第七章 ハイレートクライム
私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。
(自衛隊法施行規則第三節 服務の宣誓より)
第七章 ハイレートクライム
防衛出動命令の発令と同時に、市ヶ谷の防衛省には統合作戦本部が設置され、自衛隊の最高司令官である内閣総理大臣自らが本部長として詰めることになった。
今回のような島嶼防衛作戦では特に空自と海自の連携が重要な鍵になる。
中国艦隊の動きに合わせ、いち早く動いたのは通常離着陸型のF35J二十二機を擁する青森三沢の航空自衛隊第三航空団第三飛行隊だった。
展開先は尖閣諸島と目と鼻の先の宮古諸島・下地島。ここには民間機パイロットの訓練に使われる下地島空港があり、戦闘機の離着陸が可能な三、〇〇〇メートル級の滑走路を有しているため、尖閣有事の際には前進基地として使用されることが折り込まれていた。
さすがに中国も領有権を主張していない下地島への先制攻撃を仕掛けることはできないばかりか、対艦・対空ともに絶大な威力を誇る最新鋭のライトニング飛行隊が尖閣の鼻先に張り付いたとあっては、中国艦隊もその進度を緩めざるを得ない。
また、那覇基地第九航空団隷下の第二〇四飛行隊と第三〇四飛行隊のF15J計四十四機に加え、茨城百里基地より前進してきた第七航空団第三〇五飛行隊のF15J改二十二機がE767による警戒管制の下、交代で戦闘空中哨戒(CAP)に当たっており、今のところは日本が尖閣諸島周辺空域の制空権を確保していた。
鉄壁に見える空の守り。
実際に空も海も最新装備の充実度と隊員達の練度は周辺国の中でも随一で、米軍からも一目置かれる存在だ。だが、日本の自衛隊には唯一にして最大の弱点があった。
〝専守防衛〟
戦後間もない頃ならいざ知らず、アウトレンジからのミサイルの撃ち合い、ファーストルック・ファーストキルが大前提となった現代戦において、先制攻撃を許すということがどれだけ愚かなことか、この国の政治家や国民達は知らないし、知ろうともしない。それは「はるさめ」が撃沈されてもなおだ。
そもそも多くの国民が勘違いをしているが、戦争自体は現在の国際法の下、違法行為として禁止されている。例外として戦争行為が認められるのは要約すると以下の通りである。
一、国連安全保障理事会によって平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為の存在が決定され、軍事的強制措置が決定された場合(国連憲章第七章)
一、国連安全保障理事会より地域的取極に基づいて、又は地域的機関による強制行動の許可が下りた場合(国連憲章第八章)
いずれの場合も国連安保理の許可が無い武力行使は国際法下に於いて違法ということだ。
但し、武力攻撃を受けた場合に於いてはその限りではない。それがこの国で度々議論となる国連憲章第七章の第五十一条で以下の通りだ。
〝この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない〟
要は自衛のための戦いであれば武力行使は認められているのである。それが自衛権と呼ばれるものだ。もっとも、この国はこの生存権とも言える自衛権を日本国憲法第九条の下、非常に曖昧なものとしてしまっている。
防衛出動命令下に於いてのみ認められるこの国の自衛権は「わが国を防衛するための必要最小限度の実力を行使すること」とされているのだ。この「必要最小限度」という言葉を定量的に判断できる人間など果たしているのだろうか?
