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第八章 お願い、神様



第八章 お願い、神様



 それは奇妙な状況だった。お互い宣戦布告すらしていない日中両国が、領土防衛を名目に小さな島に次々と兵力を送り込む。

「いずも」出航に恐れをなした中国は翌日、寧波と青島から六隻のフリゲート艦を増派した。先行した部隊と合わせ水上艦だけで計十七隻の大艦隊。

 中国海軍の稼働率の低さを考えると、北海艦隊と東海艦隊の稼働可能な艦艇全てを投入してきた計算になる。戦略的には台湾海峡有事への備えを残しておかなければならないはずだが、戦力を出し惜しみして敗北することだけは許されない中国側の面子(めんつ)が見て取れた。

 また、空軍もSu30MKKを擁する浙江省・衢州(チュウチョウ)基地の第八五航空連隊が既に臨戦態勢を整えており、安徽省・蕪湖(ウーフー)基地からも同じくSu30MKKを擁する第九航空連隊が同基地に前進し、迎撃の準備を完了させていた。

 一方の自衛隊は撃沈された「はるさめ」の母港である佐世保第二護衛隊群から二隻の護衛艦が増派された。

 舞鶴の第三護衛隊群は北朝鮮への備えで、呉の第四護衛隊群は遠洋航海後のオーバーホールで、それぞれ身動きが取れる状態にない。第二護衛隊群は旗艦「くらま」の退役に伴い就役する「いずも」級二番艦「かが」を中心に、空母機動部隊として再編中ではあったが、新造の「かが」以外は出撃可能な状態にあった。なので、二護群からの増派は当然と言えば当然だったのだが、この決定に世論は沸きに沸いた。 出撃した二隻のうちの一隻が尖閣から帰投したばかりの「てるづき」だったからだ。

 当初、艦隊防空能力向上の観点からイージス艦「ちょうかい」と「あしがら」の追加投入が検討されていたが、虎の子のイージス艦の大量投入は、万が一それを失った時の弾道ミサイル防衛システムへの影響が大き過ぎることから、統合作戦本部もなかなか決めあぐねていた。そんな中、「てるづき」の艦長以下、乗組員達が再出撃を直訴したのだ。

 もともと僚艦防空能力が高い上、何より今回の事態で唯一の実戦経験を積んでいる「てるづき」は増派に最適任と言えたが、統合作戦本部では乗組員達の心的外傷後ストレス障害(PTSD)を心配する声が多く、慎重論が強かった。

 そこで統合作戦本部は「てるづき」の乗組員達の参加を任意とし、十%以上の離脱者が出た場合は出撃を見送るという条件で打診をしたのだが、驚くべきことに離脱者はただの一人も出なかった。

 仲間を守り切れなかった自責の念。反撃を諦めざるを得なかった悔恨。そのあまりにも強い想いが彼らを再び戦場へと駆り立てたのだ。

「てるづき」の悲壮感溢れる出撃に大いに盛り上がるマスコミと国民達。

 そんな中、日本政府は焦っていた。いつまで経っても態度を明確にせず、動こうとしない同盟国・アメリカ合衆国に。

 インド洋での作戦行動を終えた第七艦隊の空母「ロナルド・レーガン」を中心とする第五空母打撃群が南シナ海を北上中であったが、尖閣に向かっているのか横須賀に帰投中なのかすら判然とせず、統合作戦本部から第七艦隊司令部に確認を入れても、「我々は本国から命令を受けていない」の一点張りだ。

 中国を相手にする以上、単独の軍事行動は避けたい日本。米国を引き込むことで自分達の正当性を証明し、日本に(くみ)する国際世論を盤石のものにしておきたい。

 一方で、当の米国は中国との全面衝突には及び腰だった。イデオロギーの違いがあるとはいえ、最大の輸入相手国にして第三位の輸出相手国。中国現地には自動車BIG3を始め、多くの米国企業が大量の資本を投下している。今や日本よりも経済的な繋がりが深い中国は、米国にとってもはや欠くことのできない重要なパートナーだ。

 とは言えここで経済を優先し、日本を見捨てたとあっては世界中の同盟諸国に対して不信感を抱かせることとなり、また、尖閣諸島を中国に押さえられるようなことになれば、彼の国の太平洋進出を許すことにもなりかねない。

