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第三章 幸せの予感



 第三章 幸せの予感



 目を覚まして枕元の時計を見るとまだ朝の五時前で、カーテンの隙間からもまだ光は差し込んでいなかった。厚木基地から徒歩十五分のところにあるアパートの自室。築十年で二Kの安普請だが、プライベートな空間がしっかりと確保されているのはやはり落ち着くものだ。

 そして横に目を遣ると、愛しくて堪らない恋人が一糸纏わぬ姿でその小さな身体を丸め、自分にすり寄るようにして眠っている。敏生は彼女を起こさないよう、そっとその黒髪を撫でてやると軽くキスを落とした。

 二人が付き合い始めて半年以上が経過していたが、飽きるどころか彼女の魅力に(はま)っていく一方だ。

 こんな小さい身体で男達に交じって必死に戦っている、そう考えるだけで強く抱き締めたくなる。何が何でも守ってやりたいと心から思える存在。

 付き合いたての頃のすったもんだもどこへやら、今では陸に上がっているときは半同棲状態の二人。明日をも知れぬファイターパイロットの二人だからこそ、お互いが片時も離れたくないという当然の帰結であった。

 敏生はそっと起き上がるとドアの郵便受けから新聞を取り出し、再びベッドに戻ると腰を下ろして新聞を開いた。まずは表題をサッと一通り読み流し、それから気になった記事にバックする。

 注目記事は二つ。

〝今度は深圳で暴動。中国建設銀行の焦げ付き騒ぎが拡大〟

〝上海で株価続落。依然止まらず〟

 いずれも昨今の中国経済の不調に端を発した内容だ。

 中国政府の必死の市場介入で、リーマンショックの時のような明確なトリガーはないものの、専門家によっては、中国バブルは完全に崩壊した、という者もおり、そうなると日本も含めた世界恐慌がいよいよ現実味を帯び始めてくる。

 現に投資家達の間では急激な円買いが始まり、日銀が慌てて介入したものの、ここ一週間で対ドル、対ユーロ共に十円以上の上昇となっていて、輸出を柱とする日本経済にも暗い影を落とし始めていた。

 景気が悪くなれば社会的に不満が高まるのは必然で、こと、これまで右肩上がりだった中国においては、マネーゲームに明け暮れていた共産党幹部から末端の市民に至るまで、一夜にして財を失う者が後を絶たず、自殺や失踪が社会問題化し、中国を代表する巨大家電企業のカリスマ経営者がマスコミの面前で公然と指導部批判を繰り広げるなど、収拾のつかない状況になりつつあった。