ちなみに、この国連憲章には日本にとって目を覆いたくなる条項も存在する。いわゆる敵国条項と呼ばれるものだ。第二次大戦当時、連合国の敵であった日本を含む枢軸国に対する取扱いについて規定しているもので、第五十三条と第百七条が相当する。これによれば第二次大戦の結果、連合国が旧枢軸国から獲得した権益は保障され(第百七条)、旧枢軸国が再び侵略の兆しを見せた場合は安保理の許可を得ることなく強制行動を取ることが出来る(第五十三条)とされている。
旧枢軸国が全て国連に加盟している現状ではこの条項は既に有名無実化していると言われており、日本やドイツなどはこの条項の削除を求めているもののロシアなどは第百七条を北方四島領有の根拠としていて、戦後七十年を経過した現在でもこの条項を削除するまでには至っていない。
そして、国連の場で日本を〝敗戦国〟と名指しで揶揄する中国が、今回の事態に於いてもこの敵国条項を根拠に〝強制行動〟に出てくることは明白だった。
このようにお互いが大義名分を主張することのできる状況下で敢えて相手の先制攻撃を許す〝専守防衛〟など、自衛官の命を犠牲にした茶番に等しい。
国内外のいずれも法的に非常に曖昧な状況に置かれたままで、何故かアンタッチャブルとして長らく放置されてきた有事法制。そんな中、ついに現実のものになりつつある初めての有事。いざという時、この国の政治家達はどのような判断を下すのだろうか? 同盟国であるはずの米国が未だに態度を明確にしていない中で。
*
数日前に極秘裏に出航した潜水艦と異なり、横須賀第一護衛隊群の出航はマスコミを意識して盛大なセレモニーが設けられていた。乗組員達も、見送りに来た家族や恋人とつかの間の面会を許され、その別れのシーンにマスコミ達が群がりフラッシュが焚かれる。
市ヶ谷からヘリで駆けつけた内閣総理大臣の訓示が終わると、多くの人々が見守る中、乗組員達は横須賀音楽隊の演奏する「軍艦行進曲」の下、それぞれの艦に乗り込んでいった。
海上自衛隊は主力艦隊として四個の護衛隊群を保有しており、それぞれ横須賀、佐世保、舞鶴、呉に司令部を置いている。各護衛隊群はヘリコプター搭載護衛艦(DDH)一隻、イージス艦(DDG)二隻、汎用護衛艦(DD)五隻の計八隻で編成され、かつては対潜哨戒ヘリコプターを各艦合計で八機搭載していたことから旧軍に倣い「八八艦隊」と呼ばれていた時期もあった。現在ではDDHが多用途の空母型に拡大発展したことで航空機の数も種類も増え、その任務の性格も対潜主体から海上優勢の確保へと幅を広げつつある。
その中でも、一足先に空母機動部隊へと変貌を遂げた第一護衛隊群に出撃命令が下ったのは必然であった。
「いずも」「あたご」「むらさめ」「いかづち」
「こんごう」「あけぼの」「ありあけ」「あきづき」
各艦の舫が次々と解かれ、それぞれ出航を告げるラッパが鳴り響く。
「出航用―――――意!!」
八隻の護衛艦がソマリア派遣以来海外派兵時の定番となった「宇宙戦艦ヤマト」のテーマに送られ、次々と離岸していく。
「帽振れ」のかけ声がかかると、舷側に整列した乗組員達が一斉に帽子を振った。岸壁で見送る愛しい家族や恋人に向かって。普段の出航時に見られるような笑顔などそこには一つもない。誰もが一様に覚悟を決めた表情で、ただ帽子を振り続ける。
「パパ~~~~~~!!」
突然、小学校高学年くらいの女の子が泣きじゃくりながら、離れゆく護衛艦に向かって岸壁を走り出した。その姿が引き金になり、見送る人々が堰を切ったように父親や恋人、息子や娘の名前を叫ぶ。
これまでのPKOやソマリア沖の海賊対処とは違う。
戦後日本が初めて経験する〝戦争〟。
もしかしたらもう会えないかもしれない。渦巻く不安を胸に、涙を流して見送る乗組員の家族達。一昔前なら、現代の日本でこのような場面を目にするなど誰が想像し得たであろう?
