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狂言

プールの監視員の仕事は、想像以上に大変なものでした。

アルバイト先の人達は体育会系のタイプが多く、職場の雰囲気も体育会系のノリでした。

私は非体育会系だったので、ついてゆくのに精一杯だったのです。


一番大変だったのは、プールの営業時間が終わった後に、強制的にトレーニングをさせられる事でした。

(ちなみに、面接の時点ではそんな説明はされていなかった)

そのトレーニングの時間は時給も付かないのに、一時間ぐらい泳がされたり(泳いではプールサイドで腕立て、泳いではプールサイドで腕立ての繰り返し、というハードなものでした)救護の練習をさせられたりしました。


“人命がかかっているから”


それは解かるのです。

しかし、時給がつかない事だけがどうしても腑に落ちず、不満はずっと抱えていました。


アルバイト先には、色んなタイプの人がいました。

二十代後半で役者や声優を目指している人なんてザラで、みんな夢を抱いて上京してきた人達ばかりでした。

その中で、私の面倒をよくみてくれた人がいました。


その人は、一つ年上のシゲキさん(仮名)という男の人でした。


シゲキさんは群馬県出身で、大学で学ぶために上京していたのですが……

なんと、彼の通っていた大学は、早稲田大学だったのです。

頭も良く、サーフィンが大好きで、陽に焼けた浅黒い肌をしていて、笑うと真っ白な歯がキラリと光る好青年風の男の人でした。


シゲキさんは私と住んでいる場所が近くて、最寄り駅も同じでした。

だからアルバイトが終わって帰る際は、いつも一緒に電車に揺られていました。


そしてシゲキさんは、部屋に風呂が付いていない私を自分の部屋に招き、風呂に入らせてくれたり、実家から送られてきた米やインスタント食品を私にくれたり、着なくなった洋服を私にくれたり(ブランドものもありました)、ご飯を奢ってくれたり、凄くよく面倒をみてくれたのです。


