僕と彼女の時間
ある日曜日の夜は十一時。まだ眠気はないのだけど、明日からまた一週間働き続けなければいけないのだ。社会人として自己管理は出来て当然。
そんなわけでさっさと風呂に入り、髪を乾かし、寝巻きに着替え。それでもって歯も磨いて。
不意に呼び鈴が鳴ったのは、そうしてベッドインの準備もすっかりと整った頃。
「うっへぇ。こーんばーんぶぃっス~」
顔を見せるなりピースサインをする彼女は、妙に上機嫌だった。
「……なにか御用ですか?」
「ん~? ふっふ~。ドライブ行こうぜ、ドライブ」
「はぁ?」
なにを言ってるんだこの子は。こんな時間にいきなりやってきてドライブ? 今日が土曜で明日が日曜だというならまだしも。
「俺、明日仕事なんやけど」
「そんなに時間は取らせんよ。ちょっとでいいき付き合ってや、ね?」
そう言って僕の腕を引っ張る彼女は、どうやら思いっきり酔っているようだった。まだギリギリで理性は残っているみたいだけど、それでもかなり危うい。彼女はドアに手を付いてるから気付かなかったけど、よく見れば足元がかなりフラついてるし。
よくここまで無事に来れたな。……まあ、今更か。
「ほらほら、行こう」
「あーあー、分かった分かった。つーか俺パジャマやし。着替えてくるき、ちょっと待って」
と、とりあえず彼女を中に入れる。酔いどれな彼女は立っているのも靴を脱ぐのも面倒なのか、「よっこいしょ」と上がり框に座り込んだ。
ちなみに酒酔いにはエチルアルコールによる酒酔いと、アセトアルデヒドによる酒酔いがあるのだけど、彼女はアセトアルデヒドの分解が早い、いわゆる「酒に強い」タイプの人間だ。何故それが分かるかというと、エチルアルコールとアセトアルデヒドでは酔いの症状が全く違うからで、彼女にはアセトアルデヒドによる症状が出ないのである。ついでに滅多なことじゃ二日酔いにならない。酒に弱い僕にはなんともかんとも羨ましい話。
まあ、今はそんな事はどうでもいいか。とりあえず彼女に酔い覚ましのお茶と梅干を渡し、着替え開始。彼女の今の様子なら途中でどこかに寄るようなことはないだろうし、外に出て恥ずかしくない程度の服装で充分だろう。
「お待たせ」
でろーん、という表現がぴったりな体勢で壁にもたれかかる彼女に手を貸す。相変わらず上機嫌な彼女はそんな僕の手を取り、オーケーオーケーと酔っ払いとは思えない力で引っ張っていく。
ちょっと待て。せめて鍵くらい掛けさせてくれ――――。
… …
彼女が酔いどれるほど酒を飲む場合、その理由は大抵が男絡み。要するに、大喧嘩をしたか別れた時だ。
さらに、その際に僕の元へやってくるとなると、その理由は「大抵」から「確実」になる。何故かは分からない。だけど彼女はそうした時、どうしてだかいつも僕のところへ来るのである。
そんな僕のささやかな疑問は、彼女にとってもささやかな疑問だった。つまり、彼女自身にも分かっていない。ただ、気付いたら僕のところに、ということらしい。
実に不可思議。
彼女がことあるごとに僕を頼ってくれるのは、とりあえず悪い気はしない。だけど、僕と彼女のそんな間柄に問題がなにもないわけじゃない。むしろ山積みと言っていい。
こんないまいち説明の付けづらい、曖昧な関係をいつまでもだらだらと続けていていいものだろうか。彼女はどう思ってるんだろう。訊いたことがないし、ぶっちゃけ訊くつもりもないのだけど、本当に彼女はどうするつもりなんだろう。
アパートの傍にある自販機でスポーツドリンクを買い、車の助手席、鼻唄交じりで待つ彼女に渡す。
エンジンを掛け、車を走らせ、そして訊く。
「どこ行く?」
「ん? んー、どこでもええけど、夜景が見えるとこがええかな」
「んじゃ、適当に山でも行こうか」