横須賀に残る他の艦艇が一斉に旭日の自衛艦旗を掲げ、仲間の無事の帰還を祈る。八隻の艦艇が見えなくなるまで、見送りの人々はただひたすらに手を振り続けた。
*
五時間前の母艦の出航の様子を伝えるニュース番組を、「いずも」戦闘飛行隊の面々は厚木基地のブリーフィングルームで静かに見つめていた。対潜哨戒飛行隊は一足先に飛び立っている。
「時間だ。行くぞ」
戦闘飛行隊長の勝野英之二等海佐がおもむろに立ち上がって声をかけると、配下のパイロット達も次々と立ち上がり、お互いハイタッチを交わして行く。そんな中、敏生は席を立とうとしなかった。
「敏生……?」
仲間達とルーティンのハイタッチを交わし終えた夕陽が心配そうに敏生を覗き込むと、彼はどことなく不貞腐れたような表情で電源を落としたテレビ画面を見つめていた。
「ほらトシ、行くぞ。立て」
未だ座り込んだままの敏生を勝野がポンと肩を叩いて促す。敏生を「いずも」に引っ張ったのは当時、新田原の飛行教導隊長を務めていた勝野だ。そして、その前所属の飛行教導隊に引っ張ったのも彼だった。
勝野が巡回指導で百里基地を訪れた際、実戦部隊配属一年目で類稀なセンスを見せる敏生に惚れ込み、百戦錬磨のパイロットでも一握りしか入れない飛行教導隊に異例の大抜擢をした。空自の戦闘機パイロットであれば誰もが憧れる、最強にして最恐の仮想敵部隊。
もっとも当の本人は当時、喜ぶどころか首都圏から離れると女の子が減る、と言ってだいぶゴネたものだが。
「……こんなもんですか、人間って」
その敏生の言葉に夕陽の胸が締め付けられる。
〝最後まで人間を信じたい〟
何かに縋るように絞り出したあの日の彼の言葉。それがこの国は流されるまま、いともあっさりと戦争の道を選んでしまった。まるで最初からそれを望んでいたかのように。
「神月、先に行ってろ」
勝野の静かな命令口調には逆らえず、夕陽は敬礼すると後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
「……あいつ、外してもらえませんか?」
夕陽がブリーフィングルームを出て行くと、敏生が顔も上げずボソリと呟くように懇願した。
「聞き捨てならんな。神月はお前にとって公私共に大切なウィングマンだろうが」
勝野が敏生の横にゆっくりと腰を下ろす。
「だからですよ。あいつ、すごくいいやつなんです。他のやつらには無愛想かもしれないけど、本当は可愛いぬいぐるみが大好きで、料理とお菓子作りが得意な普通の女の子なんです。生身の人間と戦うなんてあいつにはできない。絶対に土壇場でためらうんだ」
「俺達は宣誓をした幹部自衛官だ。お前の今の言葉を聞いたら神月が悲しむと思わんか?」
語気を強める敏生をさほど気にした様子もなく、勝野が淡々と受け止める。敏生はその上官の問いには答えず、ぷいっと顔を逸らした。
「男社会の中で歯を食いしばって、必死に喰らいつく女にお前はベタ惚れしたんだろうが。その女の全てをお前は否定するのか?」
「違う! ただ……こんなの……あんまりですよ」
守りたい女が共に戦場に向かうという理不尽な現実。敏生の言いたいことは勝野にも痛いほど理解できた。
「だったら、何があってもあいつを守りぬけ。そして必ず二人で生きて帰るんだ。それがお前の戦う意味だ」
その言葉に驚いた様子で、敏生が勝野を見上げる。
「いいんすか、隊長がそんな事言って」
「俺とお前の仲だ。あんなちっぽけな島と、クソみたいなやつらの面子のために死ねるか」