 内憂外患、か……。

 二つの記事を読み込みながら寝起きの思考を巡らせるが、やがて首を振ると天を仰ぎ溜め息をついた。

 やめよう。考えても仕方ない……。

 バサっと新聞を膝の上に落とすと、ひんやりと柔らかい感触が背中に乗った。

「おはよ、敏生」

「起きたのか?」

 敏生は新聞を畳むと、振り向いて裸の夕陽をグイッと無理矢理抱き込み、自分の膝上に横たえた。

「にゃんッ」

 可愛く甘える彼女の頬をそっと撫でる。

「どーしたの? 眉間にシワなんか寄せちゃって。敏生らしくなーい」

 夕陽が子猫の仕草でコンコンと敏生の眉間を拳で突つく。

「あ、いや、この新聞の連載小説の展開がなかなかショッキングでさ」

「ふーん? てっきり横浜ベイダース一〇連敗にショックを受けてるのかと思った」

「お前な~」

 悪戯っぽくからかってくる彼女の髪をくしゃっとかき混ぜる。

「敏生、せっかく防大卒のエリートなんだからもっと国際面とか経済面読んだら?」

「やだね。難しいことは嫌いなんだ」

「もったいな~い。航学上がりのあたしと違って頑張れば将軍様になれるのに」

「馬鹿言え。俺はな、お前との愛と大空に生きるの」

 敏生はそのまま夕陽を抱き起こすと、唇を塞いだ。お互いの存在を確かめ合うように艶めかしく舌を絡ませる。いくら求め合っても足りることがない愛しい恋人。

 敏生は夕陽をベッドにそっと寝かせると、その美しく豊かな乳房に顔を埋めた。愛らしい頂を口に含むと彼女が堪らず可愛らしい声を漏らして仰け反る。

 敏生はしばらくの間、夕陽の反応を探るように舌と指を滑らせていたが、やがておもむろに顔を上げると夕陽を見た。

「……なあ、今夜課業後にダチと飲みにいく話だけどさ……」

 突然愛撫を中断し、全く色気のない話をしてきた敏生に夕陽がキョトンとする。

「お前も一緒に来ないか?」

 防大時代に寮で同室だった敏生の親友の乗る艦が横須賀に寄港しているとのことで、数年ぶりに一緒に飲みにいくとの話は聞いてはいた。

「え? だって久しぶりに親友さんと会うんでしょう? 男同士の積もる話って言ってたじゃん」

「いや、何となく、さ」

 そこで、ピンときた夕陽はガバッと起き上がると敏生の両肩に手をかけた。

「あ! あたしなら敏生のこと信じてるから大丈夫だよ? せっかくなんだから羽伸ばしてきなよ」

 また、疑われたくないとか考えているのかもしれない。

「うーん、そういうのじゃなくて、その、やつに夕陽のこと自慢したいというか……さ」

「え……?」

 敏生と付き合い始めて半年以上が経過した今、彼が決して遊びでないことは夕陽も理解している。だが、数多の女性と浮名を流してきた彼。特定の彼女の存在はこれまで聞いたことがないということを刑部からも聞いていた。だからこそ、その敏生の発言に驚きを隠せなかった。

「……敏生の親友さんにあたしのこと彼女だって紹介してくれるの?」

 二人が付き合っていることは「いずも」のクルーなら群司令、艦長から先任伍長、甲板員に至るまで誰もが知っている。だが艦内恋愛禁止の建前上、それは公然の秘密というもので大っぴらに公言して歩くわけにはいかず、窮屈な思いをしていたのは事実だ。

 幸せであるがゆえに逆に不安が募り、証を求めてしまう女の性。だからこそ彼の申し出につい涙が溢れてくる。

「嬉しい……」

 夕陽は敏生の胸にしがみつくと静かに嗚咽した。

「おいおい、こんなんで泣くなよ」

 敏生は困ったような表情を浮かべると、何も答えずに泣きじゃくる小柄な身体をそっと抱き締めた。

 恐らく、夕陽は自分の知らないところであらぬ噂や中傷に何度も嫌な思いをしてきたはずだ。決して褒められたものではない過去の自分の所業が彼女を苦しめていたのだとすると、取るべき道は一つしかないのだが。

「なあ、夕陽」

 敏生は彼女を引き剥がすと、涙に濡れた顔を覗き込んだ。穢れのない、澄んだ大きな瞳。

 その綺麗な瞳に吸い込まれて思わず胸の内が溢れそうになり、敏生は慌てて喉元まで出かかった言葉をのみ込むと、不思議そうに見つめる夕陽の頭を優しく撫でた。

「愛してるよ」

 耳元で囁き、再び彼女の美しい裸体をベッドに横たえる。そして自身の焦燥感を打ち消すかのように彼女を激しく貪り始めると、夕陽もまたそれに応えて快感に身を捩じらせた。


           *


 佐世保に司令部を置く第二護衛隊群第二護衛隊所属の汎用護衛艦「はるさめ」(DD102)は、グアム沖で二週間に渡って実施された日豪共同訓練に参加した後、報告と補給のため自衛艦隊司令部のある横須賀に寄港していた。

 停泊期間は三日間で、乗組員達は二交代での外泊を許可されている。

 戦闘指揮所(CIC)士官の槙村和馬(まきむらかずま)二等海尉は急いで艦を降りると、横須賀中央駅から京急で横浜に向かった。特急で三十分ほどだが、なんとなく落ち着かない。駅に着くと早足に待ち合わせのメッカである駅東口の百貨店の時計前に出て、焦る気持ちで待ち人を探す。

