プロローグ『真っ二つの船』
今、僕の眼前で少年とカレー味のウ○コが闘っている。
幼稚な笑い話のようだが事実であり、僕も少年も至って真面目だ。僕はセカイの再建のために。少年は『あいつ』のために。
だが、少年にとってこの運命は、予め用意されていたものではない。
地球というセカイの文明が海に負けた。
それが、すべての始まりだった。
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――やれやれ、面倒なこった。ありゃ沈むね。
一隻の船が大きく傾いた。太平洋とやらはどう見ても平常運転だというのに、このセカイの文明はえらく脆いらしい。視察に来る場所を間違えてしまっただろうか。
――やっぱり僕には選択するってことが向いていないようだな。なのにどうして僕が神様なんてやらなきゃならないんだろう?
美しい白い鳥が似付かわしくない悲鳴をあげて飛び交う。轟音とともに真っ二つに割れた船が海に飲み込まれていく。小さなボートが数隻、人々を乗せ波に揺れている。船内から逃れた人々だろう。みんな必死に叫んでいる。人名のようだ。
助けるべきだろうか? ここの神に断りもなく勝手なことをしてよいものか? セカイにはそれぞれのルールがあるし、それぞれの神のやり方がある。今、目の前で起きていることだって、ここの神が必要でやったことかもしれない。
セカイには存在できる命や物質の量が決まっている。それを大きく越えてしまうとセカイの均衡が保てなくなる。つい最近、一つのセカイがそれにより崩壊した。セカイを維持するには命量と物質量を調整する必要があるのだ。
――とはいえなぁ。神に就任して早々人間が死んでいく様を何もせずに見過ごすってのも……。
あれこれ考えているうちに船は姿を消そうとしていた。ひとまず海に潜る。あとは流れに身をまかせる。
鉄の残骸と共に暗い海底へと向かう。上での出来事に気づいていないのか、平然と泳ぎつづける魚もいれば、尾ヒレをジタバタさせて逃げていくやつもいる。
そんな中、二つの人影が浮游していた。二人とも日頃スポーツでもしているのだろう。程よく日焼けをし、それなりに引き締まった腕は決して非力には見えない。だがその甲斐もなく浮かび上がろうとする身体を水のうねりが意地悪く押し返す。
一人はまだ生きている。だが、もう一人は……。
――おい、君。聞こえるか? 今、海面へ連れて行ってあげるよ。
若い。少年だ。彼の眼がうっすらと開く。僕の声が聞こえたようだ。
「だ、れ?」
少年の心の声が響く。彼の脳内へ直接声を届ける。
「僕は行きずりの別セカイの神だ。まぁ信じなくてもいい。今から君を助けるが、このことは内密に頼む」
少年は虚ろな眼をもう一つの人影に向けた。
「なら、あいつを。俺ではなくあいつを」
二人とも、という選択肢はないのだろうか。考える間もなく決断したようだが、それほど大事な存在なのだろう。
「悪いね。残念だけど、あっちはもう無理だ。だが君はまだ助かる」
水圧をコントロールし少年を海面へと押し上げようと試みる。が、少年は一瞬だけ海面に顔を出すと、また海中へと戻ろうとする。
「何をやっているんだ。もう無理なんだ。君まで死ぬぞ」
海底へと進む力もなく少年は心であがく。
「頼む。頼むから。俺は死んもでいい。俺の代わりにあいつを。お願いだよ、神様……」
どうしたら良いものか。やはり選択を間違えたか。生きようとする命を目の当たりにし、つい声を掛けてしまったが、こういうところが神向きでないことは自覚している。面倒なことになってしまった。
彼の願いを叶える方法はなくもないのだが、それには――。
「気持ちはわかるけど、僕は別セカイの神だからねぇ。あまり勝手なことばかりできないんだよ」
僕が何をいっても少年は沈みいく死体へと手を伸ばす。
近くに浮く板を少年の上着と背中の間に差し込む。海面に貼り付けになった少年の肺へ酸素を送り込む。少しの自然操作くらいなら別セカイに関与しても問題ないはずだ。
少年は水中へいくのを観念したのか、次は空へと訴える。
「神様なんだろ? あいつの身体が使い物にならないっていうなら、この身体にあいつの命を。記憶を」
すんなりと神の存在とこの状況を信じる辺り非常に純粋なのか? それとも夢だと思っているのか? いや、これが窮地に立たされた人間というやつか。
「ずいぶんというねぇ。だが、そんなことをすれば他の人間の記憶まで操作しなければならなくなる。あいつはあいつ、君は君として生きていくほかないんだよ。それに君には、ただ彼の命を助けてくれという選択肢はないのかい? なぜ君の命と引き替えなんだ? なぜ君が死ぬ必要がある?」
少年は腹をゆっくり動かし息を整えると、僅かな雲を吹き消すように強く長く息を吐いた。何に使うのかよくわからない巨大な発泡スチロールがさ迷っていたので彼をその上に乗せてやった。白い鳥も着陸した。