幹部自衛官とは思えないその相変わらずの暴言に、敏生はたまらずクックと笑うと、両手でパシンと膝を叩いた。どうやら吹っ切れたようだ。安堵した勝野が再び促すようにポンポンと肩を叩いて立ち上がると、敏生もまた、ゆっくりと立ち上がった。
「そう言えば隊長、この間の休み、御殿場のアウトレット行ってましたよね? 何買ったんすか?」
隊舎の出口に向かって歩きながら、敏生が思い出したように訊ねた。
「おっ? 聞いてくれるか? グッチでサイズぴったりの掘り出し物のスーツを見つけてな。十六万のものが八万だぞ? これでようやく量販店のスーツから卒業だ。あれに袖を通さんと死んでも死に切れん」
よくぞ聞いてくれたとばかりに自慢げに語る勝野に、敏生は失笑した。
「なんだよその夢のねぇ話は……」
「ガキがいるとそっち優先になるんだ。いずれお前にも分かる。だからさっさと神月と子供作っちまえ」
「さり気なくセクハラだな、おっさん。夕陽の前で言うなよ」
二人は笑い合うと拳を握り締め、ガツンと腕を合わせた。
*
辺りはすっかり暗くなっていたが、マスコミのフラッシュやスポットライトが眩いばかりの光を放っていて、その中で仲間のパイロット達が家族や恋人と別れを惜しんでいる。
刑部なんかは溺愛してやまない娘を抱き締めたまま身動き一つしない。そんな様子を遠巻きに眺めながら夕陽が所在なさげに一人ポツンと佇んでいると、後ろからポンと肩を叩かれた。
「よっ、婚約おめでとう」
「瑠美さん……」
振り返ると、勝野の妻の瑠美が高校生の娘と中学生の息子を連れて立っていた。夕陽がペコリと頭を下げると瑠美は腰に手を当て溜め息をつく。
「本当遅いわね、うちの男どもは」
「あ、その、敏生と話があるとかで……ごめんなさい」
「何で夕陽ちゃんが謝んのよ」
瑠美がおかしそうにケタケタと笑う。竹を割ったような性格の彼女は、元CAらしく細やかな心配りもできる官舎の主婦達のリーダー的存在らしい。今も一人ぼっちの夕陽を気遣い、声をかけてくれたのだろう。
「で、夕陽ちゃんのご家族は来てないの?」
「あたし、勘当された身ですから……」
夕陽が寂しそうに答えると、瑠美が驚いた様子で覗き込んできた。
「何それ? 初めて聞く話ね」
彼女の言葉に夕陽は小さく頷くと、ためらいがちに口を開いた。
「……うちの両親、中学校の教師なんですけど、いわゆる反戦教師で大の自衛隊嫌いで。だからあたしが航空学生になった瞬間に勘当されました」
夕陽の両親は君が代斉唱でも起立をしない、筋金入りの某教職員組合員だった。厳格な教育方針で、漫画やゲームはおろかテレビすら碌に見せてもらえず、習い事の体操クラブがある日以外は門限も五時と決められていた。
そんな両親への反発が芽生え始めたのは中学時代のこと。仲のよかった子の親が自衛官だと知った両親が、烈火の如く怒って夕陽に友達付き合いをやめるように迫り、あろうことか仲間の教師達と結託してその子の内申点を低く付け、夕陽と一緒の学校に行けないように仕向けたのだ。
夕陽がその事を知ったのは高校に進学してからだった。その子は気にしないでと言ってくれたが、夕陽はあまりのショックにしばらくの間学校に行けず、両親への反発から自衛隊に興味を持ち色々と調べるようになった。
パイロットになろうと決めたのは高校二年生の秋。こっそりと訪れた福岡・築城基地の航空祭でダイナミックなF15Jイーグルの展示飛行を見て心を奪われた。天空に向かって一直線に駆け上がる荒鷲。そのときめきは自由への渇望だったのかもしれない。
幸いにも航空学生の試験は同じ山口県内の防府北基地だったので、受験自体は両親にバレずに済んだ。