「和馬!」

 その声に振り向くと、スラリと長身のボーイッシュな女性が満面の笑顔で駆け寄ってきた。

「若葉。悪い、待ったか?」

「待った」

 そう言って彼女はわざとらしく膨れるも、すぐに表情を崩しクスクスと笑った。

「うーそ。災難だったね、艦長の呼び出し」

 彼女は同じ「はるさめ」航海科士官の深山若葉(みやまわかば)三等海尉。防大時代の後輩で、今は槙村の恋人でもある。

「あの人、話なげーんだよな」

 槙村はうんざりした様子で溜め息をつくと若葉の手を取って歩き出した。

「どうする? いったんホテルに荷物置きにいく?」

「いや、時間もないから店に直行しよう」

「だね」

 相槌を打つと、若葉はクスッと笑った。

「敏生先輩、驚くかな?」

「驚くんじゃないか? 何せ俺らのこと、まだ犬猿の仲のままだと思ってるだろうからな」

「そんな時期もあったね~。懐かしい」

 若葉が嬉しそうに腕を絡めてくる。一泊だけとはいえ、恋愛禁止の艦内から脱出できた解放感。どちらからともなく、いちゃつきながら雑踏を歩く。店に着くと、既に敏生が個室で待っていた。

「よっ、久しぶり」

「よぉ……って、あれ? 深山!? え? どういうこと?」

「久しぶり~、敏生先輩」

 二人はしてやったりの表情を浮かべると、敏生の前に腰を下ろした。

「え? なになに? お前らもしかして……」

「まあ、こういうことだ」

 槙村が笑いながら若葉の肩を抱き寄せると、敏生は悔しさと嬉しさの入り混じった表情を浮かべて頭をかいた。

「やられたよ。一番想像できないカップリングだ。マジでびっくりした」

 その言葉に二人が顔を見合わせて笑う。と、若葉がふと敏生の席の横に置かれている使用済みのおしぼりに視線を落とした。

「ん? もう一人誰かいるんですか?」

「え? ああ。その……」

「ただいま~~~。あっ」

 襖を開けていきなり登場した夕陽に、今度は二人が目を見開いた。一方の夕陽も突然の対面に慌てている様子だ。敏生は彼女の手を取ると、自分の横に座らせ軽く咳払いした。

「えー……、俺の彼女で同じくライトニングのパイロット、神月夕陽……さん。ん? ちゃんかな? 夕陽、こいつが俺の親友の槙村和馬で、こっちが後輩の深山若葉」

 敏生が照れくさそうにそれぞれを紹介すると、二人はハッと我に返った。

「何で俺らは呼び捨て……ってか、敏生に特定の彼女……。マジかよ、心臓止まるかと思った」

「夕陽ちゃんだっけ!? 大丈夫!? 敏生先輩にひどい目にあわされてない!?」

 初対面の夕陽を前にして遠慮のない二人に敏生が顔をしかめる。

「お前ら俺を何だと思ってるんだ!?」

「カーマスートラの化身」

「見境なしのスタリオン。女の敵」

 間髪入れぬ二人の返答に敏生はムクれて立て肘をついた。そのやり取りに夕陽がプッと吹き出す。

 敏生って、昔っからいじられキャラなんだ。

 夕陽はグッと笑いをこらえると、

「神月夕陽といいます。今日はあたしの知らない敏生のお話、いっぱい聞かせてください」

 と言ってペコリと頭を下げた。

「可愛い……。こりゃ、あたしも惚れるわ」

「ダメだ! 夕陽は俺のだ!」

「ぷっ、焦ってやんの。敏生先輩もかーわい~~~~」

 真顔で夕陽を抱き締める敏生に若葉が楽しそうに笑う。他愛ない会話を繰り広げながら料理と飲み物を注文し、とりあえず運ばれてきた生ビールで四人は乾杯した。

 喉を潤し一息つくと、槙村が思い出したように口を開いた。

「そう言えば聞いたぞ。米軍のやつらに」

「何を?」

「お前、この間の環太平洋合同演習(リムパック)でロナルド・レーガン(米第七艦隊空母)を撃沈したんだって? マードック提督が激怒していたらしいぞ」

 リムパックは二年に一度、環太平洋における米国の同盟諸国海軍をハワイに集めて、二か月弱に渡り実施される多国間合同演習だ。海上自衛隊は一九八〇年以来、毎回欠かさず参加しており、今回も空母「いずも」の他、イージス艦「みょうこう」と汎用護衛艦「さざなみ」、P3C対潜哨戒機三機が参加した。

