1話『扉と日記帳』
台風が過ぎ去った後みたいな爽快感のある場所だ。
日差しも気温も視界も、身体に感じる感覚の何もかもが心地いい。
風も空気も遮るものが一切ないからだろう。
すべてが自然のままに動いているのだ。
建物の並ぶ東京との違いは、きっとそこなんだと思う。
ところで、ここはどこだろう?
俺はヤシロ……ヤシロ……なんだったっけ?
なんでこんなところで寝ていたんだろう?
「やぁ、ようやくお目覚めだね」
「なんだ?」
辺りに人影は見当たらない。
「あれ、忘れちゃったのかい? 僕だよ。このセカイの神、ライブラだよ」
ライブラ?
「まぁ、無理もないか。記憶というのは脳だけでなく命にも蓄積されるものだからね。命を抜いた分の記憶が身体から失われているのだろう。でも生きていくための知恵は脳の方に記憶されるものだから問題はないと思うよ」
何をいっているんだ?
「あれれ、本当に訳がわからないといった感じだね。君のような直感タイプは気持ちで考えるタイプなんだろうな。そういうやつは脳より命メインで記憶を運用しているのかもね」
「誰だ? どこにいる?」
「やれやれ、少しだけ痛むけど我慢してくれよ。ほい!」
──ぐわっ、頭が。
「どうだい? ここへ来るまでの記憶だ」
…………。そうだ。ここは。
「悪い。そうだったね。なんとなく思い出した」
「短時間で色々あったんだ。ここに着いてすぐに気を失ってしまったんだよ」
「そっか……。あいつは? あいつは生きているのか?」
「大丈夫。無事、命の転移は成功した。今は入院中だ」
目頭が熱くなり視界がぼやけた。それでも変化のない景色は、眼前に空と大地しかないことを強調した。
「よかった。神様、本当にありがとう。いや、ありがとうございます」
「いいってことさ。礼をいいたいのはこっちの方だしね。よろしく頼むよ」
「……頼む? えっと、なんだっけ?」
ヒュン、と何かが髪とシャツを揺らした。
「おいおい、勘弁してくれ。今から一緒に新セカイを造っていくんだろう」
「おお、そうだった、そうだった。それじゃあ、さっそく家でも建てようか」
「どうやって?」
勘弁して欲しいのはこっちだ。神なのだから早く創造ってやつをしたらいい。
「どうやるも何もないだろ? 神の力でさっさと家を建ててくれ」
「いやいや、君は何か勘違いをしているようだね。僕たち神は創造主とは別物だ。自由自在にものが出せるわけじゃないんだよね」
「え、じゃあどうやってセカイを造るってんだよ?」
「その説明をするには、まず体感してもらうのがいいだろう」
神様がそういうと突然目の前に光の柱が現れて、その根元からT字型のオブジェが生えてきた。その左右両極から鎖が垂れていて皿を吊している。
大きな天秤だ。左の皿には本。右には扉が乗せてある。
「まずは僕からの練習問題だ。といっても、この選択次第では君とはここでオサラバだ。あいつも助からない」
「いったいどういうことだ?」
「君はこれから数多の選択をしていくことになる。セカイに何が必要で、何が不必要か。それを選びセカイを造っていく。それがこのセカイの造り方であり、このセカイの罪に対する罰だ」
「セカイの罪? 罰?」
「このセカイも元は君のいたセカイと同じように繁栄していた。しかし──まぁ、この話は追々話していくよ。君がここに残るのならね」
「残るもなにも、そんなの当たり前じゃないか?」
「いや、最後にもう一度だけ選ぶんだ。今、君の前にあるのは、このセカイの歴史を綴っていくための神の日記帳。もう一つは君のセカイへと続く帰還の扉だ。時間を与える。もう一度、どちらのセカイで生きていくか、よく考えるんだ。決まったら選択した方に触れるんだ」
そんな時間はない。日記帳に触れる。
「おいおい、早いな。まったく君ってやつは。後悔するなよ?」
「海の上でもいったろ。後悔なんてしないさ!」