生来、運動神経は抜群、勉強もトップクラスの夕陽は見事合格を果たしたのだが、いつまでも隠し通せるものでもない。案の定、親バレと共に修羅場が待っていて、夕陽は家を飛び出した。
アルバイトはしていたとはいえ、これまで親の庇護の下で育ってきた右も左も分からぬ女子高生。行く当てなどあるはずがない。そんな彼女を救ってくれたのは、夕陽の両親が嫌がらせをしたあの中学時代の親友とその家族だった。自衛官夫妻は嫌な顔一つせず、夕陽が航空学生入隊まで官舎に住まわせてくれたばかりか、高校の授業料も肩代わりしてくれた。
一度、その自衛官夫妻に和解を諭され、付き添われて両親に会いにいったのだが、両親は自衛官夫妻にお礼の言葉を述べるどころか自衛隊を罵倒した挙句、未成年者略取で警察に訴えるとまで言い放ち、夕陽は悔しさと情けなさ、そして申しわけなさで三日三晩枕を濡らした。
それ以来、両親には一度も会っていない。
「敏生君は知ってるの? その話」
「はい。それでもあたしの両親にはどうしても挨拶したいって。土下座してでもあたしの勘当と結婚を許してもらうんだって言ってくれて……」
「いい男ね。なかなかいないよ、そんなやつ」
夕陽も本当にそう思う。どんな状況でもいつだって自分のことを最優先に考えてくれて、そんな敏生に自分は甘えっぱなしだ。
だからこそもっと強くなりたい、と改めて思う。せめて、彼の爪の先だけでも。
「で、彼のご両親には会った?」
「あ、はい、プロポーズされた週の土曜日に」
「速攻ね~。会ってびっくりしたでしょ?」
その瑠美の意味深な問いかけに夕陽が弱々しく笑いながら頷く。
「彼、今まで何も言ってくれなかったから……」
「きっと夕陽ちゃんにありのままの自分を好きになって欲しかったのよ。可愛いやつね」
瑠美がぽんと夕陽の背中を叩く。と、前方から
「瑠美!!」
と大声がかかり、視線を向けると勝野と敏生が隊舎から出てくるところだった。真っ先に勝野の娘と息子が父親に駆け寄り、瑠美も夕陽に会釈すると小走りに夫の下に向かう。
横に並ぶ敏生の表情は心なしかすっきりとしていた。勝野と話したことで気持ちの整理がついたのだろうか?
やっぱりあたしじゃ敏生を笑顔にしてあげられないのかな……。
「な~に暗い顔してんだよ」
敏生は夕陽の下に歩み寄ると、ニヤッと笑って彼女の両頬を片手でムニムニと解し、それから腰をヒョイッと抱き上げた。
「ちょっ! 敏生!? やだっ、みんな見てるってば!!」
突然、赤ん坊のように縦抱きにされた夕陽が真っ赤になってポカポカと敏生の頭を叩く。
「いいさ。あいつら全国ネットだろ? 見せつけてやろうぜ」
そう言うなり敏生は報道陣に見せつけるように夕陽の唇を塞いだ。美男美女のパイロットカップルによる突然のラブシーンに、報道陣のカメラが一斉に二人を捉える。
いきなりの展開に慌てふためいたものの、次第に唇から彼の想いが痛いほど伝わってきて、やがて夕陽も彼に応えるように舌を絡めた。それは敏生の、そして夕陽の、この腐りきった世の中に対する宣戦布告だった。
「どうせ明日は俺らのキスシーンが一日中全国ネットに流れるんだぜ? 恐らくアルマゲドンの音楽付きで」
唇を離した敏生が夕陽と額を合わせ、笑いながらそっと呟く。
「そっか。じゃあ、あたしは女優さんのようにキスを返せばいいのね」
夕陽もまた悪戯っぽく笑うと、敏生の頬にそっと両手を添え、今度は自分からキスを落とす。
頑なだった自分の殻をひとつひとつ、痛くないようにゆっくりと剥がしてくれた誰よりも大切な人。そして何よりも守りたい人―――――