 槙村が言うのは演習の終盤、各国参加艦艇がオレンジ国とブルー国に分かれて戦う模擬海戦でのことだった。海上自衛隊とオーストラリア、ニュージーランド、チリがオレンジ国艦隊となり、米空母機動部隊を中心とするブルー国艦隊と相対したのだが、劣勢で味方艦艇が次々と撃沈判定をされ、夕陽や他の仲間達が米イージス艦や空母艦載機に撃墜されていく中、ブルー国艦隊の鉄壁の対空防御網を奇跡的に突破した敏生と刑部のライトニングが「ロナルド・レーガン」の他、四隻の艦艇を沈めて一矢を報いたのだった。

 その時の「いずも」は艦隊司令から甲板員に至るまでもう大騒ぎで、大戦果を挙げて帰還した敏生と刑部はライトニングから降りるやいなやクルー達に寄ってたかって揉みくちゃにされ、手荒い祝福を受けた。もちろん夕陽も悔しさを隠してその輪に加わったのだが、敏生のどことなく浮かない表情が気になり、その晩、二人っきりになった時に理由を尋ねたところ、

「沢山の仲間が殺られて……、僚機のお前を撃墜されて喜べるわけないだろ」

 と不貞腐れたように吐き捨てたのだった。そんな彼がとても愛おしくて、思わず抱きついてキスしたい衝動をその場はグッとこらえたのだが。

「刑部と二人でな。でも辿りつけたのは仲間たちのフォローと犠牲があってこそだ」

 敏生がテーブルの下でそっと夕陽の手を握る。

「鬼畜コンビか! レーガンも浮かばれんな。で、その刑部先輩は元気か?」

「でき婚したよ。今や娘にメロメロのバカ親だぜ?」

「マジで!? あのクールな刑部先輩が!? 想像つかな~い!」

 そこから防大時代の思い出話に花が咲き始めた。夕陽が置いてけぼりにならないよう、若葉が気を遣って一つ一つ当時の状況などを説明してくれる。敏生と槙村が当時アメリカンフットボール部に所属していたこと、そこへ若葉がマネージャーとして入部してきたことから始まった関係であること。開校祭の棒倒し競技での敏生の大活躍や、課業での笑える失敗談など、夕陽にとっては敏生の知らなかった一面を知ることができてとても楽しい。

 そして、槙村と若葉が実は昔は犬猿の仲だった話に至り、敏生が身を乗り出すように食いついた。

「まあ、お互い当時から意識し合ってたってことだな」

「そういうことだよね~」

「何を他人事のように!? お前らがガキみたいな騒ぎを起こすたびに大隊長の俺がとばっちりを受けてたんだぞ!?」

「ああ、その節は大変お世話になりました」

「うんうん、苦しゅうないゾ」

「お前ら~~~~~~」

 苦虫を噛み潰した表情でビールを呷る敏生に二人は愉快そうに笑うと、槙村が少し真顔になって敏生に向き直った。

「実はさ、結婚するんだ、俺達。この航海が終わったら」

「えっ?」

 突然の報告に敏生が固まる。

「式はまだだいぶ先だけどな。さっさと籍は入れちまおうかと。お前に真っ先に報告しておきたくてさ」

「わあ、おめでとうございます!」

 夕陽が手を合わせ、目を輝かせながら祝福する。

「うふふ、ありがと~。よかったら夕陽ちゃんも敏生先輩と一緒に式に来てね」

「はい! 是非!」

 そこからは女二人で結婚式の話題で盛り上がり始めた。この手の話に男二人はなかなかついていけず適当に相槌を打っていると、襖がガラッと開いて女性の店員が顔を出した。

「お客様、生簀のお魚を捌きますが、よろしければお魚ご覧になられますか?」

「わあ、夕陽ちゃんいこうよ!」

「うん! 敏生もいく?」

「俺はいいや。二人でいっといで」

 店員に連れられて二人が楽しそうに出ていくと、敏生と槙村はホッと息をついた。


           *


「それにしてもびっくりしたわ。まさか敏生先輩が彼女さんを作ってたなんて。それも隊内で」

 部屋から出るや否や、若葉が嬉しそうに夕陽に話しかけてきた。

「敏生に彼女って、そんなにおかしいんですか?」

 刑部をはじめ、昔の敏生を知る人たちからよく聞かされる話。

「そりゃもう。〝俺は一生遊び続ける。隊内は面倒くさいから絶対に手は出さない〟がポリシーだったからね。先輩、そこは結構頑なだったよ。隊内の娘はどんなに可愛くてもことごとくフラれてたし」