当初私は、シゲキさんは私に気があるんじゃないかと思ってました。

よく「南、一緒に銭湯行こうぜ」などと誘ってきたので……。


──ちなみに私がアルバイトをしていたプールは、ゲイの客達がわりと多く利用していました。


そして、監視員の中にもカミングアウトをしているゲイの人や、ゲイらしき人が何人かいました。


しかし、後になって知ったのですが、シゲキさんには同じアルバイト先で働く監視員の彼女がいたそうです。

だからたぶん、ゲイではないと思います。

バイセクシャルかもしれませんが、そこのところは直接本人に聞いてみないと分かりません。


東京には冷たい人しかいないと思っていた私。

しかしシゲキさんの優しさに触れて、


『東京にも人情があるんだ』


と、少し感動していました。


……しかし、徐々にシゲキさんは、牙を剥き出していったのです。


※※※※※※※※※※※※


私はどちらかというと一人の時間を大切にするほうで、誰かと常に一緒に居る事が苦手なのです。

どんなに仲の良い友達でも、常に一緒に居ると息がつまってしまう。

べつにその人の事を嫌いとか、そういう事ではないのです。

ただ一人の時間が好きで、一人になる時間がないとダメなタイプなのです。


しかしシゲキさんは、いつも私を何処かしらに誘いました。


今日は風呂に入れなくてもいいから一人になりたい、と思っている時でも、


「風呂入りに来いよ」


私がやんわりと断ると、シゲキさんは強い口調で


「はぁ? いいから来いよ!」


恩はあれども、少し窮屈に感じ始めていました。


私はなるべくシゲキさんと一緒のシフトに入らないように、スケジュール調整をするようになりました。

少し距離を置こう、と……。


するとそれにシゲキさんが気付いたのか、私に頻繁にダメ出しをするようになっていったのです。

髪型を変えろとか、肺活量が低くなるからタバコはやめろとか、靴の履きかたなど、細かい事まで。


来月分の仕事に出られる日程を書いた紙をアルバイト先に提出する前に、シゲキさんがチェックを入れます。

彼がそうするように命令したのです。

シゲキさんはその紙に目を通し、


「お前さ、こんなんじゃダメだぞ」


そう言い、何を思ったのか、私の予定を無視し、勝手に出勤できる日程を書き換えたのです。


「よし、これで提出しろ」


最初は言われる通りにしていたのですが、だんだん嫌な気持ちが鬱積してゆきました。


他にも嫌な事はありました。


アルバイト先の社員の一人が底抜けに意地悪で陰湿な性格で、よくアルバイト達と揉め事を起こしていたのです。

それが原因でバタバタと人が辞めていったりして、人の出入りが激しい職場でした。

人の出入りが激しい職場には、何かしら“理由”がありますからね……。

私もその社員に、よく罵られました。


あと、凄いスパルタで怖いアルバイトの先輩がいて、私はその先輩が生理的に受け付けなかったのです。


やがて、前々から腑に落ちなかった営業時間後のトレーニングの事だったり、シゲキさんの事だったり、色々と積み重なったものが、私の中で爆発しそうになってしまったのです。


私はアルバイト先に行くのが怖くなり、精神的に追い詰められ、部屋で一人、鬱々としていました。

東京では感情の起伏が激しくなり、それを制御できない事が多々ありました。

そしてついに、アルバイトをバックレてやろうと考えたのです。


『どうせアルバイトだし……』

『私と同期で働き始めた人達も、みんな辞めちゃったし……』


そんな甘えた感情がありました。


無断欠勤したその日。


一日中、鳴り止まない電話の嵐、嵐、嵐!

