第三十三話「和解」
夜もかなり更けてきた。時計を見た訳ではないが時刻は大体午前二時前後だろう。
雲一つない夜空と、やけに明るい月のおかげであまり暗さを感じない。それに小一時間程暗闇の中にいるため、目もかなり慣れてきた。
眠くはない。寝ることは出来るが寝る必要がないのだ。
時折こうして寝る気になれない日は庭をうろつくのが癖になっていた。近頃はほぼ毎晩こうしている。
妙に広い庭をうろうろしていると、ふと何げなく池を眺めてみた。数匹の鯉が泳いでいる……いや、これは寝ているのだろうか。魚は普通に泳いでいるような格好で寝ると昔聞いたことがあるが……。
「…………」
池や鏡、そういった姿が映る物を見ると毎度毎度感傷的な気分になる。
ついこの間までは映っていた自分の姿が、今はそこに映らないのだ。まるで存在しないかのように。
不安になって自分の手や、身体を見る。手も、足もある。自分は確かにココに存在している。
もう長いこと自分自身の姿を見ていない。当然だ。鏡にも水面にも自分の姿は映らないのだから。
自分は幽霊なのだと。再確認させられてしまう。
既に命はなく、未練によって残った魂。実体のない存在。常人には知覚出来ない存在。
「……ぐ……ッ!!」
不意に、右腕に激痛が走る。どうやらまた始まったらしい。
自分の右腕が変化しようとしている。必死に左手で右腕を押さえ、変化を抑えようとするが今まで時間が過ぎるまで変化が治まったことはない。
「あァ…………ァッ!!」
必死に右腕を見ないように目を背ける。人外の姿に変化しているであろう自分の右腕など見たくはない。
ただでさえ霊という存在になり果てている自分が、更に人外の存在に変化する様など見るに堪えない。
この姿を見られたくない。それが近頃の夜、屋敷の中にいようとしない理由だ。
右腕を押さえたまま、数分程呻き声を上げながらひたすら耐える。
「……ハァ…………ハァ……」
痛みが徐々に治まっていく頃には、息が荒くなっていた。
恐る恐る右腕を見ると、いつもの右腕であった。いつも変化するのは数分だけで、痛みが治まると元に戻るのだ。
が、日に日に変化したままの時間が延びている気がする。
正確に測った訳ではないが延びているのは確かなハズだ。
変化の原因は不明。否、原因はわかっている。ただ認めたくなくて、頭の中で全否定を続けている。
「いい加減……ヤバいな……」
ポツリと。黒沢亮太は呟いた。
「……」
絶句した。
いや、わかっていたことなのだが絶句してしまった。
昨日母として振舞っていた彼女が、今は馬鹿みたいにはしゃぎながら子供向け番組を観賞していた。
わかっている。今彼女の中身は日奈子ではなく妃奈々なのだ。
「あ、月乃だー」
妃奈々はこちらに気づいたらしくテレビから目を離し、こちらに顔を向ける。
「おっはよー」
「あ、うん……おはよう」
違和感がある。
いつもの妃奈々ならこちらから挨拶をしても不機嫌そうな表情でボソリと応えてくれる程度なのだが、今朝は妃奈々から挨拶をしてきたのだ。
「あのね、月乃」
「何?」
まるでいつもと様子の違う妃奈々に戸惑いながらも、返事をする。
「その、昨日の夜は……」
恥ずかしいのだろうか、妃奈々はモジモジしながらうつむく。
が、すぐに意を決したように顔を上げた。
「助けてくれてありがとう!」
「……え?」
思いもよらない妃奈々の言葉に、月乃は間抜けな声を上げてしまった。
「それとね。今まで酷いこと言って、ごめんなさい」
そう言ってペコリと頭を下げる妃奈々は、反省した子供そのものだった。何故か妙に愛おしくも感じる。
月乃は頭を下げたままの妃奈々に歩み寄ると、その頭に優しく手を置いた。
「気にしないで。わかってくれたなら良いのよ。私も、ぶったりしてごめんね」
笑顔でそう答えると、妃奈々は顔を上げると満開の笑顔を見せてくれた。
「月乃ー!」
妃奈々はそのまま月乃に抱き付いた。
今まで嫌っていた相手に抱きつかれるというのも妙な感じだが、和解した今となっては悪い気はしない。
「あ、りょーた君だ」
妃奈々を降ろし、彼女の指差した方向を見ると、妙に疲れた顔をした亮太がボーっと突っ立っていた。
「おはよう亮太」
月乃が挨拶するが、聞こえていないのだろうか。何の反応も示さないまま突っ立っている。
「……亮太?」
「りょーた君!」
妃奈々は亮太に駆け寄ると、ガバッと飛び付いた。
そこでやっと亮太は反応を示し、慌てて妃奈々を抱き止めた。
「ひ、妃奈々か……」
「りょーた君、妃奈々は月乃と友達になったんだよー!」
ついさっき打ち解けたばかりなのにもう「友達」扱いかと思うと、少しおかしくて月乃はクスリと笑った。
「へえ。月乃、打ち解けたのか?」
「うん。まあ、さっきね」
さっきは気づきもしなかったのに……。
「亮太、何かあったの?」
月乃が問うと、亮太は「いや」と答えた。
「何でそんなこと聞くんだよ?」
「いや、別に……」
今の亮太は日頃と何ら変わりない。単に先程のは寝起きでボーっとしていたのだろうか。
「そんなことより『亮太君』」
一陣の風が吹いた。室内だと言うのにだ。
妃奈々の雰囲気と目つきが変わっているのがわかる。日奈子に切り替わったのだろう。
「特訓の時間よ」
妃奈々……否、日奈子は二コリと笑った。