 したり顔で若葉が頷く。もちろん夕陽とて、彼の派手な女性遍歴はとうの昔に折り込み済みだが、やはり過去は気になる。特に彼のポリシーの(くだり)は。

「……正直、あたしのどこがそんなにいいのか分からないんです。あたし、お付き合いって敏生が初めてで、勝手もよく分からなくって。言いたいこと言っちゃうし、いつか愛想をつかされるんじゃないかって……」

 プライベートの時の敏生はとても優しい。いつだって自分の気持ちを慮ってくれる。

 喧嘩しても、いや大抵の場合は一方的に夕陽が喰ってかかるのだが、謝るのはいつも決まって彼の方だ。不満なんてこれっぽちもないのだが、油断しているとどっぷりと彼に甘えてしまいそうな自分がいて、必死に自我を保とうとするが故。

「そう? あたしは分かる気がするけどなー。夕陽ちゃん、芯が強そうだし、自分をしっかり持ってて男に媚びることも無さそうだし。今まで先輩の周りにはいなかったタイプ」

「そんな、あたしなんて……」

 大空を求めて、ただがむしゃらに生きてきた。そこにあったのは「夢」という綺麗ごとだけでは決してない。翼は夕陽にとって自由の象徴。自分を苦しめてきた「束縛」から逃れるためには縋らざるを得なかったのだ。

 そんな自分の過去まで含めて包み込み、心の底から癒してくれる止まり木のような彼。

「大丈夫、あたしが保証するわ。あんなに鼻の下伸ばした先輩、見たことなかったもん。よっぽど夕陽ちゃんのことが好きなのね。すごく優しいんじゃない? 敏生先輩」

 若葉の質問に頬を染め、伏し目がちに頷く。

「えっと……、若葉さんは槙村さんと付き合ってどれくらいになるんですか?」

 多分、これ以上追及されると余計なのろけ話を披露してしまいそうで、夕陽は無理矢理話題を変えた。

「あたしと和馬? あー、付き合い始めてからは一年半かな。今の艦に配属された時に再会して、それからしばらくしてだから。出会ってからはもう七年経つけどね」

「七年、ですか……。お二人に比べたらあたしと敏生なんてまだまだですね……」

 夕陽と敏生が出会ったのは二年前。付き合ってからはまだ半年ちょっと。そう考えると、無闇に焦っている自分がとても滑稽に思えてくる。

「もしかして夕陽ちゃん、敏生先輩との結婚とか考えてる?」

「!」

 図星だ。あっさりと見透かされた。

「……重たいですよね、あたし。まだ彼とは半年しか付き合ってないのにそんなこと」

 我ながら本当に都合が良すぎると思う。彼からは一年半に渡って求愛を受けていたのに、なかなか踏み出せずにさんざん待たせたのは自分の方だ。なのに、いざ恋人同士になった途端、彼のことが好きで好きで束縛したくてたまらない。

「別に重たくないよ。女なら好きな人と結婚したいって考えるのは当たり前じゃん。時間なんか関係ないよ」

 そう力強く言い切る若葉に心なしか気持ちが軽くなる。恋愛初心者で恋バナをする友人も少ない身としては、結婚を控えた彼女にこの際色々と聞いてみようと思った。

「若葉さんはいつから槙村さんとの結婚を意識されたんですか?」

「へへ。実は防大の頃から、って言ったら驚く?」

 そう言うと若葉はニッと笑った。

「えっ? だって当時は仲悪かったって……」

「子供だったのよ。本当は好きなくせに素直になれなかったってやつ」

 その言葉にドキッとする。どこかで聞いたような話。

「バカだよね。結局、想いを伝えられないまま彼が卒業しちゃって。あの時はいっぱい泣いたわ」

 当時を懐かしむかのように若葉が言葉を紡ぐ。

「だから再会出来た時はすごく嬉しかった。今度こそ素直になろう、って心に決めて」

「じゃあ若葉さんから告白されたんですか?」

 若葉は苦笑いを浮かべると、首を横に振った。

「それがあたしまた同じように突っかかっちゃってさ。それまでがそれまでだったからどんな態度で接していいか分かんなくて。そんなある日、彼から言われたの。〝お前、実は俺のこと好きだろ? 俺もお前のことがずっと好きだった〟って」

 どことなく男前な彼女が見せる女の表情(かお)。自分もこんな表情で敏生のことを見ているのだろうか? 