「それはタダってわけにはいかないと思って。何かを得るには何かを失うっていうかさ。だから、それでもいいから、あいつを生き返らせてやってくれよ。できないなら俺はここで死ぬ。あいつと一緒に死ぬよ」
「おい、なにいってんだ」
「だって、本当なら死んでたんだろ? ならここで運命に従って死ぬのが筋ってもんだ」
少年の頬を伝う大粒の涙は海水よりもしょっぱいかもしれない。彼の本気は伝わった。このまま黙っていれば彼は自ら海底へと沈んでいき、このセカイの神に与えられた運命が完遂されるだろう。少し前まで死にかけていた身体から、それほどまでの気迫を感じたのだ。波に揺られながらも視線は一点を捕らえ続けている。
「確かに君は死ぬはずだったかもしれないし、僕が助けずとも生き延びていたかもしれない。まぁ順当に見れば死んでいたね。その運命を変えてしまったのは紛れもなく僕だ。このセカイの秩序を乱してしまう恐れもあるし責任を感じなくはない。僕は選択を間違えるプロだから、別セカイへと来てしまったこと自体が誤りだったのかもしれない」
「選択を間違えるプロが、よく神様になれたな」
鼻水をすする音に波音が被さる。このセカイにそういったシステムがあるならば、そろそろ彼を救助にやってくる者たちがあるはずだ。それまで時間を稼いであとはこちらのセカイの流れにまかせる。その後は彼とここの神様次第だ。
「まったくその通り。神の社会もいい加減なもんさ。過去の功績だけで神に選ばれてしまった。それでどんなセカイを造るべきか、別のセカイを観察して廻っているのさ」
少年は半ば海底の死体を諦め自分も死ぬ覚悟を決めたように見える。これから死のうとしているのか、風が冷たいのか、全身が小刻みに震えている。
――やっぱり余計なことしちゃったよなぁ。あのまま死なせてあげれば……。
「いや、そんなことないよ」
「あ、聞こえちゃったか。心の声で呟いたはずだったんだけど」
彼は姿の見えない僕を探すように辺りを見渡し、視線を真っ青な空へと向けた。
「こんなのはどうだろう」
船の残骸たちからはぐれた巨大な発砲スチロールの下に、あいつの死体はもうないだろう。だが彼は諦めていなかったのだ。
「俺が、あんたのセカイを造る手伝いをする。だからあいつを生き返らせてやってくれ」
鳥が羽ばたいて僕の身体をすり抜けていった。
運命的出会いというべきか、都合のいい人間が見つかったというべきか。
考えてはいた。代わりにセカイを造ってくれるやつはいないかと。それに彼の提案こそまさしく海中にいるあいつを生かすための方法なのである。
個体の命の消去及び再生に関しては、そのセカイの神だけが司るものであり別セカイの僕の力では不可能だ。しかし、このセカイの個体であろうと、僕のセカイの管轄下に置けばその命の転移は可能である。ただそれを成就するには条件がある。転移先の命がその身体に馴染むまで、元の個体が活動をつづける必要がある。
命を転移するということは、元の個体の命が別の身体で活動をつづけるため、元の個体は死なずに心肺は動きつづける。そして意識を持って身体を動かすことができる個体は片方だけであり、どちらかは植物状態となる。
転移先の命が馴染むまでにどれほどの期間を要するかは、その身体次第であるが、最低でもそのセカイの半年から一年。長くて十年以上掛かるともいわれている。
そのためこれから造っていくことになるゼロの状態の僕のセカイにおいては、かなりの苦行になると思われる。少年が生きていけなければ転移した命が消滅する。転移先の身体が完全復活するまでの間に元の個体の彼自身が生きられる環境を造り生存しつづけなければならないのだ。
「今、君がしようとしているのは地獄への飛び降り自殺だ。その意味を聞く勇気があるかい?」
「ああ、なんでもいってくれ!」
少年の心になんら曇りはない。あいつの蘇生法を話してやった。
「かなりの苦行だ。ここでの生活に慣れてしまった君には地獄だろう。何があっても生きる覚悟が必要だ。あいつの身体が朽ちるのが先かもしれないし、苦労が水の泡になるかもしれない。それでもやるというのかい?」
「やるよ」
「即答だな。まったく信じられないよ」
「やらなきゃ後悔する。後悔しながら生き続けるくらいなら死ぬ。だいたい、その未来を俺に与えたのはあんたじゃないか」
──ああ、返す言葉もないや。
「よしわかった。僕に責任があるのはごもっとも。そうと決まったら、ここの神に勘づかれる前に僕のセカイへ」
「ありがとう。よろしく頼みます、優柔不断な神様」
「はは、こちらこそ。期待してるよ、即決即断の少年」
白い羽毛が二枚、僕の身体で踊りつづけていた。
(新セカイ創設開始の数日前。地球の海にて)