「おい! お前らいつまでやってんだよ!」
いつまでも終わらない二人のキスを呆れたように大声で茶化す刑部。その声をきっかけに、痺れを切らした隊の仲間とその家族達が乱暴に間に割って入り、皆ではしゃぐように二人を小突き回した。
死地に赴く者たちとそれを見送る者たちの悪ふざけ。元が空自出身の彼ら、ノリの軽さは折り紙付きだ。おかげでその直後に行われた女性防衛大臣によるありがたい訓示は全くもって締まらないものとなった。
そして彼らにもいよいよ出発の時が来る。
「いずも航空隊戦闘飛行隊、出発します!!」
隊長の勝野が防衛大臣に直立不動で敬礼すると、背後で肩幅に足を開き、後ろ手を組んで整列していたパイロット達が一斉に姿勢を正し大臣に敬礼する。それがこの式典のクライマックスシーンだった。
「搭乗!!」
勝野のかけ声でパイロット達が愛機に向かって駆け出す。
夕陽の愛機の下では機付長の谷口美鈴士長が満面の笑みで待ち受けていた。女同士、パンと手を合わせると、美鈴は夕陽の耳元に口を寄せた。
「素敵でしたよ、お二人のキスシーン」
「もう、言わないで!」
美鈴のからかいに真っ赤になりながらタラップを上る。飛行前点検は式典の前に済ませていた。
「後から行きます! お気をつけて!」
整備小隊の面々は全ての機を送り出した後、輸送飛行隊のオスプレイで「いずも」に向かうことになっている。
夕陽は美鈴に向かって親指を立てると、ヘルメットと酸素マスクを装着し、キャノピーを閉じてエンジンを起動させた。グラウンドクルーの誘導に従いタキシングを開始すると、ふと、見慣れたはずの基地の外の風景に惹きつけられる。
月明かりに浮かび上がるハンバーガーショップやショッピングモールの看板。愛する人と共に暮らした綾瀬の街並み。自分は果たして生きてここに戻ってくることができるのだろうか?
「どうせまた切ないこと考えてるんだろ? イデア」
からかうような無線が目の前を行く敏生から入る。
……ちぇっ、全てお見通しか。
「どうせまたって何よ?」
拗ねたように返すと笑い声が聞こえてきた。
「俺たちが最初の離陸だ。景気づけにアレ行くぞ」
「はいはい、イデア了解。編隊長の仰せのままに」
滑走路の端に辿り着くと門真機の左斜め後方で停止し、管制からの離陸許可を待つ。
〝RunWay01 Cleared for takeoff……〟
聞こえてきたのは耳慣れた女性管制官の声。心なしか声が震えている。と、
〝……こちら管制、我々はあなた達を誇りに思います。どうか……、ご武運を!!〟
離陸許可の後に感極まったのか、彼女が涙声でそう付け加えた。
〝Roger, cleared for takeoff……Thank you, We should meet again!!〟
編隊長の敏生が管制官に照れ臭さそうに返答した後、こちらに向かって左手を上げたのを確認すると、夕陽はアフターバーナーのスロットルを開いた。ジェットエンジンの爆音が夜の街に鳴り響く。
あたしはあなたについていく。その行き着く先が、たとえ地獄であっても。
静かに滑り出した二機のライトニングがあっという間に離陸速度に達し、その機体が浮き上がる。夕陽は瞬時に車輪を収納すると、一気に操縦桿を引いた。
見送りの人々や報道陣からワッと歓声が上がる。
ピッタリと息の合った、ド派手なハイレートクライム(急角度上昇)による見事な編隊離陸。
ほぼ垂直に上昇していくその姿は、まるで二人が慣れ親しんだ街への未練を断ち切るようにも見え、二機のライトニングは見送る人々に切ない余韻を残して夜空の向こうに消えていった。