「結局、彼の方が一枚も二枚も上手だったのよ。あたしの気持ち、ずっと分かっていて、ずっと待っていてくれた」

「素敵……。カッコイイ人ですね、槙村さん」

 若葉は照れたようにちょんと頭を掻くと、悪戯っぽく人差し指を口に当ててウィンクした。

「これ、誰にも言っちゃだめよ? あたしのトップシークレットなんだから」

「はい!」

 と、そこで他の客に捌き終えた板前が二人に声をかけてきた。

「お待たせしました。どちらのお魚をお捌き致しましょうか?」

「お勧めってあります?」

 女の表情から一転、眼光鋭く生簀を見つめる若葉。そんな表情豊かな彼女が心底うらやましいと思った。

「今日はいいフグが入ったんですよ、下関から直送で。今が旬ですよ」

「どうする夕陽ちゃん? せっかくだからフグいっとく?」

「はい、是非! あたし実は地元が下関なんですけどフグ食べたことないんで」

「ほんとに? よっしゃ、じゃあフグお願いします! あとは……奮発してそこのシマアジ丸一匹! あたしの奢りよ!」

「わっ、すごーい!」

 あたしもいつか……、敏生と……。

 胸の奥がズキンと痛み、夕陽はそれを振り払うようにパチパチと手を叩いて喜んでみせた。


           *


「言ってなかったな、おめでとう」

「サンキュ。驚かせてすまんな」

「全くだ」

 笑いながら二人はジョッキを合わせた。

「綺麗になったな、深山。あんなに男勝りだったのに」

「そういうお前こそ、夕陽ちゃん無茶苦茶可愛いじゃないか」

「まあな」

 その返答に槙村が吹き出す。

「謙遜なしか、ベタ惚れだな」

「……彼女さ、とても頑張り屋さんなんだ。女性で肉体的なハンデは半端ないはずなのに言い訳ひとつしないで。信じられるか? あんな小さな体で千歳のトップだったんだぜ?」

 そう、彼女の実力は間違いなくトップクラス。それは天性の勘と弛まぬ努力の賜物。二年間、一緒に飛び続けたからこそ分かる彼女の凄さ。直情径行なところが玉に瑕だが、仮に彼女が男であったなら自分も敵わなかったかもしれない。

 それなのに女性ながら精鋭の「いずも」戦闘飛行隊に所属している彼女を妬む声は後を絶たない。

〝市ヶ谷が女性自衛官への職種開放をアピールしたいだけだろ〟

〝最強コンビ? 編隊長の門真が凄すぎるだけじゃん〟

〝ライトニングに乗れば俺だって戦えるよ〟

 口さがない連中からの、負け惜しみにも近い誹謗中傷。そんな声を耳にする度、敏生の血は激しく沸騰する。だが、彼女は強気に微笑んでみせると、憤る自分を制してこう言うのだ。

〝あたしは他の誰にどう思われたっていい。敏生さえ……、日本最強のファイターパイロットがあたしのことをウィングマンとして認めてくれているのであれば〟

 彼女が男に守ってもらうことを潔しとしない娘だということくらい分かっている。だからこそ敏生は誓ったのだ。自分がパイロットとして誰も見たことのない高みへと登り詰めることで、ウィングマンである彼女の実力を周囲に見せつけてやるのだと。

「そんなストイックな反面、プライベートはとても可愛くって家庭的でさ。手料理は最高だし、甲斐甲斐しく俺なんかの世話まで焼いてくれて……。だから俺も何でもしてあげたくなるんだ。そんな女の子……、今までいなかったよ」