日記帳を手にすると、帰還の扉が怪しげな光を放ち開いた。突風が頬をかすめたかと思うと背中を強く押された。というよりは胸ぐらを引っ張られたようだ。闇が広がる空間に身体が吸い込まれる。慌ててドア枠を掴む。手を離せばゲームオーバーだ。
「くそ、おい、どうなってんだ? 話が違うぞ。俺は帰るなんていってない」
「ああ、わかってる。その扉の先は君のいたセカイではなく無だ。無に包まれれば身体は一気に消滅する」
「は、はめたのか?」
「いいや、こういう仕組みなんだ。選択されなかった選外肢は、セカイに残ろうと足掻くんだ。そのため選択者が自ら破壊しなければならない。そうして得る喜びと失う苦しみを経験していくことになる」
「なんなんだよ、そのヘンテコなルールは」
「僕にいわれてもなぁ。そういう罰なんだよ」
扉の吸引力はそれなりに強いが、バスケで鍛えた身体なら耐え抜くことはできそうだ。だが、どれほどの時間、眠っていたのかわからないが、とにかく空腹で力が出し切れない。
「おい、神様」
「ライブラでいいよ、ヤシロ」
「ライブラ、助けて」
「いや~、助けてあげたいのは山々なんだけどね。選外肢に触れることができるのは選択者だけなんだ。というわけで自力でよろしく!」
「うぉおお、選外肢は無理でも俺には触れられるだろぉぉおおお?」
「ああ、確かに」
身体が扉の側面に投げ出された。どうやら扉の正面以外は吸引されないらしい。
あとは枠を破壊してやるだけだ。見たところ古い木材のため蹴って壊せそうだ。近づいて足の裏で脆そうな部分に照準を合わせる。
力を込めたそのとき、扉がくるりと向きを変え、再び俺は鯉のぼり状態になる。
「そうそう、選外肢は意思を持ったように動くからね。モノによっては変形して襲ってくることもある。破壊しない限りは選択者を襲いつづけるよ」
「そういうことは先にいえ」
「いやぁ、僕も新米だからね。ルールがしっかりと頭に入っているわけじゃないのよ。思い出すまでの多少のタイムラグはご勘弁願うよ」
「うんうん、わかった。わかったから、早く助けて」
「ああ、悪い悪い」
堅い大地にあばらを打ち付け、さらに擦れる。悲鳴が漏れる。
扉がまた動き出す。扉の背後に回り込んだ。そして両腕で扉を抱え込む。
「ライブラ、俺を操って扉を地面に叩き落としてくれ」
「おっ、考えたね~。了解!」
ジェットコースターが急降下するように大地へとダイブした。自分の身体を庇いながら打ち付けられる。扉は割れてバラバラになると天秤と共に跡形もなく消え去った。
「さすが、直感力があるな」
「ああ、セカイ造りを舐めていたよ。想像してたのと大分違う」
「セカイによって造り方が異なるんだ。特に過去に滅んだセカイの再建に関しては、かなり厳しい条件が課せられる」
「へぇ~」
「そんなことより、これで君の退路はなくなった。その神の日記帳を持って僕と共に歴史を造っていくんだ。リタイアするには君とあいつが死ぬしかない。いいね?」
「おう、まかせてくれ」
「では、このセカイの歴史をヤシロ歴と名付けようか」
自分の名前が歴史として刻まれる。とてつもない責任を感じる。
「まじか。ちょっと荷が重いな」
「君が造るセカイだ。当然のことだよ」
「じゃあ、変えたくなったら変えても問題ないな」
「まぁ、そういうことになるね」
360度、地平線を見渡す。かつて存在していた景色を想像してみる。俺が住んでいた東京と、どれだけの差があるのだろうか。考えてみたところで何もわからない。ただ同じように風が吹き、空があって大地があることは何も変わらない。
「よし、自分の名前がつく以上、黒歴史は造れないな」
「クロレキシ? なんだいそれは?」
言葉の有無に違いはあるようだ。日本語が通じているからといって、すべての言葉が共有されているわけではないのは元のセカイでも同じことだった。
「なんでもない。いいセカイを造ろう」
「だね」
(ヤシロ歴0000年。新セカイ創設開始)