と、思い当たる山へ進路を定める。あそこなら広めの駐車場もあるし、夜景もしっかり見える。
道中、彼女はよく喋った。内容はひどく他愛のないことで、取り立てて紹介するまでもないようなものばかり。僕は適当に相槌を打ちながら、時折意見を挿む。
僕は前を見ていなければならないから、彼女の表情までは窺えないのだけど、その声色や口調から、今のこの時間を楽しんでいることがよく分かる。きっと話の内容に合わせてコロコロと動いていることだろう。
彼女がそんな様子だと、僕もなんだかいい気分になってくる。なんだかんだ言いつつもついつい彼女の強引に付き合ってしまうのは、それもきっと一つの要因なんだろう。
「相変わらず音がいいねぇ」
彼女が呟く。太ももの上に置かれた右手が、音楽に合わせてリズミカルに跳ねているのが目の端に見えた。
「あたしも車買おうかな。どう思う?」
「どうと言われてもね。飲酒さえせんかったらええんやない?」
「あっはっは、そう来たか。そうやねぇ、そらそうや」
なにがどうツボだったのか、彼女はおかしそうにくつくつと笑う。
「まあ、まだ車はしばらくええか。便利なアッシー君がおるし、ねぇ?」
「へぇ、そうなん? 初めて聞いたわ」
酔っ払いが大笑い。
そんなこんなでとりあえずの目的地に到着。駐車場には他の車はない。さて、どこへ停めよう。
「あそこに停めて」
と彼女が指差したのは、駐車場の片隅。夜景を眺めるには不便、というか見えないような場所だった。外に出るにしても、何でわざわざあんな場所に。
「車の中からじゃ夜景見えんけど」
「夜景が見える場所とは言うたけど、夜景が見たいとは言うてないし」
「……超屁理屈やね」
まあいいか。そこがいいって言うなら、従っておこう。なにせ彼女は立派な酔っ払い。機嫌を損ねて暴れられても困る。
「エンジン、付けちょく?」
「切ってええよ。今日別に暑くないし」
なら切っておこう。温暖化対策なんていいものじゃなくて、燃料の節約のために。
車内を賑わせていたサウンドが消え、一気に静寂が訪れる。ぐびりと咽下の音。彼女がスポーツドリンクを飲んでいた。なんとなしにそれを見つめる。視線に彼女が気付く。「飲む?」とペットボトルを差し出してきた。ありがたく受け取って一口。ボトルを返す。彼女がそれを受けと――――っ。
彼女の唇が、僕の唇を、塞いだ。
ボトルを受け取るものかと思っていた彼女の右手は、僕の首に回され。左手もそれに追随する。ぐっと押し付けられた唇の、その柔らかさを感じる暇もなく、彼女は顔を離した。
「……いきなりこの展開?」
くつくつと笑って彼女は、僕が手に持っていたボトルをドリンクホルダーに置いた。
そうしてゆっくりと、それでいて躊躇いなく、僕の膝に跨る彼女。狭いだろうに、そんなことはお構いなしと言わんばかりのその顔は、楽しそうに笑っていた。
二度目のキスは、情熱的で、情欲的。まるで貪りつくように唇を押し付けてくる彼女と、この状況をさも当然のように受け入れる僕。
知らない人が見れば、仲のいいカップルにしか見えないだろう僕らは、だけど決してそんないい関係ではない。ただの、あくまで「ただの」友達。
お互いが顔を動かすたびに漏れ出る、熱を帯びた彼女の呼気。絡み合う舌の、卑猥な水音。思考がふやけそうになるのを、理性で無理やり抑えつける。溺れてはいけない。
不意に彼女の顔が離れる。ほのかに赤らんだ彼女の顔を見て、一息――それも束の間。
彼女の唇が、鼻先に、頬に、顎に触れ。そして首筋へと下っていく。甘く噛まれる感触。噛まれたかと思えば、その場所を唇や舌で丹念に舐られる。
背筋に、軽い快感が走る。
少しずつ、焦らすように顔の位置を下げていく彼女だったけれど、胸を過ぎた辺りでその動きが止まった。
「んー……」