 政治と経済の板挟みにあい、状況を慎重に見定めているのが米国の現状であった。


           *


 第一護衛隊群の横須賀出港から三日目。佐多岬沖で第二護衛隊群から増派された「てるづき」「おおなみ」の二隻と合流した艦隊は、明日の午後には中国艦隊の待ち受ける尖閣沖に到着する見込みだ。

 午前中のアラート任務を終えた敏生と夕陽は、士官室で遅めの昼食をとった。今回の派遣艦隊司令を兼務する一護群司令の尾澤三郎海将補や「いずも」艦長の森川伸宏一等海佐といった司令部のお歴々も何やら気難しい顔で話をしながら食事中で、幹部として限りなく下っ端の二人は、そこからできるだけ離れて腰を下ろした。

 乗艦時はこの三度の食事が公然と二人で居られる貴重なプライベートタイムなのだが、この日はどことなく会話が弾まない。

「今日はカレーが食べたかったな……」

 生姜焼きをつつきながら夕陽がぽつりと呟く。

「カレーは金曜日だから明後日だろ。この生姜焼きだってめちゃめちゃ美味いぞ?」

 敏生が普段の訓練時と変わらぬ様子で、ご飯をばくばくと勢いよくかきこむ。

「そうなんだけど……。いずものカレー、すごく美味しいんだもん」

「何だよ、明後日食えるじゃん」

「うん……」

 そこで押し黙ってしまうのはお偉いさん達が近くにいるからだけではない。敏生は悪戯っぽく笑うと、ひょいと夕陽の生姜焼きを箸でかっさらった。

「もーらい」

「あ―――――っ!? あたしの生姜焼き―――――っ!」

「何だよ、食べないんだろ?」

「食べる! 食べるよ~~~ぅ!」

「じゃあ、ほれ」

 敏生が夕陽の口元に生姜焼きを差し出すと、夕陽がパクっと食いつく。と、横でガタガタっと音がして、二人して振り向くと司令部のお歴々が食事を終え、立ち上がるところだった。

「全く、貴様らは相変わらずだな。あてつけやがって」

 司令の尾澤海将補が苦笑しながら敏生の肩を叩くと、そのまま背後を通りすぎ、士官室を出ていった。

「艦内で大っぴらにいちゃつくなと言っとるだろうが、バカたれが」

 ゴツン、と敏生の頭に拳骨を落としたのは「いずも」艦長の森川一佐。もっとも口元が上がっているので本気で怒っているわけではなさそうだ。その後も艦隊司令部の幕僚達が敏生を囲んでからかう。一日中どころか連日テレビで流されているという出撃前の二人のキスシーンも当然からかいのネタだ。

 いつも明るく、ムードメーカーで親しみやすい彼は「いずも」の誰からも愛される存在。

 特にリムパックで米空母「ロナルド・レーガン」を〝撃沈〟して以降は、上官達からだけではなく若い曹士達からも絶大な人気を誇っている。

 誰もが振り向く美人だが近寄り難い、というか怖い雰囲気を醸し出していた夕陽を、敏生の前だけとはいえ〝可愛く〟変貌させたことも彼のポイントの一つになっていて、休憩時間中は若い連中からの恋愛相談も後を絶たない。これは夕陽にとっては全くもって余計なお世話ではあったが。

 幕僚達が出ていくと、士官室は閑散となった。

「もっかいやる? あーん」

「結構です!」

 夕陽が真っ赤になってご飯を口に運ぶと、敏生がアハハと楽しそうに笑う。からかう敏生と怒る夕陽。付き合う以前から、それこそ出会った時から何度も繰り返されてきた、二人にとっては日常の光景。

 再びご飯をかき込み始めた敏生を夕陽はチラッと見た。

「ねぇ、敏生……」

「ん? どした?」

 さり気なく聞き返されて思わず口ごもる。何とか再び口を開くも上手く言葉が継げず、夕陽は寂しそうに笑った。

「……ん、何だっけ? 忘れちゃった」

「おいおい、大丈夫か?」

 敏生が呆れたように笑い、その笑顔になぜか胸が苦しくなる。

「てへ」

 夕陽はごまかすようにおどけて舌をぺろっと出すと、再びゆっくりと箸を進めた。


           *


 午後に入り「いずも」はにわかに慌ただしくなった。警戒中のP3C対潜哨戒機が艦隊から北西五〇キロメートルの海底に潜んでいる二隻の潜水艦を発見したからだ。

 P3Cが威嚇の水中発音弾を投下するとその二隻は全速力で逃げていったのだが、いよいよ戦域が刻一刻と近づいていることが否が応にも意識され、乗組員達の表情からもどことなく残っていた余裕の色が消え始めた。