ずっと無視しても、アルバイト先からのコールが延々止まらなかったのです。

ヒステリックなコールの嵐に私は恐怖し、布団の中で震えていました。


すると、一通のメールが届きました。

それはシゲキさんからのメールでした。

彼からのメールには、


『このまま逃げ切れると思うなよ』


という一文だけが書かれていました。


実はシゲキさんは元々、あの問題の多かった早稲田大学のサークル、スー◯ーフリーのメンバーだったらしく、過去に数々のヤンチャをしてきたらしいのです。

だから私は、そのメールを読んで言い知れぬ恐怖を感じました。


『シゲキさんは、私の住んでいるアパートの場所を知っている』

『シゲキさんの住むアパートは、私の住んでいるアパートから近い』

『ここに居ては危ない!』


そう感じ、私は一目散に部屋を飛び出しました。


そして私は、高校時代のクラスメイトで、今は東京に住んでいる女友達のヤスコ(仮名)のアパートに避難したのでした。


それから私は携帯電話の電源をオフにし、避難させてくれたヤスコの部屋で一日を過ごしました。

そしてヤスコと話し合った結果、やっぱりきちんと話し合って辞めたほうが良い、という結論になりました。


私は自分のアパートに戻り、携帯電話の電源をオンにしました。

すると、すぐにアルバイト先から電話がかかってきました。

私が電源をオフにしている間も、コールし続けていたのでしょう。


恐る恐る電話に出て社員と話し合った結果、とりあえず辞めるにしても、一度アルバイト先に足を運んで欲しいと言われ、後日、アルバイト先に行く事になりました。


アルバイト先に行く約束をした、その夜。


私に連絡がついたとアルバイト先の社員から聞いたらしいシゲキさんから、一通のメールが届きました。


『夜、お前ん家行くから』


シゲキさんが恐くて、私は返信できませんでした。

しかし、彼は必ずやって来る……。

どうしようか悩みに悩み、そこで私は“ある方法”を思いついたのです。


追い詰められた私が咄嗟に思いついたのは、狂言でした。

狂ってしまおう、と……。

もちろんその当時、私は精神的に不安定な状態にはありましたが、鬱病ではなかったし、ちゃんと腹も空くし、普通に喋る事も出来ました。


私はただ、シゲキさんが怖かったのです。


彼は何を仕出かすか分からない。

だから、弱者を演じようと思ったのです。

そうすれば、シゲキさんも同情してくれるだろう……


そういう魂胆でした。


私はさっそく近所のコンビニに走り、1リットル入りの日本酒を一本買いました。

そしてゴミ収集所へと足を運び、酒の空きカン、空きビンを大量に集めました。

ビールの空きカン。

焼酎の空きビン。

ワインの空ボトル。

酒の種類は問わず、それらを大量に集めたのです。


ゴミ収集所とアパートの部屋とを何往復かし、部屋中を酒の空きカン、空きビンだらけにしました。

そして、綺麗に畳んでおいた布団を部屋に敷き、わざとゴミを散らかして汚しました。

部屋の照明は豆電球だけを点けて、薄暗くする。

CDプレイヤーで物悲しい音楽を流して雰囲気を出す。


私は、コンビニで買って来た日本酒をコップ一杯分くらい一気に飲み干しました。

そして、布団に横たわり、薄暗い部屋の中でシゲキさんを待ったのです……。


“東京に荒波に揉まれ、うらぶれ、アルコール中毒に陥った哀れな青年”


その役を、私は演じようと思ったのです。

気分は『ガラスの仮面』の主人公、北島 マヤです。


仮面を被るのよ……

仮面を被るのよ……


そう何度も念じながら精神集中をし、役に入りきりました。


今になって思えば、馬鹿げた狂言だと思います。

人間というものは、追い詰められると思いもしないような事をするから滑稽ですね。

しかしその時の私は、他に良い術が思いつかなかったのです。


しばらくして、シゲキさんが部屋にやって来ました。

彼は私の部屋の中に入るやいなや、


「何やってんだお前! こんなに暗くしやがって!」


と、私を叱りつけました。

シゲキさんは乱暴に部屋の照明を点けて、部屋中に散らばった酒の空きカンや空きビンを見て、


「お前、どうしようもねぇな……」


と言い、私を哀れんでいる様子でした。


しかし、私の過剰演出が悪かったのか、彼は一方的に私を叱りつけました。

その時シゲキさんが話していた内容は、酒に酔っていたせいで記憶が曖昧です。

私はずっと俯いたまま聞いていたような気がします。


そして何十分か経った時、何か私の全存在を否定するような事を言われたのです。

その内容はあまり覚えていないのですが、私はそれに腹を立てた事だけは覚えています。

だから私は、思わずシゲキさんに反論してしまったのです。

すると彼は怒り狂い、私の頭をこつぎました。



ゴツン!!



痛かったです。

しかし、グーともパーともつかない拳で殴ったのは、シゲキさんの最後の思いやりだったのでしょう……。


私は殴られて腹が立ったのと同時に、もう早くシゲキさんに部屋から出て行ってもらいたくなりました。

だからここぞとばかりに、スイッチを入れました。

私は床に土下座するような体勢をして顔を覆い、泣きわめく演技をしたのです。

シゲキさんから顔を見られないような体勢にしたのは、きっと涙が出ないだろうと思っていたからでした。


しかしその時、役が完全に私に降りて来たのか、本当に目から涙が出たのです。

さすが小学生の頃、学芸会で主役を張っただけの事はありました。


シゲキさんは泣きわめく私に呆れ果てて、部屋から出て行きました。

私はシメシメと思い、嘘泣きをやめて部屋を綺麗に片付けました。


結局それが、私とシゲキさんとの最後の対面でした。


その翌日、私はアルバイト先に向かいました。

話し合いをするためです。

しかし話し合いといっても、私はもう辞めるつもりでいました。


アルバイト先に到着して、底抜けに意地悪な社員と一対一で話し合う。

私がアルバイトを辞めたいと話すと、彼は思いもよらぬ事を口にしました。


「辞めるなら、給料払わないから」


その社員のせいでアルバイト達がバタバタと辞めていって、人手不足だったのは知っています。

しかし、私はどうしてもその職場にいたくなかった。

毎日罵られて、シゲキさんに殴られてまで、どうしてここで働かなければならないのか?

