4話 『揺れて揺蕩う蜃気楼』
「目が覚めた? ユリアちゃん」
ここがどこなのか思い出すのに4秒。自分が何をしていたのかを思い出すのに3秒。そして、目の前の人物が誰なのか認識するまでに2秒。
ユリアは状況把握に9秒も使ってしまった。
目の前――正確には、寝ているこちらを覗き込むようにして笑っている、自身の仕える公爵家夫人。セシリア・ローレイエル様。
目覚めてから10秒経とうか経たないかくらいで、ユリアの姿はベッドから消え失せる。
セシリアがニコニコと笑いながら後ろを振り向くと、装いを完璧にただし、無表情で佇むユリアがいた。
「あなたは頑張ってるんだから、そのままでも良かったのに……。私に気配に気が付かないなんて、余程疲れてたのか、それだけ気持ちよかったのね」
確かに気持ちよかった。エリザが枕を手放したくないのも理解できる、とは口に出さない。務めて冷静に、感情を悟らせないように表情を殺す。
「……申し訳ございません、奥様。罰は、この首でよろしいでしょうか」
幼馴染、なんて言葉はなんの免罪符にもならない。副軍団長である父親もユリアも、平民なのだ。貴族、それも公爵家の令嬢のベッドで勝手に寝た、など、不敬罪以外の何物でもなかろう。
「あなたの首を取る意味がないわ。だって、ユリアちゃんの首を刎ねたらエリザが悲しむでしょう? あなたのエリザに対する影響力は大きいの。しっかり考えて発言しなさい?
それと、あなたはこの屋敷の侍女長なことも、理解できてる? 昔とは違うのよ?」
あくまで、エリザのため。ついでに屋敷のためである。
つまり、それがなければ――なくなったらユリアはここにいないのだが――古い付き合いの娘だろうがなんだろうが首を刎ねるということ。それは常識であるが、娘の友人たる本人の前でどうどうと言い放つセシリアに、ユリアは冷や汗を流した。
「無責任な発言、誠に失礼しました。寛容なご慈悲感謝します」
そういうと、セシリアは笑みを一層深くした。
「それでね、ちょっとお願いしたいことがあって、あなたを探していたのよ」
ぽふん、とエリザのベッドに座ったセシリアが言う。ついでに枕を手繰り寄せて、そのお腹に抱いていた。肌触り、抱き心地、温度、どれをとっても最高だった。
これはエリザが手放したくなくなる気持ちもわかるわねぇと、セシリアは思う。
「お願いしたいこと、ですか? シオン商会長たる奥様にできない事を、たかが一侍女にできるとは思えないのですが……」
シオン商会。創立者アンチュイ・シオンの名の元に集まった当時の商業者達が創り上げた、巨大商会。会長は世襲制で、セシリアはその9代目の会長だ。
ちなみに10代目は一人娘であるエリザになる、というわけではなく、セシリアの弟の子供が継ぐことになっている。
様々な物の流通を司る商会だけあって、その人脈は計り知れない。国内・国外問わず伝手のある商会が、ユリアを頼ることがあるのだろうか。
「集めるだけなら私でもできるんだけど、隠し事しないで話してもらうにはユリアちゃんが一番なのよ」
尋問でもさせる気だろうか。
それなら、できないことはない。拷問ともなれば技術を持っていないので難しいが、とりあえず殴りゃいいのか? とユリアは拳を見つめる。
「何か勘違いしているようだけど、そんな物騒な事じゃないわよ。あなたも聞いてるでしょう? ライカップ家の侍女が全員暇を出されたって話。その子達から事情を聞いてほしいのよ。できるだけ詳しくね」
なるほど、とユリアは納得した。
確かに、シオン商会の人員がメイドの解雇事情を聴きに来るなんて怪しい以外の何物でもない。さらに、セシリアは公爵家夫人だ。男爵家に仕えていた侍女達に聞き込みをしているなんて、面倒な噂が立ちかねなかった。
その点、ユリアならば問題ない。
同じ侍女という点もそうだが――侍女育成所時代、同年代だけじゃなく上級生までシメていたユリアならば、気になった情報を聞きに来ただけだと理解できなくもない。
「成程。それならアタシが適任だな。……じゃなく、適任ですね。しかし、侍女としての仕事がありますので、少々情報をあげるのに時間がかかってしまいそうです」
エリザや他の侍女の前では、いくら考え込んでいようが素を見せることなどないのだが、セシリアの前では何故か形無しであった。
「んー、ソレ、もし丸一日使えるとしたら、何日で終えられるかしら?」
枕を胸の方抱き上げて、顎を枕に乗せながら問う。一度だけ貸してくれるって言ってたし、本当に一度だけ借りてみようかしらとセシリアは考えていた。ぬくぬく。
「全員の居場所を把握しているわけではないので……2日程頂ければ」
居場所を知っている者への聞き込みと、知らない者がどこにいるかの調査に1日。もう1日は予備だ。なんなら、兄達に依頼するのもいいかもしれないとユリアは考える。
ユリアを介しているとはいえ、公爵家直々の依頼の様な物だ。報酬より信用に重きを置く兄達ならば、嬉々として受けてくれるだろう。
「じゃ、明日と明後日、お願いね。穴は私が調整しておくわ」
それじゃねー、とセシリアは部屋を出て行った。枕はしっかり戻して。
ユリアはここに来た本来の目的、ベッドメイクと洗濯を済ませるべく行動に移る。
枕は丸洗いの後に天日干しだ。なので、落とさないように。ぎゅっと抱きしめて洗い場に持って行った。
呼吸はな、必要ねーんだ。
自分でもどうやってるかしらんが、胸をなでおろしたり息を飲み込んだりは出来る。
けど、そりゃパフォーマンスって奴で、本来は息もへったくれもねぇ。枕に口なし。
だがよ、考えてもみろ? 自分の体組織が水に侵食されて重くなっていく感覚を。
あー、ネコが水嫌う理由ってこの感覚が嫌いなんかなー。俺も嫌いだぜ。
そうして、完全に枕全体が水に浸かると、こんどはあの暴力侍女、怪力で俺を捏ねはじめるんだ。洗濯機とかねーから――あっても絶対に放り込まれたくない――手洗いしかねぇのはわかってんだが、なんつーんだ、優しさが無ぇ。マジ痛ぇ。
夢世界で文句言ったが、ありゃ冗談じゃなく本気だったんだけどなぁ。
んで脱水だが、そこは俺の特殊能力の出番よ。
暴力侍女が疑問に思おうが知ったこっちゃねぇ。枕内部の湿度を操ってカラッカラになってやった。
だってのに、あの暴力侍女天日干しにしやがるんだ。乾いたっての!