「はるさめ」が撃沈された今、何事もなく済むなどとは誰も思ってはいない。だが、「てるづき」の乗組員以外は誰も実戦など経験したことがないのだ。戦争を最初からリアルに感じろという方が無理な注文だろう。

 敏生は自室の二人部屋で、二段ベッドの下段に寝転がってスマホの写真をぼんやりと眺めていた。上段では刑部が横になって読書をしている。

 スマホに入っている写真はほとんどが夕陽のもので、出会った時に無理矢理ツーショットを収めたものから始まり、不機嫌そうにこっちを睨んでいる顔や、付き合いたての恥じらう様子、シーツに包まって笑うかなり際どいセクシーな姿、そしてクマのプーさんの着ぐるみに抱きついて満面の笑みを浮かべる全身ショット。楽しかった記憶が昨日のことのように思い返される。

 昼食時に様子のおかしかった彼女。不安な気持ちは痛いほど分かった。だからこそ敏生はあえて気づかないフリをして、いつも通りに振舞った。

「なあ」

 敏生は画面をスクロールしながら上段の刑部に声をかけた。

「明日、本当に始まるよな?」

 返事は返ってこない。寝てしまったのか、読書に夢中なのか。敏生は溜め息をつくと、スマホをベッドの上に放り投げて横向きになった。

〝だったら、何があってもあいつを守りぬけ〟

 脳裏を巡る勝野の言葉。

 俺は……あいつを守り切れるのだろうか。

 彼女の腕前は何より自分が一番分かっているし、ウィングマンとして全幅の信頼を置いている。だが〝実戦〟となると話は別だ。演習でも、これまで何度も僚機の夕陽を〝失って〟いる。混戦になると正直守り切れる自信がない。どちらかと言うと直情径行な彼女は一度火が付くと周りを見失いがちになる。

