第三十一話「豹変」
しまった……!
そう思った時には既に遅く、全身が痺れて動けなくなっていた。
少しでも動かそうとすれば強烈な痺れが全身を襲い、月乃が動くことを許さなかった。
「月乃ッ!」
「亮……太……!」
声を出すことすらままならない程に痺れている。
「月乃……?」
月乃の身体の下では妃奈々が不思議そうな顔でこちらをジッと見ていた。
「何で……? 妃奈々のこと嫌いなんじゃ……」
その目は徐々に潤んでいき、次第に泣きそうな顔になる。
「馬鹿……ね。嫌い……でも、目の……前……で危険に……さら……されてる……子を……助け……ない訳……ないじゃない」
途切れ途切れにも必死に妃奈々に言葉を伝えた。好きだとか嫌いだとか、そういうものじゃない。今の月乃の行動は、そんな安いものではない。
「月……乃ぉ……」
目からボロボロと涙をこぼしながら妃奈々が呟く。これまでの自分の態度への罪悪感からか、月乃に対する感謝の表れか、はたまた両方か……。
「コソコソと付け狙ってないで出て来いよ……!!」
亮太の怒気の込められた声が夜の公園に響く。月乃と楓をあんな目に合わせたことへの怒りでもあり、相手が姑息な手段を使っていることへの怒りでもある。
ギュッと拳を握りしめ、ギリリと歯ぎしりをした。
「クソ……! とにかく月乃達を家まで運ばないと……!」
相手と戦うよりも月乃達を救出する方が先決だと感じた亮太が月乃達の方を向いた時だった。
「りょー君! 後ろっ!!」
妃奈々の声にハッと後ろを振り返ると、そこには見知らぬ男が立っており、自分に向けてナイフを振り上げていた。
「な――――ッ」
咄嗟に亮太は避けると、男の方を睨みつけた。
「避けたか……」
男は呟くと、ナイフを構え直した。
「単刀直入に聞く、妃奈々達を狙っていたのはお前か?」
亮太の問いに、男はニヤリと笑った。
「だったらどうなんだ?」
その言葉に、亮太は再度拳を握りしめ男を更に強く睨みつけた。
「―――――ぶっ飛ばす」
静かだが、激しい怒気の込められた言葉を発すると同時に、亮太は男に向かって駆け出した。
「猪突猛進馬鹿は嫌いじゃない……が」
ゴッ! という鈍い音と共に、亮太の腹部に激痛が走る。腹部に膝蹴りを喰らわされたらしい。
「うっ……!」
「やっぱ霊でも痛ぇんだな……。霊能者にやられるとよォ」
男はニヤリと笑うと、亮太の頬を右拳で殴った。
亮太はそのまま軽く吹っ飛び、その場に倒れた。
「弱ぇな……。霊滅師の嬢ちゃんの連れだからどんなもんかと思ったがよォ……」
男は倒れた亮太の元へ近づくと、亮太の頭を踏みつけた。
「ぐ…………ッ!」
頭を踏みつけられるという屈辱。しかし、霊体に対する直接的なダメージに慣れていないせいか、先程のダメージのせいで反撃することもままならなかった。
「亮……太!」
必死に声を出しながら、痺れた身体を動かそうと力を入れるが一向に動けない。まるで一生このまま動けないのではないかというくらいだ。
この男は、これ程の威力の麻酔を年端もいかない妃奈々に撃ち込もうとしていたのか……。
そう考えると男の非道さに虫唾が走り、怒りが沸々と湧き上がるのだが、動けないのではどうしようもない。
せめてこの身体が動けば……。亮太に身体の主導権を渡し、男と戦うことが出来るのだが……。
現在の状況は非常にまずい。戦闘が可能な楓と月乃は麻痺で痺れ、亮太は不意打ちを食らって倒れている。この状況を打開することは不可能と言っても過言ではない。
唯一まともに動けるのが妃奈々ではどうにもならない。
相手が霊ならば妃奈々の霊力に期待が出来るが、相手は人間だ。妃奈々が戦える訳がない。
「妃奈々……ちゃん」
「え……?」
「早く……逃げて……!」
妃奈々を逃がす。これが今出来る最善の策だ。妃奈々を逃がした後、自分達がどうなるかはわからないが、妃奈々を逃がすことが先決だ。
「でも……」
自分だけ逃げることに後ろめたさがあるのか、妃奈々は戸惑っていた。
「早く…………っ!!」
つい語気を荒げた。その瞬間だった。
ビュゥッと。一陣の風が吹く。先程まで風など吹いていなかったにも関わらずだ。
気が付けば、妃奈々の表情が一変していた。
戸惑う少女の顔から、余裕の表情を浮かべる女性の顔に。
「ありがとう。月乃、どいてなさい」
突然の妃奈々の変化に戸惑う月乃など気にもせず、妃奈々は月乃の身体の下から這い出た。
妃奈々は月乃の身体の下から這い出ると、手で服に付着した砂を払い落とした。
「逃げる気か……?」
男は亮太を踏みつけたまま妃奈々の方を見た。
「いいえ、逃げる気なんてないわ。だって逃げる必要がないもの」
妃奈々は男を嘲るように不敵に笑って見せた。
「……どういう意味だ?」
男がギロリと妃奈々を睨みつける。
「そのままの意味よ。貴方程度の相手から逃げる必要はないってこと。今までは姿を現さないから下手な行動は避けて来たけど……。貴方が姿を現した今、私に戦わない理由はないわ」
そう言った後、妃奈々はボソリと「絶対に負けないしね」と付け足し、クスリと笑った。
「生意気な小娘だな……。このコステロをなめてんのか?」
コステロ……というのは男の名前だろうか。コステロは眉間にしわを寄せると亮太を踏みつける足に一層力を込めた。
「いいからその汚い足を亮太君から離しなさい。うちの娘の恩人にこれ以上酷いことすると……」
「――――ただじゃおかないわよ」
一瞬にして場の空気が変わった。
その場にいる全員が今の妃奈々から発せられている巨大な力に気がついた。
「こ、小娘が……。調子に乗ってんじゃねえッ!」
苦し紛れにコステロは叫ぶとナイフを再び構えて妃奈々に向かって駆け出した。
「……しょうがないわね」
トン! と大地を蹴る音がして、妃奈々が高く跳ねる。妃奈々の年齢では有り得ない跳躍だ。
そして、突っ込んで来るコステロの顔面に、強烈な飛び蹴りを喰らわせた。
「ぶッ…………!」
情けない声と共に、コステロはドサリとその場に倒れた。
妃奈々はその場に着地すると、軽く溜息を吐いた。
「戦闘においては相手の力量を計ることも大切よ。わかってたんでしょ? 貴方じゃ私に勝てないことくらい」
そういって妃奈々はクスリと笑った。