 お互いを高め合える、公私共に尊敬出来る彼女。もはや自分にとってはかけがえのない存在。だからこそもう、片時も離したくないと考えているのだが。

「結婚とか考えてないのか? 彼女、すごく興味ありそうだったじゃないか」

「……もしその気が無かったら?」

「確かめるのが怖いか? らしくないな」

 槙村がからかうと、敏生は拗ねたように項垂れた。

「大切なんだ……。間違えて失いたくない。笑えよ、さんざプレイボーイを気取ってきた男が本気の女の子にはこの(ザマ)だ」

「いや、お前が本当に幸せそうで何よりだ」

 親友の言葉に頷くと、照れ隠しに敏生はグイッとジョッキを呷った。

「ところでこの後は佐世保に戻るのか?」

「いや、南に回って二週間の海上警備だ」

「……尖閣か」

 敏生がピクリと反応して身を乗り出す。

「ああ、うんざりだ。お前ら一護群は来月だろ?」

「いずもは出ないよ。タイ、シンガポール、フィリピン、ベトナム、四か国歴訪だってさ」

「海自初の空母機動部隊殿による南シナ海への示威行動か。あっちも相変わらずキナくさいしな」

「なあ、実際のところどうなんだ?」

 縋るような目で敏生は槙村に訊ねた。

「正直ヤバいだろうな。いつ起こってもおかしくない」

「共産党指導部はそこまで馬鹿じゃないだろ?」

「指導部はな。ただ、ここのところ胡錦濤、習近平と文民主席が続いてただでさえ不満が鬱積している軍部の武断派が、指導部の経済政策の失敗を突いて台頭し始めているのも事実だ。やつらが恐れるのは何だ?」

「ようやく勝ち得た巨額の軍事費の大幅削減?」

「それは表面的な話で、実態は膨大な軍事費を背景とした軍需産業から軍幹部達への巨額のキックバック、いわゆる利権を失うことだ」

 槙村はビールの残りを飲み干すと、タンッとジョッキをテーブルに置いた。

「インテリ揃いの党指導部には戦争を仕掛ける気などさらさらない。損得勘定でしか動かんやつらだ。自分達の実力は冷静に見極めていて、日米連合軍とまともにやって勝てるなんて思っちゃいない」

「だったら……」

「勤勉なバカ、こいつらが幅を利かせ始めるとロクなことにならない。それは歴史が証明している」

「ハンス・フォン・ゼークトか」

「ああ、授業で習っただろ?」

 ワイマール共和国(ドイツの前身)陸軍の参謀総長だったゼークトは、軍人を有能か無能か、勤勉か怠惰かで四分類し、それぞれの用兵を説いた。

 勤勉かつ有能な者は参謀、

 怠惰だが有能な者は司令官、

 怠惰かつ無能な者は伝令、

 そして勤勉だが無能な者は銃殺した方がよい、と。

 勉強だけでのし上がった人間は、大抵の場合プライドが異様に高く、自分が有能だと勘違いして余計なことをする。そしてその結果、組織を混乱に導くことが多い。

 カリスマ経営者が一代で築き上げた企業を次のサラリーマン社長がガタガタにしてしまうのが典型的な例で、旧日本軍の大本営の失敗も正にこれに当てはまる。

 学歴が幅を利かせ、想像力が欠落した社会においては往々にしてあり得ることなのだ。

「先月、中国中央軍事委員会のナンバー2が失脚しただろ? 表向きは賄賂の発覚だが、あれは間違いなく派閥争いだ。彼は穏健派の領袖だった。彼の失脚により北海、東海、南海の三大艦隊トップの首がすげ替えられている。いずれも武断派、損得勘定のできない〝勤勉なバカ〟どもだ」

 敏生の背中を嫌な汗が伝う。今朝方、必死に打ち消した想像。

「格差社会に不況が追い打ちをかけて人々の不満が高まっている。経済立て直しを迫られた指導部は大ナタを振るわざるを得ないが、軍部はこれを断固阻止するだろう。そして自分達の正当性を主張するには外に目を向けさせるのが手っ取り早い」