リムパックの時も敏生の制止を振り切り深入りした結果、〝撃墜〟されたのだ。

 嫌な予感を振り払うかのようにガバッと毛布を被ると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

「開いてますよ」

 毛布を払いのけてぶっきらぼうに応える。ガチャッとドアが開くと、入ってきたのは何と夕陽だった。

「夕陽……。どうした?」

 敏生は驚いて起き上がった。こんな時間に女性士官が男性士官の部屋を訪れるのはもちろん御法度だ。ましてや、乗艦時にはしっかりと一線を引いてきたはずの優等生の彼女が。

 バツが悪そうに弱々しく笑う夕陽。

「あ、うん。眠れなくて……」

 敏生が呆気に取られて夕陽を見つめていると、上段の刑部がむくりと起き上がり、二段ベッドの梯子を下りてきた。

 何だ、起きてたのかよ。

「一時間ほど外に出てくる。積もる話なら手短に済ませろよ」

 刑部はそう言ってヒラヒラと手を振ると、部屋を出ていった。どうやら二人に気を利かせてくれたらしい。悪友の気遣いが身に沁みる。

「おいで」

 敏生はベッドに腰かけると、横に座るように促した。夕陽が俯きながらちょこんと隣に座る。

「へへ、なんか久しぶりだね、このポジション」

 出航以来、二人っきりで並んで座る機会などあろうはずがない。敏生がそっと手を握ると、夕陽は敏生の逞しい肩に頭を預けてきた。

「楽しかったね。ディズニーランド」

 夕陽がポツリと呟く。はるさめ撃沈で中断したデート。あれからまだ十日間しか経っていないが、随分と昔の事のように感じる。

「あ~あ、ビッグサンダーマウンテン乗りたかったな~。せっかくファストパス取ったのに」

 おどけた感じで夕陽が伸びをする。

「帰ったらまた行こう。今度は隣のホテルに泊まってさ、ランドとシーの両方周ろう」

「本当? 約束だよ!?」

「ああ、任せとけ」

 敏生が笑いながらくしゃっと夕陽の頭を撫でる。さっきまでのもやもやと沈んだ気持ちが彼女の温もりで一気に安らぐ。改めて自分にとっての彼女の存在の大きさを実感する時。

 しばらく無言のまま手を繋いで寄り添っていると、彼女の肩が震えていることに気づいた。

「夕陽……?」

 彼女は答えず、ギュッと敏生の手を握ってきた。

「……こわいよ、敏生……。やだよ……あたし……しにたくないよ……。敏生と……はなれたくないよぉっ」

 覗き込むと、夕陽は床をじっと見つめたまま、ポロポロと涙を零している。

 その姿に、敏生はガツンと殴られたような衝撃を受けた。

 やっぱり、そうだよな……。

 分かっていたことだ。そこにいるのは冷酷で無慈悲な戦い方ゆえ名付けられた「北空の魔女」とはほど遠い、死の恐怖に直面し、怯えるただのか弱い女の子だった。

 くそッ!

 敏生は強く彼女を抱き締めた。小さく、男の自分に比べてとても華奢な身体。

 何を考えてたんだ俺は!? 守り切れる自信がないだなんて! こいつを絶対に守り抜くのが俺の戦う意味だろうが!!

「お願い、抱いて……」

 涙を流しながら懇願してくる彼女。常日頃より覚悟を決めているはずの幹部自衛官。だが人として生への未練を完全に断ち切るなど、そうそう容易いことではない。ましてや、ついこの間まで幸せな結婚生活を思い描いていた二人にとっては。敏生は夕陽をベッドに押し倒すと、乱暴に彼女の濃紺の幹部作業着を脱がしにかかった。彼女の恐怖心を少しでも和らげてあげたい、ただその想いだけで。

「としき……としき……」

 泣きながら必死に縋り付いてくる彼女がたまらなく愛おしい。ブラジャーを剥ぎ取ると豊かで美しい乳房が露わになる。狭く、殺風景な部屋で、ベッドにショーツ一枚の美しい裸身を横たえる。久しぶりに目にする、透き通るような白い柔肌。

 その、天女のような姿がまるで夢か幻に思えて、彼女の存在を確かめるかのように敏生は手を、舌を、彼女の滑らかな肢体に這わせた。

「お願い……あたしの身体に刻んで。敏生の匂い、敏生の温もり、敏生の、んっ……」

 彼女の恐怖を振り払うかのように激しく口づけ、強く肌を擦り合わせる。今はもう何もかも忘れて、ただお互いの温もりに溺れていたかった。


           *


 夜になっても「いずも」の飛行甲板は慌ただしかった。昼間の騒ぎもあり、中国の潜水艦による奇襲を警戒してSH60Kシーホークが交代で闇夜の中を発艦して行く。

 もっとも、中国は「いずも」をはじめとする海自の対潜能力を極度に怖れていたので、彼らが自ら近づいてくることはなく、どちらかと言うとその役割は空母「遼寧」などの水上艦を日本の潜水艦から守ることだった。

 刑部はそんな様子を眺めながら艦橋の陰に座り込むと、胸ポケットからスマホを取り出した。

 もちろん、電波など届かない。画面をタッチすると、やはり敏生と同じように撮りためた写真を開く。 にっこりと笑う妻と娘のベストショット。その二人の顔をそっと撫でる。

 温もりなどない、硬く無機質な画面。

 死ぬことなど怖れてはいない。戦闘機パイロットの道を選んだ時から常に死とは隣り合わせだ。だが、これまで自分が死んだ後のことは考えたこともなかった。

 もし、自分が死んだら妻と娘はどうなるのだろう。この笑顔が失われるのだろうか。それともこの笑顔が他の誰かに。

「クックック……」

 無性におかしくなった。柄にもなく、何かに怯えている自分が滑稽で仕方なかった。笑いながら夜空を見上げると、視界を横切る一筋の光。それは、これまでの人生で初めて見る流れ星。

 ああそうさ。たぶん明日、俺は死ぬ。今さら生きて帰れるなんて思っちゃいないさ。だからせめて、それがどんな形であれ、妻と娘を幸せにしてやってくれないか。あんたがもし神様なら。

 刑部は柄にもなく零れそうになる涙をグッとこらえると、満天の星空に祈りを捧げるようにそっと目を瞑った。


           *


 夕陽は敏生の部屋を出ると、後ろ手にドアを閉めた。

 身体中に残る愛しい彼の感触。下腹にそっと手を当て、目を閉じる。奥深くに残る熱は彼の印を受け止めた証。あらゆる禁を破り動物的な本能で彼を求めてしまったが、後悔など微塵もなかった。