しかも、最後にこんな酷い仕打ちを受けるなんて……。


しかし、私も負けませんでした。


給料が支払って貰えない事態だけは、どうしても避けたかった。

こちらも生活がかかっていますからね。


そこで私は、ある男の人の言葉を思い出したのです。


実は私には、上京する以前からメールを交換し続けている男の人がいました。

その人の名前は、レオさん(仮名)といいます。


私は同性愛者なのですが、レオさんとは、同性愛者達が友達や恋人を見つけるために利用する出会い系サイト(出会い系サイトといっても、怪しい出会い系サイトではありません)で知り合いました。

レオさんは確か、その当時20代後半くらいの男の人で、私の地元の隣の県に住んでいました。

私は就職が決まる前まではかなり深刻に悩んでいたんですが、彼は就職活動のアドバイスを親身にしてくれました。


私の就職先が決まった時も、家族よりも喜んでくれました。


一度も会った事はないし、お互いの顔も知らないし、いつもメールか電話だけの関係でしたが、レオさんはいつも私の味方をしてくれて、上京中も色々とアドバイスをくれたり、愚痴を聞いてくれる優しい人でした。


レオさんも職を転々としてきた過去があったので、私がアルバイト先の不満を電話で話すと、色々とアドバイスをしてくれました。


そこで私は、レオさんに教えてもらった“最終手段”を使おうと思ったのです。

給料を払わないと言う社員に向かって、私はこう言いました。


「給料を支払って頂けないのなら、労働基準局に相談をしに行こうと思います」


労働基準局とは……

厚生労働省の内部部局の一つで、労働条件の改善、労働者の安全と健康の確保の施策などを所管するものです。

平たく言えば、労働者の味方です。


労働基準局は労働基準法、最低賃金法などに違反している企業や会社を、監視および処罰してくれます。

例えば、不当な解雇を受けた場合や、給料が支払われなかった場合など、労働基準局に相談すれば、味方になってくれるのです。

私はその事を、レオさんから教えてもらいました。

そして、労働基準局のブラックリスト入りした企業や会社は、二度と求人情報誌などに求人広告を出せなくなる事も。


「あんまり酷いようなら、労働基準局に相談しに行くって言えば良いよ」


レオさんのその言葉を聞き、私は社員に向かって言ってやったのです。

すると、それまでふてぶてしい態度をしていた社員は、態度を一変させました。

突如ヘコヘコし、猫なで声で、


「分かったよぉ~。ちゃんと給料は払うから、相談には行かないでねぇ~」


そう言ったのです。


私は屈しなかった。

勝ったのです。


そうして私は、その監視員のアルバイトを辞める事が出来ました。


※※※※※※※※※※※※


アルバイトを辞めた後。

給料は確かに振り込まれましたが、何故か全額は支払われていませんでした。

それでも私は、それを言及するつもりはありませんでした。

全額支払われていなかった事は頭にきましたが、もう、これ以上関わりたくない気持ちのほうが勝っていたのです。


それから私は、しばらく登録制の日払いアルバイトをして食い繋ぎました。


ある日の事です。


私は、100円ショップの仕事に派遣されました。

その店で黙々と品物の整理をしていると……

なんと、プールの監視員のアルバイトをしていた頃の後輩が、その店に買い物をしに来ていたのです。


私は彼女に声をかけました。

そして、少し話をして彼女から聞いたのですが、どうやら私がアルバイトを辞めた直後、シゲキさんもアルバイトを辞めたそうです。


仕事中だったので詳しい話は聞けませんでしたが、彼の中で何か思う事があったのでしょうか……。


今となってはもう、何も分かりませんが……。


私の住むアパートとシゲキさんの住むアパート。

徒歩で10分くらいしか離れていませんでしたが、それから一度も会う事はありませんでした。

もしかしたら最寄り駅ですれ違っていたのかもしれませんが、私はそれに気づきませんでした。



私は今は、シゲキさんを憎んではいません。



当時は、最初は優しくして人の心を釣っておいて、実は悪魔のような人だった、と思っていたのですが……

今ならば、何となく分かります。

私とシゲキさんは、お互いの思いが通わなかっただけで、シゲキさんはべつに悪い人じゃなかったと思います。


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