈々のことだ。出られなかった時間の倍以上遊んで、出られなかった分の鬱憤を晴らそうとかいうそういう魂胆だろう。
「そうなんだ……。じゃ、私部屋に戻るね」
月乃はそう言って、自室へと戻って行った。
悪霊化する。否、している。
今の自分は悪霊と大差ない。ただ、ギリギリ理性を保てているだけだ。
もう少しすれば自分も身体を変質させて大暴れし、月乃達を傷つけることになるだろう。
「何で……こんな……」
ギリリと。悔しくて歯ぎしりをする。傷つけたくない。今まで一緒にいてくれた大切な人達。霊である自分を受け入れ、対等に接してくれていた月乃を、傷つける訳にはいかない。
だが、今のままの自分では――――――傷つけてしまう。
身体も、心も。自分の悪霊化によって全て傷つけてしまう。
亮太は月乃のことを大事な友達だと思っているし、彼女も自分のことをそう思ってくれていると思う。確認する必要がないから「友達」なのだ。
月乃にはもう二度と友達を失ってほしくない。勿論亮太のこともだ。少し傲慢かも知れないが、月乃は亮太を必要としてくれていると思うし、亮太自身も月乃を必要としている。
既に一度親友を失った月乃に……自らの手で親友を滅した月乃に、これ以上友達を失ってほしくない。
だから、消えたくない。
けれど、消えなければ今の亮太は確実に月乃を傷つける。
どちらが彼女のためになる?
どちらが彼女にとって最善の未来へ繋がる?
今は、自分の記憶のことよりも、月乃のことが心配で仕方がない。
「俺は……どうすればッ……!」
ギュッと。拳を握りしめた。
気がつけば、夜が更けていた。
今日は月乃達とほとんど会話をしていない。何度か月乃が心配して来てくれたが「大丈夫だ」と誤魔化した。
ふと空を見上げる。
妙に月が綺麗に感じられた。
時刻はよくわからないが、もう深夜だろう……。つまり、あの時間帯だ。
自信がない。もし今日の変化で完全に悪霊化し、理性を失ったら……。自我を留めることが出来なかったら……。
やはりあの時、日奈子に大人しく消されるべきだったのだろうか。
自分はやはり、消えるべきなのだろうか?
そんなことを考えている内に、右腕に激痛が走った。
「やっぱ寝る前に水分は取るべきじゃないわね」
深夜、トイレに起きた月乃は一人呟きながら、自室へと戻ろうと階段を上りかけた。が、少し思いとどまった。
何故だろう。妙な胸騒ぎがする。とてつもなく不安感を覚える。
「何なんだろう……?」
大体この感覚を月乃が感じると、傍に霊がいる。が、この家には結界が張ってあり、亮太以外の霊は出入り出来ないハズだ。
亮太には慣れているので、こんな胸騒ぎは一々感じない。それに、この感じは間違いなく「悪霊」だ。
すぐに自室に戻り、動きやすい服に着替えて刀を取り出すと再び下の階へ降りた。
亮太を探したが近くにはいない。どこかに行っているのだろうか?
正直自分だけでどれだけ戦えるかわからないが、とりあえずは一人ででも行ってみよう。少しは一人でも戦えるようにならなければ……。
恐る恐る、庭へ出る。
「……いた!」
人影だ。誰もいないハズの庭に人影……。それも霊のものだ。間違いない。先程感じた胸騒ぎの正体だ。
月乃はそっと刀を抜いた。
「アンタ……どうやって中に入ったの?」
後ろから斬る……というのは月乃的には嫌なので、こちらを向かせるために話しかける。
「――――ッ!?」
向こうはやっとこちらに気付いたらしく、肩をびくつかせた。
「何が目的……なの?」
怯えているのが自分でもわかる。が、今は一人ででも戦わなければならない。
「来ル……な……!」
「え、何て……?」
聞き覚えのある声だった。
今出会ったばかりの悪霊のハズが、何故か毎日聞いているあの声と聞き間違えたらしい。月乃はブンブンと首を振った。
「クるナ……!!」
そいつは左手で顔を押さえ、ボゴボゴと膨脹と縮小を繰り返しながら変化する長い右腕を地面に垂らしていた。
「アンタ……一体……?」
月乃が問うと、そいつはこちらを向いた。
「――――――嘘」
月乃は言葉を失い、自分の目を疑った。
「つキ……乃」
声を聞いて、状況を再認識し、そして……
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
叫んだ。