「積もる話は済んだのか?」

 ビクッとして横を見ると、いつものニヒルな表情を浮かべた刑部が立っていた。

 夕陽は慌てて乱れた胸元を抑え、刑部の邪魔にならないようドアから離れる。

「あ……、その……ありがとう」

 多分、彼には全てお見通しだろう。

「俺が一人になりたかっただけだ」

 刑部はさして興味もなさそうに答えると、夕陽の横を通り過ぎドアノブに手をかける。

 その様子に夕陽はホッと息をつくと、ゆっくりと歩き出した。

「イデア」

 そのまま部屋に入ると思っていた刑部に声をかけられ、驚いて振り向く。

「May God bless you」

 刑部は手元に視線を落としたままそう言うと、ドアを開け部屋に入っていった。

 夕陽は呆気に取られ、しばらくその場に立ち尽くした。いつも自分のことをお子ちゃまと馬鹿にしていた先輩パイロットからの、思いがけない言葉。英語だったのはニヒルな彼の照れ隠しゆえだろうか。

 もしかして、この土壇場であたしのこと認めてくれたのかな……?

 夕陽はクスッと笑うと、足早に女性居住区へと戻っていった。


           *


 刑部が部屋に入ると、敏生はベッドの上で下着姿のまま胡座をかき、難しい表情をしていた。

「何だよ、やることやって現実に引き戻されたか?」

 刑部が椅子に腰かけながら敏生をからかう。

「そんなんじゃねぇよ」

 敏生は不貞腐れたようにそっぽを向いたが、やがて刑部の方に向き直ると遠慮がちに口を開いた。

「なあ」

「何だよ?」

「ライトニングで出撃するのと〝いずも〟に残るの、どっちが安全だと思う?」

「はぁ?」

 訝しげな表情で刑部が敏生を見る。

「あ、いや、例えばの話だよ」

「何を言い出すのかと思えば……。そりゃあ、〝いずも〟だろ」

「やっぱり?」

「当たり前だ。イージス艦を核とした鉄壁の防空網と、〝いずも〟を中心とした隙のない対潜網。ミサイルが命中したとしてもこの巨体はすぐには沈まん。一方、俺らのライトニングはミサイル一発でお陀仏だ。アドバンテージのはずのファーストキル能力も、専守防衛ではたちまち混戦になって意味を成さん」

「……だよな」

「今さら何だよ? まさか明日お腹が痛いとか言ってここに残るつもりか?」

「馬鹿にすんな」

 敏生はベッドから這い出すと幹部作業着を着始めた。

「今度はこっちから出向くのか? 光源氏さんよ、もうたいがいにしとけって」

「ばーか。そんなんじゃねえよ。散歩だ散歩」

 刑部の冷やかしに敏生が悪態をつく。

「刑部。……いや、先輩」

 敏生に突然、出会い立ての頃の呼び名で呼び直され、刑部は面喰った。防大時代、一緒にナンパ目的でクラブ通いをしていた時に、女の子の前で〝先輩〟と呼ばれると具合が悪いので無理矢理呼び捨てに矯正させたのだが、その時以来だ。

「その……いろいろありがとうな」

「……何だよ、気持ち悪いな」

「人の気持ちは素直に受け取っとけ!」

 敏生はむくれると、バンッと乱暴に扉を閉めて部屋を出ていった。それは明らかな照れ隠しだった。


           *


 翌朝も快晴だった。

 今日の正午には尖閣沖で待ち伏せる中国艦隊との距離が一五〇キロメートルを切る。

 それは彼我の対艦ミサイルの最大射程距離で、戦端が開かれる一つの目安だ。海自艦隊の防空能力の高さを知る中国は、最初の段階で一気に火力を集中させてくると統合作戦本部では睨んでいた。飽和状態のミサイル攻撃で海自艦隊の対空網の隙を突いて一隻、また一隻と戦力を削いで行き、最後は波状攻撃で殲滅しようとするだろう。

 だからこそこちらは第一波を何としてでも無傷で乗り切り、反撃に転じる必要があった。

 ここを乗り切れば二次攻撃以降は恐らく向こうの火力は弱まる。空母「遼寧」の艦載機が一度の出撃で対艦ミサイルを一発しか搭載できないからだ。米空母と異なり、カタパルトを持たないスキージャンプ方式の発艦スタイルの「遼寧」では、艦載機の重量が増すと発艦が困難になる。そのため、兵装は対艦ミサイル一発か対空ミサイル数発の選択しかできず、撃った後に再び着艦して対艦ミサイルを積むにも相当の時間を要することになる。