天日干しは、一見日向ぼっこみてぇで苦しく無さそうに見える。が、天より照りつける日差しと、ソレに熱された地面の板挟みは熱い通り越して痛ぇんだ。こればっかりは経験してみねぇとわかんねぇだろうなぁ。
ちなみにここで熱いからって温度操作するのは悪手だ。既定時間干してもまだ冷たい=脱水が完璧じゃないと判断するみてぇでな。余計酷い事になる。
だからこうしてぐでーっと暑さ凌ぎながら暇するしかねぇんだ。
ちなみに2階のベランダ干されてる。バルコニーつったほうがいいのか?
こっから見える景色は、まぁ庭だな。森林公園じゃねぇかってくらい広い庭。俺は身動きできねぇから、エリザ嬢の記憶から把握するしかねぇんだが、玄関出てから門にたどり着くまでに馬車使ってんだぜ? どんだけ広いってんだよ。
ここでの楽しみっつーと一つだけ。たまーに来るアイツ……。
「なー」
猫である。
暴力侍女が来ない時間を知ってんのか、週1くらいのペースで来る。
どうやって昇ってきてんのかは知らねぇ。見えねぇからな。
んで、何が楽しみなのかっつーと。
「んなぁー」
コイツが、俺を使って寝る事だ。
んな事したら普通獣臭くなると思うんだが、この猫はそういう事が無いらしい。俺に嗅覚はねぇからユリアやエリザ嬢の反応を見ての判断だ。
そのちっこい体を枕全体に乗せて寝る。まぁ、そんなに重くは無ぇし、むしろもふもふだから俺も癒されたり。人肌とはまた違うよな……。
そして何よりも楽しみなのは、コイツの視る夢だ。
動物同士の会話は全く理解できない。ニャーワンギャーパオーンと動物語? 意思疎通が出来てんのかすらわかんねぇ。面白いのは視界だな。
視覚で得られる情報が人間と違うのか、色取り取りでファンタジーだ。空中に浮かぶ靄は魔力じゃないかと俺は思ってる。ファンタジーつったら魔力だろ?
お、そろそろ眠りにつくな。冷たくし過ぎず、絶妙な温度を保って眠りにつかせてやろう。
『なー?』
おー、なんだこれ……。樹の幹? でっけぇな。色が薄くてわかりづれぇが、馬鹿でけぇ樹だな。こんなん生えてたら、エリザ嬢の視界にも映って良さそうなもんだが……。この国じゃねぇのか?
『なんだい、また来たのかいアンタ。ふん、ちょっと待ってな。はちみつミルクもってきてやる』
あー……人間の足? 声からして老婆だな。なんだ、このネコヒトサマの家に飯集ってんのか。はちみつミルクとか美味そうだなオイ。
『ほらよ、飲みな。
……しかし、アンタいつもどこから来るんだい? ここは一応霊峰だなんて呼ばれる場所なんだがねぇ。実はこの大きさで成猫だったりすんのかねぇ?』
はー、暇だなこの婆さん。猫に延々と喋りかけてやがる。これは暇人だな。
『ま、いいかね。あたしゃ暇なんだ。アンタが来てくれるだけで人生に彩りがつくよ』
あー、いいなぁ。世捨て人って感じで。エリザ嬢もめんどくさい学園生活ほっぽって、俺連れて山奥で隠居とかしねぇかな。どんだけ山奥でも快眠は保証しよう。
『なー』
なー、お前もそう思うよなー。なぁんでかコイツとは夢世界で遊べねーんだよなぁ。
『さ、そろそろ帰りな。あまり遅くなると凶暴な魔物が出てくるよ。
またおいで』
こわっ。え、凶暴な魔物ってなんだよ。ユリアの話にも出てきたが、この世界そんなんいるのか。山奥で隠居なんかしようもんなら襲われそうだな。
『なー』
振り向いて……うおおおおお! 絶景! つかたっけぇ! なんだここ、山? あ、霊峰って言ってたっけあの婆さん。おおおお、ファンタジーってなこうだよな!
『グルァァァァアアアア!』
うぉっ!? な、なんだ!? これが魔物の声? にしては近ぇな。どっちかというと内側から響いているような……。アレ、視線高くね?
え、まさか猫……?
白い、光――。
「んなぁぁ」
ぬくぬくと枕で眠っていた猫が一度寝返りを打ち、起きた。
猫は伸びをすると、悠々と歩いて行って――。
2階の高さから軽々と飛び降りて、どこかへと消えて行った。
サブタイ修正 20160913