と上目で睨めつけてくる彼女の、その言いたい事は伝わった。
「後ろ行く?」
即座に頷く彼女。
僕の車は、普段から後部座席をフラットにしてある。さらにそこには布団まで敷いてある。初めてそれを見る人は大体同じことを想像するのだけど、名誉のためにその誤解を解いておくと、決してこういう時のために用意しているものじゃない。単に、会社で昼寝をするためのものだ。シートを倒して寝るのは心地が悪い。かといって、ラゲッジにそのまま寝転がると背中が痛い。
だからこその布団なのである。ちなみに、枕はヘッドレストで代用している。
もぞもぞと後ろへ移動する彼女。僕もそれに従う。
どうやらさっきまでの余韻がまだ残っているらしい彼女は、僕に下になるように指で命じた。どうやら、今日は受けに回るつもりはないらしい。攻めたい気分ってどんなんだろう、とふと思ってみたりしたけど。まあ、僕としては攻めでも受けでもどっちでもいいので素直に従う。
そして、仰向けに寝転がった僕の上に、彼女は嬉しそうでいて楽しそうな表情を浮かべながら、跨った。
… …
布団に横になって、気だるげに呼吸する彼女。軽く髪を撫でてあげると、心地良さそうに微笑んだ。そんな彼女を見ていると、まるで僕らが恋人同士になったかのように錯覚してしまうけど、きっと彼女にそんな気はないだろうし、僕にもない。
彼女のことは好きだ。そうでなければ我侭に付き合うこともないし、こんな関係も持たない。でもその好きは恋愛感情とは多分違う。男と女として付き合うことは出来るけど、そうなってしまうともう今のような関係には戻れないだろう。
今みたいな関係をいつまでも続けていいものか、と思いつつも、今みたいな関係でいられなくなった時にどうなるかは想像が付かない。案外あっさりと縁が切れてしまうかもしれない。
もしかしたら彼女もそれを感じているからこそ、曖昧な関係を保とうとしているのかもしれない。僕らの繋がり、そのあり方を決定付けてしまうのを避けるために。
後始末をして、車内のこもった熱気と臭いを逃がすために窓を開ける。吹き込む風が、ひどく心地いい。
まだ残っていたスポーツドリンクを、彼女は一気に飲み干す。あ、僕も喉が渇いたな。まあいいか。帰るまで我慢しよう。
「あー、布団洗わんと」
すっかり乱れた布団の一部が、ぐっしょりと濡れていた。触ると冷たい。
「ふーん、がんばれー」
我関せずとばかりに気のないエールを送る彼女に、抗議の視線。にっこりと作った笑みを返された。
そのまましばらく取り留めのない会話を続け、お互いがすっかり落ち着いたところで、「そろそろ帰ろうか」と切り出す。不意打ちめいたキスをされた。
「ちょっとトイレ行ってくる」
言われて、キスのお返しとばかりに髪をさっと撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細め、そしてもう一度キスをしてきた。
彼女が外へ出るのを見計らって、運転席に戻り、エンジンを掛ける。
短いような、長いような。そんな時間も程なく終わる。
… …
自宅へ戻り、もう一度風呂に入ろうかとも思ったけど。時間が時間だ。苦情が来ても面倒なのでパス。寝巻きに着替えていると携帯が鳴った。メールの送り主はもちろん、彼女。
――お疲れさん。ゆるりと休みたまえ。
実に彼女らしい文章。小憎らしいけど、そんな彼女だからこそ、僕は好感を持っているのだから始末が悪い。
――いえいえ、ごちそうさまでした。
と返してやる。ベッドに横になって返事を待ったけど、それ以降携帯が鳴る事はなかった。寝たんだろう、と判断し、僕もゆっくりと目を閉じた。
朝、メールの受信音で目を覚ます。寝ぼけ眼でメールを開くとそこには、「スケベ」とだけ表示されていた。
終