 大陸から飛んでくる空軍の部隊は制空戦闘に特化するはずなので、まずは第一波をいかに乗り切るかが課題だった。

 朝の時点で「いずも」戦闘飛行隊のライトニングの兵装は対空戦闘仕様が選択され、対艦ミサイル迎撃用に二発のAAM4空対空ミサイルと、対戦闘機戦闘用に四発のAAM5空対空ミサイル、そして万が一に備えドッグファイト用のガンポッドが装着された。

 艦隊の直掩(ちょくえん)に専念せよ、との命令で、反撃時の対艦攻撃は下地島に展開する空自のライトニングに、尖閣上空の制空戦闘は那覇に集結した空自のF15部隊に委ねられた。これを受け、艦内のブリーフィングルームでは早速、艦隊の展開フォーメーションに合わせた各編隊の受け持ちエリアと作戦内容が伝達される。そして、その席でくどいほどに指示を受けたのは〝専守防衛〟の徹底だった。

〝敵ミサイルは全て撃破せよ。ただし、敵艦艇および敵機への反撃は統合作戦本部からの許可があるまでは認めない〟

 分かっていたことだが、そのあまりに杓子定規の指示に、パイロット達から溜め息が漏れた。

 中国は完全に日本の弱みを突いてきていた。向こうが領土防衛を大義名分に宣戦布告をしてこない以上、日本からも宣戦布告はできない。防衛出動命令は戦時国際法上の宣戦布告には該当しない。自衛権を行使することはできても、交戦権は認められないとされているのだ。

 ちなみに自衛隊法第八八条では防衛出動を次の通り定めている。

 一、 第七十六条第一項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる。

 二、 前項の武力行使に際しては、国際の法規及び慣例によるべき場合にあつてはこれを遵守し、かつ、事態に応じ合理的に必要と判断される限度をこえてはならないものとする。

 ここで言う「合理的に必要と判断される限度」が今回、首相を本部長とする統合作戦本部によって判断されることとなり、先の指示に繋がることとなったのだった。

 ブリーフィングが終わると飛行隊の面々は早めの昼食をとり、その時に備えた。ここまで来ると、どの顔からも怯えや不安といったものは消え、覚悟を決めたというべきか、誰もが達観したような表情を浮かべている。

 そして、正午に差しかかろうという時に事態は予想通り動き出した。

「〝遼寧〟より戦闘機の発進を確認。一機、二機、……いや、既に四機上がってます!!」

 艦隊司令部が置かれている「いずも」のCICでレーダー員が叫ぶと、一気に緊張が走った。

「やはり来たか……。全艦、対空戦闘用―意。いずも戦闘飛行隊も直ちに発進せよ」

 派遣艦隊司令の尾澤海将補が指示を出すと、各艦に総員戦闘配置のけたたましいアラーム音が鳴り響く。

 その指示で仲間達と共に跳ねるように飛行甲板上の愛機に駆け付けた夕陽は、最初、機付長の美鈴が何を言っているのか、全く意味が分からなかった。

「パワー・バイ・ワイヤのアクチュエータの調子がおかしいんです。だから飛行は許可できません」

 この期に及んで美鈴に制止され、夕陽は戸惑った。これから戦いが始まるかもしれないというのに。

「飛べないって……PBWはバックアップ系統だからフライ・バイ・ワイヤさえ問題なければ飛べるでしょう? こんな時に何言ってるの?」

 夕陽が呆れたような笑いを浮かべながら美鈴を問い質すと、彼女はキッと夕陽を睨みつけた。これまでこんな厳しい表情の彼女は見たことがない。

「PBWは何かがあった時のためのバックアップなんですよ!? そんな不完全な状態で夕陽さんを送り出すわけには行きません!」

「ちょっと、何言ってるの美鈴ちゃん? これから戦いが始まるかもしれないんだよ!? ここにだってミサイルが来る! 一機も欠けるわけにはいかないのよ、分かってるの!?」

 思わず夕陽が語気を荒らげると、美鈴はビクッと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。だが、今は彼女の気持ちを慮っている余裕なんかない。