「まさか……」

「いつの世も戦争の陰に不況あり。あいつらは時代遅れの帝国主義者だ。覚悟はしておいた方がいいかもな」

「……それが本省情報本部の見解か」

「声が大きいよ。俺の正体は若葉も知らない。〝はるさめ〟でも知らされているのは艦長だけだ。おかげで今日は遅刻するところだった」

 話し終えた槙村がニヤッと笑い、追加のビールを頼もうと呼び出しボタンを押した瞬間、襖が開いた。

「ただいま~。面白かった~~~!」

「見事な包丁捌きよね! ゾクゾクしちゃったよ」

 夕陽と若葉の二人がきゃあきゃあとはしゃぎながら戻ってきた。すっかり打ち解けて仲よくなっている。

「ねぇねぇ、敏生、あたしフグ頼んじゃった。だって食べたことないんだもーん」

 甘えるようにすり寄ってくる夕陽に敏生の口元が緩む。

「じゃああたしはせっかくだからフグのひれ酒でも頼もっかな? 和馬付き合ってよ」

「了解。じゃあ今日はとことん飲みますか」

「さんせ―い」

 楽しそうにはしゃぐ夕陽を抱きとめ、その温もりに幸せを感じながらも、敏生は湧き上がる不安を完全に拭い去ることはできなかった。


           *


 お開きになり、さがみ野駅に戻ってきた時には既に日付が変わっていた。もっとも明日は休日なのでゆっくりと寝ていられる。二人して飲み過ぎたので、多少二日酔いへの不安が頭をもたげたが。

「素敵なカップルだったね~」

「俺らほどじゃないけどな」

「アハ、何それ~?」

 駅から敏生のアパートへの帰り道。すっかりと出来上がった夕陽が後ろ手を組みながらふらふらと敏生の前を歩く。気持ち良さそうに鼻歌を交じえながら。

「若葉さんと色々お話ししちゃった」

「どんな話だよ? 俺のこと?」

「へへ、なーいしょ。女同士の秘密~」

「何だよそれ」

 敏生が後ろからぐいっと夕陽を抱え込む。

「ふにゃ~」

 夕陽は敏生にもたれ掛かると、甘えたように彼の腕に頬ずりした。とても安心する彼の温もり。だから油断が生じたのかもしれない。

「結婚かぁ、いいな……幸せそう……」

 そう酔った勢いで呟いてから、夕陽はハッと我に返り慌てて口をつぐんだ。

「あっ、いや、今のは催促なんかじゃないからね!? あ、あたし敏生の重荷になりたくないし、今のままで充分幸せだし」

 結婚の二文字は口にした瞬間、醒める男が多いので絶対に禁句だと友人達から聞いていた。特に遊び人の気がある男に対しては絶対要注意だと。案の定、顔をしかめた敏生に、肝が一瞬にして冷える。だが、敏生の反応は予想外のものだった。

「いつ誰が夕陽のこと重荷なんて言ったよ?」

「敏生……?」

 敏生のいつになく真剣な表情に動揺する。睨みつけるような眼差しが少し怖い。

「今のは夕陽の本心だと思っていいんだな?」

「え?」

 敏生は腕を解くと夕陽の右手を取り、フライトジャケットのポケットから小箱を取り出して彼女の手のひらに乗せた。

「付き合ってまだ半年ちょっとだし、渡すのは当分先だと思ってたけど……」

 思ってもみなかった展開に、夕陽が信じられないといった表情で手のひらの小箱を呆然と見つめる。

「開けてみろよ」

 敏生に促されて恐る恐る蓋を開けると、そこにあったのは見覚えのある眩いばかりのエンゲージリング。先月のデートの際、ふらりと立ち寄ったジュエリーショップで思わず「可愛い!」と声を上げてしまった時のもので、値段は六桁は下らないはずだ。驚きのあまり夕陽が敏生を見上げる。

 敏生は照れた様子で目を逸らし、指輪を手に取ると、夕陽の左手の薬指にそっとはめた。

 そしてその手を撫でると、意を決したように夕陽と目を合わせた。

「俺、プライベートの時は夕陽とずっと一緒にいたい。夕陽と一時も離れたくない。もう俺には他の女なんて目に入らない。こんなに人を好きになったの、お前が初めてなんだ。せっかく手に入れた大切な宝物、誰にも渡したくない。俺だけの夕陽を一生束縛したい。だから……お願いです、神月夕陽さん。俺と……結婚してください」

 敏生がプロポーズの言葉を言い終える頃にはもう、夕陽の顔は涙でぐしゃぐしゃで、言葉を紡げずにただコクンと頷くと、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

 敏生はホッと息をつくと、自らもしゃがんで彼女の頭を優しく撫でる。

「どうだ、俺の方がよっぽど重いだろ?」

 夕陽は何も答えず、顔を覆いながら首を横に振った。

 秋の夜半に浮かぶ月はどこまでも清く、そして白かった。


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