「だって! 今までこんなことなかったじゃない! 美鈴ちゃんの整備はいつだって完璧だったじゃない! あたし、そんなの信じない! お願い行かせて!」

 夕陽が取り乱して美鈴に詰め寄る。

「ごめんなさい!! あたしのミスです!! とにかく今は機付長として飛行は許可できません!!」

 迫られた美鈴はまるで悲鳴を上げるように夕陽に向かって叫んだ。

「お願い美鈴ちゃん!! あたしみんなと戦うって決めたの!! もう覚悟はできたの!! どこまでも敏生について行くって決めたの!! あたしだけ、あたしだけここに残るなんて……そんなのイヤだよ!!!」

 夕陽が美鈴の両肩をつかみ、必死になって懇願するが、美鈴は真っ青な顔をして押し黙ったまま視線を合わせようとしない。

「機付長の判断は絶対だ。神月は艦で待機。谷口は速やかに機体の再整備にあたれ」

 その声に振り返ると、騒ぎに駆けつけた隊長の勝野が立っていた。その有無を言わさぬ口調に、夕陽はイヤイヤと首を振り、目に涙を浮かべた。

「夕陽!!」

 突然、ガバっと抱き締められた。敏生だった。

「お願い……敏生からも言ってよ……」

 あまりの悔しさにボロボロと涙が溢れる。

「駄目だ。直るまでここで待ってろ」

「敏生まで……何でよぅ……」

 彼は夕陽の頬に手を当て、親指でそっと涙を拭うと、あやすように頭を撫でた。覗き込んでくる目がとても優しい。

「機体が不完全だと皆に迷惑がかかる。分かるだろ? 直ってから上がってこい」

 頭に乗る彼の手がとても温かくて、ようやく夕陽は落ち着いた。

「……あたしが行くまで……無事でいてね」

「誰に言ってるんだ? 俺は環太平洋最強のパイロットだぜ?」

「ちょっと、いつそこまで昇格したのよ?」

 涙交じりの夕陽のツッコミに敏生は短く笑うと、夕陽をそっと離して敬礼し、急いで愛機の下へと走っていった。夕陽には分かっていた。美鈴の言う不具合箇所だと恐らく部品交換が必要で、メンテナンスには相当な時間がかかるはずだ。恐らく今日、自分は空には上がれないだろう。

 ギュッと唇を噛み締める。悔しくて情けなくて再び涙が滲んだが、幹部自衛官としていつまでも泣いているわけにはいかない。

 夕陽は邪魔にならないよう艦橋の横に移動すると、そこで仲間達を見送ることにした。

 先陣を切るのは隊長の勝野だ。整備小隊の面々や甲板員達が〝帽振れ〟で見守る中、爆音と共に隊長機が大空を駆け上がっていった。それを皮切りに次々と轟音を轟かせ、「いずも」を飛び立って行く仲間達のF35BライトニングⅡ。

 夕陽は乗組員達の輪から離れ、艦橋の横でただ一人、直立不動で仲間達に敬礼を送った。

 殿(しんがり)はウィングマン(夕陽)を欠いた敏生。

 キャノピー越しに誘導員とハンドサインを交わす恋人。ライトニングの吸気ダクトカバーが開き、後尾のエンジンノズルがキュッと斜め下を向く。いよいよ発進だ。ふと、敏生がこっちを向いてハンドサインを送っていることに気づいた。

 あれは……。

 慌てて夕陽も同じサインを返す。

〝アイシテル〟

 それは燃えるように真っ赤で雄大な夕日の中を飛んだ時、二人で決めた秘密のサイン。

 サンバイザーと酸素マスクに包まれて、その表情をうかがい知ることはできなかったが、夕陽の返答に敏生が笑ったような気がした。

 誘導員が腰を落とし、艦首を指差す。ライトニングのアフターバーナーが焚かれ、甲板上を轟音が支配した。


 敏生―――――!!!


 胸が締め付けられる。

 何であたしはここにいるのか。何で愛するあの人と一緒に行けないのか―――――

 日本最強のファイターパイロットが操るライトニングは一気に加速すると「いずも」を勢いよく飛び出し、翼を振りながら戦空の彼方へと向かっていった。

 お願い、神様。あたしの大切な人を……あたしの大切な仲間達を……どうか無事に還してください。

 敏生の機体が見えなくなっても夕陽はしばらく彼の去った方角を見つめ、その場に佇んでいたが、やがて踵を返すと振り切るように甲板を駆け降りた。



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